2022年1月21日金曜日

フランシスコ・オリェール(プエルト・リコの画家)

プエルト・リコの画家フランシスコ・オリェール(その時は、オジェルと表記した)のことは、以前このブログのどこかで書いた。

彼について日本語の文献があるとは思っていなかったが、それは大きな勘違いだった。本が出ていたのだ。

しかもその本は自分が学部時代に読んだのと同じ作者によって書かれたものであって、まさかこんな形で出会うとは!

リンダ・ノックリン『絵画の政治学』(坂上桂子訳)ちくま学芸文庫、2021年。




オリェールが取り上げられるのは、この本の第2章、「クールベ、オリェールと場所の意味」である。

リンダ・ノックリン(1931-2017)はアメリカの美術史家で、『絵画の政治学』は英語で書かれているが、2章の冒頭にかっこ付きで使われている「時代性をもたなければならない」という表現は、これは賭けてもいいが、フランス語で書かれているはずだ。以下のように。

il faut être de son temps”

このフランス語こそ、リンダ・ノックリンを学部の授業で読んだときに悩まされた表現で忘れられない。

「『時代性をもたなければならない』という標語は、一九世紀リアリズムの概念の核としてしばしば引用されてきた。「人は自らの時代を生きるべきだ」とは、クールベや彼の仲間達の闘争のモットーであった」(p.66)

これが『絵画の政治学』の第2章の冒頭の続きである。

1980年代の学部の授業で使われた教材は、彼女の1971年の『Realism』である。難しかったが、こうして覚えているということは、やはり意味があったのだろう。

それは、原典講読という授業だった。今はこういう授業科目はあまりないが、大体どんなカリキュラムにもあった。

この授業では英語の原典を読んだ。ドイツ語やフランス語の原典講読ももちろんあった。ドイツ語の方をとった。そこではドイツの画家マックス・ベックマンが論じられていて、そのテキストの中にはディエゴ・リベラが出てきたことを克明に覚えている。

授業で『Realism』の一部の訳出を担当したが、その箇所にこのフランス語(il faut être de son temps)が出てきて、しかもこれが、上に引用した通り、彼女の著書の鍵概念だったわけで、フランス語は知らなかったものだから、苦労したものだ。


19世紀リアリズムを考えるこの本では、カラヴァッジョの絵のことも出てきて、ちょうどこの頃だったか、デレク・ジャーマンが撮った映画もあったりした。映画は1986年だからいつ見たのか。

そしてこの2章でノックリンは、こう続ける。

「しかしながら私には、リアリズムの構想には、これに劣らず重要なもう一つの忠告が含まれていたように思われる。それはすなわち、同時代性への関心と時には関連しつつ、時には矛盾を呈するが、『人は自らの場所を生きるべきだ』ということである」

そしてその事例としてクールベの『オルナンの埋葬』とプエルト・リコの画家オリェール(1833-1917)の絵が引用されるのだ。

オリェールの絵は幼くして亡くなった子の通夜を壮麗に描いたもので、音楽あり踊りあり、涙はできる限りなしという、そういうどんちゃん騒ぎの通夜とは、現地風に言うなら、バキネーである。カリブ地方という自らの場所を生きた画家オリェールの最も言及されることの多い作品である。

[この本で、オリェールの絵のタイトルは「目覚め」と日本語に訳されている。巻末にあるように英語ではThe Wakeである。スペイン語原題はEl Velorio、つまり通夜である。]

この絵が73 ページに図版として入っていて、びっくりしてしまった。『絵画の政治学』は1996年にすでに日本語に翻訳されていて、今回ちくま文庫に入った。あとがきによれば、ノックリンは2009年に来日もしていた。

ぜひ『Realism』も日本語になって欲しいものだ。

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この時期の仕事に根を詰めると、確実にめまいや肩こりに襲われ、一旦それが始まると、数日間は何にもできなくなるので、絶対に無理してはいけないと言い聞かせながらやっている。しかしセーブするのは案外難しい。

2022年1月12日水曜日

コロンビアのユダヤ人(続き)/近況

前便で触れた、シモン・グベレック(1903-1990)の文章の全体を収めたのが以下の本。

Simón Guberek, Yo vi crecer un país, Departamento Administrativo Nacional de Estadística, Bogotá, 1974.




序文を書いているのは、ルイス・ビダレス(Luis Vidales、1904-1990)。コロンビアの数少ない前衛詩人のひとりで、なるほど、創作のかたわらでこういうことをやっていたのだなあと思った。

この本の元原稿はイディッシュ語で書かれ、それは1973年にブエノスアイレスで出版されている。

その原稿に目を通して、若干スペイン語に手を入れたのがルイス・ビダレスなのだが、ビダレス以外にもこの本の出版に協力した人たち(10名以上)がいるようで、そのを記念写真が収められている。

なるほど、これはゴンブローヴィッチが『フェルディドゥルケ』のスペイン語翻訳版をブエノスアイレスの文壇と協力して出したのと同じようなことが、ボゴタでも起きていたということだ。

第1章:コロンビアへの移住まで。ポーランドのこと。

第2章:コロンビアのユダヤ人 パート1

ここが前便で紹介したバランキーリャから首都ボゴタへの移動

第3章:コロンビアのユダヤ人 パート2

ボゴタのユダヤ人経営のレストランにユダヤ人たちが集っていた話が語られている。レストランの店主はMax Szapiroという人。この店ではワインやウォッカ、90度以上の酒までが供され、ユダヤ人たちはコロンビア料理から故郷の料理まで楽しんでいた。しかもそこにはキューバから流れ着いたユダヤ人もいて、彼らの話す「キューバ語」に驚いたり喜んだり。多くのコロンビアのユダヤ人との付き合いが具体的に書かれていて、いずれこのブログでも紹介したいSalomón Brainskiへの言及もある。

第4章:グベレックの知り合ったアメリカ大陸の偉人たち

第5章:コロンビア各地を訪れたときの紀行だが、随筆風

ポパヤンに行ったときの話には、チラリとその地のユダヤ系作家ホルヘ・イサアクスに言及したり(「ポパヤンではエルサレムが息づいている」「ここにはかつて『マリア』の偉大な作者がいたのだった」)、カルタヘナへ行った時には異端審問所跡を訪ねたり。各地でユダヤ系の人びとと出会い、語らっている。

第6章:日常の出来事や旅日記など

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先日、京都で中東現代文学研究会に参加して発表してきた。

年始に「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という羽仁もと子の言葉を知った。

1月6日の夜の雪景色。