2016年5月25日水曜日

キューバ文学(24)反帝国主義文学に向けて Part3(メモ)

かつてキューバで撮った写真をもう一度見直した。

カルデナスへ行ったときのものだ。マタンサス州カルデナス。この街はひとりの作家を生んだ。

ハバナから車で2時間ぐらいかかったように記憶する。とても退屈な自動車専用道路だった。行きだったか、帰りだったか、途中で外貨で物が買えるスーパーマーケットに寄った。思い出してみると、行動はとてもアメリカ風だ。道路の右を見ても、左を見ても、何もない。何かがあるのは確かなのだが、何も記憶されない。いったい何があったのか。海はあった。海辺を離れてからの記憶がない。その作家が書いた短篇を思い出した。

その街で日本語が店名になっているレストランに入ったあと、街の中心部に入った。バラデロからの観光客と思われる白人が馬車に乗っていた。石畳、中央広場、教会。真っ青で、雲一つない空を覚えている。教会の正面にコロン像が立っていた。

カルデナスにある街の博物館は、***** *******をめぐって起きた政治的事件の記憶を管理する場所だった。当人のTシャツやその他がガラスケースに入って並んでいた。彼はこの街の出身だったのだ。

博物館の最上階は図書館だった。すっきりとした街の図書館といった風で、人気はなかった。

本屋にも立ち寄り、作家の名前を口にしてみたが、その作家のことは知らないようだった。

その作家と*****が同じ街の出であることが、今になってみると、理にかなっている。二人はまったく違う道を歩んだ。しかしその道筋はカルデナス出身者であるがゆえの軌跡である。

石畳の港町カルデナスは「反帝国主義文学」の足場だったのだ。この街で暮らし、紆余曲折の末に舞い戻った*****。「反帝国主義公園」設立のきっかけを作った彼。

この街で暮らし、やがて出て行き、遺灰になるまで戻らなかったとある作家。彼の作品は多文化主義的な帝国主義文学に抗するものとして読まれうる。もう一つの「世界文学」=世界は一つではない。

2016年5月21日土曜日

キューバ文学(23)反帝国主義文学に向けて Part 2

キューバの文学、あるいはキューバで書かれる批評を読むこと。それを通じて考えさせられることは「商業出版」の意味だ。

果たして現在の「商業出版」は将来的に見て、受け手の私たちにとって豊かな可能性を持っているものなのだろうか。前回のエントリーで触れた、現在行なわれつつある「祝祭」としての出版状況はどれくらいの場所まで私たちを運んでいくのかを想像しておきたくなる。

いま大学院で読んでいるのは以前のエントリーで紹介したホルヘ・フォルネーの評論である。批評家の彼の本はキューバで手に入れたが、この本は海外では流通していないだろう。フォルネーは1963年生まれで、ハバナ大学とコレヒオ・デ・メヒコ(メキシコ大学院大学)で学んだ。

彼の「ラテンアメリカ文学」への批評には「商業」とは無縁の立場だからこそ書かれ得る冷静さと客観性と深さがある。この点については別のところで書くことにしたいが、ひとまず彼の批評を読む価値のあるものと認めるとしたら、その彼がキューバの「カサ・デ・ラス・アメリカス」に所属していることと無関係にはできない。「カサ・デ・ラス・アメリカス」にいることは革命文化・文学の最前線にいることを意味しているからだ。

商品としての文学、あるいは商業出版から考えたときに、ホルヘ・フォルネーの本にはどのような価格がつけられるのだろうか。その価格は何に対する対価なのだろうか(彼の何冊かの本は海外の出版社から出ているという事実はある)。

先月、何回かのエントリーでキューバで入手したカリブ文学の作品を紹介してきた。これらの本のほとんどは「カサ・デ・ラス・アメリカス」が出版してきたものだ。このような作品に値段はついているが、ほとんど「ただ」に近い価格だ。ここには、人類の財産としての文学を公刊(publish=パブリックなものとする)するという意志がある。出版社というよりは、編集と印刷を一旦任されたエージェント(代理人)のようなものと考えたくなる。

ここでいうエージェント(代理人)は著作権についての交渉をおこなう出版エージェントやアメリカの大リーグにいる交渉人のような、個人(ほとんどの場合大物である)の権利(というよりは利益)の保護だけを主張するものではない。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」はエージェントとしての価値を高めるために自らを「マーケット」にさらしだしたりしない。「マーケット」とは別の論理のなかで、研究者、作家、翻訳家、批評家が、「商業出版」と切り離されたところで文学システムを構築しようとすること。それを実践しているのが「カサ・デ・ラス・アメリカス」だ。

古典としての価値がある作品であれ、現在書き続けている作家のものであれ(たとえば手に入れられなかったマリーズ・コンデなど)、「カサ・デ・ラス・アメリカス」が出版するたとえば「ラテンアメリカ・カリブ叢書」の必要にして過剰ではない作品群を眺めてみると、いかに現在の欧米・日本の文学が欧米多国籍出版企業の推進する「多文化主義的帝国主義」と仲良くしていることがわかる。

もちろん「カサ」の方針にも文句をつけたくなるところはある。たとえばアジアやアフリカの作家の叢書計画はどうなっているのかということだ。やはりこの組織が、スペイン語というヨーロッパ・メジャー言語だけが維持できるマーケットの価値に寄り掛かっていることは認めざるを得ない。

その点はあるにしても、「商業出版」という、ほとんどの文学を成り立たせてしまっている昨今のシステムを思うと、キューバが備えている反帝国主義文学としての「カサ・デ・ラス・アメリカス」のことが頭によぎって仕方がない。ホルヘ・フォルネーはキューバという立ち位置から商業出版の流れに抵抗しようとしている代表的人物のように見えるのだが、その点についてはまた次回のエントリーで触れることにしたい。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」の叢書を、「革命理念」の記念碑として読むことは可能だとして、ではそれはどのような場所で読まれているのだろうか?

ボラーニョもハルキ・ムラカミも出版されないキューバだからこその文学環境についてはまた改めて考えたい。

(この項、続く)  


キューバ文学(22)最近の本(メモ)

最近入手している本についてだけ列挙しておく。

キューバがらみでは以下の3冊。

Benítez Rojo, Antonio, Mujer en traje de batalla, Alfaguara, 2001, Madrid.

この本は先日のキューバ滞在で知ったもの。21世紀に続々と生まれた潮流「新ラテンアメリカ歴史小説」群の一冊。ベニーテス・ロホの本はキューバでもほとんど手に入らないという。

次は『カラコル・ビーチ』 。エリセオ・アルベルトもこの世を去って何年になっただろうか? 父エリセオ・ディエゴの詩を昔読んだものだが。

Alberto, Eliseo, Caracol Beach, Alfaguara, 1998, Madrid.

とっくに持っているものと思っていたが、見つからなかったので注文した。内容はすでに日本語でも紹介されたことがある。

Alvarez-Borland, Isabel, Cuban-American Literature of Exile, University Press of Virginia,1998.

これは研究書。2年前に環カリブ研究会で発表したキューバ出身の亡命作家ロベルト・フェルナンデスについての論文が入っている。今後はAchy Obejasについてもっと調べておかないといけない。

以下はラティーノ作家に関する論集なので、内容は改めて紹介する。

Caulfield, Carlota and Darién J. Davis, A companion to US Latino Literatures, Tamesis, 2010(2007), New York.

(この項、続く)

2016年5月8日日曜日

人類学と文学

前のエントリーでコロンビアのロス・アンデス大学出版の出版物に触れたが、この出版社が気になったのは、以下の本が最初だった。

Ferreira de Almeida, María Cándida, and Diego Arévalo Viveros (comps.), Escribir al otro: Alteridad, literatura y antropología, Ediciones Uniandes, Bogotá, 2013.

「他者を描く」という点で、人類学(民族誌)と文学(小説)は共通するテーマを持っているが、それが抱える問題群についての論文集。2009年に行なわれた人類学のシンポジウムを元にしている。

人類学者による試論がいくつかと、文学研究者によって、先住民を描く文学作品が論じられている。編者のフェレイラ・デ・アルメイダさんはブラジル人と思われる。彼女の論文はギマラエンス・ローザの作品を扱ったものだ。ほかにコロンビアやペルーの「先住民小説」を論じたものがある。

この本のなかで挙げられている文献のなかに、マドリード・コンプルテンセ大学の「Revista de Antropología Social(社会人類学誌)」があって、その17号の特集が「人類学と文学」になっている。

そこには未読だが、興味深い論文が載っていた。題して「1930年のハバナーー人種と文化のあいだのロルカ」。著者はAnke Birkenmaier。

ロルカが1930年にキューバに渡った時のことを主題化した論文である。

(この項、続く)

2016年5月7日土曜日

ラテンアメリカ文学と翻訳

ラテンアメリカ文学と翻訳についての本2冊

Balderstron, Daniel, and Marcy E. Schwartz (ed.), Voice-Overs: Translation and Latin American Literature, State University of New York Press, 2002.

3部構成

第1部には、ラテンアメリカ作家たちの「翻訳」についてのエッセイが載っている。
ボルヘス、コルタサル、ガルシア=マルケス、ロサリオ・フェレ、ジュノ・ディアス、ドルフマン、ピグリアなど。

第2部は、翻訳者からの発言。『百年の孤独』の翻訳者(Gregory Rabassa)、カブレラ=インファンテの翻訳者(Suzanne Jill Levine)、ソル・フアナの翻訳者(Margaret Sayers Peden)など。

第3部は、批評的アプローチの部。ジェラルド・マーティンやホセ・キローガ、エドムンド・パス・ソルダン、ヴィッキー・アンルーなど。

この本を見つけたのは、コロンビアのロス・アンデス大学出版から出た以下の本がきっかけだった。

Goenaga, Francia Elena (comp.), Poéticas de la traducción, Bogotá, Ediciones Uniandes, 2012.

こちらは2部構成

第1部は、英語や仏語のスペイン語への翻訳者による/についての論考。詩の翻訳についての話が多い。詩は詩人によって翻訳されるべきか?など。

第2部は、文芸誌における翻訳文学の状況。「Mito」と「Eco」というかつてのコロンビアの主要文芸誌をめぐっての論考。

(この項、続く)