2015年7月31日金曜日

フェルナンデス・レタマールの世界文学論(3)

(続き)

レタマールは、そのときまでに書かれた文学理論が結局、書き手になじみのある文学に由来するものであって、アリストテレス、ロシア・フォルマリズム、チェコ構造主義、スペイン文体論研究、北米の新批評、ルカーチ、ブレヒトなどによる「普遍的」理論は、書き手が選んだ「ある特定の文学」によって描き出されているのだと指摘する。

以下、レタマールの考えの要約。

ラテンアメリカ文学理論は、他の、とくに宗主国の文学によって鍛えられた文学論を移植してできるものではない。

そういった宗主国の文学理論というものは、我々が苦しんできた文化的植民地主義のもう一つのあらわれであり いまだに我々は政治・経済的植民地主義の後遺症に苦しんでいる。

というわけで、我々が直面する最初の問題は、宗主国の文学とは異なる現実としてラテンアメリカ文学が存在するのかどうかということだ。そしてこの問題は、「ラテンアメリカ」というものがあるのかどうかという文学外の問題に我々を連れてゆく。

ラテンアメリカ文学の存在は、まずもって「ラテンアメリカ」が存在するか否かにかかっている。

ラテンアメリカがスペインの植民地であるかぎり、真のラテンアメリカ文学はなく、それはアメリカ大陸におけるスペイン文学、地方文学である。

ラテンアメリカの独立が、ラテンアメリカ文学の存在にとって必須条件である。しかしこの独立とやらが薄っぺらだったから、マリアテギが言うように、ラテンアメリカ文学はスペイン文学のままであり、言ってみれば植民地文学なのだ。

ホセ・マルティによれば、ラテンアメリカの作品はあるが、体系として、一貫したものとしてのラテンアメリカ文学というのは、自立した世界としてラテンアメリカがないかぎりは、存在しない。

ブルジョワ的企図のなかでラテンアメリカが存在することはない。というのは、我々の国々は政治・経済・文化的にスペインから独立したが、それは結局、イギリス、アメリカによって支配されるためであった。そのことが19世紀の後半に分かっていたのはホセ・マルティだけである。ダリーオは分かっていなかった。

マリアテギは文学の発展段階を次のように見ている。
①植民地期
②コスモポリタン期
③ナショナル期

マリアテギは、モダニズムによって、ラテンアメリカの文学がコスモポリタニズムに突入したと見ている。

しかし、モダニズム以前の、「モデルニスモ」をもってラテンアメリカ文学はコスモポリタン期に入ったという見方もできる。

コスモポリタン期に入ったことは、ラテンアメリカが現代世界(el mundo moderno)に参入したことを意味する。

現代世界とは、レーニンの言う資本主義の最高の段階(『帝国主義論])のことであり、アメリカ帝国主義がラテンアメリカ、キューバを襲った。

ダリーオやロドーはラテン的伝統を持ち出すことによって、ラテンアメリカの現実を擁護しようとした(レタマールはダリーオ、ロドーに対してはやや否定的)。

コスモポリタン期がモダニズム期にまで継続したかどうかは見方が分かれる。マリアテギ、セサル・バジェホ、ネルーダ、ギジェン、カルペンティエルらはすでにモダニズム期は、ラテンアメリカにおける「ナショナル期」であると見なしている。そのナショナルとは、「ラテンアメリカ・ネイション」である。

しかしそのネイションはブルジョア的企図のもとではなく、社会主義革命によってのみ実現する。キューバ革命はその実例の一つである。

 ペドロ・エンリケス・ウレーニャはすでに1926年にラテンアメリカ文学が隆盛を迎えることを予告していた。そして1972年にはマリオ・ベネデッティがそのことを確認している。

カルロス・リンコン(コロンビア)、ネルソン・オソリオ(チリ)といったマルクス主義批評家がラテンアメリカ文学理論の不在をなげいている。

社会主義革命が進行しつつあるいま、ラテンアメリカ文学の境界線を定め、特徴を記述する必要がある。ラテンアメリカ文学理論が必要な時代である。

西洋の伝統もまた我々の伝統であるが、その伝統に関して、ラテンアメリカ特有の差異を指摘しなければならない。 ラテンアメリカ文学理論の創出こそ、いま我々が集団で取り組まなければならない課題である。

要約は以上。

この試論では、レタマールが考えるラテンアメリカ文学理論については展開されていないのが残念だ。また、キューバ革命を端緒として、今後ラテンアメリカに社会主義革命が続発していくことが前提になっている。1972年の講演であるという時代的制約、そしてイデオロギー的硬直と限界があることは確かだ。

しかし、ゲーテや『共産党宣言』で述べられている「世界文学」を批判するときのポイントは、現在のカサノバなどの「世界文学論」を批判するときにも使えそうだ。たとえば以下のような。

・文学理論の「普遍性」とは、当該理論家の恣意的な選択による「普遍」でしかない。
・ヨーロッパ中心主義の「普遍」には要注意だ。宗主国のものだからだ。
・ラテンアメリカは「資本主義の最高の段階」、すなわち帝国主義が訪れた地域である。
・ラテンアメリカの文学は植民地期からコスモポリタン期、そしてナショナル期という流れをたどっている。そのことを踏まえたラテンアメリカ文学理論が必要である。
・ 世界の文学は、世界がひとつではないことが明らかである以上、同質のものではないことに留意するべきである。
・ラテンアメリカ文学は西洋の伝統を含みつつ、異なった様相を呈している。

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