2022年3月25日金曜日

3月25日/キューバのウクライナ

ハバナ東部のビーチ、タララ(Tarará)は元々、キューバで学業優秀な子供が夏のひと時を過ごすために送られる場所だった。ボーイスカウトのキューバ版があって、スカウトされた子たちは、そこであれこれ訓練を受けるわけだ。もちろん子供達が楽しめるような娯楽施設も整っていた。80年代のキューバで少年少女時代を送った人たちにとって忘れ難い場所だ。

そこは、1986年のチェルノブイリ事故の後、1990年から、26000人以上の原発被害を受けた子供たち(ウクライナ、ロシア、ベラルーシの出身)を受け入れる場所にもなる(タララ小児科病院の設立)。そのプロジェクトは2011年ごろまで続いていた。

実際にここでキューバ人の子供たちと「ロシア人」の子供たちとの間でどれくらいの交流があったのかはわからない。治療が目的だったから、医師や看護に当たった人たちはともかく、子供同士はあまり付き合いはなかったのだろう。

2021年(つまり昨年)、アルゼンチンの映画作家エルネスト・フォンタン(Ernesto Fontan)はこれを題材にドキュメンタリー映画『タララ(Tarará)』を発表した。残念ながらそのドキュメンタリーを見ることは叶わないのだが、Youtubeにトレイラーがあり、記事もたくさんある。BBCスペイン語はこれ。他にもこれこちらは2009年のEl Paísの記事。ぜひ映画を見てみたいものだ。

----------------

今年の春は、暖かくなろうとしているのか、まだ冬でいたいのかわからないような進み方で、例年なら卒業式の時期には桜も満開になり、桜もすっかり卒業式の花になってしまったと思ったものだが、まださっぱり咲いている感じはない。

季節が進んでいるのか止まっているのか戸惑うこの春という季節。変わっていくこと、新しい時が来ることへの不安というか、年齢的に下り坂に差し掛かっていると、竹内まりやの「人生の扉」ではないが、「この先[春を]いったい何度見ることになるだろう」という思いが身に沁みる。

こういうどっちつかずの時期に年度を入れ替えることになっているこの暦は、出会いや別れの演出にとってうまくいきすぎているような気がしないでもない。秋入学に切り替えるのは難しいのではないか。

南半球のアルゼンチンも基本的には3月や4月が新年度の始まりで、これは日本から長期の滞在で行く時にはありがたい。ちょうどセマナ・サンタ(聖週間)の連休があって、一息つける。でも3月から4月は向こうの秋の始まりだから、つまり欧米流ということになる。

そういえば、アルゼンチンでは厳密に3月の「秋分の日」(日本では春分の日)を秋の始まりと考えるらしく、3月半ばあたりに、「そろそろ秋ですね」などと日本における季節の挨拶感覚で言うと、「秋は3月××日に始まる」と返されたりする。

無事に卒業式も終わって、年度最後の会議も終わった。自分にとってはこの2年の間、教室で会った学生のことは忘れられないように思う。場を共有した人たちへの愛着、スペイン語でいうところのapegoというのは剥がれていくのに時間がかかるが、新しい方向に光も見えて、なんとかなりそうな気がしてきた。

写真は3月24日の多磨の桜。




2022年3月19日土曜日

3月19日 コロンビア・カリブの兄貴たち/中東現代文学選2021

中東現代文学研究会[編]/岡真理[責任編集]『中東現代文学選2021』が届きました。プロジェクトのHPはこちら



 


ここに、ルイス・ファヤッド「ベイルート最後の日」を翻訳しました。ファヤッドはレバノン系コロンビア人で、しばらく前からベルリン在住。

ファヤッド氏と面識はなかったので、翻訳するにあたって、コロンビアの研究者に連絡をとり、最終的にご本人とメールのやりとりができました。

彼の本では最近、長編『エステルの親戚(Los parientes de Ester)』が、CátedraのLetras Hispánicasに入っています。

Luis Fayad, Los parientes de Ester, Cátedra, 2019.



Cátedra版の解説を書いているのはホセ・マヌエル・カマチョ・デルガド氏(セビーリャ大学)なのだが、コロンビア・ハベリアナ大学のクリスト・フィゲロア(Cristo Figueroa)がかなり協力したようである。

最近のCátedra版の解説(というか実際には序論ではあるが)はやたらに長く、ファヤッド本の場合には、200ページ以上ある小説の長さには及ばないものの、150ページほどの序論である。長すぎやしないかと思うが、文献目録が充実しているわけでありがたい。ここにはコロンビアでお世話になった人の名前が出てくる。

クリストと最初に会ったのはもう20年以上前のこと、ハベリアナ大学の研究室を訪ねた。その時にはメールでやりとりするようなことはなかったが、2008年ごろだったか、カルタヘナでもう少し親しくなり、今回彼にメールしたらすぐにファヤッド氏の連絡先を教えてくれた。

その頃のカルタヘナには、作家のオスカル・コジャソス(Óscar Collazos)がいた。雑談しているときに、彼がキューバの「カサ・デ・ラス・アメリカス」に招かれ、ちょうど1969年から1970年ごろの緊迫した時代に、あの現場にいたことを教えてくれた。

ラファエル・ロハスの『安眠できぬ死者たち』(2006)が出た後だったからそんな話になった。コジャソスは、1970年ごろのレサマやピニェーラをみていたのだ。

このコジャソスは2015年に72歳で亡くなってしまった。Twitterでの彼のほぼ最後のツィートは忘れられない。病気で入院していることが伝わっていた彼が亡くなったとの誤報を流した記者がいて、本人がそれを否定した。

「まだ吠えている犬を殺すな(No mates al perro que todavía ladra)」

楽園の犬は吠えないなんてコロンブスしか言わない。このツィートから3、4日後、彼は亡くなった。こうありたいものだ。人は死ぬまで生きている。

そしてカルタヘナで知り合って、何から何までお世話になった友人アルベルト・アベーリョも亡くなってしまった。なんと61歳で。アラカタカ行きを手配してくれたのもアルベルトだった。

アルベルト・アベーリョ・ビーベス(Alberto Abello Vives, 1957-2019)は、カルタヘナのカリブ研究所の所長をしていたり、大学で教えていたり、いろんな肩書を持っている人ではあった。

彼が催したフィエスタには、バランキーリャのアリエル・カスティーリョ(Ariel Castillo Mier, アトランティコ大学)も来ていた。その頃、かつて4年連続で通ったバランキーリャのカーニバルに行けてなかったのでアリエルは言った。「バランキーリャはお前を許さないぞ!」

アルベルト・アベーリョ・ビーベスはバジェナート歌手のカルロス・ビーベスの親戚で(と言ったって、大勢いる親戚のうちの一人だが)、カリブのサンタ・マルタ出身。サンタ・マルタ出身者をスペイン語では「サマリオ(samario, samaria)」と言う。

アルベルトは、カルタヘナのバリオを隅々まで知っていて、現金でしか支払えない、地元の人しか知らないような、とても居心地の良いオスタルやレストランに連れて行ってくれたものだ。

観光客が中心のレストランに行ったりすると、こういうところはよくない、もっといいところがあるといいたげだった。どこを歩いてもどこに行っても必ず知り合いがいる町の名士だった。彼からのメールは「AA」で結ばれていた(AlbertoのAとAbelloのA)。

オスカルやアルベルト(やその他の研究者たち)はコロンビアにいる兄貴のような人たちだった。彼らはコロンビアのカリブ地方について、こちらの想像もつかないような大きなリスクを背負って書いているように見えた。

ファヤッド氏の短編を、こうしてコロンビアでの経験を生かして翻訳ができたことはとても嬉しい。オスカルとアルベルトと知り合っていなければ、この作品を翻訳することはなかっただろう。

---------------

いよいよ桜が咲きそうな気配の中でピアノの練習をしたりして、できないところはいつまでたってもつっかえる。

写真は土曜日なのに大学での桜。


2022年3月6日日曜日

近況(2022年3月6日)

2年前のいまごろはキューバにいて、猫の写真を撮ったりしていた。

ちょうどコロナウィルスの危機が迫っている時で、空港でも普段はされたことのないメディカルチェックがあって、その後は宿泊先にも連絡が入り、近くの診療所に行かされた。でも思い出してみると、2009年の豚インフルの時にもハバナの空港職員は黒や緑のマスクをしていた。

2020年3月の猫写真を上のサイトにもっと載せてもらってもよかったのだが、例えば以下のような猫たち。






2年前はコロナがこんなことになるとは思っていなかった。そのころの記憶は凍結されたまま(というか体験が経験になる時間を経ないで)2年がすぎてしまったような気がする。

診療所に行かされたと言っても、実は宿泊していた宿の人は診療所から連絡があっても黙っていてくれて、痺れを切らした診療所から督促があったので、滞在の終わりごろになってようやく出向いた。行ってみると、担当の看護師さんに、「探してたんだから・・・」というような笑顔。




ここでまず最初にされたことは、身長測定と体重測定だった。え?ほんと?と思った。その後は診察をしながらカルテを書いていた。喉の痛みや咳がないかどうかを聞かれ、それでおしまいだった。

その時に乗った航路が復活しているのかどうかを調べてみたら、残念なことに、まず羽田からトロントまでのエアカナダの直行便がなくなっている。トロントからハバナへの航路も途絶えているようだ。現在、ネットでハバナ行きを検索すると、パリ経由の便が出てくる。パリとハバナの間にはフライトがあるわけだ。

ちょっとしたショックを味わった。なんだかキューバがとてもとても遠くに感じた。

それでも時は流れている。

いま、いくつかの仕事が手を離れ、一瞬の隙間が生まれている。そして苦手な春。2月の間は、早く暖かくならないものかと思っていて、今年はやけに長い2月だと感じたのだが、いざ春風が吹きはじめると、途端に辛くなる。すがるものがないような気がして…… (でも嬉しい知らせもあって、科研が採択されました!数年続けて落ちていたので…… 審査して評価してくださった先生方には感謝)


2年前のキューバとコロナ、そして今の戦争が強く結ばれて、ますます言葉にならない、言葉にできないことが、体の中でうなり続けているような感じ。

2年前(もうこれで何回目の「2年前」だろう)のキューバ滞在の時、「カサ・デ・ラス・アメリカス」の雑誌でフェルナンド=レタマール追悼号が出た後で、それを手に入れたりした。




ロシア文学やロシアの社会主義リアリズムのキューバでの展開について話を聞いたりしていた。その一部は、1年前の社会主義リアリズム文学研究会で発表した。その後、博士論文の審査があったりもしたのだが……。

戦争が始まった後、キューバに住んでいるロシア系キューバ人に電話をした。同じ世代の人で、話していて、なんとなく安心感がある。その人のお母さんはウクライナの人というか、ウクライナの人(祖母)とロシアの人(祖父)のあいだに生まれた人で、現在はベラルーシに住んでいる。え?ベラルーシなの?と思わず聞いてしまった。

キューバの事情としては、昨年7月に起きた大きな抗議行動以降、その人はSNSには触れないようにしているという。それでも元気そうだった。

ハードルが目の前にあることがわかっていて、それをどうやって乗り越えるか思案していくのであれば、それはまだましだ。

まずは目の前にあるのがハードルかどうかすらわからない。ハードルであることに気づくのにさえ時間がかかる。どちらかというと自分はそういうタイプだ。もしかしてハードルにつまづいて地面に転がっているのかもしれない。そしてそのことにも気づけていないのかもしれない。


もうあと一ヶ月で新しい年度がはじまろうとしている。

---------------

バルガス=リョサの『ケルト人の夢』の読書会は順調に続いていて、3月中に読み終わり、6月末にはなんらかの形でワークショップをやろうと計画を立てている。

あ、そうそう。Instagramはじめました。リンクの貼り方わかりません。

今、過去のブログのエントリーを見たら、2年前にも猫の写真をあげています。