(続き)
フェルナンデス・レタマールは、ゲーテとエッカーマンが対話した1827年1月31日を「あの記念すべき」日だとしている。
エッカーマンがゲーテの家に行くと、ゲーテは中国の小説を読んでいた。ゲーテはその小説についてコメントしたあと、自分の『ヘルマンとドロテーア』と比較して以下のように言った。
「詩は人類共通の遺産である(…)。国民文学は今日たいして意味がない、現代は世界文学 literatura mundial の時代であって、われわれは皆、その時代の到来を早めるように貢献しなければならない。」
フェルナンデス・レタマールはこのあと、さらに重要な引用を行なう。
この対話から21年後、ゲーテの熱狂的な信奉者であるマルクスとエンゲルスは『共産党宣言』(1848)で、 ヨーロッパのブルジョアのなした偉業、世界市場の巨大産業の創出、生産と消費が地球規模になったことについて述べたのち、以下のように言っている。
「このことは物質的な生産物のみならず、知的生産物についても言えることである。ある国の知的生産物はあらゆる人々の共通の遺産になる。国の窮屈さや排他性というのは日ごとに不可能になっている。数多くの国民的で局所的な文学から、世界文学 literatura universal が形成されているのだ。」(下線引用者)
これはレタマールが引用した『共産党宣言』の一節である。ここから先はレタマールの文章を引用する。
「ヨーロッパの資本主義の拡大は、世界文学の生まれる前提条件となった。というのは、それは「世界の世界化」を用意したからである。しかしその前提条件は、資本主義の枠組みの内側で達成されることはできないであろう。その仕事はまさしく――さしあたり、未だ不完全な方法ではあるが――その枠組みを破壊するはずのシステムが行なうことになる。『共産党宣言』の冒頭にある有名な一節を忘れてはならない。「ヨーロッパに幽霊が徘徊している。」今日我々が知っているように、その幽霊を待っていたのは、ヨーロッパ以外の多くの道であった。
したがって、いまだ、ひとつの世界は存在していない。1952年に人口学者のAlfred Sauvyが「第三世界」という表現を発明したとき――その才知あふれる名称の誤りにかかわらず、幸運に恵まれた表現であった(今日我々はほとんど納得がいかない)――、実にさまざまな思想家や指導者によってこの表現が広く受け入れられ広められたことは、世界の同質性が存在していないことを確認することであるだろう。まだこれ[世界の同質性]が存在していないとき、当然のことながら、世界文学であれ、普遍的な general 文学であれ、それはまだ存在していないのである。
さて、懸案の問題である世界文学がまだ存在していないとするならば、どうして、それを対象とする理論が、観察が、啓示がすでに存在できるというのか?
(続く)
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