2020年12月19日土曜日

ローラン・ビネ『文明』と網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』

ローラン・ビネ(1972年生まれ)の小説で、まだ邦訳は出ていないけれども、内容からして我慢できなくてスペイン語版を入手してしまった。

 

 

Laurent Binet, Civilizaciones, traducción de Adolfo García Ortega, Seix Barral, Barcelona, 2020.

タイトルは、『文明』だが、複数形だから『複数の文明』としておくべきか。

もしこうなっていたら、という歴史もの(スペイン語だとucroníaとかhistoria alternativa)で、インカ帝国最後の皇帝アタワルパが征服者ピサロに捕らわれず、ヨーロッパに逃げ出していたとしたら・・・? 彼は異端審問や印刷術を目の当たりにして、その後は?  

ビネによれば、この本の出発点はジャレド・ダイアモンドの「なぜピサロがアタワルパを捕らえたのか?」というもので、その問いに答えたくなってリマに旅をして・・・ということらしい。

エピグラフは二つ。

一つはカルロス・フェンテス『セルバンテスまたは読みの批判』からで、「芸術は、(大文字の)歴史が殺害したものに命を与える」 。

もう一つはインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガ。「連中のてんでバラバラで無秩序な暮らしぶりからすると、征服は実に簡単なことだ」。

450ページくらい。

ちょうど以下の本を読んでいた。

網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』講談社学術文庫、2018年。 



学術文庫版あとがきで、網野さん(1960年生まれ)は書いている。

「スペイン帝国の側から、アンデスの歴史に流れ込んでいるなにか不可視の水脈があるのではないか。その刹那、脳裏にある言葉が響きました。当時、私はドミニコ会士フランシスコ・デ・ラ・クルスの歴史的足跡を探求していました。本書にも登場する彼は、その危険な宗教思想を咎められ、一五七八年、異端審問によって火刑に処せられました。その彼が獄中で、なかば狂気にまみれながら発したのが、『インディオはユダヤ人の末裔である!私はその末裔の血を引く皇妃と結ばれ、ユダヤ人の王としてアンデスを統べるのだ!」という叫びでした。(中略)十七世紀の前半に、リマにおいて大きなユダヤ人迫害が発生し、当時大西洋で巨万の富を手にし、アンデス世界に深くくいこんでいたユダヤ系商人たちが、異端審問の業火に焼かれていたことを知りました。(中略)こうして、植民地インカ貴族と、大西洋を躍動したユダヤ人を通じて、スペイン帝国とアンデス世界を結びつける、本書の叙述の基調となる二つの水脈をかろうじて手にすることができたのです。」(358-359)

2020年12月14日月曜日

オカンポとカミュ

ビクトリア・オカンポとアルベール・カミュがやり取りした書簡集が2019年に出版された。

Victoria Ocampo, Albert Camus, Correspondenia(1946-1959), Penguin Random House, 2019.



カミュは1949年、船でブラジルに行き、1ヶ月ほど滞在。その後、モンテビデオを経由して、8月12日から14日までのわずか三日間をブエノスアイレスで過ごし、チリに向かった。

アルゼンチンは当時ペロン政権下で在アルゼンチンのフランス大使館から表現の自由はないよと言われていた。

オカンポの「Sur」誌はカミュの作品を掲載していたし、スール出版から『ペスト』も1949年前半に出版されていた。 

二人が知り合ったのは1946年のニューヨーク。ビクトリアはカミュの戯曲『カリギュラ』のスペイン語翻訳者。同じ年にパリで再会してもいる。

カミュはブエノスでの二泊をサン・イシドロのビクトリア・オカンポ邸(Villa Ocampo)で過ごした。カミュはこの屋敷を「『風と共に去りぬ』風の巨大な過ごしやすい家」と書いている。写真は2009年3月に訪れたときのオカンポ邸。そう見えますか?

 


 

 

2009年3月のこの日のオカンポ邸では、たまたま歌手のメルセデス・ソーサの姿を見かけた。

インタビューか何かを受けていたようにみえ、発売間近とされた2枚組アルバムの取材か何かだったのだろうと思っていたが、ネットで記事をみたら、アルバムのための写真撮影をここでやったらしい。

彼女が亡くなったのはそれから7ヶ月後だ。

2020年11月28日土曜日

前便の続き+チリ小説2冊

授業の準備もあと少しのところまできた。

今回のコースにあたってまず参考にしたのは、放送大学の大学院のテキストである。

宮下史朗・井口篤『中世・ルネサンス文学』放送大学教育振興会、2014年。

執筆者は上記に加えて3名、つまり合計5名で、専門はフランス、イタリア、英語(イングランド)という布陣である。

これを横に置きながら、では同じ時代をスペイン語世界から見たらどうなるのか、ということを考えながら進めることにした。

アーサー王がらみでは、昨年幸運にも小谷真理さんからいただいた『いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか』(岡本広毅・小宮真樹子編、みずき書林)は最高だった。『金マビ』も読んでいます。

そのほかには十二世紀ルネサンスに関する本もおおいに参考にさせていただいた。例えば以下の本だ。

伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫、2006

 


 

南仏のトゥルバドールについて、オック語のtrobadorに由来するということを踏まえたうえで、「私は、これはどうもアラビア語から来ているのではないかと思います」と伊東さんはいうのである(250頁)。

「このようにトゥルバドールのもとの意味も、彼らが用いた楽器[リュート]もアラビア起源であるとすれば、この南仏に新たに巻き起こった愛の詩と音楽はアラビア世界と深く結びついていることが示唆されます。(中略)この賢王(el Sabio)[アルフォンソ十世]の宮廷においては、アラビアと西欧の文化の交流が活発に行なわれていたことは、よく知られています。もっともそれは十三世紀のことになりますが、こうした交流がもっと遡ってスペインの地で早くから行なわれていたと想像してよいでしょう。」(251頁)

「ですからスペインのアンダルシアからカタルーニャを経てラングドック、プロヴァンスから、ずっとイタリアの北部まで、文化的にひとつながりに連っていました。そして西欧中世の特色となった騎士道とか婦人に対する礼儀の理想は、イスラム教下のスペインで、一足先に形づくられていたのですね。」(264)

ヨーロッパで最も早く紙の生産をしていたのがやはりアラビア世界経由でのスペインであったというのは印刷術の歴史の中でよく知られている(アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』)。そして紙工場があったのは地中海に近いバレンシアの街で、そこをエル・シードが立ち寄っていたりするのが面白い。

そして、伊東さんによれば、騎士道のあの愛の礼儀もまたスペインを通過しているということなのだ。スペインは騎士道のパロディが書かれるにふさわしい土地だったと言えばいいのだろうか。

ところで「騎士道」と日本語に訳したのは誰なのだろう。「道」をつけたところに興味がある。

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そんな合間にチリの小説。

Nona Ferández, La dimensión desconocida, Literatura Random House, 2017 


チリの軍事独裁のことと関わる小説では、ずいぶん前にも書いたかもしれないが、以下の本についてまとめないと、と思いながら。

Arturo Fontaine, La vida doble, Tusquets, 2010.

 


2020年11月22日日曜日

スペイン・ルネサンス

スペイン・ルネサンスの授業を楽しみながらやっている。「楽しみながら」の中に、半分か半分以上の痩せ我慢が入っている。

セルバンテス『戯曲集:セルバンテス全集第5巻』水声社、2018年。

書影だけ見ても厚さはわかるまい。1000ページをこえている。


「ペドロ・デ・ウルデマーラス」と「嫉妬深い老人」が面白かった。ペドロ・デ・ウルデマーラスは、『ラテンアメリカ民話集』(三原幸久編訳、岩波文庫、2019年)にも入っているような、民話によく出てくる悪漢(ピカロ)。

「嫉妬深い老人」は幕間劇で、『模範小説集(邦題『セルバンテス短篇集』岩波文庫)』のなかの一篇「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」とベースは同じ話。

若妻を閉じ込めておく老夫だが、しかしどんな鉄壁の防御にもすきがある。「やきもちやき…」では黒人奴隷が、そして「嫉妬深い老人」では隣家の女が、欲望をもてあます若妻のために手助けするのだ。

小説でも演劇でも、間男を連れ込む/忍び込む手練手管が見せどころということ。エンタメ要素が多いにある。

「やきもちやき…」を読んだときに、これは「やきもち」というレベルではないと思ったが、多分それもあって、こちらの劇作品の訳者は「嫉妬深い」にしたのではないか。女性の性欲を支配しようとしてもできない男の哀しみ。
 

スペイン・ルネサンスを冠した本といえば、やはり以下のものは抜きにはできない。

 

 

増田義郎『新世界のユートピア スペイン・ルネサンスの明暗』中公文庫、1989年。

この本は、そもそもは1971年、つまりはなんと今から50年前に研究社から出版されたものなのだ。それに驚いてしまうが、18年後に書かれた文庫版のあとがきで、増田義郎(1928-2016)は、こういう風に書いた当時のことを振り返っている。

「(前略)戦後まもなく、ふとしたことからスペイン語圏に興味を持ったひとりの人間が、スペイン、中南米、アメリカ合衆国で、本や史料をさがし、読みあさったあげくに、その読書のあとを辿って書いた、スペイン・ルネサンス試論である。スペインの歴史や文化には、われわれを引きつける興味ぶかい事実がたくさんあること、また十六世紀スペイン史は、近現代史の焦点となる多くの問題点をはらんでいることなどを世間に訴えたかったのだろう。」

増田がこの本で言及している騎士道物語、半世紀前には翻訳がなかったが、『ティラン・ロ・ブラン』『アマディス・デ・ガウラ』『エスプランディアンの武勲』までが日本語で読める。

すごいことだ。

2020年11月21日土曜日

村上龍『アメリカン★ドリーム』/アンドレス・フェリペ・ソラーノ『熱の日々』など

村上龍の『アメリカン★ドリーム』(講談社文庫、1985年)を読んでいたら、へえと思うような内容が。


「(前略)横田基地の周辺を描いたこの小説[『限りなく透明に近いブルー』]では、アメリカ兵から麻薬を貰い、アメリカ兵の性器を受け入れ、アメリカ(イギリス)の音楽を好む日本人の若い男女が描かれていた。/それが、「日本は今だに占領されている」という意識を持つ批評家を不愉快な気分にさせたのは当然だ。恐らく私のこのデビュー作は、後年、日本の「被占領性」を露呈したものとして、判断が下されるだろう。」(134ページ)

ちなみに、ここの「批評家」とは柄谷行人のことである。この話はいろんなところで見聞きした記憶がある。村上龍はバブル時代に、『Ryu's Bar』というテレビ番組とかもやっていたし、そこだったかもしれない。

そしてもっと面白いのが以下の一節。

「当時、江藤淳は、「…………ブルー」を酷評した。「植民地文学」「サブ・カルチャー」という言葉が使われた。江藤淳もさぞかし不愉快だったのだろう。気付いていたからだ。「植民地文学」と「サブ・カルチャー」しか残っていないと気付いていたからである。江藤淳は、もし小説家だったら、三島、川端に続いて自決していただろう。入水か薬物と言うオーソドックスな方法で。私達は江藤淳氏死すの報に接していたはずだ。それほど鋭い人物である。」(135ページ)

江藤淳(1932-1999)が田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を評価し、村上龍の『限りなく…』を酷評したのは知っていたが(この辺りは加藤典洋『アメリカの影』に詳しい)、村上龍は江藤淳に言われたそのことに応答しているわけだ。

このときの村上龍には想像できなかったが、江藤淳は本当に自殺する。

江藤淳のいう「植民地文学」というのは、「宗主国文学」というのがあって、それより低いものとしてある植民地の文学ということだ。

自分たちの日常を取り巻くあらゆるモノ(言葉や思想も)が自分のものではない占領状態にある。それを低レベルだとして、そこから抜け出して自己を打ち立てることが、優れた素晴らしいこととしている。憲法改正みたいに。

で、村上龍は江藤に対して、こう言うのである。「私は、最近、自分の役割が少しずつわかってきた。私は、日本の「被占領性」をさらに露呈させるために、小説を書くのである。」 

日本が占領されていることを明かしだてて、批評家連を苛立たせようというのが村上の試みというわけで、なるほど、そうしてみると、占領するアメリカを追い出した国であるキューバの音楽にいれこんで、ミュージシャンを連れてきたり、キューバ音楽本を出したりすることはそういうふうに読める。ほら、キューバはこうしているよ、日本にはできないでしょ、という。

キューバに絡んだ日本の作家というと、村上龍の20歳年上の小田実(1932-2007)はキューバ訪問のあと、ベ平連へ。

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以下は、最近届いたコロンビア作家の本。

アンドレス・フェリペ・ソラーノはコロンビア出身の作家。1977年生まれ。彼は2013年から韓国に住んでいる。その彼が韓国におけるコロナウィルスとのたたかいを本にした。

Andrés Felipe Solano, Los días de la fiebre: Corea del Sur, el país que desafió al virus, Editorial Planeta, 2020.

 


 

柳美里さんの受賞した全米図書賞の最終候補の一冊だったのが、コロンビアの作家ピラール・キンタナの本。

Pilar Quintana, La perra, Literatura Random House, 2020[初版2017].

2019年にはバスケスの短篇集が出ていました。

Juan Gabriel Vásquez, Canciones para el incendio, Alfaguara, 2019.


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岩波の世界』12月号、藤沢周さんが書評欄『読書の要諦』で、ガレアーノ『日々の子どもたちーーあるいは366篇の世界史』に触れてくださった。ありがとうございます。出版されてからそろそろ1年。この1年が過ぎつつある。この1年が。

2020年11月19日木曜日

アンゴラ作家ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』

アンゴラのポルトガル語作家ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの本が日本語になった。

ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』(木下眞穂訳)、白水社、2020年)


実はこの本のことは知っていて、翻訳が出るとは思っていなかったので、スペイン語版を入手していた。2015年にアルゼンチンで出て、2017年にスペインでも。

José Eduardo Agualusa, Teoría general del olvido(Traducción de Claudia Solans), Edhasa, Barcelona, 2017. 


この本の存在を知ったのは、キューバのアンゴラ派兵のことを調べている時に読んだ論文がきっかけで、未読のままアンゴラ関係の本と一緒にしまわれていた。

その論文ではこの本の一節をエピグラフに置いていたので目を引いた。以下のような一節だ。

「あんたやあんたのお仲間は『社会主義』だの『自由』だの『革命』だのごたいそうなことを言って口が満たされるんだろうさ。だけど、その傍らで人が痩せ衰え、病気になり、大勢が死んでいる。演説は栄養にはならないよ。(中略)あたしに言わせればね、革命ってのは、まず国民を食卓に座らせることを先にしようって、そういうものでなくちゃね」(『忘却についての一般論』103ページ)

作者は1960年生まれ。アンゴラに生まれ、ポルトガルやブラジルにも住んだことがある。

キューバのアンゴラ派兵は1975年11月。ポルトガルのカーネーション革命が1974-1975でポルトガルの独裁が終了でアンゴラ独立なのだが、直ちに内戦突入。スペインではフランコがこの年に死んで、西サハラの独立が1976年。

イベリア半島の独裁終了がアフリカの内戦につながり、それが冷戦の代理戦争のように見えながら、キューバの場合には血の同盟としての派兵が行われ(カストロの演説「キューバはラテンアフリカである」)、そう、それは「カルロータ作戦」という、キューバで19世紀に蜂起した女性奴隷の名前から取られた作戦名だった。

その後キューバでは例えば、エリセオ・アルベルト(1951-2011)の『カラコル・ビーチ Caracol Beach』(1998)がアンゴラ帰還兵の物語。さらにはカルラ・スアレス(1969-)の『英雄の息子 El hijo del héroe』(2017)となる。

いや、エリセオ・アルベルトやカルラ・スアレスの前に、アンヘル・サンティエステーバン(1966-)の『真夏の日の夢 Sueño de un día de verano』が1995年に出ている。

『忘却についての一般論』はポルトガル語では"Teoria Geral do Esquecimento"。

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ついこの前は、都内のとある中高一貫校で模擬授業をやってきた。いろんな大学から様々な専門分野の先生がやってくるという催しで、オンラインの先生もいたようだが、半数くらいは対面授業でやったようだ。高校では教壇にアクリル板は置いてあって、マスク必須だったけれども、いつものように授業が行われている。こちらは久しぶりの対面型の講義で、目の前に顔があることはありがたいと思った。

秋が深まったと思ったら、ここ数日はやたらに温度が高い。写真は11月なかば。

 


2020年11月1日日曜日

11月の本探し(アレクシスとカルペンティエル)

去年の秋に取ったメモを読み返していて、その時に読んでいた本を探そうとしたらなかなか見つからず、けっこう焦ってしまった。本の大きさや書影を思い違いしていて、余計に時間がかかった。こういうときのために、ブログに書いておくとあとあと自分が助かる。

1956年パリで開かれた第1回黒人作家芸術家会議でハイチのジャック・ステファン・アレクシス (Jacques Stephen Alexis, 1922-1961)は、「ハイチの驚異的リアリズム(Du réalisme merveilleux des Haïtiens)」と題した講演を行った。

『プレザンス・アフリケーヌ』誌(8-10、1956年6月-11月)に掲載されている。

 

 

なんだか、アレホ・カルペンティエル(Alejo Carpentier, 1904-1980)の「驚異的な現実 lo real maravilloso」と関わっていそうな感じがする。

カルペンティエルがこの用語を使ったのは、1949年に発表した『この世の王国』の序文である。

アレクシスの講演にはカルペンティエルへの言及はない。

で、この両者を比較分析したのが、アルゼンチンのカリブ文学研究者グアダルーペ・シルバ(Guadalupe Silva)の論考である。

題して、「驚異的な現実をめぐるカリブ言説ーージャック・ステファン・アレクシスとアレホ・カルペンティエル(El discurso caribeño de lo real maravilloso: Jaques Stephen Alexis y Alejo Carpentier)」。

なかなか見つからなかったこの文章、以下の本にある。

Guadalupe Silva y María Fernanda Pampín(Compiladoras), Literaturas caribeñas: Debates, reescrituras, tradiciones, Editorial de la Facultad de Filosofía y Letras, Universidad de Buenos Aires, 2015

 


この論文を紹介する余裕は今はないのだが、一応おさえておくこととして、カルペンティエルは『この世の王国』を書くにあたって、「ハイチ民族学研究所(el Instituto de Etnología Haitiana)」とコンタクトを取っている。

この研究機関は1941年設立。創立者はジャン・プリス(プライス)・マルス(Jean Price-Mars, 1876-1969)、ジャック・ルーマン(Jacques Roumain, 1907-1944)、そしてピエール・マビーユ(Pierre Mabille, 1904-1952)である。

アレクシスの講演はスペイン語に翻訳されていて、こちらはネットで見つかる。

2020年10月21日水曜日

10月半ば/『異端の鳥』

研究室から授業をやっていたら、学内のWi-Fiの調子が悪く、接続が不安定との通知が出ていて、最後にはZoomが落ちた。フリーズを起こしているという声が学生があり、まずいなと思っていたところだった。

結局サポートの力を借りて授業は半分の時間しかできなかったものの、なんとか乗り越えた。学内でのZoomではトラブルが結構発生しているようだ。

この前、映画『異端の鳥』を見てきた。昨年の東京国際映画祭で上映され、コロナで封切りが遅れていたのだが、ようやく公開となった。

原作の「小説」は『ペインティッド・バード』(西成彦訳、松籟社)として翻訳出版されている。映画の方も確か昨年の映画祭時には『ペインティッド・バード』と題されていたかと思う。

原作の作者はイェジー・コシンスキ(1933-1991)。ポーランドのウッチに生まれた。

ウッチといえば、ホロコーストを逃れてアルゼンチンに渡ったユダヤ人が再び故郷を訪れる映画『家に帰ろう』(原題は"El último traje"[最後のスーツ]、スペイン・アルゼンチン・ポーランド、2017年)で、クライマックスに出てくるところだ。

『ペインティッド・バード』はオリジナルが英語で書かれているのだが、それにも一部分に目を通したことがある。その時点で、すでに『異端の鳥』というタイトルで日本語の翻訳があったのだが、それは未読で、2011年の新訳『ペインティッド・バード』を読み、英語で受けた衝撃をあらためて日本語でも体験し、そして今度は映画で・・・という流れだ。

米国の出版直後、この本は「小説=フィクション」としてよりは「証言」として読まれたようだが、読んでいてあまりそのようなことは考えなかった。小説というのは便利な容れ物である。現実世界に参照物はあったりなかったりだ。悲惨な物語を「空想」の物語として受け止めて、ほっと胸を撫で下ろした瞬間に、でも違うかもしれないと思い直すその自由な行き来が可能なのが小説だ。

戦争に巻き込まれた子どもの物語としては、スペイン語圏では映画『パンズラビリンス 』のようなものもあったりする。あれもなかなかきつい。

 


原作は英語、書いたのはユダヤ人の両親を持つポーランド人、そして映画を撮ったのはチェコ人(ヴァーツラフ・マルホウル)、二種類の日本語訳。それぞれの文脈がある。

映画はまだ公開中なので、あまり書けないかな。

そもそも映像を勘違いして理解している部分もあるかもしれない。ただどうしても、一箇所、備忘録として書いておきたい。

東欧をさまようユダヤ少年はドイツ兵に捕まり、傷を負った老人とともに兵舎に連れ込まれる。彼らの処分のため、長靴がぴかぴかに磨かれたSSの将校が登場する。

深い傷を負い、ほとんど身動きを満足に取れない状態の太った老人は、最後のあがきとばかりに、勇敢にもその将校に向かって唾を吐きかける。SSの将校は銃を取り出し、冷徹に銃殺する。二発の銃弾が老人を貫き、老人は息絶える。

それを見た少年に去来した思いは何なのか。彼はどうしたか。ここが最も印象深いシーンだった。

権力に歯向かって殺された人の勇気を称えるばかりではなく、それを目の当たりにした少年の生き抜く知恵をも称える必要がある。その後、彼がどんな人生を送ったとしても。

映画パンフレットには監督のインタビューも載っている。沼野充義氏と深緑野分氏の解説もまた読み応えあり。

2020年10月11日日曜日

近況

秋の学期がはじまって2週間。すでに9月は遠い過去。

朝一番でオンライン授業をやってから大学行って対面授業というのはスリリングといえばスリリング。

日々やるべきことこなしてはいるけれど、とても落ち着いていられるような状況ではないですね。

そんな中で、読んでいるのが以下の本。

アンドルー・ペティグリー『印刷という革命ーールネサンスの本と日常生活』桑木野幸司訳、白水社

内容はタイトル通りで、結構スペイン関係のネタが多くて面白い。それ以外にも、ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会ーー印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、原聖訳)を読んだが、こちらもスペイン語圏の状況をたくさんとりあげてくれる。

それから本屋で見つけてつい買ってしまったのが、幸徳秋水『二十世紀の怪物 帝国主義』(光文社古典新訳文庫、山田博雄訳)。

この本は1901年に出版された。米西戦争の直後だ。なのでこんなことが書かれている。

「米国は最初、スペイン領キューバで起こった独立運動を助けてスペインと戦ったときには、自由のため、人道のために虐政を取り除くと称していた。本当にその通りなら、道義にかなったすばらしい行為である。そして、もしキューバの人民がその恩に感じ入り、徳を慕って、米国統治下の人民となることを願うなら、米国がこれを併合するのもわるいことではない。そうであればわたしは必ずしも米国があれこれと策を講じて、キューバ島民をあおり立て教唆した事実を摘発しないだろう。
 しかしフィリピン群島の併呑、征服にいたっては、断じて許すことができない。米国は本当にキューバがスペインから独立と自由を勝ちとる運動のために戦ったのか。それなら、なぜ一方で、あんなに激しくフィリピン人民の自由を束縛するのか。」(149ページ)

幸徳秋水が書いた1901年の段階で、まだキューバは独立していなかった。米国の軍事占領下で、独立は1902年5月である。

一方フィリピンは1899年1月21日に独立するものの、アメリカが認めず戦争に突入。


 

「国民はもはや小さい。それなのに、どうして国家が大きくなれるというのか。大きいようにみえるが、それははかなく消える泡にすぎない。空中楼閣にすぎない。砂上の家にすぎない。台風が通り過ぎれば、たちまち消え去って跡形もない雲霧と同じである。これは昔から今に至るまで、歴史が明らかにしているところである。それなのに、哀しいものだな、世界各国は競ってこの実質のないはかない泡のような膨張につとめて、しかも滅亡に向かって進んでいる危険を知らないのだ。」(177ページ)

わかりやすい。そして、弱い文章であるところもいい。

「『帝国主義』とは、すなわち大帝国(グレーター・エンパイア)の建設を意味する。大帝国の建設は、そのまま自国の領土の大いなる拡張を意味する。わたしは哀しむ。自国の領土を大々的に拡張することは、多くの不正を犯すことを意味し、道理にそむくことを意味するのだから。(中略)世界中のどんな土地にも、すでに主人があり、住人があるとすれば、大帝国を建設しようとする人たちは、果たして暴力を用いず、戦争もせず、また嘘偽りを言わずに、うまい具合に、わずかばかりの土地を自分のものにできるだろうか。ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカにおいて行い、米国が南米において行う領土拡張政策は、みな軍国主義によって行われているではないか。武力によって行われているではないか。」(136ページ)

「哀しむ」がここにも出てきて、それが弱さだと思うのだが、そこがいい。

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この本には内村鑑三が序文を書いている。

「政府には宇宙や世界の調和について考えることのできる哲学者が一人もいないのに、陸には十三師団の兵があって、武器はいたるところでまばゆく輝いている。民間には人民の鬱々として気持ちを癒すことのできる詩人が一人もいないのに、海には二十六万トンの戦艦があって、平和な海上に大きな波しぶきを立てている。」(15ページ)

今の状況(日本学術会議の会員任命拒否に端を発する一連の問題)に即していうなら、人々を分断しないようにするべき立場の人が、統合なんかどうでもいいとばかりに、敵を作って分断を煽り、強い言葉を次々に繰り出している。

罵倒の応酬に持ち込んでいる。強い言葉はもっと強い言葉を呼び込む。

強い言葉はものすごいダメージを与えるので、弱い人は負けてしまう。

鬱々とした状況を癒すためにできることがわからないまま、耳を閉ざすことができなければ、その中に参入して、もっと強い言葉を吐き出すしかないとでもいうような、とても辛い状況が続いている。

ここ数日の雨で金木犀はすっかり花を落としてしまった。散歩道のあちこちで、オレンジ色が目に入る。

2020年9月30日水曜日

ゴーギャンとリマ、その後 Part III

福永武彦の『ゴーギャンの世界』(新潮社、全集版)とバルガス=リョサの『楽園への道』(河出文庫)から。

「そして彼は[1865年]以後の六年間を海上で暮し、水夫や火夫や舵手を経験し、成年以後は水兵となって、その間に南米やインドやスカンジナヴィアへ行った。それは恰もボードレールが、二十歳の頃モーリス島[モーリシャス島]へと旅行し、その航海の体験が、後年のボードレールの詩作を彩っているのと似てはいないだろうか。こうしてゴーギャンが二十三歳でフランスへ戻った時に、母親は既に死に、姉は嫁ぎ、彼には家庭もなく家もなかった。後見人のギュスタヴ・アローザが、彼をパリの、ラフィット街の株式仲買商ベルタンに紹介した。ここから平凡な一人の株屋の生活が始まる。」(福永、21ページ)

前便に引き続き『楽園への道』では船員時代のことは、こんな風に書かれている。

「 (前略)船員だった頃、外洋でルツィターノ号やチリ号の船倉や船室で、何度も彼はそのように振る舞った[男色の趣味についてからかわれると相手の顔を殴っていたということ]。それらの商船で三年を過ごし、その後、戦艦のジェローム=ナポレオン号で、プロイセンと戦争状態にあった時期に二年を過ごした。(中略)その頃のおまえは、世界のあらゆる海や港を、あらゆる国や民族や風景を訪ねながら、ベテランの船員として経験を積み、やがては船長になることに憧れていた。(中略)見習い水夫としての最初の航海はフランスからリオ・デ・ジャネイロまでで、三か月と二十一日かかった。」(バルガス=リョサ、91ページ)

船乗り時代に訪れた場所は、『楽園への道』では、「リオ・デ・ジャネイロ、バルパライソ、ナポリ、トリエステ、ヴェネツィア、コペンハーゲン、ベルゲン[ノルウェーの古都]」とある。

バルパライソは当然、マゼラン海峡経由だろう。チャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗ってここを通ったのが1834年のことだ。

ゴーギャンは23歳で船を降りた後、11年間株式仲買人をやり、その合間に印象派の画家の作品を蒐集する。カリブ海出身のピサロと知り合い、絵を学び始めたのもこの時期だ。ゴッホとも知り合った(1886年)。

そしていよいよカリブ海へ行く。1887年のことである。

「一八八七年五月から十月まで、初めはパナマ、次いでマルティニック島のサン=ピエール郊外での苦難続きの滞在をとおして、おまえは本物の画家になったのだ。フィンセントがそれを最初に見抜いた。それに比べれば、蚊に刺されながらレセップス氏の運河の工事現場でつるはしを手に日雇い労働者として働き、マルティニックでは赤痢とマラリアで死にそうになったが、それくらいのひどい目はどうってことはないだろう。そのとおりだった。カリブのまばゆい太陽に照らされたあのサン=ピエールの絵の中では、色彩が熟した果物のように炸裂し、赤、青、黄、緑、黒などの色彩が主導権争いをするかのように剣闘士の獰猛さで互いに競い合ってい」(バルガス=リョサ、98-99ページ)た。

 パナマに行った経緯は福永の本に詳しい。

「この姉[ゴーギャンの姉マリイのこと]は、良人であるジュアン・ウリーブが、当時パナマのコロンにいて商売を営み、弟をそこへ差向けようと考えた。(中略)明るい南国への誘惑は、その間にも彼の心の中に燃え続けていた。」(福永、38ページ)

ゴーギャンの姉の夫がパナマでやっている商売はやはり運河がらみなのだろうか。

「無一文の彼はとにかくパリを逃げ出し、野蛮人として太陽の下で暮したかったのだ。パナマは彼の魂の故郷であるペルーからは近い。彼の中の血が自然の華かな色彩、強い香気、青い海を呼んでいたに違いない。」(福永、39ページ)

 彼は妻への書簡には以下のように書いている(1887年4月)。

「……画家としてのこの私の名前は一日ごとに有名になって来ている。が、今のところ、私は三日位は何一つ食わないことがよくあるのだ。こいつは健康をそこなうだけでなく、私の気力までもそこなってしまう。この気力という奴を私は取り返したい。私がパナマへ行くのは野蛮人[傍点あり]として生きるためだ。私はパナマ海峡から一海里のところに、太平洋の中の小さな島(タボガ)を知っている。そこは殆ど住む人もなく、自由で、豊穣なのだ。私は自分の絵具と筆とを持って行き、人間共から離れて自分を鍛え直すつもりだ。」(福永、38ページ)

太平洋の小さな島を知っている、というこの書き方もずいぶん思わせぶりだ。どうして知っていたのだろう。この島はパナマ市から20キロ南の太平洋に浮かぶ小島だ。

大航海時代、パナマ越えをして太平洋に至り(太平洋の発見)、その後ペルーを征服するフランシスコ・ピサロとヌニェス・デ・バルボアがこの島を踏んでいる。

このカリブへの旅に付き添ったのは弟子のシャルル・ラヴァル。彼らはこの島に3ヶ月滞在したが、絵筆は握らなかった。だからパナマ時代の絵は一枚も残っていない。しかしこの島にはゴーギャンが立ち寄ったことを示すプレートがビーチに据え付けられている。

 運河工事の人夫として働いて病気になったのでタボガ島へ行ったという話もあるが、この書簡からすればそもそもの目的がこの島に行くことだったわけだ。この手紙の書きっぷりにはすでに、その後タヒチでのゴーギャンが見える。

しかし義兄は職を用意してくれなかった。パナマでは結局この時期進んでいた運河の工事の人夫となって「朝の五時半から夕の六時まで炎天の下で働き、ラ・マルチニックへ行く旅費をためようとした。」(福永、39ページ)。

ということは最初の目的はパナマ(タボガ)で、思そしてマルチニークに行った、つまりハプニングだったのだ。

そしてゴーギャンとラヴァルは6月にマルチニークに到着。

「小さな首都サン・ピエルから反時間ほどの土人の小舎に住んだ。(中略)それは全くの楽園だった。黒人の男や女はひねもす歌い、空は晴れ、大気は暑くしかも風は涼しかった。(中略)そこは確に、彼の感覚を悦ばせる風景に富んでいたが、しかしラ・マルチニックは後のタヒチのように、個性ある作品を生み出させるまでには至らなかった。(中略)この楽園での生活はものの半年とは続かなかった。二人は飢えていたし、虚弱なラヴァルがまずマラリアに罹った。ゴーギャンもそれに感染し、更に赤痢に罹った。彼は殆ど死にかけて骸骨のように痩せ衰え」、「十一月に、弟子をサン・ピエルの病院に入れると、水夫として帆船に乗り込んで、単身パリへ戻って来た。」(福永、40ページ)

バルガス=リョサは、福永が書いていないゴーギャンの性に並々ならぬ関心を寄せて描く。

「サン=ピエールでのうだるような夜、燃えるようなクレオール語を話す、腰のほっそりした黒人女の一人を組み伏すことができたとき、女ヴァイキングに再会したら、遅ればせながら教えてやろうと。(中略)マルティニックでの作品は熱帯の桁外れの色彩のおかげで描かれたのではなく、絵を描くことと同時にセックスすること、本能を大切にすること、自分の内にある自然なものと悪魔を受け入れ、自然のままに生きる人間として欲求を満たすことを学んだ画家、未開人としての新参者が勝ち取った、因習からの自由と精神の自由のおかげだった。(中略)あの不運続きのパナマとマルティニックの旅から戻ったとき、おまえは野蛮人だっただろうか。そうなりはじめていたところだったね、ポール。いずれにしても、もうおまえの振る舞いは文明化されたブルジョワのものではなかった。パナマの密林の中、情け容赦なく照り付ける太陽の下でシャベルを振るって汗を流し、混血女や黒人女を、カリブの泥や赤土や汚れた砂の上で愛したあとで、どうしてそんなふうに振る舞えようか。」(バルガス=リョサ、101ページ) 

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下は秋晴れの日の東京。

 



2020年9月29日火曜日

ゴーギャンとリマ Part II

 前便の続きで、福永武彦『ゴーギャンの世界』から

「[リマの]ドン・ピオの屋敷には多くの女たちが住んでいた。家族の他に黒人の侍女たちもいる。父親のないポールは一族の女たちに愛されていたし、夜になると、彼と姉のマリイとに、床をともにして黒人の娘が寝た。この早熟な、感覚の鋭い子供が習い覚えたものは、母親による精神的な愛情の他に、獣じみた匂いのする肌の感覚だった。リマを去る前に、この子供は「従妹の一人を犯そうとした。私はその時六つだった。」(『前後録』P.140)このような環境に投げ込まれて、異常に早くから目覚めさせられた感覚、そこには後年の、傲慢な、自分の眼しか信じなかった画家、野蛮で豪奢な自然に憧れた夢想家、常に彼方[原文傍点]へと逃亡した放浪者の面影を、早くも読み取ることが出来る。この小さな暴君が、リマを去って故郷のフランスへ戻ったのは、彼が漸く七歳の時にすぎなかった。」(『福永武彦全集 第19巻』20ページ) 

バルガス=リョサの『楽園への道』はゴーギャンがタヒチへ行ってからのことから書き出されるが、リマ時代の思い出も時折こんな具合に出てくる。

「おまえはずっと母親を好きではなかったのか、ポール。たしかに死んだときは愛情を感じていなかった。けれども子供の頃、母の大叔父ドン・ピオ・トリスタンの住むあのリマにいた頃は大好きだったよね。おまえの幼年期の鮮明な思い出の一つは、リマの中心にあるサン・マルセロ地区でおまえたちの一族が王さまのように暮らしていた大きな屋敷の中で、若い未亡人がどんなに美しく愛らしかったかということだ。アリーヌ・ゴーギャンはペルーの貴婦人のように装い、ほっそりした身体を銀の刺繍の入った大きなマンティーリャで包んで、リマの婦人たちのあいだで流行していたタパーダと呼ばれるやり方で頭と顔半分を覆い、片目だけを見せる装いをしていた。」(『楽園への道』田村さと子訳、河出文庫、186ページ)

タパーダと呼ばれるやり方は、Tapada limeñaでWikipediaの項目がある。

ドイツの画家Mauricio Rugendas(1802-58)がこんな絵を描いている。1800年ごろの絵だ。このような装いは1500年代にはすでに見られ、19世紀半ばまで続いたそうだ。

 

 

「その少年が、やがて十七歳の時に、不意に船乗りになりたいという決心をした。母親には自分の子の気持ちが分らなかった。その決心が抜き難いことを知ると、せめて海軍に入れて士官にさせようと思った。しかしそのためには何年かの学校教育を受けなければならない。ポールは母親にさからい。今じきに海へ行きたいと言った。彼はル・アーヴルへ赴き、ルツィターノ号の見習い水夫になる契約を自分でやってのけた。」(21ページ)

「ルツィターノ号はル・アーヴルとリオ・デ・ジャネーロとの間に就航している。フランスの学校で教育を受けた少年にとって、赫かしい太陽と香ばしい大気、黒人の娘やインディアンの赤銅の肌の記憶ほど、自然な、生き生きした美しさを持ったものは見当たらなかった。」(21ページ)

[続く]

2020年9月27日日曜日

ゴーギャンとリマ Part I(福永武彦『ゴーギャンの世界』より)

福永武彦『ゴーギャンの世界』(『福永武彦全集 第19巻』新潮社、昭和63年)から、タヒチ以前のゴーギャンのリマ、パナマ、マルチニーク紀行を拾ってみる。

まずはリマから。巻末の年表の1849年、ゴーギャンが一歳の時。

「前年度の二月革命とルイ・ナポレオンの大統領当選の後に、父のクロヴィス・ゴーギャンはパリを逃れて、妻の母[フローラ・トリスタンのこと]の実家であるペルーのドン・ピオ・トリスタン・モスコーソを訪ねようと、家族と共に船に乗るが、航海中に動脈瘤のため十月三十日急逝し、マジェラン海峡の小さな港で埋葬される。三十五歳。母[アリーヌ=マリ・シャザール]はそのままポールとその姉のマリを連れて旅行を続ける。家族は六年間リマ市に滞在。」 (261ページ)

このようにしてリマに着いたゴーギャン一家。

「ポール・ゴーギャンが幼年時の四年間を過ごしたのは、このリマである。一八五〇年代のリマは、高度の文明と古代の野蛮との混淆、豪奢と不潔の共存だった。貴族たちは兀鷹の棲む城壁を張り廻した大邸宅に在って贅を尽し、その馬車は悪臭を放つ下町を練り歩いた。下町では黒人やインディアンが惨めな小舎の中に原始的な暮しを送っていた。この都市は奇妙な対照を形づくった。」(19ページ)

ペルーは奴隷解放が1854年。ゴーギャン一家がいた頃は、教科書的にはラモン・カスティーリャ統治時代で安定していて、グアノという海鳥の糞尿の堆積が肥料として輸出されるのが好調な時代だった。グアノ(guano)はコンラッドが『ノストローモ』で架空の国名として作り出した「コスタグアナ(Costaguana)」の元ネタではないかと言われている。

「若い未亡人が頼って来たのは、祖父の兄に当る、嘗てのペルー総督ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソである。この家長は当時既に百歳以上と傳えられていたが、尚矍鑠として健在だった。亡命の一家は此処で壮麗な邸宅を与えられ、なに不自由ない生活を送った。子供の眼を開いたものは、この異邦の、赫かしい太陽と海と街とである。」(19ページ)

この邸宅がどこにあったのか。インターネットで検索すると、こんな記事が出て来た。エマンシパシオン通りだったようだ。「百歳以上」と見られたドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソはアレキパに1773生まれ、1859年リマで没。

「パリ生まれの子供にとってすべては驚異に充ちていた。宮殿のような大邸宅、白い壁を飾る画幅と織物。銀器、燭台、壺などを置いた部屋、そこを行き交う婦人たちの絹の衣裳、裸の顎を飾る珍しい宝石、給仕をつとめるシナ人の可愛い侍童。街へ出れば華かなカーニヴァルの祭りのざわめき、黒色あるいは褐色の肌を見せた半裸の女たちの行列、子供たちの喧しい遊び声。」

地図でエマンシパシオン通り253(ゴーギャンが住んでいた住所)を検索すると、近くにチャイナタウン(Barrio Chino)がある。Wikipediaによれば、この地区ができたのは19世紀の半ば、ちょうどゴーギャンがいた頃。

[今日はここまで]

2020年9月24日木曜日

嵐のまえに

気がつけば秋分の日も過ぎている。台風とともに秋風がやってきそうな気配。春に比べれば心の準備もできた状態で秋の授業を迎えることができている(と思う)。

非常勤先の授業ははじまりつつあるのだが、春と違ってオンライン授業をすんなりはじめられて、ああこれで授業ができちゃうんだと。それはそれでいいとしても、なんとなく虚しさを感じる。なんか違うんじゃないか。 

半年前よりも、よほど今の方が、コロナ時代でいかに生きていくのかを考えている。オンラインでいいのかというのは、これからもっともっと悩ましい問題になってくる。

この秋からは、自宅からオンライン授業をやったあと、大学に行って対面授業という日がある。

エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち 366篇の世界史』(岩波書店)の紹介文が日本ラテンアメリカ学会の会報132号に載った。書いてくれたのは、マヤの歴史研究者・郷澤圭介さん。ありがとうございます。

イヴァン・ジャブロンカ『歴史家と少女殺人事件ーーレティシアの物語』(真野倫平訳、名古屋大学出版会)を読んだり、カルデロンの『人の世は夢』を読んだり。

大学図書館の利用サービスで新しい案内があった。 一時期よりは利用条件は良くなっているが、首都圏の大学図書館は軒並み学外者は入館できないので、専門的な論文を書いている人にとってはきついと思う。

コロナ時代に入って、地域の公共図書館を利用するようにもなった。涼しくなってようやく歩ける。

気が晴れるときを待つ。

2020年8月31日月曜日

キューバ映画『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』

セルヒオ・ヒラル監督の奴隷三部作の第一作が『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』(1975)。

この映画はかなり凝った作りになっている。19世紀のキューバの小説家アンセルモ・スアレス・イ・ロメロ(Anselmo Suárez y Romero, 1818-78)が書いた小説『フランシスコ Francisco』を批判的に読み解くのだが、そのプロセスも映画にしてしまっている。

キューバ、ひいてはアメリカ大陸の奴隷制についての実態を教える映画なので、教育的でもあり、またスアレスの書き手としての限界を示しながら批判するので、極めてポストコロニアル的である。この映画を巡っては研究論文もあって、教育的な役割を持つのが第三世界映画なのだと言っている。

小説『フランシスコ』は、1838年に当時キューバで文芸サークル(tertulia)を立ち上げつつあったドミンゴ・デル・モンテ(Domingo del Monte, 1804-1853)の慫慂によって書かれ、キューバにいたイギリスの奴隷廃止論者リチャード・マッデン(1798-1886)がイギリスに持ち帰った。出版されたのはスアレスの死後、1880年のことである。出版されたのはNY。

小説の内容は、フランシスコとドロテアという二人の黒人奴隷同士の恋愛(細かいことを言えば、フランシスコは10歳でアフリカからキューバに連れて来られ、一方のドロテアはキューバ生まれのムラータ)にはじまり、彼ら奴隷が仕えている製糖農場の御曹司リカルドがドロテアに惚れてフランシスコに嫉妬するところから話がこじれ、苦しむドロテアはリカルドに身を委ね、それを知ったフランシスコが自殺するというもの。

監督は、当時の奴隷の置かれていた状況を考えさせることを目的に、スアレスが描かなかった「もう一人のフランシスコ El otro Francisco」を提示する。シェイクスピアの『テンペスト The Tempest』に対するエメ・セゼールの『もう一つのテンペスト Une Tempête』と同じように。

小説で行われているのは奴隷の理想化であるとして(悲恋により自殺するフランシスコ)、本物のフランシスコ(悲恋で自殺する可能性はあるが、しないかもしれない)を描いてみせましょう、という流れそのものをまたナレーション付きで教えてくれる。

ヒラル監督のその他2作にもあった白人の狂気は、農場の御曹司や、特に奴隷の監督係・人足頭(Mayoral)に取りつく。次第に機械化され、生産力を高めていく農場では、ますます多くの奴隷が必要になってくる。

奴隷が怪我や病気で診療所に入れられると、労働力が不足する。不足すれば経営は悪化する。だから診療所を訪れた農場主は医師に対し、とっととこいつらを働かせろ!と怒鳴りつける。当時の奴隷は4時間睡眠だった。逃亡して捕らえられれば、首にベルを吊るされる。懲罰小屋では両足を固定されて監禁される。こうした行為を積み重ねていくうちに、奴隷の監督係は歯止めが効かなくなる。

奴隷たちは夜間にダンスを許されるのだが、徐々にそのアフロ系の儀礼の太鼓と歌とダンスが白人たちの頭も心も支配していくかのようだ。もちろんこの儀礼が奴隷の蜂起にもつながっている。ファノンのいうように、植民地における生活は暴力そのものなのだ。

19世紀の前半にキューバでは多くの蜂起があった。その中では、ホセ・アントニオ・アポンテ(José Antonio Aponte, 1812没)による蜂起が有名だ。

イギリスは奴隷制度では割りに合わず、彼らを自由にして生かさず殺さずの労働者にとどめおく方が有利であると説くのだが(だから奴隷廃止論は博愛ゆえではないというのがよく知られているが)、キューバの製糖農場主はハイチの事例を見ているがために、奴隷制度を維持しようとする。黒人への恐怖がキューバの独立にブレーキをかける。

 



2020年8月30日日曜日

キューバ映画『ランチェアドル(略奪者)』

続けてみたのは、セルヒオ・ヒラル監督『Rancheador』(1976年)。

ヒラル監督の奴隷三部作の二作目。

ランチェアドルとは略奪者・襲撃人という意味だが、キューバでは逃亡奴隷狩りを請け負う非道な個人事業主をさしている。彼らは農場主の依頼によって、製糖農場から逃亡した奴隷を追いかける。猟銃を持って馬に乗って犬を連れ、徒党を組んで山中を探し回る。

植民地時代、キューバの貧農(guajiro)は、法的には権利はないが、おそらく自分たちで開拓した土地を事実上の住まいとして(大抵は山の中)、コーヒー農園などを営んでいた。こうした貧農たちは、同じように山の中に逃げ込んでいる逃亡奴隷、また彼らの住う集落(パレンケ)と取引をしながら持ちつ持たれつの関係を築いていた。

ハイチ革命の後、ハイチの砂糖産業が低調になると、時代としては19世紀の前半から半ば以降のことだが、キューバは砂糖生産の拠点になっていく。

製糖農場主(豪農)は総督府と結託して、貧農から土地を収用して手広く事業を広げようとする。ランチェアドルはそのとき、農場主の最も有能な「手先」として、砂糖産業を支える自負も担っているかのような一種の傭兵である。

だから、ランチェアドルの任務は逃亡奴隷狩りに加え、貧農いじめをして土地から追い立てることもする。貧農に食糧を要求したり、暴力をふるい、農場に火を放つ。

この映画は、19世紀の作家シリーロ・ビジャベルデ(Cirilo Villaverde, 1812-1894)の『ランチェアドルの日記』を下敷きにしている。

フランシスコ・エステベスはそういう極悪非道なランチェアドルの一人。仲間と農場を回り、逃亡奴隷を探し出し、連行し、貧農をとことんいじめ抜いて恨みを買っている。彼の暴力によって被害を被った農民たちが訴えを起こすこともしばしばだが、エステベスは抵抗する貧農を殺させ、制御できない部下たちは女子をレイプしたりする。

このような非道は問題になり、手を下したエステベスの部下は死刑になる(処刑の方法は、あのgarrote。鉄の環による絞首刑。椅子に座り、首に鉄輪が嵌められる。後ろからその鉄輪を徐々に絞っていく方法)。

ランチェアドルも手先だが、その先にはまた手先がいて…とキリがない。植民地・奴隷制度によって生まれた暴力システムは、常に支える人が出てくる・・・

逃亡奴隷狩りをやっているうちに狂気に取り憑かれるエステベスの敵は、いまだ姿を見たことのない逃亡奴隷のリーダー、メルチョラ。彼女は製糖農場に火を放つ。

彼女を捕獲しようとして、エステベスは手に入れた黒人奴隷を手引きに山に入る。しかし山の中には彼がこれまで見たことのない世界があり、仲間割れをへて彼の狂気が極限に達したところで黒人奴隷との対決になる。

2020年8月29日土曜日

キューバ映画『マルアラ Maluala』

『マルアラ Maluala』は1979年のキューバ映画。

監督はセルヒオ・ヒラル(Sergio Giral 1937-)。

キューバ生まれでアメリカで教育を受けた後、ネストル・アルメンドロスに誘われて映画の世界に入ったらしい。

奴隷制度をテーマにした3部作があって『マルアラ Maluala』はその最後の作品。残りの二つは、『El otro Francisco』と『Rancheador』。

『マルアラ』は、欧米の大学では頻繁に上映されている。アフリカ、ブラックカルチャーの特集で取り上げられていることが多い。キューバ発のアフロ映画として知られているということだ。監督自身もアフロ系である。

時代設定は18世紀から19世紀のキューバの植民地時代で、逃亡奴隷(シマロン Cimarrón)の集落(パレンケ)がいくつも、キューバ島東部の山の中に存在している。

パレンケにはカリスマ的なリーダーがいて、映画のタイトルである「マルアラ」のリーダーはガジョ、そしてもう一つのブンバのリーダーがコバである。

スペイン政府・総督府はパレンケ側からの要求である自由と土地のうち、表向きは「自由」を与え、その代わり、統治機構の軍隊の一翼を担わせようとする。

いくつかのパレンケのリーダーはオファーをのんでしまうのだが、ガジョとコバは拒む。そのあとは総督府から送られた軍隊との武力衝突となる。

コバはその戦いのうちに自害するが、ガジョのマルアラの人々はスペインの軍隊を撃退する。最後、ほうほうの体で逃げ帰ったクリオーリョ司令官は、おりしも街で行われている黒人たちのカーニバルの仮装行列に巻き込まれ、恐怖の表情を浮かべる。

コンラッドの『闇の奥』のクルツが叫ぶ「恐怖!」を思わせもするシーンだ。映画の中ではアフロ系の儀礼シーンをかなり丁寧に描いている。

この映画は1979年が第1回のハバナ映画祭での金賞?一等章?受賞作。
ヒラル監督の出発点はドキュメンタリーで、『逃亡奴隷』(1967)と題されたフィルムもある。

この記事
はヒラル監督について、ルベン・リカルド・インファンテ(Rubén Ricardo Infante)というキューバの研究者が書いたもの。2020年のLASA学会でも発表しているらしいのだが、そういえば、5月のこの学会(開催地グアダラハラ)はどのような形式で開催したのだろうか。当然オンラインでしょうが。

 



2020年8月28日金曜日

東ドイツのキューバ映画とムヒカ

東ドイツの映画監督クルト・メーツィッヒ(Kurt Maetzig 1911-2012)は、1963年(1964という記録もある)、『Preludio 11』を監督した。

東ドイツの映画制作機関「DEFA」とキューバの映画製作機関「ICAIC」の合作映画である。

亡命キューバ人数名がキューバに侵入し、後から上陸予定の米軍と革命体制を打倒しようとするが、キューバの農民や軍人たちに阻まれてしまう、その過程を追ったものである。どことなくヒロン海岸侵攻事件を思わせるような設定。

亡命キューバ人の側にミゲルという青年がいて、彼は恋人ダニエラを捨てて米国に逃げた。ふたりの間には小さい子供がいる。ダニエラは母と一緒に子供を育てている。母の方はミゲルとやり直して欲しいと思っているようだが、ダニエラは、もう過去のことだと吹っ切っている。そのミゲルは上陸後、ダニエラに接近する。

ダニエラは革命軍所属で、目をかけてくれる上官とともに、革命を歩み始めている。彼女は識字運動のメンバーでもあって、毎日街のどこかで子供や大人に教室を開いている。

教わった文章を、子供達は嬉しそうにチョークで道に落書きしている。Pedro defiende la patria. (ペドロは祖国を防衛する)。

キューバの革命軍にはスパイが潜入しており、彼が反革命軍に情報を流している。その潜入したスパイ、最後は自殺する(ようだ)。ダニエラは、戦闘で負傷したか死んだミゲルには目を向けずにキューバの山を眺める。

カストロに似ているスパイを含め、ドイツ人の役者が何人かのキューバ人を演じているのだが、見ているときにはまったくわからなかった。

東ドイツとキューバの合作ものはどれくらいあるのだろうか。

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この春公開が予定されていたが延期になって、ようやくみることができたのが、『世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ』である。さいわい映画館でみたが、デジタル配信も期間限定でやっているようだ。監督はエミール・クストリッツァ。

原題は、「El Pepe, una vida suprema」。

ムヒカの大統領最後の日々を追いかけたもので、監督自身が英語でインタビューして、それにムヒカが答えていく。いきなり監督のむさ苦しい顔が登場するドキュメンタリーというのも面白い。ムヒカだけではなくて、(ポーランド系の)お連れ合いであるルシアやゲリラ時代の同志にも結構語らせている。

BGMとしても、フィルムの中でも、いろんな音楽が流れていて、タンゴやサンバ(?)にフォルクローレ。例えば、ウルグアイのちょっと変わった英雄ドン・ホセ・アルティーガスを歌った「A Don José」とか。

ムヒカの退任の挨拶、「俺は行かないよ、まだこれからだ "No me voy, estoy llegando. "」というのはなかなかかっこ良すぎる。

下の写真は2011年3月12日のモンテビデオ・独立記念広場。

1枚目はホセ・アルティーガス像。2枚目は見た瞬間にハバナのホテル「ハバナ・リブレ」に似ていると思って撮ったもの。


2020年8月25日火曜日

8月後半

秋学期のカレンダーを見ながら、オンライン授業の準備を進めている。大学構内でも秋学期の登校に備えて衛生環境を改善するための工事が進んでいる。

図書館は開館時間は短いが、人はいないので今なら結構使い出があるかもしれない。その授業のことで、頭はすっかり中世・ルネサンスに浸かっている。

このところスペインの騎士道物語が日本語で読めるようになってきて、『アマディス・デ・ガウラ』に続いて『エスプランディアンの武勲』もあるし、気付いたら『ティラン・ロ・ブラン』は文庫になっていた。

国立西洋美術館のナショナル・ギャラリー展に出かけてみた。予約制で人数を絞っているので人混みに出会うことはないと思っていたけれども、そんなに空いているとは思えなかった。 

ナショナリ・ギャラリーのうち、イギリス美術はテート・ギャラリーが担っているという理解だが、このテートというのは固有名詞で、ヘンリー・テートのことである。この人物はどうやら砂糖業によって稼いだらしい。砂糖業となるとカリブ、奴隷制ということになる。

テート・ギャラリーのHPでは「テート・ギャラリーと奴隷制」として、その辺りの説明がなされている。

このことは長年議論の的だったが、2019年8月の結論として、ヘンリー・テートは奴隷所有者でも奴隷商人でもなかったが、テート・ギャラリーを植民地奴隷制と切り離すことはできない、ということだ。

夕方の上野公園は昔の記憶とはまったく違っていた。スターバックスができていたり。

 

2020年8月6日木曜日

8月6日 長谷川四郎とキューバ

長谷川四郎がキューバに行ったのは1964年だった。

8月なかばにメキシコへ行きビザを申請して、許可が降りてその後キューバへ。メキシコ経由で東京に帰ったのは9月の終わり。

とても分厚い長谷川四郎の物語を読んで知った。

福島紀幸『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』河出書房新社、2018年。



ニコラス・ギジェンの詩を訳したのが1964年で、それが縁でギジェンから招かれてキューバに行った。ビザを待つメキシコシティではシケイロスの展覧会へ行っている。

「キューバの詩人ギリエンは、でっぷりして、背はそう高くない。ごっつい顔、ハスキー・ヴォイスの黒白混血児[ムラート]。(中略)よく歌をうたう、陽気な男だということだが、今は歌こそうたわなかったが、なにやらハミングしながら、海からの風に向かって胸をたたき、深呼吸をしたりした。」(303頁)

ギリエンの詩はフランス語訳を参照して日本語に訳したのだ。

車でマタンサス、カマグエイ、サンティアゴ・デ・クーバへ行った。

「キューバから帰ってから、キューバの詩人エベルト・パディリャの『仲間はずれ』という詩集のフランス語訳を手に入れた。1932年生まれ。ロンドンとモスクワで通信員として働いたことがある。キューバの社会主義体制のなかで少しばかり異端的な詩人で、文学賞を受けていながら、ギリエンが議長であるキューバ作家・芸術家同盟から吊し上げられた。」(307頁)

1964年は堀田善衛がキューバを訪れた年でもある。

1964年12月2日、新日本文学会が講演会を開き、中野重治、安岡章太郎、江川卓、そして長谷川四郎が登壇し、彼は「キューバであった人々」という講演をした。記録は「新日本文学」1965年2月号に載っている。

2020年8月1日土曜日

8月1日

長かったセメスターも終わって少し息がつける。

3月の半ばごろやりとりしたメールを見直したら、こんな4ヶ月を送るとはつゆとも思わずにいて、日を追って予定がどんどん変わっていく。3月20日あたりまでとそれ以降はずいぶん違う。

勤務先大学のホームカミングデイ(11月23日)も開催中止になった。卒業式ができなかったので、この日を次の再会の日と思い描いていたのだが・・・

いまから1年前の7月にはキューバの調味料について原稿を書いていた。その中で紹介したのが、モホ・ソースなのだが、この3月にハバナで市場に入ってみて見つけた。



原稿では出来合いのソースも入手して写真を載せたのだが、キューバでもこのように、出来合いのソースを売っていたわけである。市場の場所は、17番街とG通りの角。月曜日は休みなので気をつけてください。


キューバがらみでは最近は以下の本が届いた。

Margaret Randall, To Change the World: My Years in Cuba, Rutgers University Press, 2009.

翻訳家、詩人、写真家、活動家であるマーガレット・ランダルさんはスペイン、メキシコ、キューバ、ベトナムと住んだ経験がある。これはそのキューバ時代を振り返ったもの。


この本には、アルゼンチンのネストル・コアン(Néstor Kohan, 1967-)が書いた、キューバ言論誌『Pensamiento Crítico』についての論文への言及がある。そのコアンの論文とはこちら

コアン(Kohan)という苗字、そういえば、アルゼンチンにはマルティン・コアン(Martín Kohan)という作家もいて、この人の本なら持っている。親子か兄弟なのかな、と思ったら、なんとマルティンさんも1967生まれ。へえー、である。

2020年7月25日土曜日

7月の終わり頃

いよいよ梅雨明けなのかと思わせてくれる夕立やセミの鳴き声。ところが簡単には明けてくれない。

秋学期の授業も基本的にオンラインになりそうな気配。こんな感染状況で教室に学生がきてよいのだろうか。どこか集団感染が発生するを待ち構えてもいるようなムードがある昨今の状況では、大学の再開は難しくなるばかりだ。

前にも書いたけれど、授業は基本的にオンラインで確保することにして、大学は図書館の利用やクラスメートとの雑談、サークルやクラブ活動を許容する方がいいと思う。多少のリスクはあるけれども・・・

授業のことでいえば、設備上、一つの授業をオンラインでも対面でもできるようになってほしいものだ。

教室でやっている授業を、通学の危険をおかしたくない学生や、体調が優れないので自宅で受けたいという学生たちのためにオンラインでも受講できるように配慮する必要が出てくるだろう。

もちろん教員だってそうだ。自宅からなら配信できるが、教室に行くのは避けておきたい時がある。

果たしてどうやったら対面・オンライン授業ができるのか。秋になる頃には解決しているのだろうか・・・

今年の採点はかなりの難業である。だいたい例年の2倍の学生が履修しているので数が半端ない。根を詰めると目が回ってきて体調を崩す。なので、休み休み慎重に進めている。その合間に2年前に出したこの本で書き足りないところを補おうと思って書いている。

×月×日はオープンキャンパスだった。日頃は閑散とした大学も、この日ばかりは雨にもかかわらず訪れた大勢の高校生たちで賑やかなキャンパスに・・・なんていうわけはなく、オンラインである。Zoomで質問を受け付けてそれに答えながらあれこれ大学のことを紹介した。

自宅だと色々と集中力を削がれるので大学から配信した。大学ですれ違う先生と立ち話をすると、自宅からの配信に不安があってきている人が多い。



2020年7月17日金曜日

7月17日 

大学ではオープンキャンパスの準備が進んでいる。もちろんオンラインなので教員たちは動画素材の準備をしている。相談会もある。

久しぶりに訪れた大学の風景は一段と緑の侵食が進んでいて、ここまで草木が生い茂っていたかと思うくらいで、足元もあちこちから雑草が育っている。これが学生のいない大学というものなのだろうか。

あるリレー講義でオンデマンドタイプの授業を用意した。日頃はリアルタイムのオンライン授業しかやっていないので、収録ははじめてだった。自分でボイスレコーダーを用意して、15分ぐらいで一つのテーマ、それを5本録音した。合計75分になる。資料はレジュメを用意した。

録音素材を聞いてみると気になるところが出てきたりする。むかし放送大学の講座で何本も読み上げ原稿を作ったが、あの時はスタジオでの収録で、ディレクターの方もいたから相談しながらできたのだが、今回は一人で夜中に録音・・・ 

音声ファイル、レジュメのほかに、コメントシートの指示もしないといけない。200人近い受講者がいるので心配していたけれども、無事に視聴は進んでいるようだ。

後期(秋学期)の授業形態もすでにアナウンスされている。受講人数ではなく、科目群によってオンラインの科目あり、対面の科目あり。といってもこれは感染状況が落ち着いていればの話。学期開始1ヶ月前に最終決定をするようだ。 

そもそも3月の終わり頃は、2、3週間のオンラインを乗り越えればなんとかなるだろうだった。そこから始まって、5月の終わりには(なんとかなる)、ときて、結局春の学期はまるごとオンラインになって、この分じゃ秋以降も・・・になっている(大きな大学ではなおのこと)。このウィルスとの付き合いには腰を据えないといけないんだね。

[個人的には授業はオンラインにして、キャンパスはもう少し自由に使えるようにできないものか。感染に気をつけて、社会的な距離を守りながら、人と会ったり、話したり、クラブ活動をやったり。そういうことが練習できる空間にならないものだろうか。ま、まずは授業なのだから無理なんでしょうけれど。]

下の写真は7月8日、近くの運動公園で撮った。久しぶりに太陽の光が出たので飛び出した。せめて青空くらいは見たいものだ。


前回のエントリーには別のタイトルも考えていた。Trágame, tierra y ... (穴があったら入りたい)。

2020年7月7日火曜日

7月7日 Error y horror/キューバ映画『La bella del Alhambra』

このところ、オンライン授業に慣れてきたといったって、やっぱりそんなでもないということを改めて思い知らされることがあったりして、やや自信喪失。今回のミスはオンライン授業ならではというわけではないのだが、何かミスがあった時に、教室で面と向かって「ごめん!」と言えないのがオンライン授業。「面と向かって」という言葉のもたらす意味が今じゃあ全然違う。

天気もすっきりしない日々が続いて味方になってくれない。気が晴れない。こんなに梅雨空が続いた梅雨があったかな。雨よ、止んでくれないか。コロナウィルスよ、収束してくれないか。

そんなのは無理というもので、といって大きな感染拡大がないとすれば(もはや何を感染拡大というのかもわからない未知の状況にいるのだが)、秋学期はどこの大学も、学生・教員・事務方のだれもが混乱するオンライン・対面の混合型になるだろう。

Zoom立ち上げて授業をやろうとしたら、あれ間違った、この授業は対面だった、なんてこともあるんじゃなかろうか。

PCの前というのは、風景が変わらないから、教室ならば顔ぶれを見て、ああ先週はこの話だったな、と思い出されるものが、ほとんど思い出されてこない。せいぜい受講生の数の多い少ないでZoom画面の見え方に差が出るくらいで、先週はこれをやった、という実感がどうも持てない。

だからAクラスの授業資料をBクラスのサイトにアップし、CクラスのテストをDクラスで実施するなんてこともありそうで怖い怖い。今から不安だ。もちろん学生にもオンラインならではの不安があって、送信したが届いているだろうかというような問い合わせは随時ある。だから、お互いにより優しく、より親密に、より深くコミュニケートすることが必要だ。

喉の疲れ方が教室とは微妙に違って、本当ならオンラインの方が楽であって良いはずなのに、そうはならない。なぜだろうか。必要以上に力が入ってしまうのだろうか。

週末、DVDでキューバ映画の『La bella del Alhambra』という映画を見た。1989年の作品で、実はこれがその年のアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされている。前に紹介したミゲル・バルネーの『ラチェルの歌(Canción de Rachel)』を下敷きにして作られた映画である。

『La bella del Alhambra』とは、「アルハンブラ劇場の美女」ということ。



アルハンブラ劇場というのはハバナに実在した劇場。住所はConsuladoとVirtudesの角。地図で見ると、パルケ・セントラルに近い。

こんな記事もあった。カルペンティエルもこの劇場について何度か書いているようだ。「クリオーリョ主義の避難所」で、ここで伝統的なダンソンを聴くことができたそうだ。

映画の中では、主に風刺劇(サイネテ)が上演されているようだった。「鸚鵡の島(La isla de las cotorras)」という作品が映画ではクライマックスに使われている。20世紀初頭、「青年の島(Isla de la juventud)」がキューバと米国の間で領有権が争われていたことを踏まえている。

踊り子のラチェルは恋人がいるのだが、この作品がきっかけで・・・という。

想像していた以上に楽しい映画で、見てよかった。

そうそう、英語版の『ラチェルの歌』も本棚からでてきました。

Miguel Barnet, Rachel's Song, translated by W. Nick Hll, Curbstone Press, 1991.


2020年7月4日土曜日

7月4日 キューバ語で読むロシア文学

気がついたらもう7月ですね。

6月30日になんとか更新しようかと思っていたけれど、過ぎてしまった。最近では6月の終わりに1年の半分が終わったする風潮があるようだ。

2001年と2002年の6月30日ならよく覚えている。

2001年の6月は蒸し暑い日が多かった印象が強く、その日は土曜日で、朝から雨は降っていないものの、蒸し暑さで体が重く感じた。

翌年の2002年のその日はW杯サッカーの決勝戦が戦われた日だ。

ブラジルとドイツ。ドイツのキーパーがオリバー・カーン。彼がゴールポストにもたれて座っている姿は多くの人の記憶に残っていることだろう。確かあの日も雨か曇りか予報が難しい日であったのではないか。

この3ヶ月ぐらいのあいだ、あれもやらなきゃこれもやらなきゃと過ごしているうちに、この学期も最後のひと月になった。

最近では飛行機がかなり飛んでいる。感染者の数は増え続けながら、それでも日常に戻り続けようともしている。2001年の9月に飛行機は恐ろしい乗り物になってしまったが、今、空を飛ぶ飛行機を見ていると、実際に乗れるのがいつかはわからないとはいえ、希望を感じさせてくれる。

大学もいよいよ秋学期以降のことを決断しなければならない時期に来ているらしい。所属している学会も秋の大会をどのようにするか、所属している研究会も秋にどうするかなどなど、秋以降のことが議論されつつある。

この前久しぶりの青空の日に外に出ることができたら、急に絵葉書のような風景に出会った。



キューバで出ているロシアがらみの短篇集を整理した。

まずはこれ。



Cuentos rusos(Selección y prólogo de José Rodríguez-Feo), Instituto del Libro, La Habana, 1968.

プーシキン、ゴーゴリ(「鼻」)、レールモントフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、イヴァン・ブーニンといった作家たち。15000部。

ついでこちら。


Isaac Babel, Cuentos, Editorial Arte y Literatura, La Habana, 1977.

収録作品は「騎兵隊」、「オデッサ物語」、そして短篇がいくつも。

イサーク・バーベリの本には翻訳者の名前が書かれている。アンヘル・ポソ・サンドバル(Ángel Pozo Sandoval)と、ホセ・フェルナンデス・サンチェス(José Fernández Sánchez)の2名。

そして最後がこちら。


Cinco escritores de la Revolución Rusa(Selección y prólogo de Roberto Fernández Retamar), Editorial Arte y Literatura, La Habana, 2009[初版1968].

ロシア革命5人衆ということで、アレクサンドル・ブロークの詩が2篇(「12の詩人」と「スキタイ人」)、フセヴォロド・イワーノフ「装甲列車」、ヴィクトル・シクロフスキー「感傷旅行」、イサーク・バーベリ(「塩」他2篇)、マヤコフスキーの詩と講演。マヤコフスキーの詩では、やっぱりキューバ訪問時の詩(ブラック・アンド・ホワイト)が入っていた。


2020年6月16日火曜日

わたしには夢があった(2)/『ラチェルの歌』


フアン・パブロ・ビジャロボスの『わたしには夢があった』のオリジナル(スペイン語版)が届いた。



Juan Pablo Villalobos, Yo tuve un sueño: El viaje de los niños centroamericanos a Estados Unidos, Anagrama, 2018.

英語版とは違いがある。オンラインのトークで著者が言っていたのだが、このオリジナルにはエピローグとして、Arberto Arce氏の文章が載っている。彼はジャーナリストで、この本が扱っているテーマの専門家である。ビジャロボスにとってこの本は未知の領域を扱っているので、プロの目からも書いて欲しいと依頼したそうだ。これがまた、いい形で機能している。

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このところキューバのスパイ小説を読んでいて、それがひと段落したので、ミゲル・バルネーを読み始めた。

Miguel Barnet, Canción de Rachel, Libros del Asterloide, Barcelona, 2011[初版1969]

Rachelーーレイチェル、としたいのだが、バルネーのインタビュー動画を見たら、ラチェルと言っていた。

この本のことを「テスティモニオ小説」というジャンルだとも言っている。

「歴史のない人」、「公式の歴史には出てこない人」へのインタビューを下敷きに、作品化したものだ。

この本では創作の度合いは高い。ナイトクラブのダンサー6人を統合して、一人の「ラチェル」を生み出し、1900年から1930年くらいまでを語らせている。語りが素晴らしい。

以下のエディションではキューバ生まれのイタリア人、イタロ・カルヴィーノが序文を書いている。



この作品に着想を得て、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェが歌劇を作っている。本はあのエンツェンスベルガーが書いている。さらに調べてみたら、この二人はミゲル・バルネーの『逃亡奴隷』も作品化しているのだった。へえーー、である。

『ラチェルの歌』はキューバ人が映画化している。これも見ておきたいところだ。

2020年6月7日日曜日

わたしには夢があった


この前、バルセロナの大学の先生が催したオンライン・トークショーに参加した。その時のメインスピーカーはメキシコ出身のフアン・パブロ・ビジャロボスである。

話題は、彼が出した「テスティモニオ」である。

スペイン語版は注文したけれどもまだ届かない。手元には英語版しかない。スペイン語版のタイトルが『Yo tuve un sueño』、つまり「わたしには夢があった」という、あの有名なセリフを過去形にしたものである。

英語版は以下のようになっている。

Juan Pablo Villalobos, The Other Side: Stories of Central American Teen Refugees Who Dream of Crossing The Border, Translated by Rsalind Harvey, Farrar Straus Giroux, New York, 2019.



ビジャロボスが自ら中米出身で米国国境を渡った若者たちにインタビューしたものを編集して出来上がったのがこの本である。

本にするために彼が施した処理の一つが、「日記」形式である。ある人物のパートは日記になっているのだが、これは実際にそのインタビュイーが日記を書いていたのではなく、語った内容は日記にするのがいいとビジャロボスが判断したのだそうだ。

本の最後には「Furthe Readings」があって、この国境越えにまつわる米国の戦略、子供達の国際援助団体、中米避難民に関するインフォメーションなどのURLや書籍が紹介されている。

そのうちの一冊が以下のもの。Ebookで入手可能。

Solito, Solita: Crossing Borders with Youth Migrants, Edited by Steven Mayers and Jonathan Freedman,



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『蜘蛛女のキス』を映画館で見た。最終日の最終回だったこともあって、思ったよりも人は入っていた。久しぶりの映画館。

2020年5月30日土曜日

テスティモニオ(証言文学)[5月31日追記]


原文がスペイン語で日本語訳のある「テスティモニオ」について聞かれることが多いので、参考までに挙げておきます。

ミゲル・バルネ(語り手 エステバン・モンテーホ)『逃亡奴隷 キューバ革命に生きた一〇八歳の黒人』(山本満喜子訳)、学藝書林

ドミティーラ/M・ヴィーゼル『私にも話させて アンデスの鉱山に生きる人々の物語』(唐澤秀子訳)、現代企画室

オマル・カベサス『山は果てしなき緑の草原ではなく』(太田昌国・新川志保子訳)、現代企画室

エリザベス・ブルゴス(語り手 リゴベルタ・メンチュウ)『私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ=キチェ族インディオ女性の記録』(高橋早代訳)、新潮社

エレナ・ポニアトウスカ『トラテロルコの夜 メキシコの1968年』(北條ゆかり訳)、藤原書店

イサベル・アジェンデ『パウラ 水泡なすもろき命』(管啓次郎訳)、国書刊行会

テスティモニオについて考えるために、手に入りやすいものでは、以下の2冊。

宮島尚子『トラウマ』岩波新書
中西正司・上野千鶴子『当事者主権』岩波新書

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俗語が頻出するキューバの小説を読んでいたら、その作家は俗語を使うときに、きちんと《 》でくくってくれる。

Diccionario del español de cuba, Gredosを引いて調べてみた。





hachero: Persona que posee amplios conocimientos o habilidad especial para realizar una actividad determinada
pira: ir en pira aで使う。Marcharse de un lugar con prepicitación
pinchar: Trabajar
curralar: Trabajar
jeva(jeba): Mujer
chiva: Persona que delata a alguien
bisne: Negocio ilícito
surnar: Dormir
estar al quilo: Gozar de buena salud
barretín: Conversación larga y tediosa. Asunto difícil, molesto y complicado
avión: Golpe que se da a alguien con la intención de hacerle daño

2020年5月27日水曜日

あれから2ヶ月

卒業式から2ヶ月がすぎた。

この週末はラテンアメリカ学会が立命館大学で開催されるはずだった。この分でいくと秋の学会も難しいような気がする。

イスパニヤ学会は関西外国語大学で10月10日・11日に開催されることになっているが(発表者募集中)、果たしてどうなるのだろう。

 勤め先の大学では、このセメスターのオンライン授業もそろそろ折り返し点が近づこうとしている。緊急事態宣言が解除され、現在は臨時休館している図書館ももうすぐ開くらしい。レポートや論文のことを考えたら図書館が閉まっていたらどうしようもない。僕が住んでいる地域の公共図書館は今週には限定的だけれども開館することになった。このことには心底ほっとする。

映画館ではなんと、6月頭に池袋の新文芸坐では『蜘蛛女のキス』が上映される。こぞって出かけるというわけにはいかないけれども、少し光が見えてきた。

この前、バルセロナの文学研究者が、Zoomによる作家(メキシコ人でバルセロナ在住)のトークに招待してくれて、深夜だったとはいえ、こんな機会はなかなかないので頑張って参加した。

その作家の話はまた別の機会に書くつもりだけれども、スペイン、ギリシャ、米国などなど、様々な地域の人が参加してーーメインの聴衆はその研究者が指導する大学院生だったーー、僕も勢いに乗って質問したりした。楽しかった。

スペイン、とりわけバルセロナは長く厳しい封鎖生活を送っているわけだが、Zoom越しに見える彼ら、彼女らの部屋は白く白く光っていて、建物のデザインにしても陽光の強さにしても、こちらは深夜の寝巻き姿だったこともあって、とりわけ眩しい思いがした。
 
こんなオンラインのトークなら、割合簡単に催すことができるのではないか、そしてやるだけの価値がある、というのが参加しての実感だ。

ではできるのか?と自分に問うてみて、そんな余裕はとてもじゃないけれどもない、というのもまた実感だ。

緊急事態宣言、またそれに類する危機的な状況というのは、とりわけ弱いものに直撃する。もとより日頃から脆弱だったが、なんとか持ちこたえていた「何か」に負荷がかかって、その負荷を受け止めるのは弱いものだ。雇用の現場に限ったことではなく、それは強者と弱者のいるどんなところにも起こり得る。これもまたこの2ヶ月、考えさせられた。

大学のHPにある案内を見て寄付をした。微々たる額だが、それでも下手をすればこのさきしばらく教室とは縁のない日々が続く可能性もある。困っている学生たちのためにできることのうちの一つではある。でも学生たちのためだけではないように思っている。もっと先のための、今は言葉にならないが、何かのとっかかりを掴みたいからだ。

下の写真は5月の半ばすぎの東京外国語大学。天気は不穏で、緑の濃さが印象的。

2020年5月12日火曜日

4月終わりから5月にかけて

4月×日には、本当に久しぶりに大学に行った。どうしても持ち帰っておきたい資料があって、迷っていたのだけれど、気になるならやっぱり行くしかない。天気はいいし、電車に乗客が多いようなら途中で引き返そうと思っていたところ、がらがらで長い椅子の両端それぞれに1人が座っていればいい方だった。久しぶりの大学は新緑で、樹々の葉は鮮やかに輝いていて、ひと気はない(それでも授業日ではあり、何人かの先生方とすれ違った)。郵便物を本当に久しぶりにチェックした。

オンライン授業の開始とともに、Moodleを使い始め、勤務先ではもともとのメール、学務情報システム、それにGoogle フォームを使っている。非常勤先では、ZoomもあるけれどもGoogle Meetも使ってみたりしている。一つのツールに慣れすぎると、他のツールのハードルが高くなるので、慣れないうちに色々と手を出すのがいいのかもしれない。

と思っていたところ、4月×日にはSkypeでオンライン同窓会をやる機会があった。海外にいる人とも繋いだ。オンライン同窓会が増えているというのがここにもきたわけだ。そりゃそうだ、世界どこでも在宅なのだから。

それより前だったか、後だったのか、覚えていないのだが、授業では疫病と文学の話をまくらにしていて、そういう状況で『デカメロン』の設定を考えてみたりすると、結構よくわかったりする。

あれはペストで荒廃したフィレンツェを逃れた10名の若者が物語を語り合う設定で、必ずしも旧知の者同士による同窓会ではないのだが、それでもやはり危機的な状況下で一つの場所に集まり、それぞれが語り合うというところ、今なら誰でもZoomのあの画面を思い出してもいいように思う。集まるのが10人というのもまたZoomの一画面におさまりがよく、この際、それぞれの近況やこんな話あんな話を語り合うオンライン飲み会は、デカメロンなのだと思いたい。

5月に入るといよいよ髪の毛は伸びるし、丸一日PCに向き合っていて腱鞘炎みたいに右手が痺れる。ある明け方、信じたい肩と首の激痛で目が覚めた。PC作業が続いているせいだと思う。その後、鍼治療を受けた。ストレッチポールを使って休めたりもしている。もはやこの新しい、PCに向かい続ける生活をこのままでは続けられないことのサインだ。考えなければいけない。このあとだって、対面式の授業ではできないことが続く。考えなければいけない、というよりは、考え方を変えなければいけないということだ。

そんな中、『群像』6月号が届いた。在宅で編集の方は大変な苦労をされていると聞いた。今回の特集は「翻訳小説」で、翻訳小説70人アンケートというのがあり、そこには私も僭越ながら寄稿した。 というわけで、70人の方々のアンケート結果を興味深く読んだ。そうしたらなんと・・・ それはともかく、今号は他にも現代の(世界)文学について色々な方が書いていて、いや、文芸誌なのだから毎号そうなのだが、いつも以上に面白く読んだ。



近所の散歩は相変わらず続けていて、いよいよ歩いていける範囲のスーパーマーケットは制覇した。歩いていて気づくのは、飛行機がめっきり飛んでいないこと。4月の頭ごろ(この辺りの記憶も曖昧だ)はもっとたくさん飛んでいたような気がする。が、いつの間にか見なくなった。次にどこかに出かけるのがいつのころになるのか見当もつかないが、かといって、これほど素早く変わり続ける世界においては、悪い方に向かってであれ、良い方に向かってであれ、その変化の素早さに変わりはないと信じている。


気がつけば、在宅生活は6週間をこえた。