2016年12月28日水曜日

キューバ映画(14)『De cierta manera』(1977)

タイトルは英訳では「One way or another」。

監督を務めたのは女性のサラ・ゴメス(Sará Gómez)。しかし完成前の1974年、彼女はわずか32歳で亡くなる。すでに何本も短篇映画を撮っていた彼女の最初の長篇映画は未完成に終わる。

トマス・グティエレス=アレアやフリオ・ガルシア・エスピノサが加わって完成させたのが1977年。
 
1962年、ハバナのスラム街ミラフローレス地区は、そこに暮らす人々の手によって新しい街区に作り変えられようとしていた。

映画はこの都市開発の現場をドキュメンタリー映像によって見せる。そこに、マリオとジョランダという男女の恋愛がフィクション映像として挿入されてくる。

ドキュメンタリー映像に挟まれることで、フィクションである「男と女のロマンス」はキューバの現実に接続される。

用いられるドキュメンタリー映像には、サンテリーアやアバクアなどアフロ系宗教儀礼もあり(監督のサラ・ゴメスはアフロ系)、キューバ文化の多様な側面を見せる教育的・啓蒙的機能も持っている。

女性教師ジョランダは中流階級出身。革命理念の実現に邁進するが、これまでに出会ったことのない貧困地区の子どもたちを見て当惑する。

工場労働者マリオは典型的なマッチョだが、ジョランダと出会い、新しい価値観に目覚めていく。

革命による男女の価値観の変化という主題をもっとわかりやすくしたのが、グティエレス=アレアの『Hasta cierto punto』だろう(2015年7月6日のエントリー)。

この映画はそこに人種(アフロ系)も持ち込んでいる。会話がとても聞き取りにくいので内容が理解不足のところもある。もう少し調べてみたい。

(この項、続く)

2016年12月26日月曜日

キューバ映画(13)『革命の物語』(Historias de la Revolución)

1960年のキューバ映画『革命の物語』を見た。

こちらの文章を参考に、幾つか情報を整理しておく。

公開は同じ年の12月30日。

ICAIC(キューバ映画公社)が最初に製作した映画ということになっているが、実際にはこの映画よりも前に完成していた映画がすでにあったらしい。

内容的に革命を扱ったこちらを先に公開するのが適切とみなされ、結果としてこれがICAIC「最初の」映画になった。

監督はトマス・グティエレス=アレア。1928年生まれの彼が最初に撮った長篇映画でもある。

映画は3部構成で、1957年のハバナを舞台とする「負傷者」、1958年ごろのシエラ・マエストラで展開する「反逆者たち」、そして最後は1958年12月の「サンタ・クラーラの戦闘」。最後のパートで革命が成就する。

こういう構成はロッセーリーニ『戦火のかなた』を参考にしたものだ。

構想ではもう2つのエピソードが加わるはずだった。その部分の監督としてはあの有名なホセ・ミゲル・ガルシア・アスコー(José Miguel García Ascot)が予定されていたが、結局別の映画を撮ることになる(『Cuba 58』というもので、これについてはまた改めて紹介する)。

「負傷者」はのちの『低開発の記憶』と似て、富裕層の青年が革命運動に距離をとることによってもたらされる悲劇。「反逆者たち」と「サンタ・クラーラの戦闘」はそれぞれ山中と都市での反乱軍とバティスタ軍の戦いで、一見戦争映画といった趣き。

映画は最後、革命に勝利したものの、反乱軍にいた夫が戦死したことを知った妻の表情を映して終わる。

涙を流してうつむいていた妻テレサは、涙を拭いて正面を見据える。つまり、犠牲はあったが革命による美しい未来を信じる肯定的人間を描いて終わるわけだ。

音楽が素晴らしい。カルロス・ファリーニャス(Carlos Fariñas)、 アロルド・グラマヘス(Harold Gramatges)、レオ・ブローウェル(Leo Brower)。

2016年12月19日月曜日

シンポジウム「社会主義リアリズムの国際比較」

12月18日はこのイベントに足を運んだ。

4名の発表はどれも興味深いもので、勉強になった。

キューバでも公式芸術としての社会主義リアリズムが取りざたされたこともあるので発表を聞きながら色々と考えた。チェ・ゲバラの「キューバにおける社会主義と人間」などがある。

考えているのは、以下の3点。

社会主義における芸術のあり方:統治サイドから発せられる言葉に対して芸術論を展開する知識人がどういう役割を果たすのかなど。これはキューバの場合、1961年6月に勃発し、それ以降、未だになんだかんだと話題になる。

社会主義リアリズムとは何か:これは難しい。革命を支える「大衆」(ゲバラ)に何らかの現実と未来を、「真実さ」とともに伝える可能性をめぐる議論につながる。ゲバラは19世紀リアリズムを資本主義と結びつけている。

社会主義における芸術と政治:一旦作り出された芸術が現実の政治と関わってしまう事態。検閲がある時、くぐり抜けるレトリックとその読み解きの問題。

スペイン語圏やラテンアメリカで言えば、 フランコやピノチェト、軍政、独裁などの時期に取り組まれた芸術様式について考えたくなる。

ビクトル・エリセやグティエレス=アレアのリアリズムはどうだろうか。

アヴァンギャルド芸術家が社会主義下の国で何をなすか。伝統芸術、古典との距離感。キューバの場合、植民地状態から抜け出す民族的自立の中での芸術。

というわけで、キューバ革命成立後の映画などをみはじめている。

2016年12月14日水曜日

キューバ文学(40)

 キューバで手に入れた本から。

Ramírez Cañedo, Elier(Compilación), Un texto absolutamente vigenge: A 55 años de Palabras a los intelectuales, Ediciones Unión, 2016.

1961年6月16日、23日、30日にハバナの国立図書館で行われた知識人たちとの議論を経てフィデル・カストロが出した答えが「知識人への言葉」。2016年はそれから55年。

この本には、カストロのその言葉が巻頭に収められているほか、アンブローシオ・フォルネー(ホルヘ・フェルネーの父)、フェルナンデス=レタマールやナンシー・モレホン、フェルナンド・ロハス(ラファエル・ロハスの兄でキューバ文化省副大臣)などの論考やインタビューが入っている。

「55年」という数字に何か意味があるのかと思って開いてみたが、そうでもない。初出のものはほとんどなくて、これまでに発表されたものを2016年に集めたということ。

Richard Ruiz Julién, Kilómetro 0: La desintegración de la URSS: una visión desde Cuba, Editorial José Martí, 2015.

ソ連崩壊をどう受け止めたのか、について考えた著者がソ連に関わりのあるキューバ人にインタビューし、それをまとめたもの。

Rodríguez Febles, Ulises, Minsk, Ediciones Unión, 2014.

著者は1968年生まれ。インタビューは例えばここで
ミンスクは小説中の人物がオートバイにつけた名前。
書評は例えばこのサイトで。キューバとソ連の関わりについての情報やコラムが満載。

(この項、続く)

2016年12月6日火曜日

キューバ映画(12)『ハバナ』(Jana Bokova監督)

1990年、チェコ人の女性監督Jana Bokovaによって『ハバナ(Havana)』というドキュメンタリーがBBCの協力も得て制作された。

1989年より前のキューバ国内を映したものとして極めて貴重である。また、マイアミを訪れたレイナルド・アレナスのインタビューが含まれていることもこのフィルムの価値を高めているようだ。

アレナスの姿は、すでにネストル・アルメンドロスの『インプロパー・コンダクト』(1984)で見ることができる。『ハバナ』で話している内容もほとんど同じである。

キューバの文学者からの引用を挟みながら話は進む。アレナスの「パレードが始まる」、ピニェーラの「山」、ニコラス・ギジェンの「ソン、ナンバー6」、カルペンティエル「種への旅」、レサマ・リマ、カブレラ・インファンテなどが引用される。

インタビューされる作家としてドゥルセ・マリア・ロイナスが出てくる。1902年生まれの詩人がベダード地区の大邸宅の中で孤独に暮らしている様子だ。こんな風に外とは隔絶して死んでいった白人たちは大勢いたのだろうと思った。このシーンだけはYoutubeにある。後半バックに流れるのはエルネスト・レクォーナのCrisantemoだ。

作家パブロ・アルマンド・フェルナンデスも出てくる。 カストロの演説が聞こえてきたり、7月に行われるカーニバルの映像もあるし、その他アフロキューバ文化の音楽や踊り(ルンバ)も見ることが可能だ。

映像は飾り気もなければ工夫もなくて、とても質素だ。『インプロパー・コンダクト』のような政治的主張が中心にあるのではない。とはいえ冒頭はハバナの古いビルで起きた床崩落の話だから気が滅入る。

最後のシーンでハッとした。アレナスの「パレードは終わる」の朗読とともに、ハバナのマレコン(海岸通り)が映されるからだ。

ジュリアン・シュナーベルの『夜になるまえに』を見た人は驚くだろう。アレナスが病院からニューヨークの自宅に帰宅するところとまるで同じなのだ。引用されるところも全く同じ。

朗読の仕方は『夜になるまえに』のハビエル・バルデムよりも慎ましく、映画全体と同じ様に素人っぽい。シュナーベルは間違いなくこのドキュメンタリーを見ただろう。そして同じことをやるしかなかったのだと思う。

2016年12月4日日曜日

ポスト11月25日

1956年11月25日はグランマ号がメキシコを出発した日だった。
2016年11月25日はブラック・フライデーだった。

SNSでは、反資本主義と闘った人物が最も資本主義的な日に死んだアイロニーが話題になった。

その11月25日のフィデル・カストロ死去以降、様々な発言がなされているが、リンクをまとめておく。

カサ・デ・ラス・アメリカスが出した声明はこちら

Cubaencuentroにはかなりの記事がアップされている。

ジョアニ・サンチェスのツィッターはこちら

ラファエル・ロハスの『エル・パイース』紙掲載原稿はこちら

スラヴォイ・ジジェクの『エル・ムンド』紙掲載原稿はこちら。タイトルは「遅れた20世紀の終わり」。

ホブズボームは「短い20世紀」(1914から1991)と呼んだが、2016年までと考えればほぼ100年である。

ジジェクは言う。「私がキューバに批判的なのは、アンチ共産主義者だからではない、私が引き続き共産主義者だからだ。」

バルガス=リョサ、エクトル・アバッド・ファシオリンセ他、ラテンアメリカ作家たちのコメントはこちら

ラウル・リベーロはこちら

フアン・クルスはこちら。ピニェーラに言及。

ソエ・バルデスはこちら

El nuevo heraldのキューバ関係はこちら

(随時更新予定)

キューバ文学(39)アントニオ・ホセ・ポンテ新作間近

アントニオ・ホセ・ポンテが新作を発表するらしい。

題して、『テンペスト、プロスペローの蔵書』(La Tempestá, una biblioteca de prósperos)。

プロスペローと訳したが、小文字で始まっているし複数形なので多義的に使われているのだろう。

『Diario de Cuba』によると、ラテンアメリカにおける『テンペスト』の読みに始まり、ルベン・ダリーオ、レサマ・リマ、エンリケ・ロドー、カルペンティエル、フェルナンド・オルティス、アントニオ・ベニーテス・ロホ、リディア・カブレラ、カブレラ・インファンテ、レイナルド・アレナス、フェルナンデス・レタマールをめぐる文学論とのこと。

この本をめぐって12月8日にNYUでトークショーを開く。聞き手は当然、開口一番彼が何を言うのかを期待してしまうのだが。
 

カリブ文学(2)文献紹介

Alonso, Vitalina, Ellas hablan de la Isla, Ediciones Unión, La Habana, 2002.

スペイン語圏カリブ女性作家のインタビュー集。登場するのは以下の作家たち。

イルダ・ペレラ(Hilda Perera, 1926年生まれ、ハバナ、キューバ)

ミレヤ・ロブレス(Mireya Robles, 1934年生まれ、グアンタナモ、キューバ)

ニチョラサ・モール(Nicholasa Mohr, 1935年生まれ、ニューヨーク)

ウバ・デ・アラゴン(Uva de Aragón, 1944年生まれ、ハバナ、キューバ)

フリア・アルバレス(Julia Álvarez, 1950年生まれ、ニューヨーク)

エスメラルダ・サンティアゴ(Esmeralda Santiago, 1948年生まれ、サントゥルセ、プエルト・リコ)

マイラ・モンテーロ(Mayra Montero, 1952年生まれ、ハバナ、キューバ)

フディット・オルティス・コフェール(Judiht Ortiz Cofer, 1952年生まれ、オルミゲーロス、プエルト・リコ)

マリセルマ・コスタ(Marithelma Costa, 1955年生まれ、サン・フアン、プエルト・リコ)

アーチイ・オベハス(Archy Obejas, 1956年生まれ、ハバナ、キューバ)

クリスティーナ・ガルシア(Cristina García, 1958年生まれ、ハバナ、キューバ)

カルメン・ドゥアルテ(Carmen Duarte, 1959年生まれ、ハバナ、キューバ)

序文の一部はここで読める。

2016年11月30日水曜日

キューバ映画(11)Viva(ビーバ)[一部書き換え]

2015年のキューバとアイルランドの合作映画。



監督:パディ・ブレスナック(Paddy Breathnach)
プロデューサー:ベニチオ・デル・トロ(Benicio del Toro)
主演ではないが、ホルヘ・ペルゴリアが出ている。

トレイラーはこちら

ヘススはハバナのダウンタウンに一人で暮らす貧しい18歳の青年。細身で涼しい顔をした男の子だ。

彼は近所の婦人のヘアカットや、ドラァグ・クィーンのスタイリストをやって生計を立てている。

そんな彼もドラァグ・クィーンになることを決意する。密かに踊りを練習していたのだ。源氏名はビーバ。たまたま目にした雑誌のタイトルからとった。

キャバレーでデビューしたその日、酔っ払いの中年男が観客に混じっている。ヘススは夢中になって踊り、観客の方に歩み出す。目の前の中年男はヘススが誰だかを認めると、急に殴りかかる。息子だったからだ。

かつてはボクサーとしてその名を知られたが殺人を犯した父親は、刑期を終えて町に舞い戻ってきていた。しかしヘススに父親の記憶はない。随分前に亡くなった母親からもほとんど聞いていない。父親なんていないものと思っていた。気まずい二人の共同生活が始まる。

毎晩酔っ払って帰って来る父。息子の作る料理に文句をつける父。息子の大切なレコードを破壊し、ドラァグ・クィーンの仕事を禁ずる父。まさに暴君。
 
映画の中で父親は「ああ、ここは世界一のスラム街だ」と窓の外を見ながら言う。このスラム街はやはりセントロ・ハバナなのだろう。

そういえば、今回のキューバ滞在中にセントロ・ハバナにいる友人の家にタクシーで出かけた時、運転手は行くことをひどく嫌がった。道は傷んでいるし、迷宮的な区画だからだ。それでも友人を拾ってルートを説明してもらってからは機嫌が直った。また別の機会に乗ったタクシー運転手は、半世紀近く住んでいるからこの地区で知らない道はないと自慢していた。

健気な息子は父親に何を言われても従う。それはなぜか。父親が癌を患い、余命いくばくもないことを知ったからだ。つまり父親は死ぬために自分の家に戻ってきたのだった。

ヘススには友人がいる。一人は近所の幼馴染の女の子。しかしこの子は妊娠している。妊娠させた男には捨てられた。もう一人の友人は警官の目をかすめ、観光客を騙しては金をせしめて楽しく暮らしている奴。そしてヘススが「お母さん(ママ)」と呼ぶ年配のドラァグ・クィーン。彼らとの付き合いが支えといえば支えだ。

とはいえ、仕事を辞めてしまったのでヘススは食うのにも困っている。「お母さん」はヘススのことを心配し、我が家まで訪ねてくるが、父親に邪魔される。こんな状態で金をどうするかといえば売春しかない。自分の体を求めてくる男ならいくらでもいる。

体を売った金で父を食わせたところで病気が治るわけではない。とうとう父を病院に連れて行く日がやってくる。

薬は投与されるが食事は大したものが出ない。息子はここでも苦労して食事を用意して持って行ってやる。もはや食べることもままらならない父親はタバコだけを欲しがる。

うまくいかなかった二人にも和解の空気が流れる。

死ぬ前に自宅に戻ることをせがむ父親の願いを息子は叶えてやる。妊娠している例の幼馴染が介護を手伝ってくれる。

最後の力を振り絞って父親と息子は飲みに出かけ、仲良く語り合う。女が好きな父親と男が好きな息子との和解だ。この時息子はドラァグ・クィーンの仕事を続けることを父に告げ、父も許す。

こうしてヘススは見事に踊り、拍手喝采を浴びる。それを見つめる父親。あとは想像通りの締めくくりだ。息子に看取られて父は幸せに死ぬ。

エンド・クレジットが流れながら、その後のヘススの日常が示される。

ある日の朝、ヘススは洗濯物を干している。すぐ横では例の幼馴染が赤ちゃんを抱いてあやしている。ヘススも赤ちゃんを可愛がる。そして観光客から金をせしめている愉快な友人が「仕事」に出かけようとしている。血の繋がらない大人たち3人と赤ん坊の4人暮らし。

父親亡きあとの新しい家族の形だ。

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この映画にはポスト・フィデル・カストロ時代のキューバが描かれていると思った。あるいはそういう映画にしようとしている製作者の意図を感じた。

特に最後のシーンで。

父なき時代の家族、あるいは父のいらない家族。もちろん映画のワンシーンはあまりに理想化されすぎているのだが。

自立した子供にとって父親は不在である。不要である。ヘススにとっての父親のように。しかしそんな父親も帰ってくる。死ぬために。さあ葬ってくれと。

生物学上のであれ、育てのであれ、父親というものは英雄であると同時に好き勝手に振る舞う暴君である。ヘススの父親が名ボクサーであり殺人者であったように。父親は良いこともするし、悪いこともする。

英雄であるがゆえに放蕩の限りをつくす暴君も死ぬ時は我が家に帰ってくる。

自立した子供に父親が帰ってくる時、それは死という形をしている。

葬るのは残された者がやることだ。

果たしてどうやって父を葬るのか。

通夜は9日間続くというが、これはカリブの文化を踏襲したものだ。

[この項、続く]

2016年11月19日土曜日

キューバ文学(38)アントニオ・ホセ・ポンテの詩

Vidas paralelas (La Habana, 1993) 

Se apaga un municipio para que exista otro.
Ya mi vida está hecha de materia prestada.
Cumplo con luz la vida de algún desconocido.

Digo a oscuras: otro vive la que me falta.

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Canción

Pasé un verano entero escuhando ese disco.
Para que la emoción no se le fuera
lo escuchaba una vez cada día.
Si me quedaba hambriento salía a caminar.

A su manera la luz cantaba esa canción,
la cantó el mar, la dijo
un pájaro.
Lo pensé en un momento:
todo me está pasando para que me enamore.

Luego se fue el verano.
El pájaro
más seco que la rama
no volvió a abrir el pico.

(Ponte, Antonio José, Asiento en las ruinas, Renacimiento, 2005[初版1997]より)

2016年11月15日火曜日

キューバ、8ヶ月が過ぎて

オバマ訪問とニアミスした3月から8ヶ月が過ぎようとして、再びキューバを訪れることに(今回は自分の用事ではないけれど)。

3月のスピーチのスペイン語版はこちらで読める。

これから目を通したいのは以下の記事やコラム。

まず、ジョアニ・サンチェスが11月8日付のウェブ紙に書いたもの。

オバマ時代の終わりー失われた貴重な時 

3月に彼女が書いた記事はこちら

エル・パイース紙も、トランプの勝利によってキューバへの緊張緩和政策は一旦中断すると書いている。

ヌエボ・ヘラルド紙も同様の記事。

イバン・デ・ラ・ヌエスが書いたものはこれ

ウェンディ・ゲーラはこれ

ラファエル・ロハスも何か書いているかと思えば、新著の紹介だった。この本も是非読んでみたい。

バランキーリャのエリベルト・フィオリージョはエル・ティエンポ紙で「ナルキッソス・トランプ」 。

エクトル・アバッド・ファシオリンセはツイッターで、カルロス・モンシバイスを引いた。

「何が起きているか分からない時代になったのか、それとも、何が起きているか分かった時代は終わったのか。」

この記事によれば、移民の国外追放で影響を受けるキューバ人は3万5000人にのぼる。

ついでにスペイン人女優がキューバのドキュメンタリーを制作したことを知った。プロデューサーはジュリアン・シュナーベル。タイトルは『キューバ、祖国か死か (Patria o muerte: Cuba, Fatherland or Death)』。ウェンディ・ゲーラも登場するようだ。

トレイラーはこちら

2016年11月6日日曜日

キューバ文学(37)ロベルト・G・フェルナンデス

キューバ生まれでマイアミ在住のロベルト・G・フェルナンデスにはスペイン語と英語の作品がある。1951年生まれ。

手元にあるのは以下の本。

Fernández, Roberto G., Cuentos sin rumbos, New House Publishers, Miami 1975.
---, En la ocho y la doce, Houghton Mifflin Company, Boston, 2001[初版1986].
---, Raining backwards, Arte Público Press, Houston, 1997[初版1988].
---, Holy Radishes!, Arte Público Press, Houston, 1995.
---, El príncipe y la bella cubana, Verbum, Madrid, 2014.

初版が1988の『Raining backwards』と1995の『Holy Radishes!』が英語で、それ以外はスペイン語。

英語執筆を選んだのは、この時期にマイアミに起きていた反スペイン語運動と関わっている。1980年に反バイリンガル条例が制定されている(1993まで)。

マイアミのキューバ・スペイン語に関する論文もある。

"English Loanwords in Miami Cuban Spanish", American Speech, Vo. 58. No.1(spring, 1983), pp.13-19.

彼は自己翻訳(西⇄英)はしていない。

この作家について、2年前の環カリブ研究会で発表したが、まだ文章化していない。

[この項、続く]

2016年11月3日木曜日

赤道ギニアから、モロッコからのスペイン語文学

手元にある赤道ギニアの本を整理した。

Landry-Wilfrid Miampika, Patricia Arroyo(eds.), De Guinea Ecuatorial a las literaturas hispanoaficanas, Editorial Verbum, Madrid, 2010.

Juan Tomás Ávila Laurel(Edición de Elisa Rizo), Letras transversales: obras escogidas, Editorial Verbum, Madrid, 2012.

Raquel Ilombe Del Pozo Epita, Ceiba II(Poesía inédita), Editorial Verbum, Madrid,
2014.

以上の3冊はベルブム出版のスペイン語圏アフリカ叢書から。

Donato Ndongo-Bidyogo(ed.), Antología de la literatura guineana, Editora Nacional, Madrid, 1984.

Donatoさんには2007年の小説『El Metro(地下鉄)』があって、マドリードでのゼノフォビアをテーマにしている。1950年生まれ。

Guillermina Mekuy, Las tres vírgenes de Santo Tomás, Santillana, Madrid, 2008.

ギジェルミーナさんは若手の女性作家。5歳でマドリードにやってきた。1982年生まれ。

ほぼ同世代だが、8歳でモロッコからカタルーニャに渡ってカタルーニャ語で書いているNajat El Hachmiさんも注目している。

バルセロナ大学でアラブ文学を専攻した。1979年生まれ。未見だが『Jo també sóc catalana(私もカタルーニャ人)』(2004)というのがある。

[この項、続く]

2016年10月31日月曜日

アルゼンチン映画『名誉市民』とアルベルト・ライセカ

監督はガストン・トゥプラットとマリアノ・コーン。原題はそのまま『El ciudadano ilustre』。

トレイラーはこちら

日本では『ル・コルビュジエの家』で知られるアルゼンチンの若手監督コンビ。

世界的に有名な文学賞を受賞したアルゼンチン作家ダニエル・マントバーニ。 

彼は賞という栄誉が芸術家を終わらせてしまうという信念の持ち主。どれほど権威ある賞であっても態度は変えない。授賞式でも思った通りのことを言って顰蹙を買う。

受賞後には各地から様々な文学イベントの招待状が送られてくるが、全て断る。

そんな中、40年前に飛び出してそれっきり戻っていない自分の生まれ故郷からの招待状に目を留める。

名誉市民の称号を贈ってくれるという。ふと興味を惹かれ、いざ「凱旋」する。

町長の出迎えや旧友との再会などを経てある事件が勃発する。町の絵画コンテストの審査員を務めたことがきっかけだ。そして彼は新作を書くことにする。

この二人の映画監督の作品には日本で公開されていないが、とても面白い作品がある。2011年の作品。

『タバコを買いに行ってくる、すぐに戻るよ(Querida voy a comprar cigarrillos y vuelvo)』 。トレイラーはこちら 

原作はアルベルト・ライセカ。アルゼンチンの作家だ。映画にも語り手として登場する。

『名誉市民』の作家にもライセカのイメージが重なった。

確かセサル・アイラだったと思うが、ライセカという作家はすごい、年を取っても少しもコンフォーミズムに向かわない。怒りとか恨みとかをエネルギーにしていると言っていた。この二人の映画監督はすっかりライセカに魅せられているとも。

手元にあるライセカの本は以下の2冊。

Laiseca, Alberto, Cuentos completos, Ediciones Simurg, Buenos Aires, 2011. 
---, Beber en rojo(Drácula), Editorial Muerde Muertos, Buenos Aires, 2012.

[この項、続く]

2016年10月30日日曜日

キューバ文学(36)イタロ・カルヴィーノとミゲル・バルネー

キューバの人類学者ミゲル・バルネーが『逃亡奴隷』の次に出した本が『レイチェルの歌』。1969年刊行。

Barnet, Miguel, Canción de Rachel, Libros del Asteroide, Barcelona, 2013.

1910〜20年代、女優、踊り子として知られ、男性のみ入れるクラブで活躍した伝説的な女性を描きながら、当時のキューバの社会的背景(1912年の黒人党の反乱)にも踏み込んだ「風俗小説」。

この本のスペイン語版の序文はキューバ生まれのイタリア人(ítalo)、イタロ・カルヴィーノ。

キューバにはイタロ・カルヴィーノ文学賞もある。

文芸誌「Gaceta de Cuba」2013年5-6月号では「イタロ・カルヴィーノとラテンアメリカ」という特集も組まれている。

Antonio Melisというイタリア人のラテンアメリカ文学研究者(マリアテギなどアンデス方面を専門としていたようだ)が有名だったが、今年亡くなった。 彼にはこういう論考がある。

[この項、続く]

2016年10月29日土曜日

検閲について

キューバのブロガー、ジョアニ・サンチェスが検閲をテーマにした本を10冊挙げている。エル・パイースの記事から。


①ミネルバ・サラード『キューバ革命におけるジャーナリズムの検閲』2016年
  →著者はキューバの詩人、評論家。1944年生まれ。

②J.M. クッツェー『検閲に抗して』2012年

③ジュリアン・アサンジ『サイファーパンクーーインターネットの自由と未来』2013年
  邦訳は青土社から2013年に出ている。Kindleでも読める。

④レイ・ブラッドベリ『華氏451度』2015年(現在入手しやすいスペイン語版の出版年)

⑤エドゥアルド・デ・ラ・ベガ・アルファロ『裏切られた革命ーー文学、映画、検閲についての二つの試論』2012年
  著者は1954年生まれのメキシコ人。専門は映画史。モレーリア映画祭の審査員をやっている。

⑥セスク・エステべ『検閲官の理屈』2014年
  著者はカタルーニャ人。専門は文学批評・比較文学。15, 16世紀あたりの論文が多い。

⑦ホルヘ・ゴメス・ヒメネス編『表現の自由、権力、検閲』2010年
  ここで入手可能。

⑧マルコ・アントニオ・デ・ラ・パーラ他『禁じられた映画ーーチリの映画検閲』2001年

⑨ラファエル・ロハス『安眠できぬ死者たち』2006年
 この本については、書評論文を書いたことがある。『ラテンアメリカ年報』27号に掲載。

⑩Mandanipour, Shahriar『愛と検閲のイラン史』2010年
  ここに挙げられている中で唯一の小説。英語からの重訳。
 著者はイラン出身で現在アメリカに住んでいる。


以上の10冊のうち、日本語があるのは③と④。

2016年10月28日金曜日

キューバ文学(35)フェルナンデス・レタマール再び

大学院でフェルナンデス・レタマールを読んでいる。

Fernández Retamar, Roberto, Todo Calibán, Ediciones Callejón, San Juan, 2003.

序文はフレドリック・ジェイムソン。英語翻訳版に付けたものがスペイン語に訳されている。

1992年、NYUで開かれたラウンドテーブル「他者との出会い」にはフェルナンデス・レタマールの他に、カマウ・ブラスウェイトとセルジュ・グリュジンスキがいた。

フェルナンデス・レタマールの発表タイトルは「500年後のキャリバン(Calibán quinientos años más tarde)」。

今から四半世紀も前の文章ということになる。

冒頭、「キャリバンについてではなく、キャリバンの立場から話す」と宣言する。

1492年から500年前のヨーロッパは小さかった。その頃、レイフ・エリクソンがアメリカ大陸に来たが、世界は変わらなかった。 しかし1492年に上陸したのはコロンブスだけでなく、ヨーロッパに芽生えかけていた資本主義だった。

そして、資本主義国家として成功を収めたのがどこかという話へ。

ポルトガルやスペインは最初にアメリカに上陸したし、後発のオランダやイギリス、フランス、ドイツの資本主義発展に寄与したが、資本主義巨大国家になったのは、イギリスが植民化した国、つまり米国、カナダ、オーストラリア。

フェルナンデス・レタマールは成功国家としての日本に例外的な注意を払っている。つまり、ヨーロッパ人が住んだことのない国では唯一であるというのだ。日本に関する叙述が長い。

参照文献も日本の成功を論じたものをいくつか挙げ、「日本の進展についてどう考えているのか、日本人の意見を聞きたいものだ」と言っている。

[この項、続く]

2016年10月11日火曜日

パリとラテンアメリカ

世界文学CLNの研究集会の二日目のテーマは「パリの外国人」だった。

自分でも気になるテーマだったので、以下の本や論文のことなどを頭に入れていった。

1 ヴァレリー・ラルボー『フェルミナ・マルケス』。スペイン語版が出てきた。


 改めて見てみると、翻訳者は幾多の欧米の名作をスペイン語に訳したEnrique Diéz-Canedoである。ホイットマンやヴェルレーヌなどの詩を訳したはずだ。スペイン人だが、1938年からメキシコへ移っている。これは内戦のせいだろう。年齢はラルボーとほぼ同世代の人物で、この翻訳も1938年に初版が出ている。
 
2 Miguel Ángel Asturias, París 1924-1933: Periodismo y creación literaria.
 
 ここにはアストゥリアスの文章のみならず、1920年代のパリに花を咲かせたラテンアメリカ文化についての論文が幾つか載っている。

以下は未読の論集。

3 Ingrid E. Fey and Karen Racine(ed.), Strange Pilgrimages: Exile, Travel, and National Identity in Latin America, 1800-1990s, Scholarly Resources Inc., 2000.

パリのラテンアメリカについては以下の論文がある。

 Arturo Taracera Arriola, "Latin Americans in Paris in the 1920s: The Anti-Imperialist Struggle of the General Association of Latin American Students, 1925-1933"

[この項、続く]

2016年10月6日木曜日

コロンビア、和平合意の行方

コロンビアの和平合意について、国民投票では予想外の結果が出た。

8月の終わりに和平合意がほぼ決まった時点での毎日新聞の記事には、「賛成派が多数」とある。

作家のフアン・ガブリエル・バスケスは9月2日インタビューに答え、「43年生きてきて、コロンビアのことがこれほど誇らしいと思ったことがない」と興奮していた。インタビューはこちら

しかし蓋を開けてみたら、真っ二つに国論は分かれていた。現地に住む知り合いのコロンビア人も驚くべき結果だと言っていた。 つまり、多くの人が賛成に回ると思っていたのだ。なのに「ノーが勝ったのだ(El No ganó.)」。

作家のエクトル・アバッド・ファシオリンセの分析がスペインの「エル・パイース」紙に掲載された。こちら。Brexitの時と同じように、ポピュリズム的扇動によってノーに投票する人が増えたと言っている。コロンビアのボリス・ジョンソンはアルバロ・ウリベである。前大統領である彼は父をFARCに殺害された。

ウリベが大統領だったのは2002年から2010年。2002年の大統領選ではイングリッド・ベタンクールが出馬して、選挙戦の途中でFARCに誘拐された。彼女が救出されたのは2008年。彼女も和平合意を喜んでいた。9月22日のインタビューはこちら

エクトル・アバッドは父を準軍部隊に殺害された。それでも「もう自分は犠牲者とは思っていない」というタイトルのエッセイを寄せたのが 、バスケスがインタビューに答えたのとほぼ同じ時(9月2日)、「エル・パイース」紙である。ここで彼は「賛成に投票する(votar por el sí)」と書いている。その文章はこちら

[この項、続く]

2016年9月26日月曜日

「南の文学」について(世界文学CLN研究集会後、考えたこと)

この2日間(9月24日・25日)、世界文学・語圏横断ネットワーク(世界文学CLN)の研究集会に出て、初日のセッション「南の文学」ではコメンテーターを務めた。

その後、「南の文学」のコンセプトについて、あれこれと思いを巡らせている。

今のところ「南の文学」については下のように3つに分けて考えたい。速記的に書いているので、穴だらけであることは言うまでもない。随時書き足していくつもりだ。

①北の文学に遍在する「南」
 ラテンアメリカに足場を置いていると、「北」の文学で「南」への移動が映し出されているものは特に気になる。
 実際、そういうものに出会うことは珍しいことではない。前回のエントリーで触れたように、黒人作家のリチャード・ライトもスペインに行き、紀行を残し、闘牛について書いていたりする。
 北の作家が必ずしも「南」を訪れていなくても、「熱帯」「混血の美女」などのようなかたちで北に現れた「南」という異文化を描いたものも枚挙にいとまがない。ヴァレリー・ラルボー「フェルミナ・マルケス」は、実は先進国に広まる「コロンビアン・ビューティ」神話の淵源ではないかと思っているのだが、ここではボゴタ出身の女の子が、「熱帯」ではないのに「熱帯から来た南の美少女」として捉えられている。それがパリのボゴタに対する見方だ。
 ジュノ・ディアスのような作家もまたこの中に入れるべきかもしれない。米国のラティーノ作家における「南」は重要だ。
 北の中に「南」を読み取ること。この作業では、何を「南」とするのか、それが大切になる。

②「南」から見た北への抵抗
 ラテンアメリカ文学からはこれが最もシンプルで、ストンとくる考え方である。アングロサクソンの北に抗するための「南の文学」の可能性。メキシコやキューバの文芸批評家には特にこの視点は強い。メキシコの小説『El ejército iluminado』など、今まだこの考え方は十分に働いている(この小説についてはまた改めて取り上げたい)。
 この場合の「北」はアングロサクソン文化やアメリカ合衆国であるが、必ずしもそれだけとは限らないかもしれない。
 欧米発の知のパラダイムに取り込まれることへの恐れ。これもまたラテンアメリカには根強い。この時の欧米のパラダイムはやはり抵抗したい対象としての「北」だ。コロンビアの作家フアン・ガブリエル・バスケスにとってのコンラッドだって、ある意味では「北」だろう。
 この時の「南の文学」は、上とは逆に、何を「北」とするかをはっきりさせる必要がある。 ①があり、それゆえに②がある。

③「南と南」
 上記2つを経由した上で浮上するのが「南と南」の考え方だ。
 これまでも南と南のつながりはあった。私の知る範囲で言えば、革命後のキューバとベトナム、カンボジアのような国々とのつながりはその一例である。もちろん南同士はフラットなつながりではない。そこにもある種の階層がある。この点については東京外大の「総合文化研究」の最新号(19号)にある、ウンサー・マロムさんのキューバ・クロニカ「ポル・ポトのカンボジアからフィデル・カストロのキューバへ」を読むとよくわかる。この時代の南と南は、モスクワを経由した出会いだった。
 ちなみに上記①の文学は、昔ならパリを抜きには成立しなかっただろう。今ならNYも入る(ジュノ・ディアスの例)。
 21世紀に入り、交通手段の多様化によってパリ・NY・モスクワを抜きにした出会いは日に日に可能になっている。ブエノスアイレスの空港では、当然だがヨハネスブルグ行きの、シドニー行きのフライト掲示を見ることができる。シンガポールやドバイを経由する南だけの世界一周。
 このようなルートによる新しい結びつき。これが21世紀の「南と南」だ。このようにして、例えばクッツェーのアルゼンチンにおける試みがある。あるいは、インド人研究者Vibha Mauryaの論文「Las demografías literarias y el encuentro sur-sur(América Latina e India)など。まだ新しいこのコンセプトはどこに行くのだろうか。とても興味深い。

 今回の研究集会の「南の文学」のセッションをへて、今、一応このようなところにたどり着いた。

2016年9月21日水曜日

リチャード・ライトとスペイン語圏

アメリカの黒人作家リチャード・ライトについて、この前、ある研究会で発表を伺った。

全く予備知識がなく、自分の領域とどう関連付けられるだろうかと思っていて、その後この作家に興味が生まれたので、本を探してみたら、なんと以下のような本があった。

リチャード・ライト『異教のスペイン』(石塚秀雄訳)、彩流社、2002年

ライトがスペインを訪れたのはフランコ時代の1950年代の半ば。1908年生まれのライトが40代に入ってからのことだ。

読み始めて驚いたのが、彼はアルゼンチンにも一年ほど住んでいた。

『アウトサイダー』(1953)を論じた木内徹さんという方の論文によれば、1949年10月から1950年7月まで、『アメリカの息子(Native Son)』(原作は1940)の映画製作に参加している。

映画ではライトが自ら小説の主人公を演じている。Youtubeにあった。こちら。1951年のもの。

映画はスペイン語では『Sangre negra(黒い血)』。製作はArgentina Sono Film。

監督のピエール・シュナル(Pierre Chenal)はベルギー人(ユダヤ系)だが、第二次世界大戦の時、辛くもアルゼンチンに脱出した。それが1944年。現地で助けてくれたのが、アルゼンチン映画人のルイス・サスラフスキ(Luis Saslavsky)。

シュナルはアメリカから数十人の黒人俳優を呼び、アルゼンチンで初めて英語の映画が製作された。

シュナルを助けたサスラフスキは、アルゼンチン作家で雑誌「Sur」の編集をやっていたホセ・ビアンコの小説『Las ratas』を映画化した人物である。

いや、それよりも、エスタニスラオ・デル・カンポの『ファウスト』を映画化した人というべきか。『ファウスト』については、『序文つき序文集』にボルヘスが書いたものがある。

2016年9月4日日曜日

キューバ文学(34)イバン・デ・ラ・ヌエス『赤の幻想』


Iván De la Nuez, Fantasía roja: Los intelectuales de izquierdas y la Revolución cubana, Debate, Barcelona, 2006.

原題を日本語に訳すと、『赤の幻想ーー左翼系知識人とキューバ革命』。

キューバ革命に魅せられた西欧・米の知識人は多い。サルトルがその筆頭で、この本の表紙には、サルトルがキューバを訪れてゲバラと面会した時の写真が使われている。

サルトル以外では、オリバー・ストーン(『コマンダンテ』)、シドニー・ポラック(『ハバナ』)、リチャード・レスター(『さらばキューバ』)といった映画監督たち、それから音楽で言えばデヴィッド・バーン(『レイ・モモ』)、ライ・クーダー(『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』)が赤いキューバに「幻想」を抱いている。それは何なのかを論じたのがこの本。

「ジャン=ポール・サルトルやレジス・ドブレといった左翼のイデオローグが、キューバ革命のなかに自分たちの社会にとって代替となる未来を追い求めたとすれば、ライ・クーダーはむしろ『ロック市場の代替物』を見つけるために過去に向かった。」(p.94)
 
「キューバ革命期と冷戦期に生まれた子供なら、ベルリンを歩くことは、ある種、逆さまの幻想とーーそして、こう言わずにはおれないがーー夢に見た復讐を果たすことを意味する。(中略)ポスト共産主義の主体にとって、ベルリンとは、かつて約束された未来のメタファーを生きるような何かを含意している。(中略)ベルリンの夜を歩いていたら、カウンターカルチャーのバルセロナや、モビーダのマドリードを思い起こす人たちに出会った。ぼくはとりわけ80年代のハバナを思い出す。」(p.112-113)

イバン・デ・ラ・ヌエスは1964年生まれ。

2016年9月2日金曜日

コロンビア映画(1)『Los viajes del viento(風の旅)』

監督はシーロ・ゲーラ。ネット上にはチロ・ゲーラという表記があるけれど、Ciro Guerraなので、シロかシーロでしょう。1981年生まれの、現在35歳。

その彼の2009年の映画が『風の旅』。

監督の出身がセサル県というコロンビア北部で、『風の旅』はそのコロンビア北部、海までを含め、コロンビア・カリブ(El Caribe colombiano)と言われる地方のロードムービーである。

この地方の音楽といえばバジェナート、主たる楽器はアコーディオン。

アコーディオン楽師のイグナシオが、妻を失い、伝説のアコーディオンを師匠に返すために旅に出る。フェルミンという若者が慕ってついてくる。道中にこの地方の都市であるバジェドゥパルや沼地(シエナガ)を通過する。

主役を演じたのは、本物のバジェナート歌手。

設定は1968年。この年、バジェドゥパル(セサル県の都)で第一回のバジェナート音楽祭が開かれ、劇中のイグナシオも参加する。

風景がとても美しい。横長の画面を目一杯使って、色鮮やかなコロンビアの自然はこの映画の中心的主題だ。

もう一つの主題はその風景とともに出てくるこの地方の先住民やアフロ系文化である。言葉も多様で、特にグアヒラ半島のワユー(Wayuu, Wayú)なども聞こえる。

監督のインタビューを読んで、なるほどと思ったのが、コロンビア北部のクリシェを避けているところだ。

この地方の文化を広めたのは小説家ガルシア=マルケスと音楽家ラファエル・エスカローナだが、監督はそれらを思いださせる道具を一切使わない。

黄色い蝶々は飛ばないし、エスカローナの名曲も流れない。

この監督はその後、コロンビア・アマゾンを舞台に『El abrazo de la serpiente』を撮っている。去年の秋、京都の映画祭で上映されている。トレイラーはこちら

その時は『大河の抱擁』という邦題だったが、この10月、ロードショーで公開されるにあたって、『彷徨える河』になった。

日本の公式サイトはこちら。監督名はシーロ・ゲーラになっている。

『風の旅』に関する未読のものとして、監督インタビューはこちら。映画評はこちら

コロンビアのアコーディオンものとしては、『El acordeón del diablo(悪魔のアコーディオン)』というドキュメンタリーがある。2000年の製作。 見た記憶があるのだが、思い出せない。

[この項、続く]

2016年9月1日木曜日

キューバ映画(10)『Una noche(或る夜に)』

キューバを舞台にした映画『Una noche(或る夜に)』(2012年)。

女性監督Lucy Mulloyのデビュー作。スパイク・リーのもとで学び、この映画も彼の資金援助を受けた。

この映画で数多くの賞を受賞。

ハバナの若者3人(双子の兄妹エリオとリラ、そしてエリオの友達ラウル)の物語。

ラウルが犯罪を犯し、逃亡の果てに亡命を決意する。親友エリオも手伝うが、双子の妹リラが気づき、彼女もついてくる。

3人は棒切れでいかだを作ってタイヤを二つくくりつけ、夜、海に出る。一応エンジンも持っていくが、海上で役に立たないことがわかる。メキシコ湾にはサメがうようよ泳いでいる。

ロケはハバナで行なわれ、制作国としてキューバ、イギリス、アメリカ合衆国があがっている。去年見た『ザ・キング・オブ・ハバナ』はキューバでの撮影ができず、ドミニカ共和国にしたということだった。

そういえば、ロバート・レッドフォード主演、シドニー・ポラック監督の『ハバナ』(1990)もドミニカ共和国撮影だという。この映画は、政治に無関心なアメリカ人ギャンブラーが、革命に身を投じる女性との恋に落ちるという内容だった。

大多数の人々が政治に無縁で生きられる大国と、そうはいかない小国(フレドリック・ジェイムソン)。映画ではアメリカ人がギャンブラーで、キューバ人は医師。

それはともかく、『或る夜に』も内容としては、ディストピアとしてのキューバなので、『ザ・キング……』と重なるのだが……

出ているのはプロの役者ではないかもしれないと思ったが、この映画には後日談があって、主役を演じた二人はNYのトライベッカ映画祭に出席するためアメリカへ渡り、その後政治亡命を申請したようだ

ウェブにある批評は例えばこれ

ウェブ新聞『Diario de Cuba』ではこれ。書いているのは、オルランド・ルイス・パルド・ラソ(Orlando Luis Pardo Lazo、1971〜)。

[この項、続く]

2016年8月28日日曜日

キューバ文学(33)マヌエル・コフィーニョ

マヌエル・コフィーニョの本が届いた。革命キューバの社会主義リアリズム作家として一時代を築いた作家だ。1936年生まれで1987年没。

Cofiño, Manuel, Andando por ahí, por esas calles, Editorial Letras Cubanas, La Habana, 1982.




これは短篇集。彼を一躍有名にした短篇「変革の時(Tiempo de cambio)」 が入っている(この短篇を含む短篇集が1969年に国内の文学賞を受賞した)。革命前は売春婦だった女が、その後ある商店の店員になっているのを見た男の独白。
 
1971年、カサ・デ・ラス・アメリカス賞(小説部門)を受賞したのが以下の本。

Cofiño, Manuel, La última mujer y el próximo combate, Siglo XXI, México D.F., 1972.


 
未入手だが、Cuando la sangre se parece al fuego(1975)は革命前後のハバナのスラム街に住むアフロ系一家を中心に、アフロキューバの宗教文化(アバクア)を描写しているようだ。

2016年8月19日金曜日

キューバ映画(9)『最後の晩餐』(La última cena)

キューバ映画『最後の晩餐』(La última cena) は、1976年のトマス・グティエレス=アレア監督作品。

舞台は18世紀後半、キューバの砂糖黍農場(ingenio)で四旬節(灰の水曜日から聖週間)に起きた出来事。キリスト教の暦がこの映画では重要だ。
 
ヨーロッパ貴族で砂糖農場のオーナーである伯爵は農場を訪れ、奴隷たちの過酷な状況を見たのち、彼らを晩餐会に招くことにする。

奴隷頭のマヌエル(El mayoral)にさんざん痛めつけられている奴隷に同情を覚え、一種の贖いをしたくなったからだ。

実はその日伯爵が見たのは、犬に捕らえられた逃亡奴隷が手ひどい暴力を受けるところだった。残虐さを目の当たりにしたことが、伯爵をキリスト教精神の発揮に向かわせる。

キリスト教と奴隷制度はどのような関係にあるのか、というのがこの映画の主題。

晩餐に招かれたのは12名の奴隷。そのなかには、年老いて、いつになったら自由になれるのかを心待ちにしている奴隷もいる。

大きなテーブルに、ダヴィンチの絵をそのままコピーしたかのように、一同は腰掛ける。

伯爵は中央に座り、酒を飲み、酔いも回って上機嫌になり、いくつかのキリスト教的教訓話を聞かせる。また「最後の晩餐」よろしく、奴隷の足を洗い、口づけする。翌日の聖金曜日はキリスト教のしきたりに従って休んでよいとさえ請け合う。しまいに伯爵は酔いつぶれる。

奴隷はそんな伯爵の話に、ときに真剣に、ときに笑いながら耳を傾ける。わかったようなわからないような話だ。結局苦しむのが人間という風にも聞こえる。それでも食べ、飲み、踊り、歌い、これまでにない歓びを味わう。

翌日、奴隷たちは晩餐のときの約束にしたがって働かない。ところが話が違う。マヌエルは暴力を用いて強いてくるのだ。

耐えられない奴隷はついに反乱を起こす。一斉蜂起が始まる。

奴隷はマヌエルを捕らえて正義、つまり処刑を求めるが、それに先立って、前日に意気投合した伯爵の立ち会いがあるべきとの判断。結果、二人の使者(二人の奴隷)を伯爵邸に向かわせることにする。

自邸で目を覚ました伯爵は司祭の訪問を受ける。今日は休みですね、と確認を求められるが、伯爵は、それはマヌエルが決めることだと相手にしない。おや、昨日の伯爵の寛容はなんだったのか? と司祭は疑問に思う。

そうこうするうちに、伯爵は奴隷反乱の知らせを受け、農場へ向かうことにする。奴隷への同情は、なぜか薄れつつある。昨夜は酔いに任せて調子に乗っただけだったのか。

道中、伯爵一行は、伯爵邸に向かってきた二人の奴隷と対面する。奴隷の一人を殺し、農場へ行く。
 
伯爵が着いたころ、すでにマヌエルは処刑され、農場には火が放たれていたが、多勢に無勢、奴隷の反乱は鎮圧される。

教会には遺体が運び込まれ、司祭がミサを執り行おうとする。

伯爵は遺体のなかに、マヌエルや砂糖農場経営者の妻(蜂起に巻き込まれて死んだ)のみならず、死んだ奴隷も並べられるのを見て怒りに火がつく。

前の日に同じテーブルをともにしたのだったが、奴隷が「白人やムラート」と平等に扱われていることは、やはり伯爵にとっては受け入れ難いことだったのだ。

伯爵は、その場にいた老奴隷(前の日には冗談を言い合った仲)の殺害を命じる。さらに、晩餐に出席したすべての奴隷の殺害を命じ、一人を除いて処刑される。

こうして、博愛から残虐へと一気に態度を翻した伯爵は、死んだ奴隷頭マヌエルのために十字架を立てる。

そのころ、たった一人逃げおおせた逃亡奴隷は山をのぼっていた……

おおむね、以上のようなストーリーである。

クレジットを調べると、原作者としてマヌエル・モレノ・フラヒナルの名前があがっている。マイアミに没したキューバの歴史学者だ。彼の本は一冊邦訳がある。 

砂糖大国キューバの形成―製糖所の発達と社会・経済・文化』(本間宏之訳)、エルコ、1994年。

 ひょっとしてこの本に映画のタネがあるのだろうか?今度調べてみよう。

[この項、続く]

2016年8月18日木曜日

ラテンアメリカ文学・新刊リスト(1)

マリアナ・エンリケス
  Enriquez, Mariana, Las cosas que perdimos en el fuego, Anagrama, Barcelona, 2016. 英訳版も出ているラテンアメリカ犯罪短篇集に入っていた短篇「El chico sucio」が巻頭。アルゼンチンのノワール系若手女性作家。教室ではちょっと読めない。

マルティン・カパロス
 Caparrós, Martín, El Hambre, Anagrama, Barcelona, 2016.
 飢餓、大量消費をテーマにした随想+ルポルタージュ。全694ページ。
 取材場所はインド、バングラデシュ、アメリカ合衆国、アルゼンチン、南スーダン、マダガスカル。
 アルゼンチンのパートでは、カルトネロ(段ボール回収業者)の話になる。動詞cartonearはアルゼンチン用語。このパートだけでも素晴らしい。大絶賛されている本。
 この本は2016年、Colección Compactos(ペーパーバック)に入った。

カルロス・フォンセカ
 Fonseca, Carlos, Coronel Lágrimas, Anagrama, Barcelona, 2015.
  著者はコスタリカ出身でプエルト・リコで育つ。プリンストン大学でリカルド・ピグリアに教わった。

アルバロ・エンリゲ
 Enrigue, Álvaro, Muerte súbita, Anagrama, Barcelona, 2013.
 メキシコの作家。この本で2013年にエラルデ小説賞。

レイラ・ゲレイロ
 Guerreiro, Leila, Una historia sencilla, Anagrama, Barcelona, 2013.
   アルゼンチンのフォルクローレ「マランボ」(タップダンスに似ている)の取材で出会った踊り手をめぐるクロニカ。さらっと読みたい。

2016年8月17日水曜日

スペイン語圏LGBT文学(2)

スペイン語圏のレズビアン文学短篇集。

Donde no puedas amar, no te demores, Editorial Eagles, Madrid, 2016.

書き手の名前をリストアップしておく。合計12名。アルファベット順に並んでいた。スペイン、プエルト・リコ、アルゼンチン。

Yolanda Arroyo
Marñia Ángeles Cabré
María Castrejón
Isabel Franc
Josa Fructuoso
Clara Asunción García
Emma Mars
Mila Martínez
Thais Morales
María Pía Poveda
Carme Pollina Tarrés
Paloma Ruiz Román
Violeta Voltereta(イラスト)

この本を出している出版社Eaglesの住所を見たら、マドリードとバルセロナの住所が出ている。バルセロナはセルバンテス通り、マドリードはオルタレサ通りの番地だった。

ここはそれぞれ、LGBTブックストアの住所でもある。どちらも行ったことがあって、とてもいい。

バルセロナはLibrería Cómplice
マドリードはLibrerñia Berkana

それから以前にも紹介したような気がするが、LGBT文学に強い出版社Dos Bigotesからは以下のものが3刷りになっていた。

Schimel, Lawrence, Una barba para dos y otros 99 microrrelatos eróticos, Editorial Dos Bigotes, 2016.

著者はニューヨーク生まれのアメリカ人。1971年生まれ。1999年からマドリードに住んでスペイン語で書いている。英語からスペイン語へ移動した人は珍しいのでは?

2016年8月16日火曜日

キューバ映画(8)『イタカ島への帰還』(Retour à Ithaque/Regreso a Ítaca)

キューバを舞台にした映画『イタカ島への帰還』(2014年、フランス・ベルギー)。

監督はフランス人のローラン・カンテ(『パリ20区、僕たちのクラス』)。彼は『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(2012年)ですでにキューバを撮っている。

『セブン・デイズ…』は7人の監督が撮った7篇の短篇映画から成る。とはいえ、一応ストーリーにつながりはある。

『イタカ島への帰還』の脚本は、その『セブン・デイズ…』の7本のうち3本の脚本を書いたキューバ作家のレオナルド・パドゥーラ。

舞台はセントロ・ハバナのマンションの屋上。50代とおぼしきキューバ人5名が夕暮れ時に集まる。

16年振りに作家のアマデオが帰国したのが理由だ。

アマデオがなぜスペインへ去り、16年戻ってこなかったのか、友人たち4名は誰も知らない。その謎が映画の最後に明かされる。

5名は空白の16年を埋めようと夜通し語り合う。

画家のラファは才能はあるが、体制と折り合わず、一時は酒浸りになる。いまは観光客向けに価値のない絵を描いて売って生計を立てている。

眼科医のタニアはマイアミに亡命した息子たちからの送金で暮らしている。果たして息子たちの亡命を許したことは正解だったのか葛藤するうち、サンテリーアを信仰するようになる。

エディは「会社」を切り盛りして羽振りがいい。上等の上着を着て、サングラスはレイバン、この日のためにウィスキーを調達することができる。しかし会社は当局に目を付けられ、明日には逮捕されるかもしれない。

同窓会の場所を提供しているアルドはアンゴラ内戦に従軍した過去がある。しかし帰還しても生活は一向によくならず、現在は廃品を利用して電池を製造するしがない「技師」。妻は出て行き、一人息子は常に亡命を口にする。彼が母と住んでいるセントロ・ハバナはハバナのなかではスラム街然としたダウンタウン。それでも彼は未来を信じている。

アマデオは16年前までキューバでひとまず名は知られている作家だった。しかしスペインに渡ってからは書けなくなり、デパートの守衛などをして生計を立てていた。

この中年男女の5名が、革命を信じて夢のあった青春を振り返り、苦しみばかりの現在を語り、笑い、涙を流し、喧嘩をする。

オルタナティブ・メディアでの評価はあまり芳しくないようだ。たとえばこれこれも手厳しい。後者で指摘されているが、この映画はペドロ・フアン・グティエレスの舞台(セントロ・ハバナ)に、パドゥーラの登場人物(嘆きが特徴)を載せた体裁の、やや御都合主義的な映画ではある。

この映画の下敷きになったのはパドゥーラの小説のエピソードだが、そのことはここでは措く。

パドゥーラは『セブン・デイズ・イン・ハバナ』に参加するローレン・カンテのために、このエピソードに基づいた脚本を書いた。しかし15分の短篇では収まらず、結局カンテは『セブン・デイズ…』では別の短篇を撮った。そしてパドゥーラが新たに脚本を書き直して完成されたのがこの映画『イタカ島への帰還』である。

パドゥーラによる映画のノベライズ版、カンテ監督の手記、撮影されなかった短篇映画の『イタカ島への帰還』の脚本などをまとめた本が以下のもの。

Padura, Leonardo y Laurent Cantet, Regreso a Ítaca, Tusquets Editores, Barcelona, 2016.


2016年8月15日月曜日

キューバ文学(32)バルセロナ

ヘスス・ディアスがマドリードに立ち上げた出版社はEditorial Colibrí。残念ながら閉じてしまったことはすでに書いた。

しかしバルセロナのEditorial Casiopeaはまだ健在だ。この出版社の「セイバ・コレクション」は亡命キューバ作家を扱うシリーズだ。

出典は忘れてしまったが、ヘスス・ディアスもこの出版社に協力していたらしい。有名なカリブ論『反復する島』(アントニオ・ベニテス・ロホ)の決定版もここから出ている。

この出版社から出たものとして、

Nuez, Iván de la, La balsa perpetua : Soledad y conexiones de la cultura cubana, Editorial Casiopea, Barcelona, 1998.
 
イバン・デ・ラ・ヌエスは1964年にハバナに生まれた批評家。El Paísなどにも寄稿している。彼のブログはこちら

最新のエントリーでは島在住のアーティスト、ラサロ・サアベドラ(Lázaro Saavedra、1964年生まれ)のことを紹介している。

この人のビデオ・アート作品(Reencarnación)は、61年に検閲されたフィルム「P.M」を使い、音楽はキューバのレゲトン歌手エルビス・マヌエルの歌に取り替えている。この歌手は2008年にマイアミに向けて亡命しようと船に乗ったが、そのまま行方不明になった。

Abreu, Juan, A la sombra del mar: Jornadas cubanas con Reinaldo Arenas, Editorial Casiopea, Barcelona, 1998.

フアン・アブレウはレイナルド・アレナスと付き合いがあった。この本はアブレウの1974年から75年の日記をベースにしている。アレナスが逮捕され、収監されていたころのことだ。アブレウ版『夜になるまえに』である。

アブレウは現在バルセロナ在住とのこと。

2016年8月14日日曜日

キューバ文学(31)「Pensamiento crítico」誌(1967-1971)

今回マドリードに行ったもう一つの理由は、キューバの言論誌の古本を安く手に入れるため。

何度かここで書いているヘスス・ディアスがかかわっていた「Pensamiento crítico」(批判的思考)誌のバックナンバー。

このサイトで、一部を読むことができる。1967年から71年まで、合計53号(合併号があるので49冊)が出ている。

結局、以下の号を持ち帰った。

16号(1968年5月)142頁
32号(1969年9月)240頁
39号(1970年4月)372頁
53号(1971年6月)169頁

このなかで、32号(1969年9月)は南アフリカ特集。執筆者とタイトルは以下のとおり。
Duma Nokwe, La lucha por la liberación nacional en Sudáfrica
Claude Glayman, Aproximación económica al apartheid
Andrew Asheron, Racismo y política en Suráfrica
El bantustan(New Left Review, 1969年2月号より)
Giovannni Arrighi y J.S.Saul, Nacionalismo y revolución en el áfrica subsahariana
Jean Paul Sartre, Testimonios: África del Sur: Centro del Fascismo
Spartacus Monimambu, Nuestra lucha no es contra el hombre blanco, sino contra el colonialismo

表紙と裏表紙はこんな感じ。


2016年8月13日土曜日

セルバンテス

2015年は『ドン・キホーテ』続編出版から400年、そして2016年はセルバンテス没後400年で、スペイン王立アカデミーから『ドン・キホーテ』の記念版が出ている。

日本でもセルバンテス全集の企画があると聞いた。

王立アカデミーは2004年からすでにこの手の記念版を出しはじめ、最初が『ドン・キホーテ』だった。

記念版はすでに7冊あって、『ドン・キホーテ』が2種(2004年と2015年)のほか、『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)、『都会と犬ども』(バルガス=リョサ)、『澄みわたる大地』(カルロス・フェンテス)、そしてネルーダとミストラル。

『ドン・キホーテ』現代語訳というのもある。

有名なのはスペインのベストセラー作家アルトゥーロ・ペレス=レベルテの学生向けの翻案である。こちら

そのほかにも何かないかと思っていたら、こういうのがあった。

Miguel de Cervantes, Don Quijote de la Mancha : Puesto en castellano actual íntegra y fielmente por Andrés Trapiello, Ediciones Destino, Barcelona, 2015.

いわゆる現代語訳版である。アンドレス・トラピエジョ氏はセルバンテスがらみの本(小説も)を何冊も出している方だ。

原文とどれくらい違うのか?以下は現代語訳。

En un lugar de la Mancha, de cuyo nombre no quiero acordarme, vivía no hace mucho un hidalgo de los de langa ya olvidada, escudo antiguo, rocín flaco y galgo corredor. Consumían tres partes de su hacienda una olla con algo más de vaca que carnero, ropa vieja casi todas las noches, huevos con torreznos los sábados, lentejas los viernes y algún palomino de añadidura los domingos. El resto de ella lo concluían un sayo de velarte negro y, para las fiestas, calzas de terciopelo con sus pantuflos a juego, honándose entre semana con un traje pardo de lo más fino.

そして以下が原文。

En un lugar de la Mancha, de cuyo nombre no quiero acordarme, no ha mucho tiempo que vivía un hidalgo de los de lanza en astillero, adarga antigua, rocín flaco y galgo corredor. Una olla de algo más vaca que carnero, salpicón las más noches, duelos y quebrantos los sábados, lantejas los viernes, algún palomino de añadidura los domingos, consumían las tres partes de su hacienda. El resto de ella concluían sayo de velarte, calzas de velludo para las fiestas, con sus panfuflos de lo mismo, y los días de entresemana se honraba con su vellorí de lo más fino.

メキシコのイラン・スタバンスがスパングリッシュで『ドン・キホーテ』第1章を訳している。以下はその冒頭。

In un placete de la Mancha of which nombre no quiero remembrearme, vivía, not so long ago, uno de esos gentlemen who always tienen una lanza in the rack, una buckler antigua, a skinny caballo y un grayhound para el chase. A cazuela with más beef than mutón, carne choppeada para la dinner, un omelet pa’ los sábados, lentil pa’ los viernes, y algún pigeon como delicacy especial pa’ los domingos, consumían tres cuarers de su income.

3つ並べてみると、スパングリッシュ→現代スペイン語→古典スペイン語の順番で読んでいくと面白い。この順序でスペイン語を勉強したらいいのではないか。

スタバンスはスパングリッシュをジャズのようなものだと言っている。音楽をジャズからはじめてクラシックに至る方法があるように、スペイン語もスパングリッシュからはじめて古典に至ればいい。

スペイン古典の現代語訳といえば、改宗ユダヤ人(マラーノ)によって書かれた『セレスティーナ』にも何種もの現代語版がある。

この本は相当にぶっとんでいて大好きなのだが、現代語訳のみならず、中高生向けと思われる簡略版もあった。そもそも『セレスティーナ』を少年少女向けに改編してもあまり意味がないのではないかと思ったが、スペインの大人が原文のどこが不適当だと考えているのかを知るうえでは興味深い。

2016年8月10日水曜日

キューバ文学(30)マドリード篇

マドリードで入手した本。キューバ文学篇

Enrique Lage, Jorge, La autopista: the movie, Esto no es Berlín eidiciones, 2015.

ホルヘ・エンリケ・ラへは最近ではラテンアメリカ短篇集の常連作家。1979年生まれ。その彼の最新作と思われる。

フロリダとキューバを結ぶ高速道路を建設したとしたらどうなる?という仮想未来小説。

続いて、亡命キューバ人が創設して、残念ながら閉じてしまった出版社Colibríから出たものから何冊か。

Jiménez Leal, Orlando y Manuel Zayas, El caso PM: Cine, poder y censura, Editorial Colibrí, 2012, Madrid.

1961年、わずか14分のドキュメンタリー映画「P.M.」の上映が禁止され、これをもってキューバ革命と文化人との闘いがはじまった。

この本は、そのときの関係者の資料などをもとに作られている。ネットでは読んだことがあったが、この映画をめぐって開かれたカストロと文化人たちの会議の議事録が収められている(1961年6月16日と23日分)。

その他、以下の2冊も入手。

Hernández Busto, Ernesto, Inventario de saldos: Apuntes sobre literatura cubana, Editorial Colibrí, 2005, Madrid.

1968年生まれの著者はソ連留学経験がある。92年にキューバを離れたあとメキシコに10年ほど住んで、そのあいだオクタビオ・パスの雑誌「Vuelta」にかかわる。その後バルセロナへ。いまは「El País」や「Letras Libres」などに寄稿している。翻訳もやっていて、パステルナークの翻訳書がある。

この人には Diario de Kioto(京都日記)という本がある。メキシコ出身で日本在住のアウレリオ・アシアインさんが紹介文を書いている。2015年の出版。ひょっとして電子ブックかもしれない。

続いて

Del Risco, Enrique, Elogio de la levedad : Mitos nacionales cubanos y sus reescrituras literarias en el siglo XX, Editorial Colibrí, 2008, Madrid.

タイトルは『軽さの礼賛:キューバ国民神話と20世紀におけるその文学的書き換え』

ホセ・マルティ=キューバの父という物語は、革命後に「創造された神話」だと批判するのがラファエル・ロハスで、この著書のエンリケ・デル・リスコさん(1968年生まれ)もそれに依拠しながら論を進めている。

[この項、続く]

2016年8月9日火曜日

ウィフレド・ラム展(ソフィア王妃芸術センター)

今回のマドリード訪問の唯一の目的はウィフレド・ラム展をソフィア王妃芸術センターで見ることだった。




この展覧会はポンピドゥー、テート・モダン、ソフィア王妃芸術センター3館の共同企画。


ポンピドゥーでは2015年9月から2016年の2月15日まで、マドリードが4月6日から8月15日まで、そしてこのあとテート・モダンで9月14日から来年1月8日まで。

マドリードの開催はあと10日で終わるので駆け込み鑑賞だが、それほどの人ごみではなく、ゆっくり見ることができた。

ラムはニコラス・ギジェンと同じ1902年に生まれている。亡くなったのはギジェンより7年早い1982年。

展覧会は初期のキューバ時代に始まり、ピカソなどと交流したヨーロッパ時代、そして晩年まで余すことなく見せてくれる。彼が制作したテラコッタも。

家族が提供したフィルムによってプライベートなラムの姿、また、エメ・セゼールやブルトン、レリスなどとの写真も。

カタログはこれ

Youtubeで今回の展覧会を実現したCatherine Davidがポンピドゥーでインタビューに答えている映像があったので見た。こちら

映像を見るとわかるように、パリでは『ジャングル』が展示されている。巡回展でも内容が違うらしく、マドリードでのみ展示されている絵もある。

ソフィアには『ジャングル』は来ていない。上に載せた写真にある緑の絵が『ジャングル』と同時期に描かれたもので、たぶん今回ソフィアにある展示のなかではいちばん華がある。

カタログには、どの絵がマドリードで展示されたのか、あるいはされていないのか、印がついている。

キューバ出身で亡命してパリ住まいの作家ソエ・バルデスのブログにはポンピドゥーで『ジャングル』を見たというエントリーがあって、91年と2015年に絵の前で撮った写真がある。

ソエによれば、MOMAに行っても『ジャングル』が展示されていなかったことがあるそうだ。となれば、2012年2月にMOMAで見られたというのは幸運なのかもしれない。


カタログとは別に、キューバのアヴァンギャルド芸術画集があった。イタリアの展覧会のカタログ。

Cuba: Vanguardias 1920-1940, Generalitat Valenciana, 2006.

2016年8月7日日曜日

キューバ文学(29)ガルシア・ロルカ 2

マドリードに来て気づいたのは、今年はセルバンテス没後400年のみならず、ロルカが銃殺されてから80年になること。ちなみにカミロ・ホセ・セラは生誕100年。

この前ロルカのNYとハバナ滞在について振り返る機会があったので、ロルカ関係の本を探したら、以下のものを見つけた。

Mauer, Christopher, and Andrew A. Anderson, Federico García Lorca en Nueva York y La Habana: Cartas y recuerdos, Galaxia Gutenberg, 2013, 382pp.




タイトルにあるとおり、書簡や当事者の手記などの資料集だが、ちょうど考えていたこととぴったりはまる。

写真や書簡、イラストなども入っていてとても素敵な本。

そしてもう一冊、ロルカが1933年に行なった6か月のブエノスアイレス訪問についての本も出ていた。

Roffé Reina, Lorca en Buenos Aires, Fórcola Ediciones, 2016,




事実と虚構とで織りなされる伝記小説。作者はアルゼンチン人。

2016年8月3日水曜日

キューバ文学(28)ガルシア・ロルカとキューバ[2017.6.27追記]


ロルカのキューバ訪問は1930年3月から6月。NYに9か月滞在したあとのことだった。

しかもニコラス・ギジェンの『ソンのモチーフ』がハバナの新聞に載ったのと同時期。

振り返っておこう。
 
1928年 ロルカ『ジプシー歌集』出版。版元は「レビスタ・デ・オクシデンテ」社。「レビスタ・デ・オクシデンテ」はオルテガが創刊(1923〜)。

この詩集にはリディア・カブレラに捧げた「不貞の人妻」が入っている。

1928年10月15日、キューバのアヴァンギャルド雑誌「レビスタ・デ・アバンセ」に『ジプシー歌集』の書評が掲載されている。執筆者はキューバ詩人のエウヘニオ・フロリー。


1929年6月初め ロルカ、NYへ(初めての国外)。
NYで書いたものとして、たとえば 「黒人たち」、「ハーレムの王へのオード(頌歌)」など。


1929年10月大恐慌


1930年3月7日、ロルカ、NYからハバナへ。
 ←1927年創設のイスパノーキューバ協会の招きで(当時フェルナンド・オルティス会長)。ロルカ滞在は6月12日までの3か月。


フロリダまで鉄道、そしてフェリーでハバナに到着。
1930年前後のキューバ:
キー・ウェストとハバナ間の旅客機就航が1929年
ホセ・マルティ国際空港は1930年2月開港
ホテル・ナシオナルは1930年12月開館
 
そして、1930年4月20日(ロルカ到着からほぼ一か月後)、ニコラス・ギジェン『ソンのモチーフ』(シリーズ詩)が『マリーナ新聞』に掲載。

ロルカはそれを直接読んだはずだ。

ロルカがキューバで書いた詩は「キューバの黒人たちのソン」。

[2017年6月27日追記]
キューバのホテル・ナシオナルについて:
アメリカの建築事務所マッキム・ミード・アンド・ホワイト社の設計(ラテンアメリカでは唯一の建築と見られる)。この事務所はマンハッタン市庁舎の設計などをしている。両者を比べて見ると、大きさはNYの方が圧倒的だが、新古典主義様式である点では共通。
フランク・ロイド・ライトが設計した日本の帝国ホテルは1923年竣工。ライトはモダニズム。 

2016年7月27日水曜日

アルゼンチン映画『エル・クラン』

この秋、9月17日から公開されるアルゼンチン映画『エル・クラン』を見る機会をもらった。オフィシャルサイトはこちら

アルゼンチンの軍政期(76-83)の終わりごろに起きた事件をベースにしている。しかし「娯楽作品」ではあるので、そういう風に楽しんでもいい(実話の深刻さと娯楽性の双方に目配りした作品ととらえたい)。

その娯楽性、フィクション性(映画性)の成立に多いに貢献しているのが製作に名を連ねているスペインのアルモドバルなのではないか。

去年公開された『人生スイッチ』でも同じようにアルモドバルの名前があったが、アルゼンチン映画にはこのような流れを生む背景があるのだろうか?

内容については公開前なのであまり触れられないが、アルキメデス・プッチオを演じるギジェルモ・フランセーヤ(フランセージャ)は私の記憶ではコメディばかりに出ていたので、シリアスな演技をしているだけで新鮮、あるいは不気味だった。

舞台はサン・イシドロ地区で、ここはブエノスアイレス郊外の高級住宅地だ。文芸誌『エル・スール』を創刊したビクトリア・オカンポの邸宅もある。Villa Ocampoは現在博物館。すてきな場所なので、チャンスがあればもう一度行きたい。ここで、いまは亡きメルセデス・ソーサを見た。

こういう地区で起きたから、なおのこと事件の突飛さ、異常さが際立ったはずだ。えっまさかという反応だ。

一度目は前情報なしに、二度目はプログラムなどを読んでから見るといいと思う。

アルキメデスの妻エピファニーアのことが気になってしょうがない。彼女は何を思っていたのか?

悪事を企む男が車を運転しているシーンで、直接彼を映すのではなく、バックミラーに映る姿を撮っていた。彼を追跡していた警察側の視線だろうか?
 

2016年7月24日日曜日

キューバ文学(27)エリセオ・アルベルト 1

亡命キューバ作家のエリセオ・アルベルトの存在もまた忘れられない。

1951年、キューバ、アロージョ・ナランホに生まれ、2011年、メキシコシティで没した。

アロージョ・ナランホはハバナ市から見て南の方角にある行政地区。レーニン公園のあたり。ホセ・マルティ国際空港の近くでもある。イタロ・カルヴィーノの生まれたサンティアゴ・デ・ラス・べガスも近い。

父親が詩人のエリセオ・ディエゴ(1992〜1994、キューバ生まれ、メキシコ没)。

エリセオ・アルベルトがメキシコに亡命したのは1990年。

ガルシア=マルケスが創設したハバナ(正確にはサン・アントニオ・デ・ロス・バーニョス)のテレビ映画学校でも講師を務めたことがある。メキシコ亡命後も、ガルシア=マルケスとの付き合いは続いていた。ちなみにリチー(Lichi)が彼のニックネーム。

詩人としてのキャリアがあるが、小説家として名を高めた。

その一つが『カラコル・ビーチ』(1998)。これがアルファグアラ小説賞の受賞作になった。アルファグアラ小説賞は1973年から97年まで実施されなかったので、復活第一回の受賞作である。同時に受賞したのがセルヒオ・ラミレスの『海がきれいだね、マルガリータ』。

そしてヘスス・ディアスの『キューバのこと、何か教えて』と同様、1999年のロムロ・ガジェゴス賞の最終候補になっている(最終候補は全部で10作ある。受賞したのはボラーニョ『野生の探偵たち』)。

『私自身への批判的報告』という一種のテスティモニオ(証言)がある。1978年ごろ書かれたらしいが、出版は亡命後の1997年。

この本と、たとえばヘスス・ディアスの『地球のイニシャル(タイトル仮訳)Las iniciales de la tierra』が重なりあう。書かれた時期と出版時期がずれるのも同じで、またディアス作品のほうは主人公が共産党に提出する「自己弁明」が小説の内容である。

この夏は『キューバのこと、何か教えて』と『カラコル・ビーチ』について考えていきたい。

[この項、続く]


2016年7月22日金曜日

ボラーニョ(2)『第三帝国』

ボラーニョ・コレクションの新刊が出た。

『第三帝国』柳原孝敦訳、白水社。

全404ページ。

「窓越しに潮騒に混じって、夜を明かして帰る者たちの笑い声やおそらくテラスのテーブルをウェイターたちが片づけている音、ときどき海岸通りをゆっくりと走る車のエンジン音、ホテルの他の部屋から聞こえる何の音かはわからないがくぐもったブーンという唸りなどが入ってくる。」

これが冒頭。

この小説の舞台はブラーナスがモデルになっているという。ブラーナスを訪れた人なら、あるいはカタルーニャのあの地中海沿いの小さな街を訪れた人なら、この一行だけでなんとなくぴんとくるかもしれない。

ブラーナス。

地中海に面した、のどかな、でも賑やかで、日差しがとてもまぶしくて、小さな街のなかで大きな構えの白い図書館が印象に残る。窓からさんさんと陽光が降り注いでいて、本が傷まないのだろうかと思った。
 

一行目からすっかり虜になってしまったので、ブラーナスの写真を載せておく。追想のブラーナス。



図書館



 
海岸通り


ゲームセンター

最後の写真の右にある赤いプレートが「ボラーニョ・ルート」の看板で、これを順番にたどると、ボラーニョゆかりの場所を訪ねることができる。そしてブラーナスの中心街もだいたい頭に入る。

途中、ルートを少し外れてアイスクリームを食べた。とても美味しかった。

2016年7月18日月曜日

国際シンポジウム PERCEPTION IN THE AVANT-GARDE アヴァンギャルドの知覚

2016年7月25日・26日に東京外大で標題の国際シンポジウムが催される。



ラテンアメリカのアヴァンギャルドにおける知覚とテクノロジーの問題については、たとえば以下のような研究書がある。


Jane Robinett,  This rough magic : technology in Latin American fiction (Worcester Polytechnic Institute studies in science, technology, and culture, vol. 13), P. Lang Publishing, 1994.

 それからボリビアの現代作家エドムンド・パス・ソルダンは『チューリングの妄想』で現代テクノロジーを扱っているが、この論文では『モレルの発明』(ビオイ=カサーレス)や「パラグアイの女」(アウグスト・セスペデス)を論じている。

[この項、続く] 

2016年7月15日金曜日

2016年1月〜6月まとめ[8月14日追記]

この半年のあいだに書いたり話したり、かかわったものについてまとめておく。

1.[翻訳]フアン・ガブリエル・バスケス『コスタグアナ秘史』水声社

2.[研究発表]「ポストソ連時代のキューバ文学を読むーーアナ・リディア・ベガ・セローバほか――」東京外国語大学総合文化研究所、2016年1月27日(シリーズ 文学の移動/移動の文学①)

3.[論文]「プエルト・リコ、問い直される「正史」:ロサリオ・フェレとマヌエル・ラモス・オテロの作品から 」(国際言語文化研究所プロジェクトA1研究所重点研究プログラム 「環カリブ地域における言語横断的な文化/文学の研究」研究報告)、『立命館言語文化研究』 27(2・3)、 pp.177-187、 2016年2月

4.[論文]「ポストソ連時代のキューバ文学を読む:キューバはソ連をどう描いたか?」、『れにくさ = Реникса 』東京大学現代文芸論研究室論集 (6)、 pp.129-140、2016年

5. [鼎談]「J・G・バスケスを芥川賞作家と読む」(小野正嗣氏、柳原孝敦氏と)、東京外国語大学総合文化研究所、2016年4月26日(シリーズ 翻訳を考える①)
  →内容は「週刊読書人」2016年6月17日号(7面-8面)に掲載

6.[研究発表]「これからのキューバを語るために――革命、ソ連時代、米国との国交回復」愛知教育大学、2016年6月18日。※科学研究費基盤B「社会主義文化における戦争のメモリースケープ研究―旧ソ連・ 中国・ベトナム」(研究代表者 越野剛さん)による研究会

7.[講演会企画]メキシコ観光局駐日代表ギジェルモ・エギアルテ氏『20世紀のメキシコにおけるデザインと建築』、東京外国語大学総合文化研究所、2016年5月17日

[8月14日追記]
8.[巻頭エッセイ、新入生へのメッセージ]「読む知、聞く知」『ピエリア』東京外国語大学出版会、 2016年春号

2016年7月13日水曜日

芝居『この村に泥棒はいない」/『コルネリア』

芝居を見てきた。

演出:守山真利恵『この村に泥棒はいない』/『コルネリア』
出演:鎌田紗矢香、むらさきしゅう

「この村に泥棒はいない」の原作はガルシア=マルケス、「コルネリア」のほうは、原題が「鏡の前のコルネリア」でシルビーナ・オカンポが原作。どちらもラテンアメリカの短篇小説。そしてどちらも邦訳は安藤哲行氏。台詞は翻訳書から用いられている。

「鏡の前のコルネリア」は何年か前にアルゼンチンで映画になっていて、その記憶が残っている。 トレイラーはこちら

芝居では二つの短篇が5分の休憩を挟んで、75分で演じられた。順番は「コルネリア」が先で、後に「この村に泥棒はいない」。冒頭だったかと思うが、おそらくこの曲が使われていた。とても好きな曲だ。

プログラムに演出の守山さんが一筆書いている。彼女は「コルネリア」から一節を引いたあと、こう言っている。

「この圧倒的な孤独の感覚はどこから生まれてくるのだろうか、とふと思う。孤独というより、圧倒的な『うまくいってなさ』と言うほうが正しいかもしれない。(中略)オカンポ、マルケス両名が今日の2作品に描き込んだ鈍痛が、特にわたしたちの世代には無意識に落とし込まれてしまうくらい自然な問題(後略)。それがそもそも痛みなのだということすら、既に知覚できなくなっているんじゃないか、と。」

 「わたしたちの世代」というのは守山さんの世代で、おそらく20代。「うまくいってなさ」というのは、個々人の私的なレベルから、いまの日本のみならず、現実世界の状況まで広い範囲をさしているのだろう。

うまくいっていないという感覚、ある種のストレスやもどかしさを、おそらくまったく共通点のなさそうなこの2篇に見出したというのはとても面白い、いやすごいと思った。

原作のコンテクストで言えば、おそらく「鏡の前のコルネリア」ではブエノスアイレスのブルジョア的かつ夢幻の世界が、また「この村に泥棒はいない」の場合には、カリブ熱帯の退屈世界が背景として広がっているのだが、そういったものを削ぎ落としたところには、男女のすれ違い、(生きる)意味のすれ違い、(生きる)時間のすれ違いなどが共通テーマとして出てくるわけだ。

そしてそのすれ違いのもどかしさやイライラは、二人の熱っぽい、ときにヒヤヒヤするような演技によって存分に示されていたと思う。

いろいろと考えさせる芝居だった。

2016年7月12日火曜日

スペイン語圏LGBT文学(1)

「すばる」8月号でLGBT特集が組まれている。

私にも、スペイン語圏の文学について話があったので、「キューバのもう一つの窓」と題したエッセイを書かせてもらった。

アルゼンチンやスペインでLGBT専門書店によく足を運んでいる。アルゼンチンの書店は残念ながら閉店してしまったが、スペインのマドリードやバルセロナには数軒ある。

実はこのブログの背景に使っている書棚の写真は、とあるスペイン語圏のLGBT書店で撮らせてもらったものである。

「すばる」ではキューバのことしか書けなかったが、ほかのスペイン語圏のLGBT文学についても本だけは集めている。

プエルト・リコからは次のような本が出ている。

 Los otros cuerpos: Antología de temática gay, lésbica y queer desde Puerto Rico y su diáspora, Editorial Tiempo Nuevo, San Juan, 2007.

全403ページ。

ゲイ、レズビアン、クィアをテーマとしたアンソロジー。 短篇、詩、小説からの抜粋、試論、文学研究などの分野からセレクトされている。

アレナスと比肩されるべきマヌエル・ラモス・オテロ Manuel Ramos Oteroやジョランダ・アロージョ・ピサーロ Yolanda Arroyo Pizarro、研究者としても有名なラリー・ラ・フォウンテン・ストークス Larry La Fountain-Stokes など。

現在もっとも注目されているゲイ文学の書き手ルイス・ネグロン Luis Negrónの『残酷な世界 Mundo cruel』も入っている。

総勢44名。

それから、スペイン語圏レズビアン短篇集として以下のようなものも持っている。

Salado, Minerva (ed.), Dos orillas: Voces en la narrativa lésbica, Editorial Eagles, 2008.

全219ページ。

キューバ、メキシコ、アルゼンチン、スペイン、ホンジュラス、コロンビア、ベネズエラ、ニカラグアから総勢20名の女性作家によるレズビアン短篇集。

[この項、続く]

2016年7月5日火曜日

キューバ文学(26)ヘスス・ディアス 2

このところヘスス・ディアスの小説を読んでいる。

この作家については、以前のエントリーで書いた。 そして、彼の小説『シベリアの女 Siberiana』は論文「ポストソ連時代のキューバ文学を読む」で取り上げた。

20世紀のキューバ作家、とくに「革命文学」から「亡命文学」へ移った(移らされた)作家として、とりわけ興味深い。

それで彼の処女小説集である『困難な歳月 Los años duros』 を読んでみることにした。1966年の作品で、カサ・デ・ラス・アメリカス小説賞を受賞したものだ。小説を書いたときヘスス・ディアスは24歳だった。

100ページほどの薄い本だが、革命闘争にはじまり、革命が成就してからの砂糖黍刈りそして軍事訓練、ヒロン海岸を思わせる軍事衝突まで、いくつかの場面が切り出されている。100ページとは思えないほど内容が濃い。

男3人それぞれのヴィジョン(視覚映像)と意識の流れが組み合される。場面は多面的にとらえられる。まるでパズルのようなもので、読み進めていくにつれて不鮮明なところが埋まっていく。

ヴィジョンと意識の流れというのはつまり、「夢」と似ている。不鮮明な、場合によっては脈絡のない「ストーリー」。複数の夢=「ストーリー」を継ぎはぎしていくと、最終的には「革命物語」として完結される。
  
次に、亡命後の作品『キューバについて何か教えて Dime algo sobre Cuba』を読んだ。1998年のもの。

261ページ。舞台は1994年のマイアミ。キューバ人歯科医のマルティネスは兄の家の屋上に潜んでいた。

亡命キューバ人は「いかだ難民 balsero」としてフロリダ半島に漂着し、政治亡命を申請すればアメリカ合衆国が受け入れてくれることになっている(滞在許可などがもらえる)。そうでない場合、たとえばメキシコ経由でアメリカに着いた場合、「不法入国」扱いになる。漂着が「合法」で、メキシコ経由は「不法」。

マルティネスは後者に当てはまる。兄は一計を案じ、弟の外見がいかだ難民のようになるまで、屋上で一週間、食べ物もなしに陽を浴びさせる。

こうしてマルティネスは一週間飲まず食わずで過ごし(本当はそうではないのだが)、7月27日の深夜、フロリダ半島の先端に連れていかれ、いかだに乗せられる。北へ一時間も漕げば、港に着く。陸にあがったら政治亡命を申請すればいいーーこれが兄のアドバイスだ。

さて、マルティネスはどうなったのか?

ヘスス・ディアスが亡命したときに発表した「Los anillos de la serpiente」はここで読める。

1992年3月12日付の「エル・パイース」紙である。

1992年と言えば、1492年から500周年のあの年だ。7月25日から8月9日まで、バルセロナではオリンピックが開かれた。開会式のときハバナにいたことをおぼえている。

[ この項、続く]

2016年6月28日火曜日

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて』

アリエル・ドルフマンの邦訳書が出た。

『南に向かい、北を求めてーーチリ・クーデタを死にそこなった作家の物語ーー』岩波書店

 訳者は飯島みどりさん。

500ページ。

チリの話は昨年、パトリシオ・グスマンの映画が方々で話題になって、『チリの闘い』も秋に上映されるようだ


ドルフマンのこの本は、たしかスペイン語版を持っていた。それが原書だと思っていたのだが、訳者による解説を先取りして読んだところ、原書は英語で書かれ、それをドルフマン自身がスペイン語(カステジャノ)に翻訳したものだという。自己翻訳だ。

まだ入手したばかりで未読なので、こんなことまで言うのも大げさだが、この本は、これまでこのブログのエントリー「反帝国主義文学に向けて」で主張したことを強く支えてくれる本だと思っている。

東欧ユダヤ系のドルフマンによって書かれたこの本は、「ラテンアメリカ」について深く考えさせるに違いない。祝祭としての「グローバル文学」、文脈を超えてグローバルに読み解かれたときにまたひとつ豊かになる文学とはたぶん異なって、地域にぴったりと貼り付いた内容と形式だ。

Rumbo al surーー南へ向かう。Deseando el norteーー北を求める。

南に向かい、北を求めて。北を求めて、南に向かう。
 
クーデタ、1973年9月11日。

シカゴ学派、新自由主義。

ピノチェト、独裁。

亡命、アメリカ。

 
原著が出たのは1998年。

ピノチェト逮捕、裁判などに関してドルフマンが発言したものは、たとえば雑誌『世界』に掲載されていて、それを翻訳したのも飯島みどりさんである。とくに記憶に残っているのはピノチェトがロンドンで逮捕されたときのことを書いたものだ。

逮捕されたのは1998年で、ドルフマンの文章は『世界』1999年8月号に載った。読んだ記憶はいまも鮮明に残っているのだが、15、6年が過ぎている。ニューヨークの9.11のほうが、ピノチェト逮捕より後だったことにも驚く。

物理的な時間は過ぎ、そのあいだに当たり前だがラテンアメリカ文学も変わり、文学の読み方も変わった(ような気がする)。

ドルフマンもまた、本書の続編となる自伝を発表している(英語版は2011年、スペイン語版は2012年刊行)。

訳者は紙の本の未来を憂いているのだが、ふと思い至って、amazonでドルフマンのこの自伝や続編がどういう形態で出ているのかを調べてみたら、やはりKindle版でも手に入るようになっていた。時間は過ぎている。

しかし、ガレアーノの『火の記憶』(みすず書房)3巻本に続く、ラテンアメリカニスト・飯島みどりの傑作翻訳書は紙でしか読めない。

なんとガレアーノの本もKindleになっている。

もはや紙の本は日本語だけ?

2016年6月19日日曜日

キューバ文学(25)「カサ・デ・ラス・アメリカス」誌 36-37号

「カサ・デ・ラス・アメリカス」誌はキューバの文化機関が発行している雑誌。1960年から出ていて、いまもまだ継続して出ている。

1966年の36-37合併号を見ている。

特集タイトルは「アメリカ大陸のアフリカ áfrica en américa」である。

























特集の書き手は以下のとおり。

José Luciano Franco
Julio Le Riverend
Roger Bastide
Alfred Metraux
Fernando Ortiz
Nicolás Guillén
Elías Entralgo
Aimé Césaire
René Depestre
José Luis González
Manuel Galich
José A. Benítez
W.E.B.DuBois
Jacques Roumain

Frantz Fanon
Malcolm X
Eduardo E. López Morales
Salvador Bueno

掲載原稿について
・エメ・セゼールは二本掲載されていて、一本は戯曲「De lumumba o una temporada en el congo」、もう一本は「植民地主義論」
・フェルナンド・オルティスは「アフロキューバの料理」
・ファノンは「アンティール人とアフリカ人」
・ジャック・ルーマンは「黒人の不平」
・ルネ・デペストルは「新世界の箴言と寓話」
・サルバドール・ブエノは、Coulthardの著書『カリブ文学論』(1966)の書評
 
[この項、さらに目次と内容について追記する予定]

2016年6月16日木曜日

『モンロー・ドクトリンの半球分割』とその他

すばらしいアメリカ文化研究書が出た。

下河辺美知子編著『モンロー・ドクトリンの半球分割ーートランスナショナル時代の地政学』彩流社。

まだひろい読みなのだが、目次を見ても気分が高揚する。

●モンロー・ドクトリンの半球分割
ー地球(グローブ)についてのメンタル・マップ
/下河辺美知子
●黒い半球
ー『ブレイク』におけるトランスナショナリズム再考
/古井義昭
●ホーソーンとキューバー「ラパチーニの娘」、
『キューバ・ジャーナル』、『フアニタ』
/髙尾直知
●メルヴィルとキューバをめぐる想像力
ー「エンカンタダス」と『イスラエル・ポッター』に
おける海賊(フィリバスター)/小椋道晃
●「善き隣人」のリズムーラルフ・ピアとラテン音楽、
1933 ~ 1945 /大和田俊之
●「長崎の鐘」と(ラテン)アメリカ
ーモンロー・ドクトリンの音楽的地政学/舌津智之
●不確かな半球
ー世紀転換期ハワイにおける日本人劇場建設と
モンロー・ドクトリン/常山菜穂子
●航空時代とアフリカ系アメリカ文学の惑星
ーウォルター・ホワイトのアイランド・ホッピング/竹谷悦子
●南部の西漸と南進
ーゾラ・ニール・ハーストンのクラッカー表象/新田啓子
●近代化された情動
ーカルメン・ミランダとレヴューの終焉/日比野 啓
●モンローは誘惑するーアメリカ最後の一線/巽 孝之

実は今年度の授業でアルゼンチンの教育史の知られざる側面を紹介した文章を読んでいる。アルゼンチンのコラムニスト・ライター、ラウラ・ラモスが新聞で連載したものを、本人から送ってもらった。内容を見て、たいへん興味を惹かれた。

アルゼンチンの教育の父と称されるサルミエントは、19世紀の終わり、北米を旅してボストンでは超絶主義者と深い交流をもった。ホーソーン、ソロー、ホーレス・マン、そしてピーボディ3姉妹らだ。

彼らとの交流を通じ、サルミエントはアルゼンチンにも師範学校を導入しようとする。そして実際にアメリカから女性教師を連れてくるのだが、そう予想どおりうまくはいかない。

ラウラ・ラモスはその顛末を一般向けの新聞に連載した。この5月に彼女が来日したときに授業に来て話してもらったが、このサルミエントの政策は、アルゼンチンではあまり知られていないようだ。おそらく大した成果をあげなかったからだろう。

ラウラはしかし、何かが潜んでいると考え(このあたりがライターの直観だろう)、ネットで調べた。すると、冒険心をくすぐられてアメリカからアルゼンチンまでやって来た女性の回想録や手記が英語で出版されていることを知った。

それらをネットで取り寄せて勉強し、新聞に連載したのである。全20回分あるらしい。いずれ本にまとまるだろう。

ラウラ・ラモスがアルゼンチンにやってきたボストンの女の子たちのエピソードに惹かれたのは、調べていくうちに小さいころの愛読書『若草物語』が、超絶主義のなかから出て来た一作であることを知ったからでもあるらしい。

サルミエントが親しかったのがピーボディ3姉妹だ。そしてこの3姉妹のなかに、キューバ体験をもっている女性がいて文章を残している。このあたりは同じ出版社からでた庄司宏子さんの『アメリカスの想像力』で知ったのだが(この本の存在は南映子さんに教えてもらった)、彼女のことを含めホーソンとキューバも、『モンロー・ドクトリンの半球分割』では扱われている。

その他、ラテンアメリカ研究者にとっては興味の惹かれるものばかりが収められている。今度時間をとってじっくり読みたいと思う。



2016年6月11日土曜日

パブロ・クチンスキ(新ペルー大統領)

ペルー大統領選の決戦投票でケイコ・フジモリ(フヒモリ)と対決し、激戦のすえに勝利宣言したのがパブロ・クチンスキである。

クチンスキという姓。

きっかけは、昨年翻訳されたベルナルド・クシンスキー『K. 消えた娘を追って』(小高利根子訳、花伝社)のことが頭に残っていたからだろう。

クチンスキのスペルはKuczynskiである。

パブロ・クチンスキの父親はマクシメ・クチンスキ(Máxime Kuczynski)という人物だ。この人はベルリン出身で、ナチスの迫害に遭い、まずはソ連、そしてペルーへ渡った。記録によれば1936年のことだという。

ベルリン大学で医学を学んだ医師である。ペルーではハンセン病の治療にあたった。

そして、あのサン・パブロ・ハンセン病療養所の所長をつとめていたらしいのである。

そう、ブエノスアイレス大学の医学部生ゲバラが訪れた場所だ。『オートバイ日記』(邦訳『モーターサイクル・ダイアリーズ』)に記されている。映画にも出てきて、この療養所のエピソードは映画ではゲバラの人生を変えることになる契機として描かれている。

クチンスキ医師がこの療養所に何年から何年までいたのかはわからない。なので、ゲバラと会ったのかどうかはわからないが、時期は近いような気がする。手元にゲバラのその本も映画もないので確認できないが、もしかするとその人かもしれない。

2016年6月7日火曜日

カリブ研究の学術雑誌:Anales del Caribe(カリブ年報)

キューバの文化機関「Casa de las Américas」が刊行している「Anales del Caribe」を整理した。残念ながら全号を持っているわけではない。出て来たのは以下の10冊。3言語(西、英、仏)併用学術誌。

Anales del Caribe, Núm 1, 1981.
---, Núm 2, 1982.
---, Núm 3, 1983.
---, Núm 4-5, 1984-85.
---, Núm 7-8, 1987-88.
---, Núm 9, 1989.
---, Núm 19-20, 1999-2000.
---, 2003. ※以降ナンバリングなし
---, 2004.
---, 2008.




今後、各号の内容について加筆予定

2016年6月6日月曜日

ピニェーラとセゼール


キューバの批評家ガストン・バケーロ(1914ー1997)は1943年、「我々の文学傾向 Tendencias de nuestra literatura」で、1943年のキューバ文学状況を概観している。そのなかで、レサマ=リマやピニェーラが出していた雑誌について述べている。下に引用するのは、「Poeta」誌の意義について記している箇所。ピニェーラがキューバではじめてエメ・セゼールを紹介したとしている。下線は引用者。

«Nadie Parecía» fue seguida por la revista «Poeta», dirigida por Virgilio Piñera. A diferencia de las revistas ya mencionadas, esta última se caracteriza por su encendido tono polémico, revisionista, agitador. Pone el énfasis en la última generación, en la última tendencia literaria. Tiene algo de fulminante en sus juicios. Su director ha querido rehuir todo lo que pudiera parecer un pacto con las generaciones anteriores de nuestra poesía, con el pasado, por inmediato y valioso que este sea. Y aunque se aparta de lo religioso, de lo católico, deliberadamente, y busca la proximidad con movimientos como el de los surrealistas franceses (fue la primera publicación cubana que dio a conocer a Aimé Cesaire, el poeta martiniquense difundido en la Revista de las VVVV, de Bretón) aún en su misma agresividad e impresión de convulsionismo, esta revista es magnífica prueba también de cuan difícil resulta la expresión espiritual entre nosotros actualmente. Lo que las otras quieren resolver por la simple obra, más o menos intensa, «Poeta» quiere resolverlo, resolverlo de un golpe, por la polémica, por el tambalearse de obra y personas, por el terremoto que subvierta las capas terrestres y ponga las entrañas sobre la superficie. Y todo esto, realizado con una genuina sinceridad, tocando en ese frenesí que la pasión alcanza cuando desespera de arribar al puerto entrevisto en la sombra. No le basta con ser inconforme, no conformista, sino que se siente obligada a gritarlo desnudamente. Si las otras revistas llevan un cierto aire de altar resignado, de manso heroísmo, «Poeta» es el grito, la convulsión, la resistencia, la protesta. Se encuentran en sus páginas trabajos de María Zambrano, Adolfo Fernández de Obieta, Aimé Césaire, y otros. 

ガストン・バケーロのこの文章全体はこちら

2016年6月3日金曜日

ニコラス・ギジェン、エメ・セゼール、ビルヒリオ・ピニェーラ(1)

ニコラス・ギジェンの1934年の詩、エメ・セゼールの1939年の詩、ビルヒリオ・ピニェーラの1943年の詩。

ニコラス・ギジェンの「西インド諸島株式会社 West Indies, Ltd.」(1934)
1.
¡West Indies! Nueces de coco, tabaco y aguardiente...
Éste es un oscuro pueblo sonriente, conservador y liberal,
ganadero y azucarero,
donde a veces corre mucho dinero,
pero donde siempre se vive muy mal.
El sol achicharra aquí todas las cosas,
desde el cerebro hasta las rosas.
Bajo el relampagueante traje de dril
andamos todavía con taparrabos;
gente sencilla y tierna, descendiente de esclavos
y de aquella chusma incivil
de variadísima calaña,
que en el nombre de España
cedió Colón a Indias con ademán gentil.


続いてエメ・セゼールの「Retorno al país natal」(1939)。翻訳はリディア・カブレラによる。
Al morir el alba...
Lárgate, le dije, jeta de policía, cara de vaca, lárgate, odio a los lacayos del orden, y a los abejones de la esperanza. Lárgate malévolo 《gris-gris》, chinche de monaguillo. Después me volví hacia los paraísos perdidos para él y sus pariguales, más sereno que el rostro de una mujer que miente, y allá, mecido por los efluvios de un pensamiento inagotado, alimentaba el viento, desataba los monstruos, y escuchaba subir del otro lado del desastre, un río de tórtolos y tréboles de la sabana que siempre llevo dentro a la altura invertida del vigésimo piso de las más insolentes casas y por precaución contra la fuerza putrefactora de los ambientes crepusculares que recorre noche y día un sagrado sol venéreo.

ビルヒリオ・ピニェーラの「La isla en peso」(1943)
La maldita circunstancia del agua por todas partes
me obliga a sentarme en la mesa del café.
Si no pensara que el agua me rodea como un cáncer
hubiera podido dormir a pierna suelta.
Mientras los muchachos se despojaban de sus ropas para nadar
doce personas morían en un cuarto por compresión.
Cuando a la madrugada la pordiosera resbala en el agua
en el preciso momento en que se lava uno de sus pezones,
me acostumbro al hedor del puerto,
me acostumbro a la misma mujer que invariablemente masturba,
noche a noche, al soldado de guardia en medio del sueño de los peces.
Una taza de café no puede alejar mi idea fija,
en otro tiempo yo vivía adánicamente.
¿Qué trajo la metamorfosis?



(この項、断続的に続く)

2016年6月1日水曜日

研究会の告知(戦争と社会主義のメモリースケープ)

研究会のお誘いをうけて、発表する予定だ。

日時:6月18日(土曜日)13時から18時
場所:愛知教育大学教育未来館2A


 
共産圏の文化比較はいまの自分にとても関心のあるテーマで、楽しみにしている。

2016年5月25日水曜日

キューバ文学(24)反帝国主義文学に向けて Part3(メモ)

かつてキューバで撮った写真をもう一度見直した。

カルデナスへ行ったときのものだ。マタンサス州カルデナス。この街はひとりの作家を生んだ。

ハバナから車で2時間ぐらいかかったように記憶する。とても退屈な自動車専用道路だった。行きだったか、帰りだったか、途中で外貨で物が買えるスーパーマーケットに寄った。思い出してみると、行動はとてもアメリカ風だ。道路の右を見ても、左を見ても、何もない。何かがあるのは確かなのだが、何も記憶されない。いったい何があったのか。海はあった。海辺を離れてからの記憶がない。その作家が書いた短篇を思い出した。

その街で日本語が店名になっているレストランに入ったあと、街の中心部に入った。バラデロからの観光客と思われる白人が馬車に乗っていた。石畳、中央広場、教会。真っ青で、雲一つない空を覚えている。教会の正面にコロン像が立っていた。

カルデナスにある街の博物館は、***** *******をめぐって起きた政治的事件の記憶を管理する場所だった。当人のTシャツやその他がガラスケースに入って並んでいた。彼はこの街の出身だったのだ。

博物館の最上階は図書館だった。すっきりとした街の図書館といった風で、人気はなかった。

本屋にも立ち寄り、作家の名前を口にしてみたが、その作家のことは知らないようだった。

その作家と*****が同じ街の出であることが、今になってみると、理にかなっている。二人はまったく違う道を歩んだ。しかしその道筋はカルデナス出身者であるがゆえの軌跡である。

石畳の港町カルデナスは「反帝国主義文学」の足場だったのだ。この街で暮らし、紆余曲折の末に舞い戻った*****。「反帝国主義公園」設立のきっかけを作った彼。

この街で暮らし、やがて出て行き、遺灰になるまで戻らなかったとある作家。彼の作品は多文化主義的な帝国主義文学に抗するものとして読まれうる。もう一つの「世界文学」=世界は一つではない。