昨日、大学からZoomアカウントの配布があり、正式版(Pro版?)を使えるようになった。今後は使い方について学んでいく。この先どうなるにしても、授業はできるようにしておこう。
スペインの大学の先生と連絡を取っているが、買い物程度ぐらいしか外に出られない状態でもオンライン授業をしているとのこと。
ここ数日、思い立ってガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を、日本語では初めて通読してみた。スペイン語で初めて読んだのは今からほぼ20年前のことだ。年末のメキシコ、太平洋岸で、海を見ながら読み進めた記憶がある。その時はオベハ・ネグラ(Oveja Negra)というコロンビアの出版社から出ていた黄色い本で、あの頃ガルシア=マルケスといえばたいていはそれだった。なぜかその版は見つからない。
そのあとも、日本語訳が出る前にもう一度読んだし、2006年に出た日本語版は、部分的に何度か読むこともあったのだが、最初から最後まで一気に読んでみると、思い出す細部あり、初めて読むようにして楽しめる箇所ありだった。
せっかくなので授業でもこの本をネタに何かを話そうと思ってメモを取っている。映画版もあるけれども、どこを見せたら良いものか切り取り方も難しく、授業で使うのは難しいだろう。でもせっかく小説を読み終えたばかりだから、映画も見直しておこう。
この小説を読んだら、引き続きフアン・ガブリエル・バスケスの『コスタグアナ秘史』を読むとなお面白いことは間違いない。
どちらも19世紀から20世紀初頭と物語の時間も重なり合うし、何しろ『コスタグアナ秘史』では、コレラではなく黄熱病が猛威をふるっている。この病気のことでは、野口英世もかかわり、彼が1920年代に南米を訪れていることも思い出される。
ちょっと考えただけでも、ポスト植民地時代の都市、社会、人種、科学技術(史)、欧米文化の流れ込み方、多くのことを教えてくれる。もちろん植民地における愛の形についても。
下は買い物に出た時に撮った自宅近くの桜。
El mundo cambia constantemente.
ラテンアメリカ文学、キューバの文学、カリブの文学などについてメモのようなものを書いています。忘れないように書いているというのもあるけれど、忘れてもいいように書いている。書くことは悪魔祓いみたいなもので、書くとあっさり忘れられる。それがいい。
Escribir es un acto de exorcismo. Escribir cura, alivia.
2020年3月31日火曜日
2020年3月29日日曜日
近況:3月29日
3月25日は卒業式で、例年ならば朝から大学に出かけ、午前の言語文化学部、午後の国際社会学部の卒業式に出ただろう。そしてその合間に、ゼミ生と写真を撮ったりしたものだ。
今年は卒業式は中止になった。
その代わり、27言語による祝賀スピーチはこちらで見られる。冒頭のポーランド語の先生は、まるで映画のような美しい映像である。
大学の授業は、非常勤先の大学も含め、4月の後半あるいはGW明けにはじまる。おおむねどの大学からもオンライン授業が提案されているが、具体的な方法はまだ待っている段階だ。
各大学が備えている「授業支援システム」をベースにして、そこに教員それぞれのアイディアを展開させる自由が保証されるのであれば、受講人数によるとはいえ2〜3週間ならなんとかなるかもしれないが、仮にその期間が延長されるようになったら、立ち行かないだろう。
とはいえ、感染予防のための1.5メートルから2メートルを確保するとなると、教室での対面式授業はしばらく難しいと思っていた方がいいかもしれない。
この前の都知事の記者会見の翌々日、つまり3月27日から原則として在宅勤務になり、これは3週間継続されることになっている。
今は目の前の仕事、そして来るべき新年度のための仕事に着手しつつ、その後の見えない部分に想像力を働かせつつ、楽観もせず、また悲観もせずにいたい。
今年は卒業式は中止になった。
その代わり、27言語による祝賀スピーチはこちらで見られる。冒頭のポーランド語の先生は、まるで映画のような美しい映像である。
大学の授業は、非常勤先の大学も含め、4月の後半あるいはGW明けにはじまる。おおむねどの大学からもオンライン授業が提案されているが、具体的な方法はまだ待っている段階だ。
各大学が備えている「授業支援システム」をベースにして、そこに教員それぞれのアイディアを展開させる自由が保証されるのであれば、受講人数によるとはいえ2〜3週間ならなんとかなるかもしれないが、仮にその期間が延長されるようになったら、立ち行かないだろう。
とはいえ、感染予防のための1.5メートルから2メートルを確保するとなると、教室での対面式授業はしばらく難しいと思っていた方がいいかもしれない。
この前の都知事の記者会見の翌々日、つまり3月27日から原則として在宅勤務になり、これは3週間継続されることになっている。
今は目の前の仕事、そして来るべき新年度のための仕事に着手しつつ、その後の見えない部分に想像力を働かせつつ、楽観もせず、また悲観もせずにいたい。
2020年3月20日金曜日
アントニオ・ホセ・ポンテの新作
アントニオ・ホセ・ポンテの新作。
キューバ作家のフェルミン・ガボールの原稿をアントニオ・ホセ・ポンテがまとめた。
Fermín Gabor, La lengua suelta(Edición de Antonio José Ponte), Renacimiento, Sevilla, 2020.
表紙・タイトルはこのようになっている。
著者名は確かに、フェルミン・ガボール(Fermín Gabor)とある。
本のタイトルは「La Lengua suelta」。これは、「うっかり口を滑らして言ってしまったこと」いうような意味ととっておく。
フェルミン・ガボールが書いたさまざまな原稿があり、それをアントニオ・ホセ・ポンテが編集してまとめたもの、という表紙になっている(Edición de Antonio José Ponte)。
フェルミン・ガボールとは何者か?どうやら筆名らしい。ブダペストに住んでいるキューバ作家だとか。
実はウェブ、Habana Eleganteにフェルミン・ガボールの連載コラムがあって、そのコラムの名前が「La lengua suelta」なのだ。そして、この本はなるほど、そのコラムなどの原稿をまとめたものではある。
アントニオ・ホセ・ポンテの序文の冒頭は以下のように始まっている。
「 フェルミン・ガボールが、コラム『La lengua suela』でとりあげていた人々ーー作家、編集者、政治委員、大臣、密告者などなどーーよりも早くこの世から消えてしまったのは残念でならない。この本にまとめたもの以上に彼の原稿がないことは残念でならない。さらに、彼に言及された多くの人々が生き続けていることも残念でならない。文字通り意味なく生き延びているだけだというのに。」
さて、ガボールとは誰だろうか? ガボールとはポンテなのか? それとも、もっと多くの人の匿名の声の集合なのか?
本は分厚い。700ページ以上あって、後半は、前半に出てくる実在の人名について、ポンテがアルファベット順に並べて注をつけたパートである。
ま、いろんな人が出てくる。ビルヒリオ・ピニェーラ、レイナルド・アレナス、アンブローシオ・フォルネー、ホルヘ・フォルネー、カルラ・スアレスなどなど。
とても壮大な仕掛けだ。面白い。
ちょうど、Cuadernos hispanoamericanos(836号)でポンテのインタビューが掲載されている。この本の話もしている。
--------
最近キューバ関係の本のうち半分を整理してようやく本棚にざっとおさめた。長かった。床に積み上げる方が本はたくさん置ける。でもそれではいざという時に出てこない。
コロナウィルスが原因で大学の授業開始は2週間繰り下げになった。
キューバ作家のフェルミン・ガボールの原稿をアントニオ・ホセ・ポンテがまとめた。
Fermín Gabor, La lengua suelta(Edición de Antonio José Ponte), Renacimiento, Sevilla, 2020.
表紙・タイトルはこのようになっている。
著者名は確かに、フェルミン・ガボール(Fermín Gabor)とある。
本のタイトルは「La Lengua suelta」。これは、「うっかり口を滑らして言ってしまったこと」いうような意味ととっておく。
フェルミン・ガボールが書いたさまざまな原稿があり、それをアントニオ・ホセ・ポンテが編集してまとめたもの、という表紙になっている(Edición de Antonio José Ponte)。
フェルミン・ガボールとは何者か?どうやら筆名らしい。ブダペストに住んでいるキューバ作家だとか。
実はウェブ、Habana Eleganteにフェルミン・ガボールの連載コラムがあって、そのコラムの名前が「La lengua suelta」なのだ。そして、この本はなるほど、そのコラムなどの原稿をまとめたものではある。
アントニオ・ホセ・ポンテの序文の冒頭は以下のように始まっている。
「 フェルミン・ガボールが、コラム『La lengua suela』でとりあげていた人々ーー作家、編集者、政治委員、大臣、密告者などなどーーよりも早くこの世から消えてしまったのは残念でならない。この本にまとめたもの以上に彼の原稿がないことは残念でならない。さらに、彼に言及された多くの人々が生き続けていることも残念でならない。文字通り意味なく生き延びているだけだというのに。」
さて、ガボールとは誰だろうか? ガボールとはポンテなのか? それとも、もっと多くの人の匿名の声の集合なのか?
本は分厚い。700ページ以上あって、後半は、前半に出てくる実在の人名について、ポンテがアルファベット順に並べて注をつけたパートである。
ま、いろんな人が出てくる。ビルヒリオ・ピニェーラ、レイナルド・アレナス、アンブローシオ・フォルネー、ホルヘ・フォルネー、カルラ・スアレスなどなど。
とても壮大な仕掛けだ。面白い。
ちょうど、Cuadernos hispanoamericanos(836号)でポンテのインタビューが掲載されている。この本の話もしている。
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最近キューバ関係の本のうち半分を整理してようやく本棚にざっとおさめた。長かった。床に積み上げる方が本はたくさん置ける。でもそれではいざという時に出てこない。
コロナウィルスが原因で大学の授業開始は2週間繰り下げになった。
2020年3月11日水曜日
キューバの金日成、Pensamiento Crítico誌
前のエントリーの続き。
『Pensamiento Crítico』1971年5月(52号)には、金日成(Kim Il Sung)の講演原稿が載っている。
タイトルは「資本主義から社会主義およびプロレタリア独裁への移行期にまつわる諸問題について」
本号にはウィルフレッド・バーチェット(Wilfred Burchett、1911-1983)も寄稿している。
この人は、ベトナム、カンボジア、アフリカ、その他植民地諸国に関する著作が日本語にも多数翻訳されているオーストラリア人の記者で、ウィキペディアの日本語版も充実している。
広島の原爆報道について先駆的な報道をしたのがこのバーチェットなのだが、彼の報道を否定するように、『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者ウィリアム・L・ローレンスは、放射能恐怖を「日本によって広められているプロバガンダ」と報じた。
この記事でピュリッツァー賞を受賞したウィリアム・L・ローレンスは、その新聞社と米国政府から報酬を得ていることがわかっている(ガレアーノ『日々の子どもたち』、p.209-210より)。
「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンは、ウィリアム・L・ローレンスのピュリッツァー賞を取り消すように求めている。
ウィルフレッド・バーチェットがこのキューバの雑誌に寄稿したのは、戦後日本の韓国に対する新植民地主義に関するレポートと、ポルトガルの植民地主義をめぐるレポートである。
というわけで、いま手元の『Pensamiento Crítico』をまとめて並べてみた。以下は現物を持っている。
1967年6月(5号)
1967年8月(7号)
1967年9月(8号)
1967年10月(9号)
1968年1月(12号)
1968年3月(14号)
1968年5月(16号)
1969年4月(27号)
1969年8月(31号)
1969年9月(32号)
1969年10月(33号)
1970年3月(38号)
1970年4月(39号)
1970年4月 特別号
1970年5月(40号)
1970年8月(43号)
1970年9月(44号)
1970年10月(45号)
1971年4月(51号)
1971年5月(52号)
1971年6月(53号):最終号
ちなみに1号から13号まではウェブで読むことが可能。
キューバにいる人、行く人、もしよかったら、欠けている号を探してください。高価で買い取ります(笑)。
噂では、私も出かけたベルリンのイベロアメリカ研究所が最近、キューバで色々探し回っているようです。
--------------
以下は旅のメモ。
キューバにはエアカナダを利用してトロント経由で出かけたのだが、このフライト、日本は羽田発で、しかも同じ日に到着するので便利だと思っている。
今回は2年ぶりだったので、便利だったという記憶だけを頼りに、深く考えずに予約したのだったが、出発間近になってから、そういえば、と思い出した。
それはハバナの到着が遅いこと。予定通りに飛んでも夜11時45分着である。
この時間に空港に着いて市内に向かうと、宿泊先に落ち着けるのは1時過ぎ。とはいえ、それはフライトが予定通りで、預けた荷物が順調に出てきてのことだ。
そうはいかないことの方が多い。なんでこんな大切なことを忘れていたのだろう。
何年か前、トロントの出発が遅れ、結局ホテルに着いたのは3時近かった。その時は空港にタクシーがなく、飛行機で一緒になったキューバ人の家族に乗せてもらった。あれでタクシーがなかったらどうなったのだろう。
まあどうにかなったとは思うのだが、今回の出発前は仕事がかなり詰め込まれていて、そこにきてコロナウィルスのこともあって、外務省のサイトに登録したりしているうちに不安が募ってくる。
そういうときに限って、やにわにあのフライトは深夜着だったじゃないか、荷物だって出てくるのに時間がかかったじゃないかということが思い出されてくるのだから不思議なものだ。
つい調べたりしてしまい(調べなきゃいいんだけれど)、そのトロントーハバナ便が遅れに遅れ、朝の5時着になっている日が直近にあったりした。さらには欠航になっている日もあった。欠航とは!
トロントーハバナが欠航になると、翌日のハバナートロント便も当然、飛行機がないわけだから、欠航になる。こういうことがあると、帰国日にも影響が出る。
滞在が1週間(実質は月曜から金曜までの5日間)しかないギリギリのスケジュールを組んでいると、体力的な問題もあるし、こういうフライトの遅延は現地のアポのこともあって、できれば起きて欲しくない。
心配だなあ、大丈夫かなあ、という不安ばかりを抱えて出かけた。
ところが、結果的には、そういうことは何も、少しも起こらなかった。
飛行機がちょっと遅れたぐらいだった。荷物も出てきた。コロナのことで予想外のことはあったものの、大きな問題はなかった。
貴重な話も聞けた。貴重な本も手に入った。
つまり杞憂だった。スペイン語で言えば、miedo imaginario(想像上の怯え)という言い方になるのかもしれない。いや、想像上の旅(viaje imaginario)かな。
いろんなことを想像したので、幾度かの旅を味わったということだ。
『Pensamiento Crítico』1971年5月(52号)には、金日成(Kim Il Sung)の講演原稿が載っている。
タイトルは「資本主義から社会主義およびプロレタリア独裁への移行期にまつわる諸問題について」
本号にはウィルフレッド・バーチェット(Wilfred Burchett、1911-1983)も寄稿している。
この人は、ベトナム、カンボジア、アフリカ、その他植民地諸国に関する著作が日本語にも多数翻訳されているオーストラリア人の記者で、ウィキペディアの日本語版も充実している。
広島の原爆報道について先駆的な報道をしたのがこのバーチェットなのだが、彼の報道を否定するように、『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者ウィリアム・L・ローレンスは、放射能恐怖を「日本によって広められているプロバガンダ」と報じた。
この記事でピュリッツァー賞を受賞したウィリアム・L・ローレンスは、その新聞社と米国政府から報酬を得ていることがわかっている(ガレアーノ『日々の子どもたち』、p.209-210より)。
「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンは、ウィリアム・L・ローレンスのピュリッツァー賞を取り消すように求めている。
ウィルフレッド・バーチェットがこのキューバの雑誌に寄稿したのは、戦後日本の韓国に対する新植民地主義に関するレポートと、ポルトガルの植民地主義をめぐるレポートである。
というわけで、いま手元の『Pensamiento Crítico』をまとめて並べてみた。以下は現物を持っている。
1967年6月(5号)
1967年8月(7号)
1967年9月(8号)
1967年10月(9号)
1968年1月(12号)
1968年3月(14号)
1968年5月(16号)
1969年4月(27号)
1969年8月(31号)
1969年9月(32号)
1969年10月(33号)
1970年3月(38号)
1970年4月(39号)
1970年4月 特別号
1970年5月(40号)
1970年8月(43号)
1970年9月(44号)
1970年10月(45号)
1971年4月(51号)
1971年5月(52号)
1971年6月(53号):最終号
ちなみに1号から13号まではウェブで読むことが可能。
キューバにいる人、行く人、もしよかったら、欠けている号を探してください。高価で買い取ります(笑)。
噂では、私も出かけたベルリンのイベロアメリカ研究所が最近、キューバで色々探し回っているようです。
--------------
以下は旅のメモ。
キューバにはエアカナダを利用してトロント経由で出かけたのだが、このフライト、日本は羽田発で、しかも同じ日に到着するので便利だと思っている。
今回は2年ぶりだったので、便利だったという記憶だけを頼りに、深く考えずに予約したのだったが、出発間近になってから、そういえば、と思い出した。
それはハバナの到着が遅いこと。予定通りに飛んでも夜11時45分着である。
この時間に空港に着いて市内に向かうと、宿泊先に落ち着けるのは1時過ぎ。とはいえ、それはフライトが予定通りで、預けた荷物が順調に出てきてのことだ。
そうはいかないことの方が多い。なんでこんな大切なことを忘れていたのだろう。
何年か前、トロントの出発が遅れ、結局ホテルに着いたのは3時近かった。その時は空港にタクシーがなく、飛行機で一緒になったキューバ人の家族に乗せてもらった。あれでタクシーがなかったらどうなったのだろう。
まあどうにかなったとは思うのだが、今回の出発前は仕事がかなり詰め込まれていて、そこにきてコロナウィルスのこともあって、外務省のサイトに登録したりしているうちに不安が募ってくる。
そういうときに限って、やにわにあのフライトは深夜着だったじゃないか、荷物だって出てくるのに時間がかかったじゃないかということが思い出されてくるのだから不思議なものだ。
つい調べたりしてしまい(調べなきゃいいんだけれど)、そのトロントーハバナ便が遅れに遅れ、朝の5時着になっている日が直近にあったりした。さらには欠航になっている日もあった。欠航とは!
トロントーハバナが欠航になると、翌日のハバナートロント便も当然、飛行機がないわけだから、欠航になる。こういうことがあると、帰国日にも影響が出る。
滞在が1週間(実質は月曜から金曜までの5日間)しかないギリギリのスケジュールを組んでいると、体力的な問題もあるし、こういうフライトの遅延は現地のアポのこともあって、できれば起きて欲しくない。
心配だなあ、大丈夫かなあ、という不安ばかりを抱えて出かけた。
ところが、結果的には、そういうことは何も、少しも起こらなかった。
飛行機がちょっと遅れたぐらいだった。荷物も出てきた。コロナのことで予想外のことはあったものの、大きな問題はなかった。
貴重な話も聞けた。貴重な本も手に入った。
つまり杞憂だった。スペイン語で言えば、miedo imaginario(想像上の怯え)という言い方になるのかもしれない。いや、想像上の旅(viaje imaginario)かな。
いろんなことを想像したので、幾度かの旅を味わったということだ。
2020年3月9日月曜日
キューバのホー・チ・ミン
雑誌『Pensamiento Crítico』の1969年10月号(33号)の表紙は以下のように真っ黒の中に浮かび上がる白い髪と髭。
メガネを掛けたホー・チ・ミンであることがうっすらとわかる。ネットにはこんな写真があった。ベトナム人ならすぐにわかるのだろうか。本誌にはホー・チ・ミンによる「革命のために」がスペイン語で掲載されている。
キューバでのホーおじさんの紹介者はメルバ・エルナンデス。彼女が本号の序文を書いている。ベトナムやカンボジア大使を務めたらしいのだが、メルバといえば、革命闘士として有名だ。
ジャーナリストの伊高浩昭は1998年に彼女にインタビューしている(伊高浩昭『キューバ変貌』)。2014年の訃報記事は日本の新聞にも載ったくらいだ。
この3月のハバナ訪問で、ハバナ市創設500年がかなり大きく祝われたということがわかった。Tシャツのデザインにも「ハバナ500年」というロゴがあった。
そして本では、以下のようなものが手に入った。著者のアンヘル・アウヒエル(Ángel Augier、1910-2010)は故人だから、再版ということになるはずなのだが、やはり500年にあわせて出すのはいいと思う。
Ángel Augier, La Poética Habana: Cien poemas, Ediciones Caribe, 2018.
百篇の詩を通じてハバナの歴史を辿るというもので、単なる詩のアンソロジーではなく、ハバナを謳った多くの書き手の、これまた多くの詩を引用しながら街のあちこちを紹介してくれる。
キューバ人のみならず、外国勢では、以前に紹介したマヤコフスキーの詩もあるし、ルベン・ダリーオ、ホセ・フアン・タブラダ、アルフォンソ・レイェス、ウォレス・スティーヴンス、ラングストン・ヒューズ、ロルカ、フアン・ラモン・ヒメネスなども引用されている。
柳原孝敦の『メキシコDFーーテクストとしての都市』(東京外国語大学出版会)を思い浮かべながら読んでしまう。
---------------
下は、例のウィルスのことでハバナ滞在中に顔を出した診察所。
メガネを掛けたホー・チ・ミンであることがうっすらとわかる。ネットにはこんな写真があった。ベトナム人ならすぐにわかるのだろうか。本誌にはホー・チ・ミンによる「革命のために」がスペイン語で掲載されている。
キューバでのホーおじさんの紹介者はメルバ・エルナンデス。彼女が本号の序文を書いている。ベトナムやカンボジア大使を務めたらしいのだが、メルバといえば、革命闘士として有名だ。
ジャーナリストの伊高浩昭は1998年に彼女にインタビューしている(伊高浩昭『キューバ変貌』)。2014年の訃報記事は日本の新聞にも載ったくらいだ。
この3月のハバナ訪問で、ハバナ市創設500年がかなり大きく祝われたということがわかった。Tシャツのデザインにも「ハバナ500年」というロゴがあった。
そして本では、以下のようなものが手に入った。著者のアンヘル・アウヒエル(Ángel Augier、1910-2010)は故人だから、再版ということになるはずなのだが、やはり500年にあわせて出すのはいいと思う。
Ángel Augier, La Poética Habana: Cien poemas, Ediciones Caribe, 2018.
百篇の詩を通じてハバナの歴史を辿るというもので、単なる詩のアンソロジーではなく、ハバナを謳った多くの書き手の、これまた多くの詩を引用しながら街のあちこちを紹介してくれる。
キューバ人のみならず、外国勢では、以前に紹介したマヤコフスキーの詩もあるし、ルベン・ダリーオ、ホセ・フアン・タブラダ、アルフォンソ・レイェス、ウォレス・スティーヴンス、ラングストン・ヒューズ、ロルカ、フアン・ラモン・ヒメネスなども引用されている。
柳原孝敦の『メキシコDFーーテクストとしての都市』(東京外国語大学出版会)を思い浮かべながら読んでしまう。
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下は、例のウィルスのことでハバナ滞在中に顔を出した診察所。
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