2019年9月24日火曜日

[追記2020年2月8日]フランス語のニコラス・ギジェン/モンパルナス墓地のコルタサル

フランス語版のギジェンはもっていなかったので、入手した。

2016年に出た以下の本はClaude Couffonによる校註版。

Nicolás Guillén,  Le Chant de Cuba : Poèmes 1930-1972, Le Temps des Cerises, Montreuil, 2016.



下の写真は2019年9月のモンパルナス墓地のコルタサルとキャロル・ダンロップ。

8年前(2011年2月)に来ているから無理して行くことはなかったのだが、行ってみると、8年前にはなかったアウロラ・ベルナルデス(2014年没)もここに眠っていることがわかった。こういうこともあるんですね。


[2020年2月8日の追記]
2011年2月のモンパルナス墓地の写真が見つかった。2月27日に訪れていることがわかった。


2011年の段階では、手前の方に四角い空洞がある。アウロラ・ベルナルデスの埋葬後はそこが埋められ、上の写真のように何かしらの文章が書かれ、彼女の名前と生没年が右に刻まれている。つまり、もともとアウロラが入る予定だったということなのか?

その後、さらにネットで検索して、新しく刻まれた文章を調べたら、以下のようなものだった。

Estimados admiradores de Julio Cortázar y de su obra
gracias por respetar la claridad
y la calma de esta tumba.

ま、要するにたくさんの人が訪れているので、場合によって汚されたりうるさかったりするから、そういうのはやめようね、ということだ。

2019年9月17日火曜日

ロルカとキューバ(再び)

この夏、鼓直さんの仕事を見直す機会があり、その中ではレイナルド・アレナス『めくるめく世界』がやはり貴重だと思っていたが、ふとそのときにロルカの詩集『ニューヨークの詩人』のことも、キューバがらみということで思い出した。

この詩集は色々な意味で貴重なのだが、ロルカとキューバといえばこんな本があったのを忘れていた。


Miguel Iturria Savón(selección, prólogo y notas), Miradas cubanas sobre García Lorca, Renacimiento, Sevilla, 2006.

この本はロルカのキューバ滞在を振り返ったもので、書いているのは編者を除けば当時を知る人が多い。

José María Chacón y Calvo(ホセ・マリア・チャコン・イ・カルボ)
Juan Marinello(フアン・マリネーリョ)
Emilio Ballagas(エミリオ・バジャガス)
Lino Novás Calvo(リノ・ノバス・カルボ)
José Lezama Lima(ホセ・レサマ・リマ)
Nicolás Guillén(ニコラス・ギジェン)
Dulce María Loyonaz(ドゥルセ・マリア・ロイナス)

そしてGuillermo Cabrera Infante(ギジェルモ・カブレラ・インファンテ)。

ニューヨークのハーレムに絶望してハバナで歓喜したロルカ。

歓喜したのはロルカだけではなく、ハバナもそうだった。

アンダルシアの境界線はハバナにある。
アンダルシアの詩人が港にあらわれると、
街路は歓喜にあふれ、バルコニーの
どの植木鉢も、急にゼラニウムの花を
咲かせたのである。
       (ガストン・バケーロ)


2019年9月16日月曜日

ワユーの文学

コロンビアとベネズエラの先住民文化ワユー(グアヒラ)の文学資料集が手に入った。

Juan Duchesne Winter(compilador)、Hermosos invisible que nos protegen: Antología Wayuu, Universidad de Pittsburgh, Pittsburgh, 2015.


本の紹介ビデオがYoutubeに映像が上がっていた。こちら

2019年9月15日日曜日

マヤコフスキーとアメリカ(3)

その後、マヤコフスキーのアメリカ紀行の日本語版を眺めてみた。

マヤコフスキー『私のアメリカ發見(鹿島保夫訳)和光社、1955年。



マヤコフスキーはディエゴ・リベラの案内でメキシコシティを見聞していく。

「わたしたちは、駅からホテルにいき、手廻り品をほっぽり出しておいてメキシコ博物館へ出掛けた。ディエゴは、数百の崇拝者たちに答えて挨拶をおくり、親しい人たちと握手を交し、反対側を歩いている人たちと大声で叫びあいながら、黒雲の勢いで歩く。わたしたちは古代絵画や、円形絵画や、石版画や、メキシコのピラミッドのなかから発掘されたアッテカ人(古代メキシコ人)の暦や、面が二つあって一方の顔がもう一つの顔と並んでいるといった風の偶像を見た。わたしたちはこれらのものを展観したが、それはわたしには無駄なことではなかったと思う。パリ駐在メキシコ大使で、メキシコの有名な短篇小説家であるライエス氏が、わたしに今日のメキシコ芸術のイデーが、ヨーロッパから導入された亜流折衷主義的諸形式でなくて、古代の種々雑多な荒けずりな芸術から出発していることを、早くも前もって教えてくれていたのである。このイデーは、植民地奴隷の闘争と解放のイデーの、自覚された部分には、おそらくまだなっていないようだが、しかし、その一部分ではある。粗野で特徴的な古代美術と最新のフランス近代絵画とのコンビネーションをディエゴは、メキシコ文部省の全建築物の壁画という、まだ完成を見ていない仕事のなかでもくろんでいる。それは、メキシコの過去・現在・未来の歴史を描いた数十枚の壁画である。自由な労働、古代の風俗、とうもろこしの祭り、死と生の魔神のダンス、自然からあたえられた果物と花の贈物などが描かれている原始的な天国の図。」(32-33頁)


ディエゴとマヤコフスキーが訪れた「メキシコ博物館」は、おそらく今の国立人類学博物館のことだろう。

「メキシコの有名な短篇小説家であるライエス氏」とは、メキシコの文人アルフォンソ・レイエス(1889-1959)のことである。なるほどマヤコフスキーはパリでレイエスからすでにレクチャーを受けていたわけである。

「アメリカ風のカフェ〈サンボーン〉の巨大な建物は、外庭の上に硝子屋根をつけて組立てられたもので、ただそれだけのものである。」(45頁)

「サンボーン」とは「Sanborns」というチェーンのカフェだが、1903年から開業しているということで、なんとすでに100年以上の歴史があるのだ。

「メキシコ・シティは、自動車事故の件数からいって世界一の都市である。」(49頁)

これもまた驚くには当たらない表現だが、すでにこのときからそうだったのだ。



2019年9月14日土曜日

溢れ出る新しい過去、今だから言える過去

1960年代、70年代のラテンアメリカ文学がどのようなエピソードに満ちているのかを若いジャーナリストが調べて書いた。

著者は1969年生まれ、バルセロナ出身。年齢と場所を生かした、古いけれども新しい「あのブームの時代」の語り直し。

この本は、2014年に最初の版が出たのだが、その後新しいデータなどが発見されたので、この2019年に改訂版が出た。最初の版を見ていないのだが、こちらは560ページもある。

鈍器とまでは言わないが、分厚い。

有名な写真(カルロス・バラル、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサが写っているものとか)も収められているが、著者が2005年にメキシコのガルシア=マルケスを訪問した時のスナップ写真とかもあったりする。

Xavi Ayén, Aquellos años del boom: García Márquez, Vargas Llosa y el grupo de amigos que lo cambiaron todo, Debate(Penguin Random House Grupo Editorial), Barcelona, 2019.



さてその一方で、当事者が、今だから(こそ)言える過去を本にしたのがこちら。

語り手は、レジス・ドブレとエリザベス・ブルゴスの娘ローランス・ドブレである。1976年パリ生まれ。

このドブレとブルゴスの二人にも、上の本のように「あのドブレ、あのブルゴス」とつけてもいいような気がするが。

題して『革命家の娘』。



Laurence Debray, Hija de revolucionarios, Traducción de Cristina Zelich, Anagrama, Barcelona, 2018.

この本についてはまた別の機会に。

2019年9月12日木曜日

マヤコフスキーとハバナ(2)

マヤコフスキーの乗った蒸気船は大西洋を18日間で渡り、ハバナに着いた。

1万4千トンの「Espagne」号。

船旅は穏やかだったようである。

「静かな海は退屈だ。18日間、僕たちはとてもゆっくり、まるで鏡の上のハエのように動いた。」
 
「1等の客は好きなところに嘔吐する、2等は3等の上、そして3等は自分の上に。」

1等で旅をするのは商人。国籍はトルコで、英語だけを話し、メキシコに住み、パラグアイとアルゼンチンのパスポートを持ってフランスの会社で働いている。

「奇妙な連中だ」

船内では「Adiós, Mariquita linda」が歌われている。

マヤコフスキーは1等旅客だった。

ハバナに着いた途端に雨が降る。

「これまでに見たことのない熱帯のにわか雨が落ちてきた。雨とは何か?空気にいくらかほとばしる水が混じり合ったもの。熱帯の雨は大量の水にいくらかほとばしる空気が混じったもの。(中略)僕は雨を避け、二階建の商店に逃げ込む。」

すると、そこはウィスキーだらけだった。キング・ジョージ、ブラック・アンド・ホワイト、ホワイト・ホース。

ということは、前のエントリーで引用した詩「ブラック・アンド・ホワイト」はウィスキーの銘柄から取られているのか。その詩の中に「コラリオ colario」という単語があったが、マヤコフスキーによれば、これはハバナで見た花のことらしい。

商店の背後には売春宿や酒場など、港町らしい店が広がっているが、その向こうには「綺麗な、世界で最も豊かな街」がある。しかしその豊かさを所有しているのはアメリカ合衆国であることにも気づく。

たった1日でメキシコのベラクルスへ出発。そして鉄道でメキシコシティへ向かう。駅で迎えてくれたのはディエゴ・リベラである。

「というわけで僕が最初にメキシコシティで知ったものは、絵だったのである」

マヤコフスキーのアメリカ紀行は『僕のアメリカ大陸発見』というタイトルで出ている。スペイン語版は以下の通り。上の引用もすべてこの本からとった。日本語訳は出ていないようである。 (←その後、『私のアメリカ発見』(鹿島保夫訳、和光社)として出ていることがわかりました。)

Vladimir Mayakovski, América, Traducción de Olga Korobenko, Gallo Nero, [出版地不明、出版社はスペイン], 2011.



最後のページにこの本を買った本屋のスタンプが押してあった。Prometeo Libros, Honduras y Gurruchaga。ブエノスアイレスの本屋だ。

2019年9月11日水曜日

マヤコフスキーとハバナ

マヤコフスキーがハバナに降り立ったのは、1925年7月初頭のことだった。

7月3日付の手紙で「いま、僕たちはキューバ島(タバコの島)に近づいているところだ」と書いている。

立ち寄っただけで、すぐにメキシコに行ったようだ。というのも7月9日にはメキシコシティに着いているからだ。メキシコシティではディエゴ・リベラと会っている。

とはいえ、ハバナで見た光景を詩にした。

タイトルは「ブラック・アンド・ホワイト」という。『マヤコフスキー選集』(飯塚書店、1964年)で読むことができる(小笠原豊樹、関根弘訳)。

「もしも
    ハバナを
        ちらりと見れば、
 極楽の国、
     満ちたりた国。
  棕櫚の下、
     一本足で
        立つフラミンゴ。
 べダドいちめん
        コラリオの
            花が咲く。
 ハバナでは
     あらゆるものの
           区別が明瞭。
 白人にはドルがあり、
         黒人にない。(後略)」

マヤコフスキーの似顔絵を、キューバの画家マリオ・カレーニョが描いた。

それから36年後の1961年、ロシアの詩人エフトウシェンコもハバナに降り立った。そして「マヤコフスキーへ」という詩を書いた。

「ハバナを ひと目 みるならば
 至るところ 街角に立っている
           ぼくの友だちー」
 (『エフトウシェンコ詩集』草鹿外吉訳、飯塚書店、1973年)

このエフトウシェンコという人、スペイン語では、Yevtushenkoと書く。

[この項、続く]

2019年9月9日月曜日

テスティモニオ論(ベアトリス・サルロ)


記憶というのは、自身の出来事や他人の出来事を記録し、保存し、再生する力のことである。

そして、個人や共同体、あるいは国家の統合が、そうした「記憶」の力に依存しているということを私たちが受け入れるのなら、過去というものが現在に対して執拗に働きかけてくることにブレーキはかけられない。

ラテンアメリカにおいては、誘拐、行方不明者、強制的亡命、拷問、政治的迫害など、国家テロが大きな破壊をもたらしてきた。

果たして集合的な記憶を練り上げることは可能なのだろうか。

民主的な制度の再構築は、言説を取り戻すことによって可能になる。

国家テロの被害者の語り、彼らが味わった恐怖によって構成される物語、これらは重要な証拠である。

「記憶産業」とツーリズムが結びつく時代にそれらはどのように働くのか。

というのが、ベアトリス・サルロの以下の本の主題。

Beatriz Sarlo, Tiempo pasado: cultura de la memoria y giro subjetivo. Una discusión, Siglo veintiuno editores, Buenos Aires, 2012(初版2005).


目次は以下の通り。

1. Tiempo pasado
2. Crítica del testimonio: sujeto y experiencia
3. La retórica testimonial
4. Experiencia y argumentación
5. Posmemoria, reconstrucciones
6. Más allá de la experiencia

謝辞によれば、本書はベルリンの高等研究所(Wissenschaftskolleg)のプロジェクトとして書かれた。当初は60年代、70年代の知識人の伝記を書こうとしていたが、自伝や証言録を読み進めるうちに、理論面に関心が移った。

本の表紙の人はアッバス・キアロスタミ

副題にある「giro subjetivo(主観的転回)」について、ラテンアメリカのドキュメンタリーを論じたこの論文(GIro subjetivo en el documental latinoamericano)も参考になりそうだ。

ベアトリス・サルロはアルゼンチンの批評家(1942年生まれ)。著書多数。

後期の授業はこれを読む。