2015年12月27日日曜日

キューバ文学(13)女性作家インタビュー本

現代キューバ女性作家インタビュー集が届いた。

López-Cabrales, María Del Mar, Arenas cálidas en alta mar: entrevistas a escritoras contemporáneas en Cuba, Editorial Cuatro Propio, Santiago, Chile, 2007.

とりあげられるのは9名で、以下のとおり。

Nara Araújo(1945年生まれ)
Anna Lidia Vega Serova(1968年生まれ)
Esther Díaz Llanillo(1934年生まれ)
Luisa Campuzano(1943年生まれ)
Marilyn Bobes(1955年生まれ)
Adelaida Fernández Juan(1961年生まれ)
Mylene Fernández Pintado(1963年生まれ)
María Elena Llana(1936年生まれ)
Mirta Yáñez(1947年生まれ)

著者ロペス=カブラレスはスペイン人で、現在アメリカの大学で教えている。本の版元はチリ。

作家の生年を付してみたら、1930年代生まれから60年代生まれまで、万遍なく作家が選ばれている。全員キューバに在住している作家だ。

著者が自らキューバに渡って直接インタビューした内容と、メールによるインタビューがあるが、大半は対面で行なわれている。

導入として「キューバ・フェミニズムの問題群ーキューバの女性と彼女たちが成し遂げたこと」がおかれている。インタビューに先立って、著者による短い解説がある。

2015年12月23日水曜日

バルセロナ――グラシア地区(Vila de Gràcia)、ダイヤモンド広場(La plaça del Diamant)

スペインの総選挙が終わって、パブロ・イグレシアスさんのPodemosが躍進したとのニュース。日本でも彼に注目・心酔しているがいる。

忘れないうちに書いておきたいバルセロナの一地区がある。

グラシア地区(Vila de Gràcia)。

ディアゴナル通りの北側で、Google Mapで検索すると、このように示される。あるキューバ作家はこの地区に住んでいるのだと聞いた。

もともとはバルセロナとは切り離された村(pueblo)だったようだが、いまは完全にバルセロナの一部である。

「彼女は(中略)最後の避難場所として、 すでにバルセローナの拡大によって飲みこまれてしまっている古くからの上品な村グラシアを選んだ。」(ガルシア=マルケス「悦楽のマリア」)

とあるように、かつては「村」だったようだ。

ちなみにガルシア=マルケスがバルセロナで住んでいたのは、Sarrià地区のCapotana通りだが、この短篇ではグラシア地区住まいの女性が出てくる。

グラシア地区には時計広場なんていうのもある。コロンビアのカルタヘナの時計広場を思い出したりする。

グラシア地区について書いたブログはたくさんあって、たとえばこういうもの

しかしグラシア地区にある「ダイヤモンド広場」を題材に採る以下の本のことを知らなかった。

マルセ・ルドゥレーダ『ダイヤモンド広場』(朝比奈誼訳、晶文社)

女性作家がカタルーニャ語で1960年に亡命先のジュネーヴで書いた作品。

「町内のお祭りの日がやってきた。キメットは、ダイヤモンド広場で踊ろう、そうすればお前[クルメータ]が花束をもらえるなどと言っていた(…)。」(p.39)

このお祭りの日というのは、グラシア地区で8月に催される祭りのことだ。 クルメータとキメットはこの祭りで知り合う。

今年のイベントはこんな感じ

2015年12月12日土曜日

作家はどうやって小説を書くのか?

翻訳家の青山南さんが、すばらしい翻訳書を出した。雑誌『パリ・レヴュー』に掲載された作家インタヴューを青山さんが選んで訳したもの。2巻本で、800頁近くある。岩波書店刊。

第1巻が「作家はどうやって書くのか、じっくり聞いてみよう!

第2巻が「作家はどうやって書くのか、たっぷり聞いてみよう!



ラテンアメリカ作家はボルヘス、ガルシア=マルケスが入っている。
来週、一回限りの講義で話題に出すトルーマン・カポーティも。


2015年11月29日日曜日

ラテンアメリカ現代アート

立教大学のラテンアメリカ研究所の講演会に行ってきた。

東京都現代美術館のチーフ・キュレーター、長谷川祐子さんの話を楽しみにしていた。

講演の企画をされたのは飯島みどりさんだ。東京都現代美術館でラテンアメリカの現代アートを熱心に紹介されていることに注目して、その企画の中心人物を招いたということだ。

講演では、何度も通ったというブラジル、そしてメキシコ(ガブリエル・オロスコ)に焦点を当てて、現代アートをとてもわかりやすく説明してくれた。目から鱗が落ちるような説明の数々であった。

参考になるのは、2008年に出た『ネオ・トロピカリア ブラジルの創造力』という本である。

上記以外で、ラテンアメリカの現代アートについてこれまで参考にしてきた本がある。以前にも紹介したかもしれない。

Speranza, Graciela, Atlas portátil de América Latina: Arte y ficciones errantes, Anagrama, 2012.

長谷川さんの話には、この本に出てくるアーティストたちもたくさん出て来た。本では芸術作品が白黒の写真で小さく載せられているだけなので、隔靴掻痒とした思いに苦しんでいたのだが、講演で色付きの大きな画面で、説明とともに見ることができた。もちろん現物を見に行くのがいいに決まっているのだが。

ラテンアメリカ現代アートでは、昨日の話には出なかったが、日本ではヒロシマ賞を取ったドリス・サルセード(コロンビア)が有名だ。

ブラジルの芸術、とくに建築については、先日ブラジル大使の講演会を聞いたばかりで、植民地時代、帝政、そして現代の流れのなかの建築史を、産業の移り変わりと首都の移転にからめて聞くことができた。

ブラジル・モダニズムの「抽象力」や「構築力」には目を見張るばかりだ。

メキシコの芸術・建築は、土着の神話性を、途方もない抽象性まで高めているような気がする。

またこのような内容の講演会があったら、ぜひ行ってみたいと思っている。

2015年11月8日日曜日

ボルヘス(1)

調べものがあってAという本を探す。見つかってそれを読み、ふむふむ面白い、貴重な読書体験をした、というようなことがあったとする。

その後、ふと手元にあるボルヘスの本を繙いてみると、ボルヘスがそのAについて言及している。場合によってはAという本の、根幹となる論旨を手短に説明していたりしている。

こういう体験はよくあることではないだろうか。そうか、ボルヘスがとっくにね、というやつだ。

調べものがあって、『ルカノール伯爵』を読んでいた。ドン・フアン・マヌエルによる説話集(1355年)。どの小話もなんとも今日的な話ばかりで笑わずにはおれない。

その後、なぜだかわからないが、ふとボルヘスの以下の本を手に取った。正確にはボルヘス選の短篇集だ。

Borges, Jorge Luis, Cuentos memorables,  Alfaguara, 2012.

ここには、ボルヘスがお気に入りの短篇が12篇入っている。1935年に着想したものらしい。

ポー、ブレット・ハート、コンラッド、キップリング、モーパッサン、チェスタトンなど。

 百ページ以上ある『闇の奥』がcuento(短篇)に入っているのはまあともかくとして、ボルヘスからこういった作家が出て来るのもそれほど驚くことではない。(ところでたまたま思ったのは、エドワード・サイードはボルヘスを読んでいたのだろうか、ということだが、これはまた改めて考えることにしよう。)

そしてその選集の最後には、なんと「トレドの大魔術師、ドン・イリャンとサンティアゴの司祭に起こったことについて」が入っていた。

この話は前述した『ルカノール伯爵』の11話である。「忘恩」をテーマとする。

ボルヘスは『汚辱の世界史』でもこの作品をリライトしていた(「待たされた魔術師」)。

そうか、ボルヘスがとっくにね……

2015年11月4日水曜日

キューバ文学(12)ジョアニ・サンチェス その1

ドキュメンタリー映画に『禁じられた声』という作品があるのを知った。
今年の1月、アムネスティ・フィルム・フェスティバルで上映されている。

トレイラーはこちら

このなかに登場するキューバのブロガーがジョアニ・サンチェス(ヨアニ・サンチェス)である。

※ジョアニ・サンチェスとするのがいいのか、ヨアニ・サンチェスがいいのか迷うが、アムネスティのサイトでは「ヨアニ」となっている。

これまでも少し触れたが、経歴について少しずつまとめてみたい。Wikipediaを参考にしている。

1975年、ハバナのセントロ・ハバナに生まれる。

父親は鉄道機関士。

ハバナの教育大学を卒業後、さらにハバナ大学の芸術文学部へ進んでいる。卒論のタイトルは「圧力のもとの言葉ーーラテンアメリカにおける独裁政権下の文学について」とある。

その後、出版社につとめてから2002年にスイスへ渡り、チューリッヒに2年暮らした。 帰国してから、ウェブを通じての言論活動に専念するようになる。

いくつかのウェブマガジンを経由して、一躍有名になったブログ、ジェネレーション Y (Generación Y) を立ち上げたのは2007年である。おそらくそれを飲み込むようにして、現在の彼女の主戦場であるウェブ新聞"14ymedio"が、2014年5月21日に開始された。英語版はこちら

サンチェスのブログは引き続き、「ジェネレーション Y」 として、こちらから2007年のものから読むことができる。

(この項、続く)

2015年10月26日月曜日

人文社会系予算をめぐる問題について(コロンビア)

コロンビアで、日本の学術振興会にあたるColciencias(科学技術振興院)が、博士課程の学生への予算を人文社会系には配分率をゼロとし、すべて科学分野に充当することになった。

たまたまコロンビアの新聞を読んでいたら見つけた記事がこれ(タイトルは「Colciencias 対 人文学」)で、きちんと読んでいないのだが、日本で起きていることとよく似ているように見える。

実際、他の記事(タイトルは「人文学の終わり?」)では、今回のコロンビアの決定は、日本で起きていることと似たようなケースだと言っている。

コロンビアの国立大学の人文社会系学部の学部長が連帯して抗議声明を発表している。それがこれ。カリにあるデル・バジェ大学のウェブページに載ったものだ。

コロンビアの歴史学者エドゥアルド・ポサーダ・カルボーもEl Tiempo紙で人文社会系研究を擁護するオピニオンを掲載している。

いま挙げてきたのはどれもこの10月に入ってからのことだ。

しかし調べてみると、どうやら今年のはじめくらいから、Colcienciasは人文社会系の研究の「業績評価」や「学術貢献度」を数値化する方向性を打ち出し、そのことが人文社会系研究者たちのあいだからの反感を引き起こしていたようだ。それがこの記事

(この項、続く)

2015年10月25日日曜日

メキシコで文化省創設?

メキシコ大統領のエンリケ・ペニャ・ニエトが「文化省」の創設を提案している。

記事はたとえばこちら

目的は、「文化遺産の研究、維持、普及、芸術文化活動の活性化、芸術教育、読書、そういったものに関するIT利用の促進などなど」というものである。

メキシコでは「省」のことをスペイン語では"Secretaría"であらわすので、「Secretaría de Cultura」という。

Ministerioを使っている国なら、「Ministerio de Cultura」となる。

で、調べてみたら、アルゼンチンが「文化省」を創設したというニュースがあった。昨年2014年5月のことである。時期的にメキシコと近いのが気になる。在アルゼンチン日本大使館のウェブページにも記事がある。大統領府にあった文化庁を格上げしたとのこと。

 ちなみにコロンビアで「文化省」が設けられたのは1997年。キューバは1976年。

 メキシコの文化省創設の提案について、ある評論家はExcelsior紙に文章を寄せている。「文化、目的は?」というタイトル。

そして探してみたら、Nexos誌にはかなり長めの文章が載っていた。「文化省、目的は?」 

タイトルが似ている。 日付ではNexos誌のほうが先に出ている。

さらにProceso誌にも記事がある。 「論争を呼ぶ今回の文化省」

読解のクラスでExcelsior紙の文章を読んでいる。内容についてはまた別の機会に。

2015年10月20日火曜日

キューバ映画(7)の2 『ザ・キング・オブ・ハバナ』(続き)

『ザ・キング・オブ・ハバナ』の監督アグスティ・ビジャロンガのインタビューがあったので、それを読んでみた。以下はそのなかから少しだけ翻訳したもの。
 
「ぼくはキューバ人じゃない。でも週末だけキューバで過ごしたというわけじゃない」

「ウォルター・サレスのように、もっとスタイリッシュにあの(キューバの)現実を説明することはできるし、そうすれば耳を傾けてくれる人も、もっと増えるかもしれない。でもぼくは、ぼくが見たものが映画に映し出されることを望んだ。人はセックスをして、クソをして、小便をして、足は臭い。なぜならそういうものだからだ。キューバにいて、高級ホテルから一歩も出ずにそれを見ない人もいる。でもそれはそこにある。映画のなかで重要なのは、物質的な貧しさがいかに人々とその生き方に影響を与えてしまうかということだ。」


「ぼくが語りたいのは、ペドロ・フアン・グティエレスのように陽気な人間が語る汚らしい現実だ。そういう世界を真正面から見たくない人はそれでいいと思う、でもこの映画は別の方向は見ていない。」

「キューバは色鮮やかなところじゃない、ジャマイカではない。とてもヨーロッパ的だがひどく落ちぶれている。」

「(ストーリー)はもちろん、少しばかりセルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』や『ラサリーリョ・デ・トルメス』、『ハックルベリー・フィン』のようにピカレスク小説を思わせる。」


2015年10月18日日曜日

禁断のテキスト(ラテンアメリカ編)

読むことを禁じる短篇アンソロジーのようなものを考えている。

いますぐに思いつくのは以下のようなもの。

アンドレス・カイセード「カニバリズム」
ビルヒリオ・ピニェーラ「落下」
ジョランダ・アロージョ「強奪」
アンドレア・ヘフタノビッチ「家系樹」

似たような企画としては、たとえば、すでにこういう本がある。

この本にはプエルト・リコのマヌエル・ラモス・オテロの唯一の邦訳作品が入っていて、とても貴重だ。

あるいはこういう本もある。そしてこういう本も。

なんと最近はこんな本も出ていた。

ラテンアメリカ禁断アンソロジーが必要だ。

ラテンアメリカではすでにいくつか似たようなものを見たことがあるけれども、たとえば以下のような本がある。

Quiroga, José(compilador), Mapa callejero: Crónicas sobre lo gay desde América Latina, Eterna Cadencia, 2010.

2015年10月13日火曜日

キューバ映画(7)『ザ・キング・オブ・ハバナ』

ラテンビート映画祭で『ザ・キング・オブ・ハバナ』を見た。

監督はスペイン・マジョルカ出身のアグスティ・ビジャロンガ。他作品では『ブラック・ブレッド』が入手可。

ビジャロンガについての記事はたとえばこれ

ウェブ新聞『Diario de Cuba』には映画について、こんなにたくさん記事があった。

いくつかの記事によると、撮影はドミニカ共和国とスペインで行なわれた。撮影直前になってキューバの映画公社ICAICが撮影に許可を出さなかったからだ。

『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』、『苺とチョコレート』、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』とは違うハバナを見せることに成功しているのはこの映画だ。

アントニオ・ホセ・ポンテの「ハバナ=廃墟」という新しい美学に、ある種のストーリーを与えたのがこの映画の原作者ペドロ・フアン・グティエレスということになるのだろう。

(この項、続く)

2015年10月12日月曜日

グアナファトのエイゼンシュテイン

ピーター・グリーナウェイの映画『Eisenstein in Guanajuato』を見た。

調べてみると、映画と関連する記事やブログがかなり出てきたので資料として掲げておく。

こちらはエイゼンシュテインが書いたイラストについての記事。1996年の『ラ・ホルナーダ』紙より。

映画ではエイゼンシュテインがグアナファトで知り合ったパロミノ・カニェード(Jorge Palomino y Cañedo)との関係が華々しく展開する。

こちらでエイゼンシュテインがカニェードに書いた手紙(フランス語)を見る事ができる。

エイゼンシュテインのメキシコ時代についての本もある。

監督グリーナウェイのインタビューはこちら。 Part1から3まである。

これを見ると、アステカ文明への愛着を通じてヨーロッパ中心主義を相対化しようとするグリーナウェイの意図がわかる。

これは撮影がグアナファトで行なわれたことを報じる記事。これも

製作のPaloma Negra Filmsのページはこちら

映画ではフアレス劇場が使われていた(下の写真、筆者撮影)。


2015年10月4日日曜日

メキシコ文学(1)メキシコシティから離れる

メキシコの作家についてふと考えてみると、メキシコシティで生まれたり、育ったり、学んだり、死んだりした人ばかりだ。

カルロス・フェンテス、エレナ・ポニアトウスカ、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、ホルヘ・ボルピ、アルフォンソ・レイエス……

翻訳がない作家でも、たとえばマリオ・ベジャティン、グアダルーペ・ネッテルのような作家もメキシコシティが居場所である。

メキシコ人ではないけれども、長く住んでいる作家、ガルシア=マルケス、フェルナンド・バジェホ、ロベルト・ボラーニョでさえも、メキシコシティが拠点だ。

国の大きさからして、これでは偏っているような気がしないでもない。

というわけで、いま関心はメキシコシティ以外の作家にある。手元に作品のある作家で、しかも自分と同世代くらいを意図的に選んで並べてみる。順不同。


フアン・パブロ・ビジャロボス(Juan Pablo Villalobos):1973年グアダラハラ生まれ。

クリスティナ・リベラ・ガルサ(Cristina Rivera Garza):1964年タマウリパス生まれ。

トリーノ・マルドナード(Tryno Maldonado):1977年サカテカス生まれ。

エドゥアルド・アントニオ・パーラ(Eduardo Antonio Parra):1965年グアナファト生まれ。

アルバロ・エンリゲ(Álvaro Enrigue):1969年グアダラハラ生まれ。

マウリシオ・モンティエル・フィゲイラス:1968年グアダラハラ生まれ。

ジョルディ・ソレール(Jordi Soler):1963年ベラクルス生まれ。

ホアキン・ウルタード・ペレス(Joaquín Hurtado Pérez):1961年モンテレイ生まれ。
 
(この項、追って作品について増補予定)

2015年9月29日火曜日

グアナファトとハバナ

グアナファトから帰ってきたタイミングで知ったのが、映画『エイゼンシュテイン・イン・グアナファト』。

トレイラーはこちら。 ラテンビート映画祭で上映される。

監督はピーター・グリーナウェイ。

ラテンビート映画祭では『ザ・キング・オブ・ハバナ』という映画も上映される。トレイラーはこちら。原作がキューバ人作家ペドロ・フアン・グティエレス。このブログで紹介したことがあったと思うが、彼の新作は以下のとおり。

Gutiérrez, Pedro Juan, Fabián y el caos, Anagrama, 2015.

(ところで本の表紙画像をブログに載せてよいのかどうかはなかなか判断が難しい。当面は止めておくことにする。本の表紙は内容とは別の著作物として管理されてもいるようなので。)

グアナファト出身の作家にはホルヘ・イバルグエンゴイティアがいる。1928年生まれで、飛行機事故で1983年に亡くなった。アンヘル・ラマやマルタ・トラーバも同じ事故で亡くなった。

(この項続く)

2015年9月23日水曜日

中級スペイン語読解

秋からの授業(2年生クラス)で読もうと思っているものは以下のとおり。

1.文芸誌のGranta(Número 15: Primavera  2015, Nueva Época 2)から、Mariana Enríquez(アルゼンチン)の"Los años intoxicados"。1989年から1994年までの日記のようなもので、10ページ程度。

2.やはり文芸誌の"eñe"に掲載されている、Piedad Bonnett(コロンビア)の"Una vida de libros"。3ページ程度の読書をめぐるエッセイ。短いので、まずはこれを読んでみてもいい。

3.Alejandro Zambra, Formas de volver a casa, Anagrama, 2011. サンブラは邦訳『盆栽』があるが、その彼の別の作品。チリの1980年代を9歳の少年が書いた日記のような体裁の小説。一冊まるごと読めないので、ここから2、30ページか。

4.Lina Meruane, Volverse Palestina, Conaculta, 2013. サンブラと同じくチリ出身で、パレスチナに起源をもつ女性作家によるクロニカ。ここから20ページくらいから読んでみたい。

いまのところ、以上のものを候補としている。いわゆる「小説然」としたものは避けて、自伝的な内容、あるいはそういう語り方をしたものを選んだ。

以下は、裏バージョン

5.Mariana Enríquez, "El chico sucio",

6.Alejandro Zambra, Facsímil,

7.Lina Meruane, "Sangre en el ojo",

8.Gabriela Wiener, Llamada perdida, Malpaso Ediciones, 2015. ペルー出身バルセロナ在住。自伝的記録もの。

9.Claudia Apablaza, Goo y el amor, Editorial Excodra, 2015. チリ出身バルセロナ在住。実験的な作品。

10.Andrea Jeftanovic, No aceptes caramelos de extraños, Editorial Comba, 2015. チリ出身の作家で、家族をテーマにきてれつな話を書いている人。これはそれをまとめた短篇集。「知らない人から飴をもらってはいけません」というタイトル。

2015年9月22日火曜日

Grito de la Independencia

24年振りに独立記念日を過ごした。

メキシコの独立記念日は9月16日で、15日の夜、グリート(grito)がある。

24年前はコヨアカンのソカロでグリートを聞いた。今回はグアナフアトにいて、雨期の終わりかけなのか、雨が降りそうだったが、そういえば24年前のコヨアカンでも雨が降りかけていたのを思い出した。少し寒いぐらいだったかもしれない。今年もそうだった。

記憶では、ちょうど日にちの変わり目の深夜24時にグリートがあったものと思っていたが、23時だった。

グアナフアトはまさに1810年の独立戦争の口火となったドローレス・イダルゴの近くということで、ドローレスに行くという話もあったのだが、結局とりやめた。理由は、夕方か夜、ドローレスの広場に入ると夜更けまで出られなくなる恐れがあるからだった。そこまでの時間の余裕がなかったため、グアナフアトで立ち会うことにした。

グアナフアトのグリートはアロンディガで行なわれる。下は昼間の風景。




近くに着いたのは、ぎりぎり22時45分ごろだった。大慌てでアロンディガをめざした。

そして23時、グリートが始まった。ただ「ビバ・メヒコ」と3回言うだけだったと思ったが、英雄の名前に言及したうえで、最後に「ビバ…」と言うのだった。こういうことも、現在ではWikipediaですぐにわかる。

¡Mexicanos!
¡Vivan los héroes que nos dieron patria!
¡Víva Hidalgo!
¡Viva Morelos!
¡Viva Josefa Ortiz de Domínguez!
¡Viva Allende!
¡Vivan Aldama y Matamoros!
¡Viva la independencia nacional!
¡Viva México! ¡Viva México! ¡Viva México!

グアナフアトにいる留学生は友達とパーティということで、グリートに出かける予定はないとのことだった。

新聞では、悪政ゆえにグリートに行かないようにSNSなどを通じて訴える運動も行なわれているとあった。

24年前にはWikipediaもSNSもなかった。ただ独立記念日の大きなイベントというそれだけの情報で出かけた。はじめてCafé de ollaを飲んだのも、その日のことだったかもしれない。

[付記]
グアナフアトではイダルゴ市場へ行ったら、きれいなフルーツが並んでいた。


2015年9月10日木曜日

カタルーニャの本屋

[前項からの続き]

バルセロナの本屋では、カタルーニャ語の本とスペイン語の本が分かれて並んでいる。出版言語が違うのだから別の棚にあるのは当たり前だ。ただこういう二言語の本棚の光景はスペイン語圏ラテンアメリカではあまり見られない。

スペイン語圏のラテンアメリカの書店では、文学コーナーにはまず「Literatura nacional(国民文学)」があり、そこにはそれぞれの国の文学が並んでいる。メキシコの本屋ならメキシコ作家で、コロンビアならコロンビア作家である。

次いで「Literatura latinoamericana(ラテンアメリカ文学)」があって、そこには、自国以外のラテンアメリカ文学の本が並んでいる。アルゼンチンであれば、ガルシア=マルケスは「ラテンアメリカ文学」のところに並ぶ。

そして次に「Literatura universal(世界文学)」がある。ここには、いわゆる日本語で言うところの「外国文学」が並ぶ。彼らから見て違う言語文化圏の文学作品だ。

 この三つの区分にしたがって本を探すわけだが、バルセロナでは、上に書いたように、文学コーナーは「カタルーニャ語」か、「スペイン語(カスティーリャ語)」で分かれ、では「スペイン語」のコーナーには何が並ぶかというと、ラテンアメリカでは区別されていた三つの文学がすべてそこに入っている。

つまりスペイン語で出版された文学作品は、原書が書かれた地域・言語に拘らず、それがすべて「スペイン語」の本であるかぎり、「スペイン語の本」の棚にある。だからその本棚はかなりの数が必要になる。

アルファベット順なので、フアン・ゴイティソロ(Juan Goytisolo)とギュンター・グラス(Günter Grass)が近くにあったりする。もし後藤明生(Goto Meisei)の本があれば、近くに並べられることになる。あらゆる文学が一緒というわけではなくて、古典文学や推理小説は別の棚に並ぶ。

本屋で改めて気づくが、スペイン語を相対化するという意味ではカタルーニャ語の役割は大きい。

以下の写真のように、スペイン・ラテンアメリカ文学をまとめて並べている本屋もあった。ここでも面白いのは、棚の表示が二言語であることだ。






それから日本文学・文化コーナーのある本屋。ラテンアメリカではここまで充実したものを見たことがない。




[この項続く。バルセロナの出版資本のこと、ラテンアメリカの二言語のことへと進む予定]

2015年9月8日火曜日

ラテンアメリカ作家はマドリードを目指す

ペルーの作家サンティアゴ・ロンカグリオーロは、ラテンアメリカ作家にとってはもはやバルセロナよりもマドリードに住むほうがいいと書き、評判を呼んだ(「エル・パイース」紙、7月23日付)。

スペインにおけるラテンアメリカ作家の首都といえば、マドリードではなく、バルセロナだった。ブレベ叢書賞はラテンアメリカ文学の国際的認知に大きな役割を果たしたが、賞の主宰はバルセロナに本社のあるセイクス・バラル出版社である。ロンカグリオーロもバルセロナ住まいである。

なのに、スペインの首都マドリードのほうがいいとはどういうことか。以下、彼の意見を紹介しよう。

マドリードの「カサ・デ・アメリカ」で催されたペルー詩人(カルロス・ヘルマン・ベリ※)の出版記念行事には数多くの作家、文壇関係者、文化後援機関が参加していた。バルガス=リョサもホセ・マヌエル・カルバーリョもいてにぎやかだったが、バルセロナで同規模のイベントを催すことは不可能である。バルセロナの「カサ・アメリカ・カタルーニャ」にその資金はない。

※カルロス・ヘルマン・ベリ(Carlos Germán Belli, 1927〜)

バルセロナを去ってマドリードに居を移している作家、出版人、ジャーナリストが増えているが、その逆は目にしたことがない。去った彼らは決して反カタルーニャ主義者ではなく、マドリードに仕事を見つけたからだが、「スペイン語」で書くかぎり、マドリードのほうが仕事が見つけやすいのが実情だ。

「スペイン語」は「スペイン」の言語ではなく、世界で二番目に話される言語で、また、アメリカ合衆国にいるスペイン語人口だけで、G20に参加できる国ができる。そういうスペイン語世界にあって、バルセロナはニューヨークだったはずだ。

ところがカタルーニャ・ナショナリズムは、あらゆるナショナリズムがそうであるように、カタルーニャが他よりも優れているということを根拠にしている。アンダルシアやガリシアよりも、カタルーニャのほうが現代的で文化的でヨーロッパ的であると。

こうしてカタルーニャがスペイン語のもつ世界的な力を無視して自分たちのアイデンティティを守っているあいだ、祝祭は別の場所で起きている。メキシコのグアダラハラで催されるブックフェアは世界第二位の規模である、ラテンアメリカのテレノベラは世界的に隆盛している、ツイッターでもスペイン語は二番目に多く使われている……

カタルーニャはこれまで決して閉鎖的な地域ではなく、コスモポリタン的な開放精神に満ちていた。それがスペイン語世界にとってあこがれだった。カタルーニャにおけるバイリンガリズム教育はアメリカ大陸の土着言語を守る模範だった。

しかしいまのカタルーニャがやっていることは、他の文化、とくに「スペイン語とその文化」を「抹消」しようとする努力にほかならない。

これがロンカグリオーロの意見である。

この内容についてバルセロナの大学人(ラテンアメリカ文学研究者)と少しだけ話してみたが、カタルーニャ・ナショナリズムの隆盛については特に否定する意見ではなく、おおむね同意していた。(ちなみに付け足された情報として、ロンカグリオーロの父親が学者・政治家で、ついこの前まで外務大臣をつとめている人だったという点がある。)

カタルーニャ・ナショナリズムは日々激しさを増している。昨年あったような独立をめぐる政治運動は、何年か何十年かおきに再燃することは間違いない。そういう環境は、確かにスペイン語を軸とする文学や文化表現者や研究者にとって厄介であるだろう、というのがその人の意見であった。

といっても、それが即、バルセロナを捨ててマドリード、という意見ではなかった。 ロンカグリオーロの話の持っていき方は少し極端ということなのだろう。スペイン語が世界第二位の言語であるというのを訴えすぎるのも、ちょっと興ざめのような気がしなくはない。けれども、これ以上世界が英語に埋め尽くされていいのかどうかという点を鑑みれば、ロンカグリオーロの言っていることも理解できる。

文化行事について言えば、筆者はマドリードの「カサ・デ・アメリカ」の出版イベントに行ってみて、何人かの作家と雑談することができたことがある。ただそれだけのことだが、塵も積もれば式に考えれば、バルセロナ在住者にとっては残念な事態なのかもしれない。

さらに憶測をすれば、そういうことを残念に思う背景には、出版イベントなどの社交の場が自己のプロモーションにとって決定的に意味をもつ可能性が高くなっているというネオリベ的現状があるからかもしれない。

短期間滞在しただけの旅行者の体験から言えば、バルセロナで聞こえてくるのはスペイン語ではなく、カタルーニャ語と英語である(これはロンカグリオーロも言っている)。

観光客には英語で話しかけ、カタルーニャ人同士はカタルーニャ語で話しているからだろう。地名、電車内の案内放送、レストランのメニューなどはカタルーニャ語がほとんどであり、スペイン語しか知らない人にとってはなかなかきつい。東洋人である話し手がスペイン語を使ったその先にようやくスペイン語の応答があるわけで、つまりそれはバイリンガル世界というよりはトライリンガル世界に近い(これはスペイン人には起きていないことだろうと思われる)。

だが、これも同じラテンアメリカ文学研究者が言っていたが、スペイン語を知っている人なら、2、3か月でも集中してカタルーニャ語をやればいいことなので、そのあたりは1年ぐらい滞在する気であればどうってことはない。つまりカタルーニャで生活していきたいのなら、もう少し努力をしてみたらもっと面白くなるよ、ということかもしれない。

カタルーニャ語とスペイン語を状況次第で使い分けて話してみたりしてみたいものだ。

[この項、さらに続く]

2015年9月7日月曜日

オスバルド・ランボルギーニとセサル・アイラ

バルセロナで見ることができなかった展示のひとつは、バルセロナ現代美術館(MACBA:MUSEU D'ART CONTEMPORANI DE BARCELONA)でのオスバルド・ランボルギーニの展示である。

この記事によれば、9月6日までやっているはずなのだが、9月のはじめにはすでに終わっていた。500枚以上の絵画の展示だったようである。絵画といっても、自身が書いた絵のほかに、雑誌の写真の切り抜きや、それに自分で書き足した「コラージュ」などがある。

オスバルド・ランボルギーニは1940年にアルゼンチンに生まれた作家である。生前3冊の本を残した。1981年、バルセロナに移り、4年後、病気で急死した。

ここ何年ものあいだ、ランボルギーニの文章を編集して出版しているのが、アルゼンチンの作家セサル・アイラである。以下の3冊がそれだ。

Lamborghini, Osvaldo, Novelas y cuentos I(Edición al cuidado de César Aira), Editorial Sudamericana, 2003, Buenos Aires.
---, Novelas y cuentos II(Edición al cuidado de César Aira)[2003], Literatura Mondadori, 2011, Buenos Aires.
---, Tadeys(Edición al cuidado de César Aira), Literatura Random House, 2015, Barcelona.

彼の短篇「正義 La causa justa」はマルビーナス戦争下の日系人とポーランド系アルゼンチン人の話である。

展示に合わせて出版されたものが手に入った。

Lamborghini, Osvaldo, El sexo que habla,  Museu D'art Contemorani De Barcelona.



展示された絵の一部のほか、セサル・アイラ、アラン・パウルスなどの 文章が収められている。

バルセロナ現代文化センター(CCCB)の本屋では、セサル・アイラの本が新しい装いで売られていた(以下の写真参照)。店員たちのなかにアイラ・マニアがいて、多作のアイラのどれを読んだらよいかを教えてくれる。3冊をアイラ入門書としてあげ、そのなかに邦訳のある『わたしの物語』(柳原孝敦訳)が入っていた。



2015年9月5日土曜日

世界文学とラテンアメリカ(バルセロナ編)

世界文学は世界中の文学研究者のあいだで熱っぽい議論を呼び起こしている(と思われる)。

このブログのなかではキューバのロベルト・フェルナンデス=レタマールの論考を紹介した。あの文章は1970年代、キューバ革命の意義とラテンアメリカの今後を見据えて書かれたもので、著者のイデオロギーははっきりしていた。一部ではすでに革命への眼差しは異なるものだったのだが、あの文章には、あのように書かれるべくコンテクストがあったと思う。

さて、スペイン語圏における世界文学論の盛り上がりを示す文献として、出たばかりのものを一冊紹介しよう。それはこちら

Müller, Gesine & Gras Miravet, Dunia(eds.), América Latinay la literatura mundial: mercado editorial, redes globales y la invención de un continente, Iberoamericana-Vervuert, Madrid, 2015.


編者のMüllerさんはケルン大学、Duniaさんはバルセロナ大学の先生である。 表紙のロゴは編者の名前からとっている。

目次はこちら。21人の研究者や翻訳者による論文集。

作家名で言うと、ソル・フアナからカルロス・フェンテス、ジュノ・ディアス、フアン・マヌエル・プリエト、ボラーニョなど。論文タイトルにあがるものではボラーニョが一番多い。

Dunia先生の論考は、「内側から見たブーム:カルロス・フェンテスと文化振興のインフォーマル・ネットワーク」というもので、フェンテスの書簡を材料にしながら、彼が多くのラテンアメリカ作家を世界に紹介するインフォーマルな橋渡しとして働いていたことを実証していくものだ。

その他のものは(全部をきちんと読んだわけではないが)、ブックフェアにおけるアルゼンチン・ブースのイメージ戦略、オランダ、フランス、イギリス、イタリアにおけるラテンアメリカ文学の受容、そしてなんと、インドにおけるラテンアメリカ文学の受容についての文章が二本もある。ラシュディとガルシア=マルケスあたりの共通点からはじまるとして、どのような論になっているのだろうか。

ついでに知ったのだが、コロンビアの作家サンティアゴ・ガンボア(1965〜)は在ニューデリー・コロンビア大使館の文化参事官をつとめたそうである。 古くはオクタビオ・パスがインドにいた話は有名だが。

Dunia先生には世界文学がらみ以外にも多くの仕事があるのだが、それはまた別の機会に紹介したい。

2015年9月3日木曜日

キューバ文学(10)バルセロナ編[追記あり]

バルセロナでキューバ文学はどうなっているのだろうか。

バルセロナ在住のキューバ作家で有名なのは、アビリオ・エステベスとイバン・デ・ラ・ヌエス。

アビリオ・エステベス(1954年生まれ)は、亡命して15年くらいになるのではないかと思って、Wikipediaで調べてみたら、46歳で亡命したそうだから、2000年ということでぴったりだ。

実は亡命する前にハバナで、たまたまだけれども短い時間話をしたことがある。ビルヒリオ・ピニェーラのことを知っている人だったので、教えてもらった。

バルセロナに移ってからも精力的で、2年に一冊ぐらいのペースで本を出し続けている。

イバン・デ・ラ・ヌエスはエル・パイース紙にコラムを書いているので、たまに読む。
ずいぶん前に、このブログでも米国との国交回復についてのコラムを紹介した。その後も2か月に1本ぐらいの割合で書いている.

バルセロナで見つけたキューバ文学の新刊本を紹介しておこう。

現代キューバLGBT短篇集である。出版社の情報はこちら

Mañana hablarán de nosotros: Antología del cuento cubano(Prólogo de Norge Espinoza, Recopilación de Michel García Cruz), Editorial Dos Bigotes, 2015


19人の短篇が入っていて、劈頭は上で紹介したアビリオ・エステベスである。全体の3分の1ぐらいの作家しか知らないが、最近気になり始めているアナ・リディア・ベガAnna Lidia Vegaというサンクトペテルブルク生まれのキューバ作家も入っている。

[追記:9月8日]
出版社Dos BigotesのHPを見ていたら、前に気になって手に入れたこの本もここから出ていた。序文を書いたEduardo Mendicuttiが登壇したのはこの本の出版記念イベントだった。

2015年8月30日日曜日

メデジンーバルセロナ[写真追加]


バルセロナ現代文化センター(CCCB)に行ったところ、Piso Pilotoという都市と住宅に関する展示をやっている。

このCCCBは、2年前はボラーニョ展を、ついこの前はゼーバルト展をやっていたところである。とてもすばらしい本屋が併設されている。

今回見たPiso Pilotoはメデジンのアンティオキア美術館とバルセロナのCCCBの共催だという。

何年もかけて双方で行き来があったようで、メデジンのラッパーEl AKAがバルセロナを訪問したという記事も見つかった。El AKAの曲はたとえばこれ

企画そのもののページはこちら

世界的な観光都市バルセロナと、かつての犯罪都市メデジンに共通点があるとは。

どちらも地理的にこれ以上広くならない限界を抱え、それぞれ産業が盛んで、国内で第二の都市の規模を擁する。また、文化的にも首都との違いがあるとされる。

そして、どちらも都市開発が目覚ましいとのことである。要するにジェントリフィケーションだ。あまり掘り返せないような植民都市の多いコロンビアで、ジェントリフィケーションを実現しているのはメデジンかもしれない。

住宅問題を抱えていない都市はないだろうが、2014年の「エル・パイース」紙の記事によると、バルセロナでも住宅問題は喫緊の課題だ。ついこの前もこんなオピニオンが掲載されている。不確かな世界における住宅の確保は、安全という蜃気楼を求めてとのことだという。

バルセロナもメデジンも都市交通網にロープウェイがあり、似た風景を探すことができる。

この展示の入り口で、8分ほどの映像を見ることができる。画面の左はメデジンの一日、右はバルセロナの一日の様子を映したものだ。トレイラーはこちら

メデジンでもバルセロナでも、山から見下ろした町並みがあり、川があり、自動車専用道路が走り、電車が動き、ロープウェイが浮かび、街路には人が溢れ、ダウンタウンがある……。どちらの街でも同じような一日の流れがある。

ここまで似せられるのかというほどよく似せていて、確かにその通りなのだ。

あのガウディのグエル公園からの眺めと、メデジンの展望台からの眺めが似ていると言って、納得してくれる人がいるだろうか?

バルセロナの都市と住宅に関する具体的事情はなかなか想像しにくいが、メデジンは容易に想像できる。街を取り囲む丘の斜面に暮らす人々の住宅問題は、メデジンの当局が解決しなければならない課題である。バルセロナも同じような問題を抱えていたらしい。

メデジンの場合、丘全体にロープウェイ(メトロカブレ)を通したのも、その斜面(コムーナと呼ばれる地区)の人々の移動を可能にするためだ。

都市における住宅問題というのは、要するに公的空間と私的空間のせめぎあいである。都市が都市として機能するためには、住人のプライベートのケアは避けてとおれない。

このような二都市の共同展示企画Piso Pilotoは、全体が40ほどの部屋に分かれていて、そこで、ポスターセッションや映像資料などが展開される。

2015年3月のメデジン訪問と同じ年8月のバルセロナ訪問がこんな風に結びついた。
写真は、上がメデジンで、下がバルセロナ。どちらも筆者が撮影したもの。




2015年8月28日金曜日

コルタサル、2014

昨年はコルタサル生誕100年で、いろんな本が出たが、見落としていたものを二冊。

ひとつはこの伝記本

Raquel Arias Careaga, Julio Cortázar: De la subversión literaia al compromiso político, 2014, Sílex Ediciones.

Kindle版がある。

そしてもう一冊はこちら

ウルグアイのクリスティナ・ペリ・ロッシの本
Cristina Peri Rossi, Julio Cortázar y Cris, Ediciones Cálamo, Palencia, 2014.

一頁目を読んだら、その先も読みたくなるような本である。

どちらもバルセロナで発見。本屋も紹介しておこう。

一冊目を見つけたのは La Memoria Librería

この本屋は記憶、伝記などを中心にしたセレクトブックストア。ホロコースト、スペイン内戦、世界対戦などのコーナーがある。手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」もあった。

二冊目は Antinous
 AntinousはLGPT関連の本屋で、バルセロナにはもう一軒、Librería Cómplicesという同じ傾向の本屋もある。

マドリードにいるのなら、Berkanaもおすすめ。


2015年8月23日日曜日

パトリシオ・グスマン監督作品『光のノスタルジア』『真珠のボタン』


パトリシオ・グスマンの映画を2本見る機会をいただいた。

すぐには言葉にならない、心の奥底に残る映画だった。



『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』の2部作。チリの話だ。




『光のノスタルジア』はチリの北、アタカマ砂漠で展開する。



チリのアタカマ砂漠には天文台がある。日本も参加しているプロジェクトである、アルマ望遠鏡もここにある。アタカマ砂漠は高度が2000メートル以上ある。



天文学者へのインタビューで始まり、教育テレビのように分かりやすく宇宙の神秘についての考えが示される。スペイン語もとても分かりやすい。優しい話し方だ。この優しい話し方にどこか聞き覚えがあるような気がするのだが、思い出せない。



天文学者が覗く望遠鏡のおかれたこの砂漠にはいくつかの物語がある。



19世紀のチリ硝石のブームとその終焉。



ピノチェト政権による行方不明者の死体を探す女性たち。






天文学の語りと行方不明者を探す女性たちの語りが交錯していく。



『真珠のボタン』ではチリの南、西パタゴニアが舞台になる。



ここにはカウェスカル族やその他の少数民族へのインタビューが展開する。水の民の生活。そこを征服したヨーロッパ文明。



そして、海に眠るピノチェト政権による行方不明者の死体。レールに縛り付けられてヘリコプターから投げられた死体だ。



砂漠と海のどちらにも70年代の軍政の跡が残っている。





2015年8月14日金曜日

プエルトリコ映画(3)『Mal de amores』(メモとして)

プロデューサー:Benicio Del Toro(ベニチオ・デル・トロ)
監督:Carlos Ruiz とMariem Pérez
制作:2007年

プエルトリコの映画だが、それに気づかずに見てしまうこともありうる。

北アメリカのどこかの田舎にある貧しい地区のような、そういうテイストがある。人の太り方や振る舞いにどこか北アメリカ的なところがあるように感じる。

といって、こういうアメリカ的な世界がスペイン語で展開する地域があるかというと、やはりプエルトリコということか。

3つのカップルの話。

①老夫婦(フローラとシリーロ)のところに、妻のほうの元夫(ペジン)が転がり込んでくる。シリーロはペジンを追い出したくて嫌がらせをするが、うまくいかない。3人で喧嘩しながら暮らしていく。

②郊外の開発区に暮らす中年夫婦(40代くらい。イスマエルとルールデス)とひとり息子(イスマエリート)。夫が妻の親戚と浮気していることがわかる。くだらないことで浮気が発覚し、妻が浮気相手に会うのが葬式だったりする。妻は発狂、夫は浮気相手と駆け落ち。その合間に子供は近所の女の子と仲良くなっていく。

③女性のバス運転手に恋をした男(20代後半か30代前半の引きこもり)が、バスを乗っ取り、運転手に結婚を迫る。警察に取り囲まれ、乗客にも説得されるが、後に引けず発砲して、刑務所行きになる。

この3つが交錯するように進む。暑さとじめじめした雰囲気が全編に横溢している。どの人間関係も常に不安定で、うまくいっていない。爆発して関係を解消してもスカッとするわけでなく、また新たな関係のなかで、同じようなイライラの局面に戻りそうな無限ループが予想できる。

この「変わらなさ」や「どこにも行けない感じ」を、プエルトリコと読んでいいのかどうかはわからないが、いまのところはそう見ている。


2015年8月13日木曜日

プエルトリコ映画(2)『逃亡奴隷』

監督:イバン・ダリエル・オルティス Iván Dariel Ortíz
制作年:2007年
原題:El Cimarrón

カリブ地方には各地に逃亡奴隷の物語がある。コロンビアなら、サン・バシリオ・デ・パレンケのベンコス・ビオホー。キューバには元逃亡奴隷の語りを人類学者ミゲル・バルネーが編集した『逃亡奴隷』がある。

この映画は、プエルトリコの逃亡奴隷、Marcos Xiorro(カタカナにしにくいが、マルコス・シオーロとしておこう)の物語だ。マルコスのことは、Wikipediaにも載っている

マルコスは、アフリカでは高貴な家系で、フェミと結婚したばかりだった。しかし夜中に外部からの侵入を受けて引き離される。

そしてプエルトリコに奴隷として連行される。1808年のことだ。

奴隷市場で売られ、紆余曲折ののち、フェミもマルコスも農園主ドン・パブロのもとで働かされるようになる。マルコスは頻繁に農場から逃げ出しては捕らえられ、奴隷頭のサンティアゴにはひどい扱いを受けている。
 
ドン・パブロは生粋のスペイン人(ペニンスラール)で、砂糖農園を経営しているが、スペインとの往復生活だ。妻は妊娠中。妻は出産のためスペインに戻る。一人になったドン・パブロはフェミ(カトリック名はカロリーナ)を手込めにしようと機会を狙っている。

ここでプエルトリコの当時の状況が説明される。


・ドン・パブロのようなペニンスラールとカトリック教会側は、プエルトリコをカリブ海の要所と考え、植民地として維持し続けるつもりである。砂糖生産に力を入れ、革命後砂糖生産が落ち込んだハイチを抜き、プエルトリコでのペニンスラールの経済力と政治力を確固たるものとしようとしている。1809年から1820年までプエルトリコ知事を務めたサルバドル・メレンデス・ブルナ(Salvador Meléndez Burna)はペニンスラールの味方だ。

・彼らにとって敵となるのは、クリオーリョ勢力だ。彼らは徐々に経済力をつけてきている新興層。映画ではコーヒー農園主ドン・ドミンゴに代表される。教会側にもフアン・アレホ・デ・アリスメンディ司教(Juan Alejo de Arizmendi)のようにクリオーリョに味方する自由主義者がいる。また、政治家のなかにもプエルトリコの立場を改善しようと働く政治家ラモン・パワー・イ・ヒラルト(Ramón Power y Giralt)もいる。ラモンはプエルトリコ代表としてカディス議会(カディス・コルテス)に赴く予定である。これが歴史上1809年から1810年のことで、映画の設定が1808年である理由はここにあるのだろう。

映画内での対立構造をまとめると、以下のようになる。

・保守派:ペニンスラール(ドン・パブロ、砂糖農園主)、教会関係者:奴隷制維持、植民地体制維持
 奴隷を大量に連れて来て、砂糖生産高を上げ、場合によって北アメリカのバイヤーに売るつもりである。

・自由派:クリオーリョ(ドン・ドミンゴ、コーヒー農園主):奴隷廃止、独立(とははっきり言っていないが)
  奴隷がたくさん来れば来るほど、クリオーリョの仕事は少なくなる。奴隷廃止をスローガンにクリオーリョ層を一致団結させようとする。


映画のその後はかなり駆け足だーー
 
ドン・ドミンゴは前述のアリスメンディ司教の支援もあり、奴隷廃止をスローガンにクリオーリョで団結しようとしたが、密告者に殺されてしまう。しかもペニンスラール側は、その犯人が奴隷のマルコスだと噂を流し、マルコスには死刑判決が出る。

マルコスは脱獄し、ドン・パブロを殺害して、カロリーナとともに逃げる。他の奴隷たちも蜂起する。しかしカロリーナはペニンスラール側に撃たれて死ぬ。泣きくれるマルコス。

映画はここで終わる。マルコスが逃亡奴隷になるのはその先のことだ。

まとめておくと、19世紀前半にはクリオーリョが力をつけて、プエルトリコの独立と奴隷解放を唱えていた。しかしその勢力は、プエルトリコを帝国のカリブにおける要所としか考えていないペニンスラールにつぶされた、ということ。

2015年8月4日火曜日

キューバ映画(6)Personal belongings(邦題:恋人たちのハバナ)[8月5日修正]

キューバ・ボリビア映画
監督:アレハンドロ・ブルゲス(Alejandro Brugués)
制作年:2006年

主人公のエルネストはキューバを出たいと思い、各国大使館を訪れて面接をしてビザをとろうとするがうまくいかない。彼は母を亡くし、家はなく、車のなかで暮らしている。

エルネスト曰く、車は「おれの事務所 mi oficina」。つまり、彼は運転手ということだが、白タクなのだろうか。映画のなかで彼が運転手として働いている部分が出てきたという記憶がないので曖昧だったが、台詞をもう一度追い直したら、運転手として金を稼いでいるとあったので、そういう設定のようだ。[この部分、8月5日に修正]


エルネストには、同じように出国のために大使館並びをしている友人が2人ほどいる。

いっぽう、アナは家族が亡命したが、自分は残ることに決め、大きな屋敷に独り寂しく住んでいる看護婦。

ある日、エルネストはビザの取得のために健康診断書が必要になり、病院へ行く。そこでアナと出会う。このときアナの上司にあたる年配の医師が出てくるが、映画の最後で意外な人物であることがわかる……

エルネストとアナはお互いに惹かれ合うが、エルネストは出国を求め、アナは出国する気はない。

2人はお互いに干渉しないで、相手を深く知ろうとせず、割り切った関係を保つことにする。アナはエルネストが出国するための面接の練習につき合ってやったりする。

旅が目的で亡命するためではないことをきちんと伝えないとダメだ、キューバのことが好きだということを伝えないといけない、とアナは適切なアドバイスをする。

ちなみに、映画内では、どの国の大使館に行っているのかはわからないように、ぼかしてある。 見たことのない国旗のある大使館がいくつか出てくる。

映画内の面白い会話:
アナ「もし私が本だったら何だと思う?」
エルネスト「『資本論』だね」

エルネスト「もし俺が車だったら何だと思う?」
アナ「ラーダよ」
 ※ラーダはロシア(旧ソ連)製の車種。「ラダ」だと思っていたら、wikiでは「ラーダ」になっていた。

アナ「もし私が国なら?」
エルネスト「キューバ」

出国の方法は、ほかにもあって、スペイン人の女と結婚するというものだ。

(続かないかもしれないけれども、一応続く)



2015年8月1日土曜日

プエルトリコ映画(1)Casi Casi

プエルトリコ映画

原題:Casi Casi「あともう少しのところで」
監督:Jaime VallésとTony Vallés(兄弟)
制作年:2006年

学園もののコメディ。GTO風のドタバタで、大人向きではない映画のような気もする。

エミリオはこれという特徴のない男の子。仲間のアルフレド(パソコンオタク)らといたずらばかりをしていて、厳格な女性校長にいつも呼び出されている。その割に、ひそかにエミリオに恋心を寄せるマリア・エウヘニア(アナウンス部の優等生)や何人かの女の子たちと放課後いつもつるんでいる。

その彼が学校の人気者のジャクリーンに一目惚れしたが、まったく相手にされない。

そこで彼は生徒会長に立候補し、目立とうとする。そうすればジェクリーンが振り向いてくれると思ったわけだ。ところがふたを開けてみたら、ジャクリーンは対立候補だった。選挙運動がはじまり、エミリオは仲間の応援もあって楽しく準備する(ここで、サン・フアンの要塞で写真を撮ったり、カフェで談笑したりする場面が、サルサ音楽とともに展開する。)マリア・エウヘニアらがスクリプトライターをつとめ、すばらしいスピーチを用意してくれる。

おかげでエミリオは当選が見えてくる。しかし当初の目的はジャクリーンを振り向かせることにあったわけで、エミリオが勝ってしまえば、逆効果になる。そこでエミリオは当選しない方法がないかどうかを友人たちに相談する。

仲間はこれまでエミリオを応援してきたためにがっかりするが(とくにマリア・エウヘニアはひどく落ち込む)、エミリオがジャクリーンとうまくいくためであればと、ジャクリーンを勝たせる方法を探す。

選挙はアルフレドが開発したシステムを使ったコンピューターによる投票のため、集計のときにコンピューター室に忍び込めれば、手を加えられることがわかる。開票寸前で操作してジャクリーンを勝たせ、エミリオは彼女からの好意を得るはずだった。

いよいよ開票当日、コンピューター室で彼らは結果の工作に挑む。しかし不運も重なって多くの障害に出会う。とくに厳しい女性校長に露見しかけ、あともう少しのところで計画はおじゃんになりかける。といっても、なんとか乗り越えて、最終的にジャクリーンが当選するよう開票結果に手を加える(実際の結果はエミリオが勝っていた)。

その後、エミリオは、自分が勝ちたくないから譲ったんだとジャクリーンに打ち明ける。しかし期待とは裏腹に、ジャクリーンはそのことに何の恩義も感じずに、勝ったことに喜んで、取り巻きたちと去っていく。

こうしてぼくたちの青春は終わったーーー的な感じで映画はエピローグに入る。

夏を迎え、エミリオはいつもの仲間と喫茶店でだべっている。ひとり列に並んで注文しているとき、ふと目を上げるとガラス窓越しにマリア・エウヘニアが見える。彼女と目が合い、自分が彼女のことが好きであることに気づく。

最後のオチとして、厳格な女性校長がワルっぽい男のバイクにまたがってあらわれて、エミリオらを仰天させる。

2015年7月31日金曜日

フェルナンデス・レタマールの世界文学論(3)

(続き)

レタマールは、そのときまでに書かれた文学理論が結局、書き手になじみのある文学に由来するものであって、アリストテレス、ロシア・フォルマリズム、チェコ構造主義、スペイン文体論研究、北米の新批評、ルカーチ、ブレヒトなどによる「普遍的」理論は、書き手が選んだ「ある特定の文学」によって描き出されているのだと指摘する。

以下、レタマールの考えの要約。

ラテンアメリカ文学理論は、他の、とくに宗主国の文学によって鍛えられた文学論を移植してできるものではない。

そういった宗主国の文学理論というものは、我々が苦しんできた文化的植民地主義のもう一つのあらわれであり いまだに我々は政治・経済的植民地主義の後遺症に苦しんでいる。

というわけで、我々が直面する最初の問題は、宗主国の文学とは異なる現実としてラテンアメリカ文学が存在するのかどうかということだ。そしてこの問題は、「ラテンアメリカ」というものがあるのかどうかという文学外の問題に我々を連れてゆく。

ラテンアメリカ文学の存在は、まずもって「ラテンアメリカ」が存在するか否かにかかっている。

ラテンアメリカがスペインの植民地であるかぎり、真のラテンアメリカ文学はなく、それはアメリカ大陸におけるスペイン文学、地方文学である。

ラテンアメリカの独立が、ラテンアメリカ文学の存在にとって必須条件である。しかしこの独立とやらが薄っぺらだったから、マリアテギが言うように、ラテンアメリカ文学はスペイン文学のままであり、言ってみれば植民地文学なのだ。

ホセ・マルティによれば、ラテンアメリカの作品はあるが、体系として、一貫したものとしてのラテンアメリカ文学というのは、自立した世界としてラテンアメリカがないかぎりは、存在しない。

ブルジョワ的企図のなかでラテンアメリカが存在することはない。というのは、我々の国々は政治・経済・文化的にスペインから独立したが、それは結局、イギリス、アメリカによって支配されるためであった。そのことが19世紀の後半に分かっていたのはホセ・マルティだけである。ダリーオは分かっていなかった。

マリアテギは文学の発展段階を次のように見ている。
①植民地期
②コスモポリタン期
③ナショナル期

マリアテギは、モダニズムによって、ラテンアメリカの文学がコスモポリタニズムに突入したと見ている。

しかし、モダニズム以前の、「モデルニスモ」をもってラテンアメリカ文学はコスモポリタン期に入ったという見方もできる。

コスモポリタン期に入ったことは、ラテンアメリカが現代世界(el mundo moderno)に参入したことを意味する。

現代世界とは、レーニンの言う資本主義の最高の段階(『帝国主義論])のことであり、アメリカ帝国主義がラテンアメリカ、キューバを襲った。

ダリーオやロドーはラテン的伝統を持ち出すことによって、ラテンアメリカの現実を擁護しようとした(レタマールはダリーオ、ロドーに対してはやや否定的)。

コスモポリタン期がモダニズム期にまで継続したかどうかは見方が分かれる。マリアテギ、セサル・バジェホ、ネルーダ、ギジェン、カルペンティエルらはすでにモダニズム期は、ラテンアメリカにおける「ナショナル期」であると見なしている。そのナショナルとは、「ラテンアメリカ・ネイション」である。

しかしそのネイションはブルジョア的企図のもとではなく、社会主義革命によってのみ実現する。キューバ革命はその実例の一つである。

 ペドロ・エンリケス・ウレーニャはすでに1926年にラテンアメリカ文学が隆盛を迎えることを予告していた。そして1972年にはマリオ・ベネデッティがそのことを確認している。

カルロス・リンコン(コロンビア)、ネルソン・オソリオ(チリ)といったマルクス主義批評家がラテンアメリカ文学理論の不在をなげいている。

社会主義革命が進行しつつあるいま、ラテンアメリカ文学の境界線を定め、特徴を記述する必要がある。ラテンアメリカ文学理論が必要な時代である。

西洋の伝統もまた我々の伝統であるが、その伝統に関して、ラテンアメリカ特有の差異を指摘しなければならない。 ラテンアメリカ文学理論の創出こそ、いま我々が集団で取り組まなければならない課題である。

要約は以上。

この試論では、レタマールが考えるラテンアメリカ文学理論については展開されていないのが残念だ。また、キューバ革命を端緒として、今後ラテンアメリカに社会主義革命が続発していくことが前提になっている。1972年の講演であるという時代的制約、そしてイデオロギー的硬直と限界があることは確かだ。

しかし、ゲーテや『共産党宣言』で述べられている「世界文学」を批判するときのポイントは、現在のカサノバなどの「世界文学論」を批判するときにも使えそうだ。たとえば以下のような。

・文学理論の「普遍性」とは、当該理論家の恣意的な選択による「普遍」でしかない。
・ヨーロッパ中心主義の「普遍」には要注意だ。宗主国のものだからだ。
・ラテンアメリカは「資本主義の最高の段階」、すなわち帝国主義が訪れた地域である。
・ラテンアメリカの文学は植民地期からコスモポリタン期、そしてナショナル期という流れをたどっている。そのことを踏まえたラテンアメリカ文学理論が必要である。
・ 世界の文学は、世界がひとつではないことが明らかである以上、同質のものではないことに留意するべきである。
・ラテンアメリカ文学は西洋の伝統を含みつつ、異なった様相を呈している。

2015年7月29日水曜日

キューバ文学(9)ゼロ年代の作家たち

キューバの新世代作家の短篇集が届いた。こちら

Padilla Cárdenas, Gilberto(ed.,), Malditos bastardos: Antología, Editorial Cajachina, 2014.

タイトルにある"bastardos"というのは非嫡出子のことで、ラテンアメリカ文学では最近あちこちで聞かれる「非正統文学」たらんとする作家たちの短篇集である。若手ばかりである。「糞ったれの私生児ども」という感じか。

本の表紙ではこちらのほうが目立つのだが、副題がある。

「ペドロ・フアン・グティエレスでも、ソエ・バルデスでも、レオナルド・パドゥーラでもない10人のキューバ作家たち」

この3人は国際的に評判の作家ばかりで、それ以降の世代を集めたものである。
この記事によれば、ゼロ年代(Generación Cero)と呼ばれている。

今後のために名前と生年、そして短篇タイトルを挙げておこう(タイトルは仮訳である。内容を読んでいないので間違っているかもしれない)。

アメル・エチェバリーア・ペレー(Ahmel Echevarriá Peré)、1974年生まれ。
 「島」Isla

ホルヘ・エンリケ・ラへ(Jorge Enrique Lage)、1979年生まれ。
 「ゲームの外で」Fuera del juego
  確かこの人の短篇はひとつ読んだことがある。

オスダニー・モラーレス(Osdany Morales)、1981年生まれ。
 「ジム・ジャームッシュへの永遠の愛の告白」Declaración de amor eterno a Jim Jarmusch

ラウル・フローレス(Raúl Flores)、1977年生まれ。
  「エクストラ」Extras

ミチェル・エンシノサ・フー(Michel Encinosa Fú)、1974年生まれ。
 「栄光の男」Nuestro hombre en la gloria
  ※グレアム・グリーンの「ハバナの男 Nuestro hombre en La Habana」を踏まえているのか?

アベル・フェルナンデス・ラレア(Abel Fernández-Larrea)、1978年生まれ。
 「Roadkill raccoon」路上轢死したアライグマ?
  たまたま見つけたインタビューはこちら。 なんとソ連にまつわる話を書いている作家だ。

エリック・J・モタ(Erick J. Mota)、1975年生まれ。
  「昔とは違うんだ」Las cosa ya no son lo que eran antes

レグナ・ロドリゲス・イグレシアス(Legna Rodríguez Iglesias)、1984年生まれ。
 「計画」La planificación

アニスレイ・ネグリン(Anisley Negrín)、1981年生まれ。
 「正午の島」Isla a mediodía
    ※コルタサル?

オルランド・ルイス・パルド・ラソ(Orlando Luis Pardo Lazo)、1971年生まれ。
 「キューバン・アメリカン・ビューティ」Cuban American Beauty

2015年7月21日火曜日

キューバ映画(5)『交換します Se permuta』

キューバ映画『交換します』

監督:フアン・カルロス・タビーオ
制作:1983年
原題:Se permuta

年頃の娘と2人暮らしのグロリアはグアナバコアというハバナ中心から少し離れたダウンタウンに住んでいる。

娘に言い寄る男が工場で働く労働者では、いい生活は望めない。母親はベダードというハバナの高級地区に引っ越したいと夢を見る。

革命下のキューバでは不動産はすべて国家のものであり、勝手な売買は不可能である。そこでキューバ人たちが行っているのは、お互いの合意のもとでの「住宅交換」である。

自宅前に「交換します Se permuta」と看板を出して、引っ越し先探しをしていることを告知する。

こうしてグロリアは、逆にグアナバコアに引っ越しした家族を探し出し、一回目の引っ越しでベダード地区への引っ越しに成功する。

すると娘に早速、白人の広告マンが言い寄り、相思相愛の仲になる。グロリアが夢見ていた社会上昇ストーリーが目に見えるところにあらわれたわけである。

ちなみに娘はハバナ大学に通い、都市計画を勉強中の大学生である。

さてこの娘と恋人が結婚するとなると、直に子どもも生まれるだろうし、大きな新居が必要になる。母グロリアは新たな引っ越しを考え、周囲を探す。

こうして、グロリアは一家AをB宅に引っ越させ、一家BはC宅に引っ越させ、一家CはD宅へ、と複雑な引っ越し計画を立て、みんなが満足する予定だった。

ところがそうは問屋がおろさず、最終的には当初の娘と恋人が別れてしまい、新たな男と未来を描き、当初の引っ越しの目的がなくなってしまう……

この映画は、もとは演劇作品(交換 La Permuta)で、前のエントリーで書いた『ある程度までは Hasta cierto punto』のなかの劇中劇として部分的には「映画化」されていたものだ。

2015年7月20日月曜日

キューバ文学(8)革命とヘミングウェイ[2016.6.10追記]

2015年7月20日にキューバは米国と正式に国交回復。

1959年から62年までのキューバとアメリカの関係を簡易年表にしてみた。

こうしてみると、キューバと米国との関係がヘミングウェイの死と微妙にからんでいるように見える。


1959年
1月1日      バティスタ国外逃亡、革命成就。
1月8日    カストロ、ハバナ入城
4月15日             カストロ訪米
5月〜10月   ヘミングウェイ、スペインに滞在(11月初め、キューバへ)。
   
1960年
2月      ソ連ミコヤン、キューバ訪問。ヘミングウェイ邸も訪問
5月15日     ヘミングウェイ、カストロと会う
10月      ヘミングウェイ、アイダホ州へ帰国。その後、精神的不安定
11月      メイヨー・クリニックへ

1961年
1月3日    米国がキューバとの国交を断絶
1月下旬     ヘミングウェイ、メイヨー・クリニック退院
4月16日   カストロ、社会主義革命宣言
4月17日    CIA傭兵部隊がヒロン海岸侵攻(ピッグス湾事件)
4月下旬     ヘミングウェイ、再び入院。6月末退院  
7月2日      ヘミングウェイ、自殺

1962年
10月22日  キューバ・ミサイル危機

2015年
7月20日    キューバと米国、国交回復
  
 ちなみにヘミングウェイの誕生日は明日、(1899年)7月21日。

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[2016年6月10日の追記]

 「Casa de las Américas」116号(1979年)に以下の論文が載っている。

Mary Cruz, Un cuento cubano y revolucionario de Ernest Hemingway: Veinte años antes y veinte años después, pp.126-133.

この論文は同じ著者による本から抜粋掲載されたものだが(本は未入手)、ヘミングウェイが書いた短篇がとりあげられている。その短篇は「Nobody ever dies(邦題:誰も死なない)」のこと。

邦訳は『ヘミングウェイ全集 第1巻』三笠書房に入っている。

この短篇はもともと「コスモポリタン」誌に1939年3月に発表されていたが、同誌は1959年、キューバ革命から数カ月後に同じものを再掲載した。

内容はスペイン内戦で怪我をした男がキューバへ戻り、そこで過ごしたつかの間の日々を描いたもの。この短篇には後のキューバ革命の萌芽が見られるというのが再掲載した「コスモポリタン」誌の見解。

ヘミングウェイとキューバの関係を考えるにあたって貴重なテキストになりそうだ。


        

2015年7月14日火曜日

キューバ文学(7)ヘミングウェイ

キューバ文学(6)で、カブレラ=インファンテから見たヘミングウェイについて触れた。

ノルベルト・フェンテスの『ヘミングウェイ キューバの日々』を見たところ、カブレラ=インファンテの書いたエピソードがそのまま載っていた。

バー、フロリディータでキューバ人作家リサンドロ・オテロと友人がヘミングウェイに話しかけると、「仕事をしているときに邪魔をするな」と言われ、あこがれていた作家の横柄な態度にがっかりする。

そのときヘミングウェイは、オテロといたキューバ人にふざけてパンチを放つそぶりを見せ、男がうまくかわすと、ボクサーになればいい、と言った。その後、ヘミングウェイが自邸フィンカ・ビヒアに彼らを招待し、後日訪れる。

カブレラ=インファンテの「自伝」では、彼もこのときにバーにいてヘミングウェイを見、また後日一緒にフィンカ・ビヒアに行ったことになっているのだが、フェンテスの本ではそのようには書かれていない。

カブレラ=インファンテは見てきたようなことを書くのが得意だから、ここもそういうことかもしれない。ただ彼がキューバを去ったあと、マドリードでヘミングウェイと会話をしたことが記されている(pp.285-286)。むしろ、「自伝」によればカブレラ=インファンテは映画『老人と海』(1958年)の撮影の取材をしていたようなのだが、この話はフェンテスの本には出て来ない。

いっぽう、『ヘミングウェイ キューバの日々』にはニコラス・ギジェンやカルペンティエル、サムエル・フェイホー(画家)のヘミングウェイ観も載っている。

ギジェンの詩「西インド会社」の冒頭をヘミングウェイは翻訳したらしい。「ヘミングウェイは実際にはキューバ人を知らなかった」(p.250)。

うかつなことに、エドムンド・デスノエスがヘミングウェイをどう見ていたのかもある。先日、『低開発の記憶』に関する論文を書いたところだった。この本も参考になったはずだ。

デスノエスによれば、「ヘミングウェイが旧スペイン植民地キューバに住まいを定めたのは、そこで、スペインと同じ言語が話され、スペイン文化の多くの要素が保たれているからだった。キューバは、スペインを愛するアメリカ人にとっては理想の住みかだった」(p.270)。

また、ノルベルト・フェンテスによれば、「キューバは、スペイン内戦の以前から、ヘミングウェイの関心おくあたわざる争乱、革命の地でもあった。1930年代初め、彼がキューバで学んだものは、『アフリカの緑の丘』のなかの会話に、要約したかたちで表現されている」(p.270)。

(続く)

2015年7月13日月曜日

アルゼンチン・ユダヤ系家族ドキュメンタリー

アルゼンチン出身のピアニスト、マルタ・アルゲリッチのドキュメンタリー映画がある。

『アルゲリッチ 私こそ、音楽』(2014)

監督はアルゲリッチの三女ステファニーである。

母を何年かかけて追ったもので、ワルシャワ、ジュネーヴ、ブエノスアイレス、そして別府のアルゲリッチ音楽祭のシーンも出て来る。新幹線で食事していたり、旅館でマッサージを受けながら、母娘で人生を語ったりしていたり。でも、面白いのは、一切その土地に関する説明が出て来ないことだ。

音楽家で旅をするのが普通とはいえ、世界こそ我が家というなんともスケールの大きい一家。

監督のステファニーのインタビュー(スペイン語)はこちら

マルタ・アルゲリッチがスペイン語を話すシーンはブエノスアイレスで少しだけ聞ける。散歩しているのは、パレルモの公園ではないか。

ステファニーによれば、アルゲリッチは話せるのに、ほとんどスペイン語を話さないそうだ。フランス語と英語が主だ。

彼女がブエノスアイレスにいたのは、14歳のとき、グルダを師事する予定でヨーロッパへ渡るまで。

アルゲリッチのような有名人ではないが、同じような内容の、アルゼンチンのユダヤ系出身の家族ドキュメンタリーとして、『パピローセン Papirosen』(2012)がある。

ガストン・ソルニッキ Gastón Solnicki(1978年生まれ)が自分の一族を撮ったもので、これは制作に10年以上をかけている。トレイラーはこちら

Papirosenはイディッシュ語でタバコを意味するとか? イディッシュ語のタンゴにPapirosenという曲がある。

2015年7月10日金曜日

フェルナンデス・レタマールの世界文学論(2)

(続き)

フェルナンデス・レタマールは、ゲーテとエッカーマンが対話した1827年1月31日を「あの記念すべき」日だとしている。

エッカーマンがゲーテの家に行くと、ゲーテは中国の小説を読んでいた。ゲーテはその小説についてコメントしたあと、自分の『ヘルマンとドロテーア』と比較して以下のように言った。

「詩は人類共通の遺産である(…)。国民文学は今日たいして意味がない、現代は世界文学 literatura mundial の時代であって、われわれは皆、その時代の到来を早めるように貢献しなければならない。」

フェルナンデス・レタマールはこのあと、さらに重要な引用を行なう。

この対話から21年後、ゲーテの熱狂的な信奉者であるマルクスとエンゲルスは『共産党宣言』(1848)で、 ヨーロッパのブルジョアのなした偉業、世界市場の巨大産業の創出、生産と消費が地球規模になったことについて述べたのち、以下のように言っている。

「このことは物質的な生産物のみならず、知的生産物についても言えることである。ある国の知的生産物はあらゆる人々の共通の遺産になる。国の窮屈さや排他性というのは日ごとに不可能になっている。数多くの国民的で局所的な文学から、世界文学 literatura universal が形成されているのだ。」(下線引用者)

これはレタマールが引用した『共産党宣言』の一節である。ここから先はレタマールの文章を引用する。

 「ヨーロッパの資本主義の拡大は、世界文学の生まれる前提条件となった。というのは、それは「世界の世界化」を用意したからである。しかしその前提条件は、資本主義の枠組みの内側で達成されることはできないであろう。その仕事はまさしく――さしあたり、未だ不完全な方法ではあるが――その枠組みを破壊するはずのシステムが行なうことになる。『共産党宣言』の冒頭にある有名な一節を忘れてはならない。「ヨーロッパに幽霊が徘徊している。」今日我々が知っているように、その幽霊を待っていたのは、ヨーロッパ以外の多くの道であった。
 したがって、いまだひとつの世界は存在していない。1952年に人口学者のAlfred Sauvyが「第三世界」という表現を発明したとき――その才知あふれる名称の誤りにかかわらず、幸運に恵まれた表現であった(今日我々はほとんど納得がいかない)――、実にさまざまな思想家や指導者によってこの表現が広く受け入れられ広められたことは、世界の同質性が存在していないことを確認することであるだろう。まだこれ[世界の同質性]が存在していないとき、当然のことながら、世界文学であれ、普遍的な general 文学であれ、それはまだ存在していないのである。
 さて、懸案の問題である世界文学がまだ存在していないとするならば、どうして、それを対象とする理論が、観察が、啓示がすでに存在できるというのか?

(続く)

2015年7月9日木曜日

キューバ文学(6)カブレラ=インファンテ

カブレラ=インファンテの「自伝」とされるのはこの本

Cabrera Infante, Guillermo, Cuerpos divinos, Gakaxia Gutenberg/Círculo de Lectores, Barcelona, 2010.

没後出版のため、未定稿だが、拾い読みをする限り問題はない。

「エル・パイース」によると、妻ミリアム・ゴメスは、読むのが怖い、自分がどんな風に書かれているのか心配だと言っていた。

1958年の革命直前から1962年までを扱い、二部構成の555ページ。

1962年、ブリュッセルにいるときに書き始めた作品。

文体がところどころ凝っていて、さらりと読み進められるわけではない。

登場人物の名前は、存命であれば仮名で、没後に本名にしていたという。カブレラ=インファンテは2005年に他界したので、それ以降に他界した人名は仮名のままだ。 

レアンドロ・オテロという人が出てくるが、リサンドロ・オテロ(1932ー2008)のことだろう。

1958年にまだキューバに住んでいたヘミングウェイとのエピソードが20ページほどある。バー、フロリディータでダイキリを飲んでいるヘミングウェイに話しかけるシーン。

今度時間のあるときに、ノルベルト・フェンテス『ヘミングウェイ キューバの日々』(晶文社)と照合してみよう。

2015年7月6日月曜日

キューバ映画(4)『ある程度までは Hasta cierto punto』[7月21日追記]


キューバ映画:『ある程度までは』(Hasta cierto punto)
監督: トマス・グティエレス・アレア
制作年:1983年

革命政権下における「マチスモ」について考察した映画。

映画内で、演劇とインタビュー映像がそれぞれ展開する入れ子構造になっている。

オスカルは劇作家で、監督のアルトゥーロの指示のもと、映画脚本を執筆しようとしている。撮ろうとしているのは「マチスモ」をテーマにした作品で、取材のためにハバナの港湾労働者にインタビューして、その模様を撮影する。この映像が映画内で流れる(入れ子構造①)。

オスカルもアルトゥーロも革命下では知識人階級に属し、比較的裕福な暮らしをしている(革命前はブルジョア階級)。それぞれ妻もいる。オスカルの妻はオスカル作の劇作品を演じる女優である。この劇作品も映画内で演じられる(入れ子構造②)
 
オスカルとアルトゥーロには先入観があった。それは、港湾労働者たちは「マチスモ」的価値観を持っているというものだ。革命が進み、マチスモは徐々になくなりつつあるが、労働者階級では、男が優位で、女を所有物として扱うという考えがしつこく残っているはずだと考えていた。

ところが取材で知り合った港湾労働者は想像とは違い、温度差はあるものの、男女平等を志向している。なかでも組合の会議で発言した女性にオスカルは目を奪われる。

サンティアゴ・デ・クーバ出身の彼女(リーナ)はシングルマザーで、女手ひとつで10歳の息子を育てていることがわかる。予想と違う展開にオスカルはアルトゥーロと揉める。

取材を続けるうち、オスカルはリーナに心を奪われる。リーナもオスカルに惹かれてゆく……

マチスモを乗り越え、革命理念を実現していたと思い込んでいたオスカルは、とっくにマチスモを乗り越えていたリーナとの恋愛を通じ、自分こそマチスモを体現していることに気づく。

 オープンエンドな結末である(先行研究でもそう解釈されている)。

リーナは前の恋人(子どもの父親)とひょんなことで再会し、関係を強要される。しかしリーナが男と会っているのをたまたま見てしまったオスカルは嫉妬に狂う。

その後、 飛行機に乗客が乗る場面が挿入され、リーナがサンティアゴへ帰ったようにも見える。しかし、オスカルの想像のようにも見える、はっきりとは確定できない場面である。

そしてオープンエンドであることを示すもう一つの理由。

劇中で演じられる劇は、フアン・カルロス・タビーオ(アレアの弟子)が制作した本物の演劇(La Permuta)である。この演劇もマチスモをテーマにしている。

(ちなみに劇中に流れるインタビュー映像も、本物の労働者へのインタビュー映像である。)

この演劇作品の最後は、主人公の女性が「台本」通りに演ずることを拒否して、台本を観客に向かって投げるところで終わる。つまり、あとは観客が決めなさいということだ。

この演劇の結末と重ねると、リーナとオスカルの結末は、映画を見た我々が決めなさいということだ。

映画の冒頭にはバスクの詩が引かれる。これは一つの結末を示している。


「Si yo quisiera, podría cortarle las alas y sería mía, pero no podría volar y lo que yo amo es el pájaro」

「できることなら、翼を切って自分のものにしてしまいたい、でも飛ぶことはできなくなるだろう。ぼくが愛していたのは鳥なのに。」

以下は余談。

映画のなかで、オスカルとリーナが高級ホテル「ハバナ・リブレ」で密会し、翌朝、オスカルがリーナをタクシーに乗せて自宅まで送る場面が出てくる。

このシーンを見たウェンディー・ゲーラはブログで、昔はこういうこともできたと言っている。つまりキューバ人が「ハバナ・リブレ」に泊まり、国内通貨でタクシーに乗ったりすることは、いまではありえないが、かつてはそうではなかったのだ、と。

[7月21日の追記:7月21日のエントリーを書くときに少し調べた結果、フアン・カルロス・タビーオの映画『交換します Se permuta』は、このエントリーの『ある程度までは』の劇中劇「La Permuta」が映画化されたのだということがわかった。制作年も同じ年(1983年)。ただ、両方ともが同じ内容のものだとは見ているときにはわからなかった。

2015年7月5日日曜日

フェルナンデス・レタマールの世界文学論(1)[7月11日修正]

読書メモ

Fernández Retamar, "Para una teoría de la literatura hispanoamericana"

・文学理論は後発であり、ラテンアメリカ(ここではスペイン語圏アメリカのこと)にはほとんど存在しない。文学史記述もまた20世紀に入ってから、最初は外国人によって書かれた。
 →Alfred Coester, Literary history of Spanish America, 1916.

・ラテンアメリカで最初の試みはコスタリカの研究者。
 →Roberto Brenes Mesén, Las categorías literarias, 1923.

・次ぐアルフォンソ・レイエスのEl deslinde: Prolegómenos a la teoría literaria(1944)は野心的。

・キューバ人ホセ・アントニオ・ポルトゥオンドは1945年Concepto de la poesíaを出版。これは大学へ提出した卒業論文だったが、副題の「Introducción  a la teroría literaria」は本にするとき削除。[この部分、7月11日に修正]

・これまで(このフェルナンデス・レタマールの論文が発表されたのは1972年)にラテンアメリカで書かれた唯一の理論書は以下のもの。
 Félix Martínez Bonati(チリ), La estructura de la obra literaria, 1960.

・そもそもどのようなものを文学理論とみなすべきなのか。学術書だけか?
 ラテンアメリカの場合、学術専門書や体系的な講義にとどめるべきではない。アルフォンソ・レイエスやポルトゥオンドはもちろんこと、エンリケス・ウレーニャやマリアテギなども入れるべき。さらに非ラテンアメリカの人びと、チェコやフランスやソビエトの研究者の著作も考慮するべきだ。

 さらに、作家たちの文章も考慮に入れるべき。ホセ・マルティ、ルベン・ダリオ、ボルヘス、カルペンティエル、レサマ=リマ、オクタビオ・パスなどなど。
 そもそも作家、批評家、理論家の仕事はラテンアメリカではあまり区別しないのが普通だ。(といっても、忘れてはならないが、作家の言う事を文字通りにはとるべきではない。)

・ラテンアメリカで書かれた文学理論書と、ラテンアメリカ文学理論書は区別するべきである。
 上に挙げた先駆的作品は「一般的な generales」文学理論書である。

・ポルトゥオンドはRené Wellek & Austin Warrenの「文学理論」を参照しているのだが、この理論書では「国民文学」研究にとどまらず、「ヨーロッパ的伝統」から論じられるべきとしている。

 しかしポルトゥオンドはここで、「ヨーロッパ的伝統」にのみ限定してはならず、「普遍的な universal」視点から研究するべきだとする。この点についてはWellekも同じような考えをしていたようで、Wellekも文学理論研究を、文学の原理や範疇、基準などを研究するものと定義している。

 そしてもっとも重要なこととして、レタマールがいよいよ指摘するのは、「そもそも理論研究が普遍的有効性をもつためには、文学が「普遍的」でなければならない」ということである。文学作品が普遍的でないときに理論を創出したとしても、それは個々の文学作品を通じて理論的実体が抽出されるというよりは、文学に対する理論の押しつけであり、となれば、それは理論ではなく、規範であろう。

・レタマールはここでゲーテを引く前にこう問うている。

「さてでは、そのような[普遍的な文学理論を抽出できるような]普遍的な文学、世界文学というものが、機械的な付加物ではなく、体系的な現実として、すでに存在しているのだろうか? 」

(続く)

キューバ映画(3)『疎遠』続き

映画『疎遠』の続き

この映画では、母の帰国から息子がボランティアに出発するまでの24時間を使って、革命のディスコースが提示される。


1959年以降の革命キューバのディスコースは「マルクス主義的近代」と呼ばれることがある。

この映画はそのなかでも、女性の役割について描いたものだとされる。

ブルジョア価値観を象徴するスサーナは母で、白人である。
革命価値観を象徴するアレイダは同士で、混血である。

母が連れて帰ってきた姪アナとレイナルドが二人だけで話す場面が長い。

再会場面では素っ気なかった二人だが、スサーナとアレイダがそれぞれ用事でいなくなると、アナとレイナルドが親密な関係にあることが示されて、どきりとさせられる。つまり、素っ気なかった再会は、実は見せかけ、あるいは照れ隠しだったのだ。

この長いシーンで、2人のキューバ人女性の作品が引用される。

ひとつはオマーラ・ポルトゥオンドの歌「20年 Veinte años」だ。

もうひとつは、ルールデス・カサルスの詩だ。

アナはレイナルドにとって幼なじみ。Intimacyそのものだ。

アナとレイナルドのあいだに、かつて恋愛関係があったこと、のみならず、母スサーナとの関係にも近親相姦があったかのような親密さが読み取れる。

最後、この2人と決別してレイナルドはボランティアへ出発する。 ブルジョア的価値観を背景にした親密さ、それはもう捨て去らなければならない。

しかし監督のヘスス・ディアスはこの映画のあと数年でキューバを去り、この映画をノベライズした『肌と仮面 La piel y la máscara』を出版する。同じようなストーリーながらも、キューバを出てから書いたこの小説はテイストが異なるのだ。ディアスの革命への考え方が変わったからだ。

この点についてはまたいつか。

2015年7月4日土曜日

キューバ映画(2)『疎遠 Lejanía』

アメリカとの国交回復ということで、もう一本、アメリカ、亡命を描いたキューバ映画を。

映画:『疎遠(Lejanía)』
監督:ヘスス・ディアス
制作年:1985年

レイナルドが16歳のとき、両親は親戚とマイアミに亡命した。

両親はレイナルドも連れていくつもりだったが、訳があって息子を連れて行けず、旅立つ。
 
それから10年が過ぎ、突如、母(スサーナ)が姪(アナ)とともに、1週間帰国するという。

連絡をもらったレイナルドは困惑する。

両親に捨てられたかっこうのレイナルドはグレた。盗み、アルコール、親戚との暴力沙汰……

そんな彼も、アレイダとその娘のアレハンドラと出会い、いまは新しい生活を築きつつある。昼は仕事、夜は学校へ行っている。

レイナルドは近々、ボランティアで地方へ3か月でかける予定だった。

母の突如の来訪に出発をどうするか悩む。

帰って来た母は、10年ぶりの家を見て驚く。

もとは豪華な調度品があったが、ほとんどなくなっている。埃だらけの作り付けの棚、簡素な部屋。聞くと、売ったとのことだった。金には困らないようにしてあったはずだが……

母は息子が離婚歴のある子持ちの黒人女性と結婚したことが気に入らない。

その会話を再現しよう。

母: アレイダはお皿洗わないの?
息子: いや、ぼくが洗って、彼女は料理をする。ぼくは買い物係で彼女は掃除係だ。
母:どうして離婚暦のある女の人と結婚したの?
息子:好きになったからさ。悪いの?
母:いえ、そうは言ってないわ。未婚の女の子ならよかったんだけど。
息子:もうそういうことは言わないんだよ。
母:彼女の仕事は何かしら?
息子:研究所で働いている。化学を専攻してる。
母:あら、そうなのね。あなたは子どもとは仲がいいのね。
息子:ああ、まるで自分の子のようさ。
母:ねえ、アレイダって黒人よね?(Aleida tiene pinta, ¿verdad?)
息子:黒人?
母:ちょっと黒いじゃない(medio mulatica)。
息子:それがどうしたの、ママ?
母:なんでもないわ。うちの家族にはいなかったから。
息子:うちの家族って……


10年のうちに息子は、すっかり「革命生活」に同化している。困難はあれども、革命を信じている。

母はそれが信じられない。

(続く)

2015年7月2日木曜日

キューバ、米国と正式に国交回復。ぴったりの映画『ハロー ヘミングウェイ』(キューバ映画1)

いまこそ見るべき映画。

キューバ映画『ハロー ヘミングウェイ』

原題:Hello Hemingway
監督:Fernando Pérez(フェルナンド・ペレス)
制作年:1990年

物語の設定は1956年。

公立高校に通う女の子イラリアの物語だ。

父親が逃げたために、生後間もなくイラリアは孤児院に預けられる。そのとき、出生証明書や洗礼証明書とは異なる姓で登録されたことが、あとあと響いてくる。

イラリアの母は、娘を孤児院から引き取ったものの、女中の仕事だけでは生計を立てられず、兄夫婦を頼ることにする。

こうしてイラリアから見て叔父夫婦との同居生活が始まる。そこには祖母と叔父夫婦の娘もいる。合計6人の所帯である。この家が、ヘミングウェイ邸のすぐ近く にあるという設定で、イラリアと従姉はヘミングウェイ邸に忍び込んでプールで泳ぎ、執事に睨まれ、ヘミングウェイには微笑まれたこともある。

祖母と母の協力でイラリアは高校に通うことができ、優秀な成績をおさめている。密かに思いの通じ合っている同級生ビクトルがいる。

イラリアはのちのちアメリカ合衆国の大学に留学したいと考え、先生に相談すると推薦状も得られ、審査を次々パスしていく。

アメリカへの留学に期待を寄せるイラリアは『老人と海』を読み進め、舞台となったコヒマルをビクトルや、もう一組の恋人たちと一緒に訪れたりする。

コヒマルへのダブルデートで行動をともにした友人役のエステラに、なんと現在は作家のウェンディ・ゲーラが起用されている(彼女については別のエントリーで触れた)。

前半はおおむねハッピー、ときにコメディタッチで展開する。プレスリーの歌を歌ったり、ヘミングウェイのブロマイドを部屋に飾るイラリア、イラリアの制服の布地を買うために大切な宝石を質に入れる祖母、従姉とのハバナ散歩などなど。

が、残念ながら後半は悲しい展開だ。

そもそもイラリアと母は、叔父夫婦宅に居候をしているようなもので、イラリアは、自分が穀潰しにすぎないことに気づいていく。哲文学部に進みたいと叔母と祖母に言うと大笑いされ、将来を考えてもっと実用的なことを勉強しろと言われる。

従姉には、早く学校をやめて働くように諭される。

アメリカ留学のことをビクトルに告げると、予想とは異なり喜んでくれず、結局、失恋する。

叔父マノーロが職(警察)を首になり、酔っぱらって帰宅したあと、家で大暴れして、家族に暴力をふるう。

居場所のないイラリアは住み込みで働いている母をたずねるが、その母からは「おまえに読み書きを教えたのは私だ」と恩着せがましいことを言われる始末。

いよいよ留学審査の最終面接の日が来る。周りは育ちのよいお嬢ちゃんお坊ちゃんばかりだ。その面接で、前述した姓の登録名が問題になり、担当の女性から、もう一通、しかるべき地位の人物からの推薦状が必要だと告げられ、合格は保留にされる。

保留とはいえ、イラリアに推薦状を書いてくれる人間が思い浮かばないのだから、事実上の不合格だ。

イラリアは思い切ってヘミングウェイを訪ねてみる。大雨のなか、崖をのぼり、苦労して玄関までたどりつく。しかし、応対に出た執事に、ご主人様はアフリカへ旅行中だと告げられ、最後の可能性は断たれる。

おりしも高校では自治会の再結成をめぐり、学生代表のビクトルは学校当局と揉めている。バティスタ政権末期で、革命運動が始まっており、カストロらの進軍の噂が高校生にも届いている。ビクトルの行動は革命運動と呼応するものだ。

イラリアは迷った末、ひとりで学校に入る。つまりビクトル派を裏切った。その後、ビクトルは警察に連行される。

高校を止めたイラリアは、結局、カフェの給仕係になる。

街は復活祭休暇で賑わうなか、イラリアは働いている。すると、アメリカ留学の審査官の女性がイラリアを認め、声をかけ、二言三言言葉を交わす。しかしイラリアは憤懣やる方ない様子で女を睨んだままだ。

奨学金は得られず、恋人も失ったイラリアはコヒマルの海辺で『老人と海』の一節を口にする……

さてこの映画におけるヘミングウェイとはアメリカ合衆国のことである。この映画は1990年に撮られている。冷戦が終わってキューバが苦境に陥ったときだ。

監督フェルナンド・ペレス(『永遠のハバナ』)は、そのときのキューバの状況にそくして、過去を参照しながら未来を思い描き、この映画を撮ったはずだ。いつかキューバはアメリカともう一度和解する、そのとき、キューバ人は言うだろう。「ハロー、アメリカ合衆国」と。

 映画から四半世紀が過ぎた。もはや「ハローヘミングウェイ(アメリカ合衆国)」は同じ意味をもたないかもしれないが、やはりキューバ人にとってアメリカは隣人なのだ。イラリアにとってヘミングウェイが隣人だったように。

2015年6月18日木曜日

キューバ文学(5)レサマ=リマ

キューバの文芸誌を整理していたら、「Unión」(2002年10-12月、48号)が出てきた。
表紙の写真はフリオ・コルタサル(左)とレサマ=リマ(右)。

真ん中にいるのが、この写真をセルフタイマーで撮ったチノロペ(Chinolope)。
チノロペはニックネームで、本名はギジェルモ・フェルナンド・ロペス・フンケー(Guillermo Fernando López Junqué)。中国系キューバ人の写真家である。

この表紙写真は1967年のもの(1963年という説もあるが、おそらく間違い)
レサマ=リマの代表作『楽園』(Paradiso)を激賞したのがコルタサルだった。『楽園』が出たのは1966年なので、1967年ごろにこの写真が撮られていて不思議ではない。昨年出たコルタサルの写真集には、別のカットが載っている。

撮影場所はハバナのプラサ・デ・ラ・カテドラルにあるレストラン「エル・パティオ」。


チノロペはコルタサルの写真をたくさん撮っている。



同じ「Unión」号の裏表紙にはウィフレド・ラム(左上)とビルヒリオ・ピニェーラ(右下)の写真。画家のラムも中国系である。




2015年6月17日水曜日

キューバ文学(4)ウェンティ・ゲーラ

キューバの現代作家ではウェンディ・ゲーラをなんとか紹介したいと思っている。

1970年生まれ。女優でもある。

彼女の出世作『みんないなくなる』(2006)が映画化されるらしい。

監督はコロンビアのセルヒオ・カブレラとのこと。

ゲーラのブログはこちら

彼女が亡き母(詩人アルビス・トーレス, 1947-2004)について、こう言っていた。

「Espero tu señal. エスペロ・トゥ・セニャル。」

意味は「お母さんの合図を待ってるからね。」

2015年6月15日月曜日

キューバ文学(3)ヘスス・ディアス

ヘスス・ディアスとレイナルド・アレナスの人生はあるときから分岐する(ラファエル・ロハス)。

ヘスス・ディアスは1941年にハバナに生まれ、2002年にマドリードで死んだキューバの作家、脚本家、映画監督、編集者。

ディアスの訃報は「エル・パイース」紙のこちら

レイナルド・アレナスは1943年にオルギンに生まれ、1990年にニューヨークで死んだキューバの作家。

アレナスの訃報は「エル・パイース」紙のこちら

ヘスス・ディアスは『困難の年月』(Los años duros, 1966)でカサ・デ・ラス・アメリカス賞。

レイナルド・アレナスは『夜明け前のセレスティーノ』(Celestino antes del alba, 1967)でUNEAC文学賞の佳作。

ヘスス・ディアスは1966年からキューバ共産党青年部機関紙「Juventud Rebelde」の編集長(別刷りの文化版)になる。この文化版は「El Caimán Barbudo」と呼ばれるようになり、多くの作家が寄稿する。

しかし、ディアスはあの1989年、奨学金を得てベルリンへ渡る。

チューリッヒでキューバの状況に関する討論会に出席して(エドゥアルド・ガレアーノもいた)、キューバに対する米国の経済封鎖と、カストロによる社会主義か死かの二者択一論法にも反対であると表明した。

この発言が知れ渡り、ディアスはキューバから追放され、 その後はマドリードで雑誌の編集に携わった。

追放されたときのキューバ政府の文書は改めて紹介したい。

ディアスの短篇「アラブのピアニスト」(El pianista árabe)はパリが舞台の、逃亡するキューバ人ピアニストの話(だったと記憶する)。こちらで読める。

2015年6月14日日曜日

キューバ文学(2)レオナルド・パドゥーラ

去る6月10日、キューバのレオナルド・パドゥーラがスペインのアストゥリアス皇太子賞(文学)を受賞した。

パドゥーラはカルペンティエルの研究書を出したこともある。1955年生まれ。

スペインの「エル・パイース」紙では受賞をこのように報じている。

この賞はいくつかの部門に分かれていて、Wikipediaで歴代の各賞受賞者がわかる

あの1989年のキューバをハードボイルド・タッチの推理小説として描いた下の4部作は残念ながら、一作も日本語になっていない。

『完璧な過去』(Pasado perfecto, 1991)
『四旬節の風』(Vientos de cuaresma, 1994)
『仮面』(Máscaras, 1997)
『秋の風景』(Paisaje de otoño, 1998)

 このなかでは、ゲイをテーマにした『仮面』が記憶に残っているが、作者は少し流行ものに手を出したと思っているようだ。

邦訳としてあるのは、この4部作と同じ主人公マリオ・コンデものの以下の小説。

『アディオス・ヘミングウェイ』(宮崎真紀訳)ランダムハウス講談社文庫、2007年。

また短篇では、「狩猟者」が「すばる」2004年11月号に載っている。

私が『仮面』を読んだのは、前世紀のこと、15年前くらいだ。あのころ、日本でキューバのハードボイルド小説に注目しようとした人はほとんどいなかった。

この小説が、(ソ連)帝国の崩壊を描いていることに気づけた人もほとんどいなかった(自分も含めて)。

2015年6月13日土曜日

キューバ文学(1)アントニオ・ホセ・ポンテ

キューバの今後を考えるときに必読の書。アントニオ・ホセ・ポンテの『さまよい人の心』(Antonio José Ponte, Corazón de skitalietz, 1998)

短篇「来る途中」(Viniendo)の冒頭、ほんの数行だけ引用しておく。


 「彼のルームメイトはオデッサから船に乗ってハバナに戻る方法を選んだ。考えられるかぎり、最も長い道のりだった。ルームメイトは国外にいる時間を引き延ばせば、旅の途中、海のどこかで、戻ることに何かしらの意味が見つかると思っていた。


 『帰り着く前に、たぶん遭難するよ』荷造りが終わって、ルームメイトは言った。『そうなったら、ちょっとした幸運だ』


 彼は学生寮の部屋で独りになった。
 

 寮は少しずつ空っぽになっていき、ついにアラブ人とキューバ人だけの小さなグループだけが残り、彼らはロシア語で話すのをやめ、それぞれの言葉に逃げ込んだ。

(中略)

 『流刑だな』と、彼は昨夜眠れずに思った。『ロシアに残るべきだった』

 しかし方法がなかった。」


留学先のソ連で、キューバ人はソ連崩壊に立ち会う。キューバ人にとって、それはある程度、祖国の崩壊を意味する。この物語はそのときのキューバ、キューバ人の「さまよい」を主題にしたものだ。

国などというものが永遠にあると思っている人がいるが、そうではない。

2015年6月6日土曜日

続々とアルゼンチンから

6月、アルゼンチンから日本にやって来る人たちのこと。

ラテンアメリカ文学研究者で、ラプラタ大学長年教鞭をとってきたホセ・アミコラさんが日本学術振興会の招きで来日中。

6月19日に東京外大で講演予定。講演題目は「アルゼンチン作家と日本文化」

http://www.tufs.ac.jp/event/general/post_644.html

 同じ週の16日には東大駒場で講演予定。


続いて、マリア・コダマさんの来日。
6月13日(土)、六本木のストライプハウス・ギャラリーで講演予定。

http://striped-house.com/after.html

6月18日(木)には東大本郷で講演予定。

さらに、月末にはアルゼンチン在住で、日系作家のアナ・カズミ・スタールさんも来日する。
早稲田大学や森美術館、東大でシンポジウムが企画されている。
森美術館のイベントは以下のとおり。

http://www.mori.art.museum/jp/nyu/index.html


2015年5月25日月曜日

スペイン人作家の来日

オスカル・バサン・ロドリゲスさんが日本にやって来た。

スペインのバジャドリード出身の作家で、1978年生まれ。

バジャドリード大学を卒業後、アメリカのシンシナティ大学で学んだ(スペイン文学で博士号)。現在、西インド諸島大学のトリニダード校で教鞭をとっている。

トリニダード・トバゴで知り合って、それが縁で、今度は日本で再会した。

彼の小説『El vendedor de mariposas(蝶々の行商人)』(2014)は、スペインのナダール賞の最終候補になったとのことだ。

授業で小説の一部を朗読してもらった。

どうして作家になったのか、という質問が出たときの答えが印象に残った。

「14歳のころから小説を書き始めたが、書いていると、自分のやらなければならないことをやっている気がする。書いていると気分がよい。お金にはならないことは知っている。そういうことのためではなく書いている。」



彼もラテンアメリカ文学を教えているので、授業でどんな小説を読んでいるのか、意見交換をしたりした。

今日のような大きな地震を体験したらどう言っていただろうか?


2015年5月18日月曜日

世界文学のなかのラテンアメリカ文学

ラテンアメリカ文学は「世界文学」に対してどうあるのか。どうあるべきなのか。

いくつかの論考が出ているが、重要なのは次の本だ。

Sánchez, Prado, Ignacio M.(ed.), América Latina en la "literatura mundial", Instituto Internacional de Literatura Iberoamericana, Universidad de Pittsburgh, 2006.

このなかの、Hugo Achugar(ウルグアイ)の論考あたりから読み始めてみた。

「世界文学」は比較文学の概念である。

内容についてはまた改めて。

2015年5月16日土曜日

二人のチリ作家によるパレスチナ

チリの作家リーナ・メルアーネの本をあげておこう。こちらが出版社のページ。

Meruane, Lina, Volverse Palestina, Literal Publishing, México, 2013.

メルアーネは2014年夏、マドリードにいた。

ニューヨーク大学に所属しているが、休みをとってマドリードで数ヶ月滞在中とのことだった。祖父、父からパレスチナの血を引く。母はイタリア系とか。

そのとき教えてもらったこの本がパレスチナもの。

そういえば、同じチリの作家に、1970年生まれという世代もまったく同じアンドレア・ヘフタノビッツ(Andrea Jeftanovic、Youtubeでインタビューを見ると、ヘフタノビッツと言っているように聞こえる)という人がいる。この人はユダヤ系。メルアーネと仲が良いらしい。「家系樹」という近親相姦が出てくる短篇が記憶に残っている。

ヘフタノビッツが書いたパレスチナ、イスラエル問題の記事はこのURLから読める。

2015年5月10日日曜日

朗読会

駒場にある日本近代文学館の「声のライブラリー」に出かけた。

伊藤比呂美さんの司会のもと、西成彦さん、栩木伸明さんの朗読がそれぞれ20分ほどあって、小一時間の座談会という流れ。

翻訳書の朗読というのを聞いてみたかったというのがあった。翻訳であるがゆえに、原典の作者は別にいるわけだが、日本語としての作者は翻訳者ということになる。

お二人ともそれぞれ自分で訳した本から読んでいた。ストーリーの展開や登場人物などは、読んだことがあっても聞いているだけではどんな話だったか思い出せないとはいうものの、なんとなく、ところどころ頭にヒットする単語や表現があるもので、おそらくそういうところは文字を追っていたときのとは違うはずだ。

座談会でも翻訳という行為の話題に流れていった。お二人とも、翻訳に先立って、テキストから「声が聞こえてくる」ということを言っていた。そういう感覚はよくわかるような気がする。外国語の本を読んでいるときに、声が聞こえてきて、あ、このまま訳したいな、という感覚。自分のなかでは、文学、つまり読書を中心とする生活のなかで、最もシンプルで楽しい感覚だ。

それぞれの専門がヨーロッパの中心にあるのではなく、ポーランドとアイルランドという周縁地域にあったこともよかった。そういう地域にかかわることの倫理的問題と難しさについてもさらりと触れていて、なるほどと思うことが多かった。

文学(世界のさまざまな地域の詩、文学、エッセイ、文章表現一般)について考えること、文学が好きになることが、比較的穏やかな、のんびりとした話の展開のなかで出てきて、正直なところ、こういう雰囲気って忘れていたなあという思いである。


翻訳について思ったことだが、翻訳者が日本語としての作者にどれだけ重みをおけるのかというのはなかなか難しい。作者が日本語で書いていたとしたら、こういう日本語になっただろう、という気持ちで訳したりするわけだが、実際に確かめられるわけではない。そういうある種の責任感覚に耐えられなくなったりするときもないわけではない。原典にたいして奴隷になる感覚さえもあるだろう。

翻訳者というのは、いったん翻訳書が世に出たら、果てしない疑念と信頼のなかで綱引きされる綱のようなものである。

疑念と信頼は原書で読んでも生まれることなので、実は翻訳に限ったことではない。

そもそも本に書かれていることを理解することとはどういうことなのか、確実性と不確実性のゆらぎが翻訳を考えるとわかってくる。

2015年5月4日月曜日

ドミニカ共和国から

ドミニカ共和国の作家の

 Indiana, Rita, La mucama de Omicunlé, Editorial Periférica, 2015.

作者リタ・インディアナは1977年、サント・ドミンゴ生まれ。これまでに短篇集を2冊(Rumiantes, Ciencia succión)、小説を2冊(La estrategia de Chochueca, Papi)を出している。Wikipediaにはもう1冊(Nombres y Animales)載っているが、それがどういうものかはわからない。

彼女は音楽もやる。歌手でもあり作曲もする。アルバムはEl juidero(意味はわからない)。

Youtubeはたくさんあるが、たとえば、そのEl juideroという曲。

La mucama de Omincunléは短篇集のような体裁に見えるが、連作短篇のようなものなのかもしれない。冒頭は、近未来ドミニカ共和国といった感じで、マンションからハイチ難民を駆除していく様子が描写される。女中(mucama)が目に設置されたセキュリティカメラにスイッチを入れたり、腕を指で触るとアプリが立ち上がるというような。

ドミニカ共和国からは、Kindle版で以下のような本もある。

Fornerín, Miguel Ángel, Tú siempre crees que viene una guagua(君はいつもバスが来ると思っている).
---, Las palabras sublevadas.

上はフィクションで、下は評論。

2015年5月2日土曜日

プエルト・リコからの本

キューバの話ばかりではいけない。プエルト・リコの本の話をしよう。全部で4冊。

ひとつめ。

Martínez-San Miguel, Yolanda, Caribe Two Ways: Cultura de la imigración en el Caribe insular hispánico,  Ediciones Callejón, 2003.

著者はマルティニークとプエルト・リコの近似性についての論文をどこかで書いていて、それ以来気になる存在である。

最近もウェブ雑誌「80grados」で「カリブで記憶することの困難」という文章を発表している。グレナダ、グアドループ、キューバに関することがとりあげられている。

グレナダの革命に関する記憶、グアドループにおける記憶のハイキング、そして近年のフィデル・カストロの視覚イメージについて、Yolandaさんが読んだ本などを通じて紹介しながら情報を補ってくれている。グアドループの「記憶のハイキング」とは、歴史的親密性の感覚を生み出すために民衆のあいだで行なわれているものらしい。

いずれも、カリブにおけるアーカイブ欠如の問題をどのように乗り越えるかということが問題になっている。

いっぽう、『Caribe Two Ways』では、スペイン語圏カリブ3島(プエルト・リコ、キューバ、ドミニカ共和国)のエクソダスによって生まれた移住文化(la cultura de la migración)が記述されている。

エクソダスは必ずしも島からアメリカ合衆国へ向けてとは限らない。キューバ人のプエルト・リコへの移動も含まれている。

タイトルにあるように、「二方向」に留意しなければならない。

素材となるのは、文学、映画、写真、音楽、グラフィティ、造形芸術である。

 ふたつめ。

Rodríguez Juliá, Edgardo, Mapa desfigurado de la Literatura Antillana, Ediciones Callejón, 2012.

この人もほかにたくさん著書があって、どれもプエルト・リコ、カリブの文学、文化をテーマにしている。やはりマルチニークの存在を含めてプエルト・リコを論じようとしている。

この本は評論集で、ぱらぱらめくるとカリブのみならず、ラテンアメリカ文学についての話もけっこう載っているので、比較的軽めの本と見てよさそうだ。

三つ目として、その彼の以下の大作。

Rodríguez Juliá, Edgardo, Caribeños, Editorial del Instituto de Cultura Puertorriqueña, 2002.

巻頭の「Puerto Rico y el Caribe」では、かつての投稿で紹介したフランシスコ・オジェルの絵「El Velorio」を論じている。オジェルを論じてはいるが、絵画論ではなく、プエルト・リコのことをカリブのなかで考える貴重な試論だ。

「1898」というタイトルの短いクロニカもある。

最後。

Pabón Ortega, Carlos, Polémicas: política, intelectuales, violencia, Ediciones Callejón, 2014.

この本は、知識人論への関心から欲しくなったものだ。目次をみたところ、時評集といったもので、プエルト・リコ大学の危機に端を発しての大学論、知識人論、暴力についてのジャーナリズム論集である。

2015年4月26日日曜日

ロシア生活百科事典とシベリアの女

キューバ人作家によるソ連ものの本が二冊届いた。

ひとつはホセ・マヌエル・プリエト(1962〜)の本である。

Prieto, José Manuel, Enciclopedia de una vida en Rusia, Mondadori, Barceona, 2004.

1997年に初版が出ているようだ。170ページほどの本。

日本語に訳せば、『ロシア生活百科事典』となる。実際、アルファベット順でAからZまでの項目が立っている。

Aの項目にあるのは、Ábaco, Aglaia y Mishkin, Aldea, Aqua vitaeの四つ。

Bの項目にあるのは、Babionki, Baden Baden, Biblioesfera, Bogatir, Boogie shoes, Bosques de coníferas, Brillant corners, Brodiaga。

本当は項目を一つくらい翻訳しようと思った。しかし読んでみて、ロシア語が頻出するので、一筋縄ではいかないことがわかった。項目に上がっている単語すら何のことなのかわからない。ロシアの地名、作家名に限らず、ロシア語を、普通のアルファベットに置き換えたと思われる単語があちこちにちりばめられている。

たとえば、My zhibiom pod soboyu nie shuya strani.とある。

この文の場合、あとにスペイン語で、Vivimos sin sentir el país bajo nuestros pies.とあるので、「我々は足下に国があるのを感じないで生きている」という意味なのだろう。

ぱらぱらめくった限りでは、舞台はサンクトペテルブルク、時代は1991年、外国人男がロシア女性と出会うという物語が断片化されて書かれていることがわかる。

 もう一冊は、ヘスス・ディアスの本。1941年ハバナに生まれ、2002年にマドリードで死んだ作家。

マドリードでは、亡命キューバ人雑誌『Encuentro de la cultura cubana』を立ち上げ、編集人をつとめていた。

亡命前は、作家としても映画監督としても活躍していた。小説では『Los años duros』(1966)が革命派の作品として知られている。亡命したのは1989年前後だったはずで、その後、『La piel y las máscaras』などの作品がある。経歴を見たら、ハバナ大学やベルリンの映画学校で教えていたことがあることがわかった。

その彼がソ連ものを書いていて、それが今回届いた本。

Díaz, Jesús, Siberiana, Espasa Calpe, Madrid, 2000.

裏表紙の内容紹介によると、キューバの黒人が鉄道建設のルポを書こうとシベリアに赴き、出会ったスペインとロシアのハーフの女性に恋に落ちるというものだ。『シベリアの女』はそのハーフの女性を指すのだろう。ディアスは1977年にシベリアに足を運んでいる。

小説は、ツポレフ140に乗って、ハバナを出発してモスクワに向かうシーンから始まる。