2017年9月28日木曜日

ペドロ・マイラル

Mairal, Pedro, La uruguaya, Libros del Asteroide, Barcelona, 2017.



ペドロ・マイラルはアルゼンチン出身。1970年生まれ。

見覚えがある名前だと思って手にとってみたら、いわゆる「ボゴタ39」の一人だった。

「ボゴタ39」とは、2007年のことだから、今から10年前、当時40歳以下の有望なラテンアメリカ作家たちとしてリストアアップされた(というか、コロンビアの年長作家がセレクトした)39名のことである。ボゴタのブックフェアやカルタヘナで開かれたHay Festivalの企画としてそのリストが発表された(はず)。

そのマイラルの新作がこの『La uruguaya ウルグアイの女』。

冒頭が、ブエノスアイレスはパレルモ地区のビリングウルスト街を下ってリベルタドール大通りを右に曲がり、船着き場(Buquébus)、つまりウルグアイ行きのフェリーに乗るところまで車で行くシーンだった。

ウルグアイのコロニアにいく主人公の若手作家。なぜか。ウルグアイの銀行で印税を受け取って戻ってくるためである。

アルゼンチンの銀行で下ろすとドルは公定レートでペソ化されてしまうので(pesificarという動詞がある)、ウルグアイに口座を作って向こうでドルで下ろし、アルゼンチンに戻って闇レート(ブルー Blueという)でペソに換金するわけだ。その方がいい。

これは確かにわかる。似たような経験をしている人は多い。

で、読み始めている。

2017年9月26日火曜日

フェデリコ・ジャンメール

Jeanmaire, Federico, Tacos altos, Anagrama, Barcelona, 2016.




アルゼンチン出身で『ドン・キホーテ』の研究でも知られている作家。1957年生まれ。

フェデリコ・ジャンメール。前回のハルウィッツに続き、この人もJeanmaireがどう発音されているのかは一応こちらで確認してみた。

この小説はすべて現在形で書かれている。

「私は中国人かしら?
 わからない。
 今はどうでもいい。
 結局のところ、男であれ、女であれ、人生のどこかで自分が誰なのかを発見する瞬間があると思う。」

引用の最後の部分、ボルヘスの「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」に似たような表現があったはずだ。

この主人公は中国生まれでアルゼンチン育ちという設定。著者によれば「中国の小説」として書かれたという。

アルゼンチンで2013年12月に警察のストがあった。

ストをきっかけにスーパーマーケットで略奪が行われ、中国系の店が対象になった。報道に中国人が命を落としたというのがあった。しかしその報道はとても小さかった。誰も気にも留めないほどに。

それがこの小説の着想の原点だという。

中国人の死を報じる記事の小ささには何か意図があるだろう。

2017年9月23日土曜日

アリアナ・ハルウィッツ

アルゼンチンの女性作家アリアナ・ハルウィッツ。1977年生まれ。

Ariana Harwiczはどう発音しているのか。このインタビューで確認してハルウィッツとしたけれども、いかがでしょう?

ブエノスアイレス出身。

これまでに3冊出している。

Harwicz, Ariana, Matate, amor, Lengua de Trapo, Madrid, 2012.
---,  La débil mental, Mardulce, 2015. (出版社はアルゼンチンだが、出版社のHPを見るとスペイン部門があって、この本はそこに入っている。出版地は不明。印刷はスペイン)
---, Precoz, :Rata_, Barcelona, 2016. 出版社はこのように表記されている。







母親であることの意味を問い続けた三作。

2017年9月19日火曜日

イベリア半島の最東端から最西端へ

クレウス岬がイベリア半島の最東端であるのに対し、イベリア半島最西端はロカ岬である。

(イベリア半島最西端であるということは、ヨーロッパ大陸最西端でもある)

ポルトガルに行ったのはこの岬に行きたかったからではないのだが、せっかくなので行った。

リスボンからそれほど遠くない。シントラという町を過ぎるとカダケスに行った時のようにS字カーブの連続。ただしばらくは道路に平行して線路があった。観光用の一両列車とすれ違った。

シントラの南の方にエストリルという町があって、あちこち行っている時ここも通り過ぎた。

岬には石碑がある。風が強い。ガイドブックには足元に気をつけるようにとあってどきどきしたが、滑り落ちるようなところではない。


石碑には、どんなガイドブックにも書いてあるが、カモンイスの『ウズ・ルジアダス』の一節「ここで地終わり海始まる」が刻まれている。

2017年9月17日日曜日

フィゲラスの北風

ダリ劇場美術館があるフィゲラス(Figueres)。

バルセロナからRenfeのAVEに乗って1時間程度でFigueres Vilafant駅に着く。そこから美術館までは歩いて20分程度。



フィゲラスまで来ると、フランス国境まではほんの少し。

ダリはフィゲラスで亡くなり、その劇場美術館に彼の墓も作品の一部として展示されている。

そしてダリの別荘があったのはコスタ・ブラーバに面したカダケス(Cadaqués)。

カダケスは地中海に突き出した鼻のような岬の突端。この岬というか半島は、名前はクレウス半島(Cabo de Creus, Cap de Creus)という。イベリア半島の最東端(el punto más oriental de la península ibérica)である。

こちらはカダケスにいるダリの動画。ポルリガートという入り江に面した別荘は現在やはり博物館。

カダケスまではフィゲラスから車で1時間ぐらいかかる。地図で見ると近いけれども、日光いろは坂並みのS字カーブが続く。車酔いのする人にはちょっと辛い道のりかもしれない。

その立地上、かつては陸路よりも船による往来の方が普通だったという。

ロルカがカダケスにいるダリを訪ねた時の写真はネット上にたくさんある。例えばこれ

カダケスの夕暮れは素晴らしかった。2017年のディアーダ(Diada)の1日前の日曜日。

夏休みの終わりの最後の週末、そして今年は月曜日が9月11日に当たる。



今度の10月1日、果たしてカタルーニャはどうなっているのだろうか?

ヨーロッパの観光客ばかりのコスモポリタンな雰囲気。下の写真の真ん中に見えるのが旧市街にあるサンタ・マリア教会。



カダケスではおさまっていたが、フィゲラスの駅に降りた時、ものすごい北風が吹いていた。

案内をしてくれた人によると、この風は1年中いつでも吹く可能性があって、1週間続くこともあるという。そのせいで頭が痛くなる人、頭がおかしくなる人もいる。

ウィキペディアのフィゲラスの項目にはこの風のことが載っている。

「フィゲラスの重要な特徴は、トラモンターナという北から吹く冷たく乾いた風で、一年中繰り返し吹く」

そうか、トラモンターナのことかとわかり、ガルシア=マルケスの短篇「トラモンターナ」を思い出した。

確か人を狂わせる北風の話だったはず。と思ってネットで調べたらそうだった。

カダケスが出てくる短篇だ。

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2017年7月、そのフィゲラスのダリの遺骨が掘り起こされた。娘だと申し立てる人物が出て来たため、DNA鑑定が必要になったからだが、9月に出た結果では親子とは認定されず。

2017年9月12日火曜日

アルファグアラのボラーニョ(2)

アルファグアラに移って出たこれまで未刊行の「新作」が以下のもの。

Bolaño, Roberto, El espíritu de la ciencia-ficción, Penguin Random House, 2016, Barcelona.



ちなみに『2666』アルファグアラ版はこんな感じ。巨大。
撮影場所はこちら





それから今年の6月に出たばかりのボラーニョ研究書。2016年に行われた会議の原稿をまとめたもの。

Juan Antonio González Fuentes y Dámaso López García(eds.), Roberto Bolaño: Estrella distante, Renacimiento, Sevilla, 2017.

2017年9月9日土曜日

アルファグアラのボラーニョ

ボラーニョの本はアルファグアラ印で出るようになった。

ただアルファグアラはペンギン・ランダムハウスに買収されているから、『鼻持ちならないガウチョ』の書誌を裏表紙のデータに準じて書けば以下のようになる。

Bolaño, Roberto, El Gaucho insufrible, Penguin Random House Grupo Editorial, 2017, Barcelona.

『鼻持ちならないガウチョ』はこんな装丁。
 

目次を見たら、資料が付け加えられている。



ボラーニョ・アーカイブ(El Archivo Bolaño)で管理されているというこの短篇集にかかわるボラーニョのメモやゲラ、短篇の初出雑誌の表紙などで7、8ページ分。

バルセロナのこの出版社の住所はTravessera de Gràcia, 47-49とある。グラシア地区(Villa de Gracia)の隣の地区。

2017年9月3日日曜日

1956年のニコラス・ギジェンとワルテリオ・カルボネル

8月22日から24日まで開かれた国際シンポジウムと連動して催された「プレザンス・アフリケーヌ展」を見てきた。

雑誌「プレザンス・アフリケーヌ」の創刊にまつわるさまざまな資料の展示だったが、 スペイン語圏から見た場合に見逃せない写真が二枚あった。

うち一枚は、ネットでも見つけられるが、ニコラス・ギジェン(キューバ)とルネ・ドゥペストル(ハイチ)が1956年にルクセンブルクリュクサンブール公園で撮影した写真である。

以下はパネルの一部を写したもの。


右下のキャプションに「会議中」とある。

この会議とは1956年の第一回黒人作家・芸術家会議のことで、9月にパリで開かれている。

ただこの参加者にニコラス・ギジェンは含まれていない(と思われる)。

だがキューバ人はこの会議に参加している。

それは Walterio Carbonell(ワルテリオ・カルボネル)だ。

1920年生まれ、2008年没の黒人活動家、マルクス主義者。

彼の重要な論考「いかにして国民文化は生じたか?Cómo surgió la cultura nacional」の一部はこちらで読める。

この人物についてはこちらに詳しく載っている。

黒人作家会議にも参加し、その後の革命を支持していた彼はしかし、のちにUMAPという強制労働キャンプに送られている。何があったのか。

カブレラ=インファンテも遺作『スパイの書いた地図』でカルボネルに言及している。おって確認してみたい。

日本語では、今年亡くなったフアン・ゴイティソロがカルボネルのことに言及した文章を日本語に翻訳してブログに載せてくださっているので大変ありがたい(MARYSOLのキューバ映画修行より)。

ゴイティソロが「エル・パイース」紙に書いたカルボネルの追悼文はこちら

キューバの研究者トマス・フェルナンデス・ロバイナが書いた文章はこちら

そこで重要となってくるもう一枚の写真が、やはり展示されていた黒人作家・芸術家会議の集合写真というわけである。

これもネットでも見つけられる。ワルテリオ・カルボネルは写っているのだろうか?

下は展示されていたパネルを撮影したもの。集合写真右上のキャプションによって大多数、特に有名な人たちはわかる。そこにカルボネルの名前はない。



調べてみたら写っているようだ。

さてどこにいるのだろう?

いくつかの情報を総合すると、どうやら最後列、真ん中より少し右寄りの、背が高い人がカルボネルのようだ。