駒場にある日本近代文学館の「声のライブラリー」に出かけた。
伊藤比呂美さんの司会のもと、西成彦さん、栩木伸明さんの朗読がそれぞれ20分ほどあって、小一時間の座談会という流れ。
翻訳書の朗読というのを聞いてみたかったというのがあった。翻訳であるがゆえに、原典の作者は別にいるわけだが、日本語としての作者は翻訳者ということになる。
お二人ともそれぞれ自分で訳した本から読んでいた。ストーリーの展開や登場人物などは、読んだことがあっても聞いているだけではどんな話だったか思い出せないとはいうものの、なんとなく、ところどころ頭にヒットする単語や表現があるもので、おそらくそういうところは文字を追っていたときのとは違うはずだ。
座談会でも翻訳という行為の話題に流れていった。お二人とも、翻訳に先立って、テキストから「声が聞こえてくる」ということを言っていた。そういう感覚はよくわかるような気がする。外国語の本を読んでいるときに、声が聞こえてきて、あ、このまま訳したいな、という感覚。自分のなかでは、文学、つまり読書を中心とする生活のなかで、最もシンプルで楽しい感覚だ。
それぞれの専門がヨーロッパの中心にあるのではなく、ポーランドとアイルランドという周縁地域にあったこともよかった。そういう地域にかかわることの倫理的問題と難しさについてもさらりと触れていて、なるほどと思うことが多かった。
文学(世界のさまざまな地域の詩、文学、エッセイ、文章表現一般)について考えること、文学が好きになることが、比較的穏やかな、のんびりとした話の展開のなかで出てきて、正直なところ、こういう雰囲気って忘れていたなあという思いである。
翻訳について思ったことだが、翻訳者が日本語としての作者にどれだけ重みをおけるのかというのはなかなか難しい。作者が日本語で書いていたとしたら、こういう日本語になっただろう、という気持ちで訳したりするわけだが、実際に確かめられるわけではない。そういうある種の責任感覚に耐えられなくなったりするときもないわけではない。原典にたいして奴隷になる感覚さえもあるだろう。
翻訳者というのは、いったん翻訳書が世に出たら、果てしない疑念と信頼のなかで綱引きされる綱のようなものである。
疑念と信頼は原書で読んでも生まれることなので、実は翻訳に限ったことではない。
そもそも本に書かれていることを理解することとはどういうことなのか、確実性と不確実性のゆらぎが翻訳を考えるとわかってくる。
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