2016年6月28日火曜日

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて』

アリエル・ドルフマンの邦訳書が出た。

『南に向かい、北を求めてーーチリ・クーデタを死にそこなった作家の物語ーー』岩波書店

 訳者は飯島みどりさん。

500ページ。

チリの話は昨年、パトリシオ・グスマンの映画が方々で話題になって、『チリの闘い』も秋に上映されるようだ


ドルフマンのこの本は、たしかスペイン語版を持っていた。それが原書だと思っていたのだが、訳者による解説を先取りして読んだところ、原書は英語で書かれ、それをドルフマン自身がスペイン語(カステジャノ)に翻訳したものだという。自己翻訳だ。

まだ入手したばかりで未読なので、こんなことまで言うのも大げさだが、この本は、これまでこのブログのエントリー「反帝国主義文学に向けて」で主張したことを強く支えてくれる本だと思っている。

東欧ユダヤ系のドルフマンによって書かれたこの本は、「ラテンアメリカ」について深く考えさせるに違いない。祝祭としての「グローバル文学」、文脈を超えてグローバルに読み解かれたときにまたひとつ豊かになる文学とはたぶん異なって、地域にぴったりと貼り付いた内容と形式だ。

Rumbo al surーー南へ向かう。Deseando el norteーー北を求める。

南に向かい、北を求めて。北を求めて、南に向かう。
 
クーデタ、1973年9月11日。

シカゴ学派、新自由主義。

ピノチェト、独裁。

亡命、アメリカ。

 
原著が出たのは1998年。

ピノチェト逮捕、裁判などに関してドルフマンが発言したものは、たとえば雑誌『世界』に掲載されていて、それを翻訳したのも飯島みどりさんである。とくに記憶に残っているのはピノチェトがロンドンで逮捕されたときのことを書いたものだ。

逮捕されたのは1998年で、ドルフマンの文章は『世界』1999年8月号に載った。読んだ記憶はいまも鮮明に残っているのだが、15、6年が過ぎている。ニューヨークの9.11のほうが、ピノチェト逮捕より後だったことにも驚く。

物理的な時間は過ぎ、そのあいだに当たり前だがラテンアメリカ文学も変わり、文学の読み方も変わった(ような気がする)。

ドルフマンもまた、本書の続編となる自伝を発表している(英語版は2011年、スペイン語版は2012年刊行)。

訳者は紙の本の未来を憂いているのだが、ふと思い至って、amazonでドルフマンのこの自伝や続編がどういう形態で出ているのかを調べてみたら、やはりKindle版でも手に入るようになっていた。時間は過ぎている。

しかし、ガレアーノの『火の記憶』(みすず書房)3巻本に続く、ラテンアメリカニスト・飯島みどりの傑作翻訳書は紙でしか読めない。

なんとガレアーノの本もKindleになっている。

もはや紙の本は日本語だけ?

2016年6月19日日曜日

キューバ文学(25)「カサ・デ・ラス・アメリカス」誌 36-37号

「カサ・デ・ラス・アメリカス」誌はキューバの文化機関が発行している雑誌。1960年から出ていて、いまもまだ継続して出ている。

1966年の36-37合併号を見ている。

特集タイトルは「アメリカ大陸のアフリカ áfrica en américa」である。

























特集の書き手は以下のとおり。

José Luciano Franco
Julio Le Riverend
Roger Bastide
Alfred Metraux
Fernando Ortiz
Nicolás Guillén
Elías Entralgo
Aimé Césaire
René Depestre
José Luis González
Manuel Galich
José A. Benítez
W.E.B.DuBois
Jacques Roumain

Frantz Fanon
Malcolm X
Eduardo E. López Morales
Salvador Bueno

掲載原稿について
・エメ・セゼールは二本掲載されていて、一本は戯曲「De lumumba o una temporada en el congo」、もう一本は「植民地主義論」
・フェルナンド・オルティスは「アフロキューバの料理」
・ファノンは「アンティール人とアフリカ人」
・ジャック・ルーマンは「黒人の不平」
・ルネ・デペストルは「新世界の箴言と寓話」
・サルバドール・ブエノは、Coulthardの著書『カリブ文学論』(1966)の書評
 
[この項、さらに目次と内容について追記する予定]

2016年6月16日木曜日

『モンロー・ドクトリンの半球分割』とその他

すばらしいアメリカ文化研究書が出た。

下河辺美知子編著『モンロー・ドクトリンの半球分割ーートランスナショナル時代の地政学』彩流社。

まだひろい読みなのだが、目次を見ても気分が高揚する。

●モンロー・ドクトリンの半球分割
ー地球(グローブ)についてのメンタル・マップ
/下河辺美知子
●黒い半球
ー『ブレイク』におけるトランスナショナリズム再考
/古井義昭
●ホーソーンとキューバー「ラパチーニの娘」、
『キューバ・ジャーナル』、『フアニタ』
/髙尾直知
●メルヴィルとキューバをめぐる想像力
ー「エンカンタダス」と『イスラエル・ポッター』に
おける海賊(フィリバスター)/小椋道晃
●「善き隣人」のリズムーラルフ・ピアとラテン音楽、
1933 ~ 1945 /大和田俊之
●「長崎の鐘」と(ラテン)アメリカ
ーモンロー・ドクトリンの音楽的地政学/舌津智之
●不確かな半球
ー世紀転換期ハワイにおける日本人劇場建設と
モンロー・ドクトリン/常山菜穂子
●航空時代とアフリカ系アメリカ文学の惑星
ーウォルター・ホワイトのアイランド・ホッピング/竹谷悦子
●南部の西漸と南進
ーゾラ・ニール・ハーストンのクラッカー表象/新田啓子
●近代化された情動
ーカルメン・ミランダとレヴューの終焉/日比野 啓
●モンローは誘惑するーアメリカ最後の一線/巽 孝之

実は今年度の授業でアルゼンチンの教育史の知られざる側面を紹介した文章を読んでいる。アルゼンチンのコラムニスト・ライター、ラウラ・ラモスが新聞で連載したものを、本人から送ってもらった。内容を見て、たいへん興味を惹かれた。

アルゼンチンの教育の父と称されるサルミエントは、19世紀の終わり、北米を旅してボストンでは超絶主義者と深い交流をもった。ホーソーン、ソロー、ホーレス・マン、そしてピーボディ3姉妹らだ。

彼らとの交流を通じ、サルミエントはアルゼンチンにも師範学校を導入しようとする。そして実際にアメリカから女性教師を連れてくるのだが、そう予想どおりうまくはいかない。

ラウラ・ラモスはその顛末を一般向けの新聞に連載した。この5月に彼女が来日したときに授業に来て話してもらったが、このサルミエントの政策は、アルゼンチンではあまり知られていないようだ。おそらく大した成果をあげなかったからだろう。

ラウラはしかし、何かが潜んでいると考え(このあたりがライターの直観だろう)、ネットで調べた。すると、冒険心をくすぐられてアメリカからアルゼンチンまでやって来た女性の回想録や手記が英語で出版されていることを知った。

それらをネットで取り寄せて勉強し、新聞に連載したのである。全20回分あるらしい。いずれ本にまとまるだろう。

ラウラ・ラモスがアルゼンチンにやってきたボストンの女の子たちのエピソードに惹かれたのは、調べていくうちに小さいころの愛読書『若草物語』が、超絶主義のなかから出て来た一作であることを知ったからでもあるらしい。

サルミエントが親しかったのがピーボディ3姉妹だ。そしてこの3姉妹のなかに、キューバ体験をもっている女性がいて文章を残している。このあたりは同じ出版社からでた庄司宏子さんの『アメリカスの想像力』で知ったのだが(この本の存在は南映子さんに教えてもらった)、彼女のことを含めホーソンとキューバも、『モンロー・ドクトリンの半球分割』では扱われている。

その他、ラテンアメリカ研究者にとっては興味の惹かれるものばかりが収められている。今度時間をとってじっくり読みたいと思う。



2016年6月11日土曜日

パブロ・クチンスキ(新ペルー大統領)

ペルー大統領選の決戦投票でケイコ・フジモリ(フヒモリ)と対決し、激戦のすえに勝利宣言したのがパブロ・クチンスキである。

クチンスキという姓。

きっかけは、昨年翻訳されたベルナルド・クシンスキー『K. 消えた娘を追って』(小高利根子訳、花伝社)のことが頭に残っていたからだろう。

クチンスキのスペルはKuczynskiである。

パブロ・クチンスキの父親はマクシメ・クチンスキ(Máxime Kuczynski)という人物だ。この人はベルリン出身で、ナチスの迫害に遭い、まずはソ連、そしてペルーへ渡った。記録によれば1936年のことだという。

ベルリン大学で医学を学んだ医師である。ペルーではハンセン病の治療にあたった。

そして、あのサン・パブロ・ハンセン病療養所の所長をつとめていたらしいのである。

そう、ブエノスアイレス大学の医学部生ゲバラが訪れた場所だ。『オートバイ日記』(邦訳『モーターサイクル・ダイアリーズ』)に記されている。映画にも出てきて、この療養所のエピソードは映画ではゲバラの人生を変えることになる契機として描かれている。

クチンスキ医師がこの療養所に何年から何年までいたのかはわからない。なので、ゲバラと会ったのかどうかはわからないが、時期は近いような気がする。手元にゲバラのその本も映画もないので確認できないが、もしかするとその人かもしれない。

2016年6月7日火曜日

カリブ研究の学術雑誌:Anales del Caribe(カリブ年報)

キューバの文化機関「Casa de las Américas」が刊行している「Anales del Caribe」を整理した。残念ながら全号を持っているわけではない。出て来たのは以下の10冊。3言語(西、英、仏)併用学術誌。

Anales del Caribe, Núm 1, 1981.
---, Núm 2, 1982.
---, Núm 3, 1983.
---, Núm 4-5, 1984-85.
---, Núm 7-8, 1987-88.
---, Núm 9, 1989.
---, Núm 19-20, 1999-2000.
---, 2003. ※以降ナンバリングなし
---, 2004.
---, 2008.




今後、各号の内容について加筆予定

2016年6月6日月曜日

ピニェーラとセゼール


キューバの批評家ガストン・バケーロ(1914ー1997)は1943年、「我々の文学傾向 Tendencias de nuestra literatura」で、1943年のキューバ文学状況を概観している。そのなかで、レサマ=リマやピニェーラが出していた雑誌について述べている。下に引用するのは、「Poeta」誌の意義について記している箇所。ピニェーラがキューバではじめてエメ・セゼールを紹介したとしている。下線は引用者。

«Nadie Parecía» fue seguida por la revista «Poeta», dirigida por Virgilio Piñera. A diferencia de las revistas ya mencionadas, esta última se caracteriza por su encendido tono polémico, revisionista, agitador. Pone el énfasis en la última generación, en la última tendencia literaria. Tiene algo de fulminante en sus juicios. Su director ha querido rehuir todo lo que pudiera parecer un pacto con las generaciones anteriores de nuestra poesía, con el pasado, por inmediato y valioso que este sea. Y aunque se aparta de lo religioso, de lo católico, deliberadamente, y busca la proximidad con movimientos como el de los surrealistas franceses (fue la primera publicación cubana que dio a conocer a Aimé Cesaire, el poeta martiniquense difundido en la Revista de las VVVV, de Bretón) aún en su misma agresividad e impresión de convulsionismo, esta revista es magnífica prueba también de cuan difícil resulta la expresión espiritual entre nosotros actualmente. Lo que las otras quieren resolver por la simple obra, más o menos intensa, «Poeta» quiere resolverlo, resolverlo de un golpe, por la polémica, por el tambalearse de obra y personas, por el terremoto que subvierta las capas terrestres y ponga las entrañas sobre la superficie. Y todo esto, realizado con una genuina sinceridad, tocando en ese frenesí que la pasión alcanza cuando desespera de arribar al puerto entrevisto en la sombra. No le basta con ser inconforme, no conformista, sino que se siente obligada a gritarlo desnudamente. Si las otras revistas llevan un cierto aire de altar resignado, de manso heroísmo, «Poeta» es el grito, la convulsión, la resistencia, la protesta. Se encuentran en sus páginas trabajos de María Zambrano, Adolfo Fernández de Obieta, Aimé Césaire, y otros. 

ガストン・バケーロのこの文章全体はこちら

2016年6月3日金曜日

ニコラス・ギジェン、エメ・セゼール、ビルヒリオ・ピニェーラ(1)

ニコラス・ギジェンの1934年の詩、エメ・セゼールの1939年の詩、ビルヒリオ・ピニェーラの1943年の詩。

ニコラス・ギジェンの「西インド諸島株式会社 West Indies, Ltd.」(1934)
1.
¡West Indies! Nueces de coco, tabaco y aguardiente...
Éste es un oscuro pueblo sonriente, conservador y liberal,
ganadero y azucarero,
donde a veces corre mucho dinero,
pero donde siempre se vive muy mal.
El sol achicharra aquí todas las cosas,
desde el cerebro hasta las rosas.
Bajo el relampagueante traje de dril
andamos todavía con taparrabos;
gente sencilla y tierna, descendiente de esclavos
y de aquella chusma incivil
de variadísima calaña,
que en el nombre de España
cedió Colón a Indias con ademán gentil.


続いてエメ・セゼールの「Retorno al país natal」(1939)。翻訳はリディア・カブレラによる。
Al morir el alba...
Lárgate, le dije, jeta de policía, cara de vaca, lárgate, odio a los lacayos del orden, y a los abejones de la esperanza. Lárgate malévolo 《gris-gris》, chinche de monaguillo. Después me volví hacia los paraísos perdidos para él y sus pariguales, más sereno que el rostro de una mujer que miente, y allá, mecido por los efluvios de un pensamiento inagotado, alimentaba el viento, desataba los monstruos, y escuchaba subir del otro lado del desastre, un río de tórtolos y tréboles de la sabana que siempre llevo dentro a la altura invertida del vigésimo piso de las más insolentes casas y por precaución contra la fuerza putrefactora de los ambientes crepusculares que recorre noche y día un sagrado sol venéreo.

ビルヒリオ・ピニェーラの「La isla en peso」(1943)
La maldita circunstancia del agua por todas partes
me obliga a sentarme en la mesa del café.
Si no pensara que el agua me rodea como un cáncer
hubiera podido dormir a pierna suelta.
Mientras los muchachos se despojaban de sus ropas para nadar
doce personas morían en un cuarto por compresión.
Cuando a la madrugada la pordiosera resbala en el agua
en el preciso momento en que se lava uno de sus pezones,
me acostumbro al hedor del puerto,
me acostumbro a la misma mujer que invariablemente masturba,
noche a noche, al soldado de guardia en medio del sueño de los peces.
Una taza de café no puede alejar mi idea fija,
en otro tiempo yo vivía adánicamente.
¿Qué trajo la metamorfosis?



(この項、断続的に続く)

2016年6月1日水曜日

研究会の告知(戦争と社会主義のメモリースケープ)

研究会のお誘いをうけて、発表する予定だ。

日時:6月18日(土曜日)13時から18時
場所:愛知教育大学教育未来館2A


 
共産圏の文化比較はいまの自分にとても関心のあるテーマで、楽しみにしている。