2021年12月27日月曜日

ポーランドの「青二才」、ボゴタへ(コロンビアのアシュケナージ系)

コロンビアの作家やジャーナリストによるクロニカやインタビューなどをまとめた3巻本のうち、第1巻は、1529年から1948年までに書かれたものが入っている。

征服、植民地化、海賊話、そして植民地時代の作家による伝記や紀行文、19世紀から20世紀の千日戦争、タンゴのガルデルがメデジンで事故死した話やバナナ労働者の虐殺、そして最後には1948年4月9日のボゴタ暴動。

Antología de grandes crónicas colombianas: Tomo I 1529-1948, Aguilar, 2003.

 


その中に、シモン・グベレック(Simón Guberek, 1903-1990)という人物の「ユダヤ移民ーー「青二才」のコロンビア到着」という文章が載っている。

このグべレックさんは、ポーランドのジェレフフ出身で、コロンビアのバランキーリャにやってきた。それが1929年、彼が26歳の時である。最終目的地はボゴタで、マグダレナ川の船に乗って首都へ向かう。

この10ページに満たないクロニカはその船旅や船を降りてから乗った鉄道旅行の経験を物語っている。ボゴタに着くと、兄弟や友人が待っていて、やってきたばかりの「青二才 verde」のために乾杯してくれたのだった。

コロンビアのアシュケナージ系ユダヤ人作家にはArziel Bibliowicz(これはどうカタカナ表記したものか。アルツィエル・ビブリオヴィッツ?)がいて、彼の『El rumor del astracán』(1991)は版を重ねている。この本についてはまた次に。


2021年11月6日土曜日

ホセ・マリア・エレディア全詩集

ホセ・マリア・エレディアは19世紀のキューバの詩人(1803-1839)。キューバと言っても、キューバの独立前だからスペイン人。

この人は父親がスペインの役人だったので、スペイン語圏を転々として、生まれたのはキューバだけれども、ドミニカ共和国にもいたし、キューバを追放されて米国にもいたし、メキシコにもいた。没したのはメキシコ。30代で結核が原因。キューバにいたのは6年程度。それなのにキューバの詩人と言われている。

ラテンアメリカの独立に大きく寄与したフリーメイソンだった。この人の人生を見ていくと、19世紀前半にアメリカの大陸部の独立は可能だったが、黒人奴隷の砂糖の恩恵を受けていたキューバで独立が不可能だったのがよくわかる。

エレディアと、女性作家のヘルトゥルーディス・ゴメス・デ・アベジャネーダ(1814-1873)は10歳も離れていない。

そんな彼の全詩集がこちら。

 


Tilmann Altenberg(Edición crítica, con la colaboración de Alejandro González Acosta), Poesías completas de José María Heredia, Iberoamericana-Vervuert, Madrid-Frankfurt, 2020.

2020年に出版されたばかりの本。1045ページほど……

2003年がエレディアの生誕200年で、編者のAltenberg氏はその時に着手したというから、15年以上かけている。2001年にエレディア論(エレディアのメランコリーを論じたもの)を出して、その後はこのエディションに専念されたということらしい。

すでにそれまでにもエレディアの全詩集は出たことはある。1974年のメキシコのポルーア出版で、これが今までに定評があるものなのだろう。

エレディアといえば、花方寿行さんが『我らが大地ー19世紀イスパノアメリカ文学におけるナショナル・アイデンティティのシンボルとしての自然描写』(晃洋書房、2018年)の第3章で彼の有名な詩「チョルーラ神殿にて」や「ナイアガラ」を論じている。

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2021年11月初旬、バルガス=リョサ『ケルト人の夢』の読書会の準備中。


2021年10月16日土曜日

10月半ば、バルガス=リョサ

日没はずいぶん早くなったのにもかかわらず、気温はそんなに下がっていないので、夕方の空気も緩い。

パンデミックがもたらしたものの一つに時間感覚の混乱がある。スペイン語で書かれたパンデミック以降の詩作をまとめて読んで、その思いが伝わってきた。今が10月半ばであるのをどこかでわかっていないようなところがある。

この時期、近隣の地区では、日にちの移動しない祭りがあって、3日間のその祭りのどこかで必ずと言っていいほど雨が降って、それによって季節がひとつ進むのを実感する。その祭りは2年連続で中止。

学会シーズンでもあって、先週末はイスパニヤ学会の大会がオンラインで行なわれた。ただ関係者の一部は開催校(明治大学)に手伝いに行き、ハイフレックス(ハイブリッド)開催がこれほど円滑に進んでいるのははじめて見た。

バルガス=リョサの『ケルト人の夢』(野谷文昭訳、岩波書店)がいよいよ翻訳刊行される(のを知った)。原作が出たのは2010年、とても楽しみだ。その3年前に出たバスケスの『コスタグアナ秘史』とも関わる。11月27日にオンラインのトークショーが開かれる。

最近バルガス=リョサの『都会と犬ども』を読み直している。スペイン語版はいろいろあるが(Cátedra版が昨年出た)、アカデミアの記念版と併走している。

 


 

夏は秋になり、それでもなお日々は日々という日常が続いている。長い翻訳をやっていると、一種の潜水状態に入ってしまって、なかなか浮かび上がれない。浮かび上がること自体が罪深い行為に思えて、それでも季節は動き、自分は動きを止めたまま、変わらない日々が変わらない日々として、このまま浮かび上がれないんじゃないかと不安になる。進んでは戻りの繰り返しだ。

翻訳というのは映画の世界同時公開と違って、そもそもが時代錯誤的な作業なのだから、潜水のようになるのは当然としても、それでも今が2021年であることは翻訳文体のどこかに反映しているのかな。

眠れない夜、ラファエル・アルベルティの詩「Colegio(S.J.)」を読んだ。J.M.クッツェー編の詩集に入っていた。カディスにあるイエズス会系の学校に、寄宿生ではなく通学生だった時のことを強い口調で思い出す詩だ。

2021年9月8日水曜日

カルロス・A・アギレラ(Carlos A. Aguilera)

キューバ作家カルロス・A・アギレラの「中国小説」が届いた。

Carlos A. Aguilera, Teoría del alma china, Bokeh, 2017.

2006年に最初に出たが、下の2017年のが決定版とのこと。ほかに、『Asia Menor(小アジア)』や『クラウゼヴィッツと私』などがある。

 

100ページくらいの本なので、その気になれば読めそうなんですが……

この本の著者Carlos A. Aguileraとアルゼンチンのキューバ文学研究者Nancy Calomardeの対話がこちら

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このところ、涼しいというか寒いくらいに気温が下がって、天気もぱっとせず。地ビールでも飲みたいものだ。

映画『ドライブ・マイ・カー』をみた。短篇「蛍」が『ノルウェイの森』に成長したのと似ていて、元は小品が大きな物語になったような感じ。3時間があっという間。

2021年8月28日土曜日

前便続き

朝鮮戦争とプエルト・リコ作家のまとめとして二冊。

Emilio Díaz Valcárcel, Cuentos, Casa de las Américas, La Habana, 1983.

José Luis González, Mambrú se fue a la guerra(y otros relatos), Joaquín Mortiz, México, D.F., 1975[第二版].

「El arbusto en llamas」が入っているのがこの本。 別の短編では、プエルト・リコ人がハーレム出身かと聞かれ、「いや、ワシントンハイツだ」と答える場面がある。映画『イン・ザ・ハイツ』のワシントンハイツ。

日本語の朝鮮戦争文学も読んでいる。

金石範ほか『朝鮮戦争 コレクション戦争と文学 第1巻』集英社、2012年。

同書所収の北杜夫「浮漂」の一節にはこんなのがある。

「俺は外語を出てからしばらく小さな商社に勤めたが、その頃はそこをやめ、研究生のような形で学校に出入りしていたのだ。いずれは教師の口を世話してもらうつもりであった。」(p.143)

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秋の学期のことがだんだん気になってきて、入院もままならない都内の状況ではオンラインも致し方なしという話も出ているが、どうなるのだろう。

2021年8月17日火曜日

朝鮮戦争とプエルト・リコ(2)エミリオ・ディアス・バルカルセル

朝鮮戦争に従軍した作家エミリオ・ディアス・バルカルセルの短編集。すべて朝鮮戦争もので9篇が入っている。前にタイトルだけ触れた「El regreso(帰還)」も入っているが、かなり有名な「El sapo en el espejo(鏡のなかの蛙)」はここには入っていない。

Emilio Díaz Valcárcel, Proceso en diciembre, Taurus Ediciones, Madrid, 1952.


 

プエルト・リコ兵士ロドリゲスは休暇で日本の大阪を訪れ、カズコという女性としばらく過ごし、それが甘美な思い出だ。プエルト・リコに戻る前にもう一度会おうと思っている。「俺は戦争に戻らないといけないんだ、カズコ。俺を待っててくれ。6ヶ月経ったら……」(p.47)

「じっさい、外見上では韓国人と日本人は驚くほど似ていると思う。しかし俺は完璧にそれぞれの言語を区別することができる。日本語は短く断定的だ、命令をするために作られたかのような言語だ。韓国語には甘い響きがある。歴史を通じ、少なからず辱めをうけた民族に特有の言語のように思える。急にある考えが浮かんだーー韓国人の従順さは(少なくとも俺は彼らの中にそれがあると思っているが)プエルト・リコ人の従順さと似ている」(p.29)。

メインストーリーは、髭を剃り落とすよう上官から命じられ、それに従わないことにある。彼にとっては髭は誇りであり文化そのものだから反抗する。切り落とす羽目になった時、「去勢された」と感じる。米軍に所属しているので命令を拒否できないのだが、やはり朝鮮戦争に参加していたトルコの兵士は髭を生やしている。ギリシャやベルギー、コロンビア兵は志願兵なのに……とも(p.106)。

フェリペ・ソラーノの『Cementerios de neón』では、21世紀のコロンビア人が韓国文化と一体化して(さらに極右グループにも近づいて)、北朝鮮を倒そうとしている。この男をソウルで探すのが、半世紀以上ぶりにソウルに戻った帰還兵のコロンビア人。重要な場面になると階級バッジをつける。ディアス・バルカルセルの短篇では、売春宿を訪れたプエルト・リコ兵は階級バッジを見せつける(p.91)。

韓国人の女と関係を持ち、一緒にアリランを歌うプエルト・リコ兵士。韓国人兵士と友情を結んだが、その後、お互いにできない英語でコミュケーションが取れず、仲違いしてしまったプエルト・リコ兵士。怪我を負って帰還したために、恋人と結婚できない兵士。

2021年8月4日水曜日

朝鮮戦争とコロンビア(2)アンドレス・フェリペ・ソラーノ

文藝年鑑(2021)でも少し書いたのだが、コロンビアは朝鮮戦争に兵士を送り、そのコロンビア兵の経験をコロンビア作家が書いている。

その中で、ソウル在住のコロンビア作家アンドレス・フェリペ・ソラーノの『Cementerios de neón』(2016)は、先に紹介したフアン・ガブリエル・バスケスの短篇と並んで、特筆に値する長篇小説だろう。

行方をくらましていた叔父(帰還兵で、戦争中捕虜になった)が突然、ソウルに住む甥を訪ねて、ある依頼をする。叔父の停泊するホテルには戦争中に慰問に訪れたマリリン・モンローの写真が飾ってある。

Andrés Felipe Solano, Cementerios de neón, Tusquets, 2016. 



この『Cementerios de neón』は、本人が兵士として朝鮮半島に行ったプエルト・リコ作家エミリオ・ディアス・バルカルセルによって、戦争のすぐ後に書かれた小説『Proceso en diciembre』(1963)とともに重要な小説である。ちなみにどちらの作品も日本は多かれ少なかれ関わってくる。

アンドレス・フェリペ・ソラーノには、韓国生活の記録『Corea: Apuntes desde la cuerda floja』があり、ここでは冒頭から朝鮮で戦ったコロンビア兵士の話が出てくる。おそらくこのエピソードが下敷きとなって小説が書かれたのだろう。

Andrés Felipe Solano, Corea: Apuntes desde la cuerda floja, Editorilal Barret, 2015.

 


ボゴタには朝鮮戦争の戦死者や帰還兵をたたえるメモリアルタワーがある。そこでの記念式典の模様から物語を展開したのが、フアン・ガブリエル・バスケス(1973年生まれ)。アンドレス・フェリペ・ソラーノは1977年生まれ。

2021年7月31日土曜日

朝鮮戦争とプエルト・リコ

プエルト・リコ作家も朝鮮戦争を書いている。

実際に戦地に行った作家として、エミリオ・ディアス・バルカルセル(Emilio Díaz Valcárcel, 1929-2015)。短篇「帰還(El regreso)」がよく言及される作品。未読だが『ナパーム(Napalm)』という小説もある。

もう一人はホセ・ルイス・ゴンサレス(José Luis González, 1926-1996)。ドミニカ共和国で生まれ、小さい頃にプエルト・リコに移って教育をうけ、米国をへて、その後メキシコへ。

彼の「開けられない鉛の箱(Una caja de plomo que no podía abrir)」は、朝鮮戦争に行ったプエルト・リコ兵士の遺骸が「鉛の箱」に入って戻ってくる話。米国政府から息子の消息を知らせる電報が英語で届き、それを読む母。やがて米国旗に包まれて帰ってくる「箱」。

斎藤真理子さんの韓国現代文学入門は、韓国作家、在日コリアン作家が描いた朝鮮戦争作品を多数紹介している。

以下は、プエルト・リコの文学作品アンソロジー。文学論、長編小説の断片、短篇、詩まで入っていて便利。

 

キューバの雑誌「Casa」は、70号(1972年)でプエルト・リコ特集を組んでいて、エミリオ・ディアス・バルカルセルの短編を載せている。NYに着いたばかりのプエルト・リコ人が、映画『ウェスト・サイド物語』を憎んでいる。なぜなら、プエルト・リコ人だとわかるとすぐにこの映画の話になるから。

 


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7月31日と8月1日はオープンキャンパス。昨年に引き続きオンライン。
ネットで調べると対面でやっている大学もあるようです。

大学で予定されていた、8月9月のワクチン接種は供給がなく中止になりました。

7月に入ってワクチンの供給不足が明らかになった時に、政府が示した見通しということで、8月9日以降には解消されるという話がありましたが、なんの根拠もなかったということですね……1回目のワクチンを受けて帰省しようと計画していた人たちもいると思われます。

信用できる情報がない状況というのは、かなりまずいですね。

2021年7月19日月曜日

1966年ニューヨーク 国際ペンクラブ会議

1966年6月12日から18日、ニューヨークで第34回国際ペン大会(年次総会という言い方がいいのかもしれない)が開かれた。当時の米国のペンクラブ会長はアーサー・ミラー。

時代は冷戦下、1952年の移民国籍法(マッカランーウォルター法)によって、米国に共産主義者は入国できなくなっていた。

1966年の国際ペン大会は、その米国で開かれ、キューバ革命後ということもあって、ラテンアメリカ作家、キューバ作家の立ち位置の違いがはっきりとあらわれた。

この会議の模様を前後の文脈を踏まえて論じたのが、以下の本の2章。ずいぶん前のエントリーで少しだけ触れたことのある本。

Deborah Cohn, The Latin American Literary Boom and U.S. Nationalism during the Cold War, Vanderbilt University Press, Nashville, 2012.

 


この会議に出席するために米国を訪れたのはパブロ・ネルーダ。そして彼の会議出席を咎めたのがキューバ作家たち。キューバ作家協会(UNEAC)は公開書簡を出している。それはCasa de las Américasの機関雑誌「Casa」の38号に掲載され、たとえば、ここ(ネルーダ関係のアーカイブ)でも読むことができる。

当時キューバのペンクラブ会長はアレホ・カルペンティエルで、彼は最終的に出席を取りやめた。米国が主導する左翼去勢政策(castration)には乗らないというのがキューバ作家の立場。

カルロス・フェンテスもこの会議に出席している。その時の経験を書いたのが2003年のこちら。元は「Encuentro」誌に掲載されている。フェンテスはキューバの頑迷な態度に失望。

出席したラテンアメリカ作家たちは、マッカーシズムの終焉と受け取ったが、キューバはそうではなかった。


実はこの会議が開かれているのとほぼ同時期にスキャンダルがあった。それはウルグアイのエミル・ロドリゲス・モネガルがパリから出している雑誌「Mundo Nuevo」がCIAの資金提供(もっと細かくいうと、文化自由会議CCFを通じて)を受けているのではないか、という報道があった。

この「Mundo Nuevo」誌は『百年の孤独』が出版される前に部分的に先行掲載するなど、当時のラテンアメリカ文学を広く知らしめるのに大きな役割を果たしていた。その雑誌が米国の左翼去勢政策と繋がりがあったとは・・・というわけだ。

エミル・ロドリゲス・モネガルについて、レイナルド・アレナスはこう書いている。

「僕はエミル・ロドリゲス・モネガルという人物には格別の敬意を払わなくてはならない。偉大な文学の愛好家であり、並外れた学究的な美点を超える直観力がそなわっていた。この人は月並みな意味での教授ではなかった。偉大な読者であり、自分の弟子たちに美への愛を教え込む不思議な力を持っていた。一つの学派を残した、合州国でただ一人のラテンアメリカの教授だった。」(『夜になるまえに』p.394)

1960年代のラテンアメリカ文学の流れを作っていた雑誌がこの「Mundo Nuevo」と、キューバの「Casa」である。「Mundo Nuevo」が文化自由会議、「Casa」はキューバ政府と、どちらも後ろ盾のある文芸誌ということで、この二つの雑誌の比較は昔からあるが、先日分厚い研究書が出た。手元の版は2017年の本だが、初版は2010年とのこと。

Idalia Morejón Arnaiz, Política y polémica en América Latina: Las revistas Casa de las Américas y Mundo Nuevo, Almenara, 2017.

 

日本のペンクラブの会長は1965年に川端康成から芹澤光治良へ。1966年NY大会の日本側の出席者はわからない。

2021年7月15日木曜日

セサル・M・アルコナーダ『タホ川』/7月15日

セサル・M・アルコナーダはスペインの作家。1898年に生まれ、1964年没。ロルカやブニュエル、ダリと同世代だ。ちなみに生誕年は、下の『タホ川』の序文では1900年になっている。

若い時からジャーナリズムの世界で多くの雑誌に関わった。音楽や映画への関心も高く、ドビュッシー論で一冊本を書いている(1926年)。ウルトライスモの時代でもあって、1929年の『グレタ・ガルボの人生 Vida de Greta Garbo』にはその影響が見られるという。ちなみにこの本はここですべて閲覧可能。

1931年共産党入党。スペインにおける社会主義リアリズムの代表的作家になる。関連する文芸誌に寄稿したり、テスティモニオ風の小説を書いたり。

1938年、『タホ川』を書き上げるが、出版されたのは1970年のモスクワである。スペイン内戦の人民戦線の大義を称賛した叙事詩的作品とのこと。

アルコナーダは1939年、人民戦線敗北で亡命する。いっとき、フランスの強制収容所にセルバンテスの本を持って入った。同じ年にモスクワに移り、そこでも文芸誌に関わる。ソ連にはスペイン研究者にして翻訳者のFedor Kelinがいて、活動をともにした。おそらくこの人物とは1935年、パリの国際作家会議で知り合ったものと思われる。

モスクワでは『スペインは無敵である España es invencible』(1941)や、『マドリード短篇集』(1942)を出したり、ロシア文学の翻訳も手がけた。1964年モスクワで亡くなった。

日本語で彼に関する言及はほとんどないと思われるが、パリで開催された、その1935年の第1回文化の擁護のための作家会議に出ていたために、以下の本に1箇所発見できた。

『文化の擁護 1935年パリ国際作家大会』法政大学出版局、1997年。

 この本には詳細な人名リストがついていて、スペインからはバリェ・インクランとラファエル・アルベルティが出ている。そして「アルベルティが不在の時はアルコナーダが代わりを務める」(p.656)とある。アルコナーダに関する貴重な言及ではある。

しかし残念なことに、この会議におけるスペイン側の報告は、バリェ・インクランの報告もテキスト未発見、スペイン劇作家グループのテキストも未発見とあり、スペイン側の報告は載っていない。

ちなみにこの会議には、キューバからはフアン・マリネーリョ(Juan Marinello, 1898-1977)が出ている。彼も当時のキューバの知識人で前衛雑誌「Revista de Avance」に関わっていたし、共産党員だった。

 


César M. Arconada, Río Tajo, Akal Editor, 1978, Madrid.

Akal出版(Akal Editor)とは、ラモン・アカル・ゴンサレス氏(1940-)が作った出版社。


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7月14日、直木賞受賞作に「テスカポリトカ」(作者は佐藤究さん)とあって、おや、メキシコ?と思ったらそうでした。これは読んでみたい。

7月15日付の朝日新聞に、加藤陽子氏のインタビューが載っています。鋭い指摘がたくさんありました。

2021年7月11日日曜日

オブローモフ帝国/7月11日

キューバ作家のカルロス・A・アギレラ(Carlos A. Aguilera)は、1970年生まれ。
1997年から2002年まで、キューバの雑誌『Diáspora(s)』の編集に関わっていた。

詩人に与えられるダビド賞を受賞したことがあり(1995年)、詩集も何冊か出している。うち一冊のタイトルは「Das Kapital」。

21世紀に入ってから奨学金を得てドイツへ。しばらくドイツに住み、現在はチェコ・プラハ在住。フロリダのスペイン語新聞「El Nuevo Herald」によく原稿を書いている。

その彼の小説が『オブローモフ帝国』(2014)。この作品についての「El Nuevo Herald」のインタビューはこちら

Carlos A. Aguilera, El imperio Oblómov, Ediciones Espuela de Plata, 2014.

 

まだ届いたばかりで飛ばし読みもしていない。タイトルはゴンチャロフの小説から来ているが、「オブローモフ」とは、ソ連や東欧を含めた「東」のことを指しているようだ。

冒頭だけ引用すると、「東に対する私の憎しみについて、東が象徴するすべてに対する私の憎しみについて、あの時代の思い出の一切に対する私の憎しみについて語ろう」とある。

この作家には他にも、中国ネタの小説(Teoría del alma chinaというタイトル)もあって、その本を論じたのが、ブエノスアイレスでお世話になった、グアダルーペ・シルバ(Guadalupe Silva)さん。

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7月11日、雷雨のあとの空は綺麗でしたが、梅雨明けはまだ先と思われます。

ご近所さんとたまたま出会って立ち話。美術館やギャラリー巡りが趣味の方で、コロナ第一波の時にほとんどの美術館が閉じてしまい参ったが、今は開いているものの、出かけるのが億劫になって出かけていないそうだ。わかる。こちらも映画館から足が遠のいた。


東京の緊急事態宣言は4度目。
 
1度目は、2020年4月7日から5月25日まで。
2度目は、2021年1月7日から3月22日まで。
3度目は、2021年4月25日から6月20日まで(最初の予定では5月11日まで、ついで5月31日まで、そして6月20日まで)。
4度目は、2021年7月12日から。予定では8月22日まで。

2021年6月20日日曜日

スペイン語ポッドキャスト

スペイン語のポッドキャストを聴こうとすると、いつの間にかたくさんのプログラムがあって、目移りするほどだ。

Ted Talksのスペイン語版(Ted en Español)は、10分少しと短めで便利。似たようなのは、BBVA「Aprendemos juntos」。こちらは各エピソードが長いが。

Diario de un Criminal」とか「Relatos de la Noche」とか、ホラー物語はいくつか聞いてみた。ただこの種のプログラムには似たようなのが山ほどあるので、もっと他に面白いのがあるのではないかと、ついつい検索の闇にはまり込んでしまって、きちんと聞いていないとも言える。

ディダクティックなものとしては、「Hoy Hablamos」などはエピソード数が1000を超えている。これはスペインの発音なのがやや気になると思っていたら、ラテンアメリカ・スペイン語のプログラム「Charlas Hispanas」もできた。

文学・文化がらみのネタが多く、作家のダニエル・アラルコンのやっている「Radio Ambulante」は最大のヒットシリーズだと思う。

こんなのがタダで聴けるとは。

そんな中で、全部で5話くらいの「Contra Natura」というプログラムを聞いた。

コロンビア・カリブ地方に展開する米国アラバマ州の炭鉱会社に、Drummond(日本語ではドラモンド・カンパニー)というのがある。この会社は組合と揉め、その後、組合リーダーが殺害される。

この殺害にはパラミリターレス(準軍部隊)が絡んでいるのではないかという疑惑、そして裁判を追ったのが、このラジオ・ドキュメンタリーである。ラジオのジャーナリズム作品としてこういうものがあるのかと驚いた。出来栄えは素晴らしい。

トランスクリプションがあるのかどうか知らないが、この地方の固有名詞(バジェドゥパルとかバランキーリャとか)に多少馴染みがあれば、まずは問題なく聴ける。話も21世紀の初頭、コロンビアの「内戦」期の出来事。

コロンビアのスペイン語が一番耳に馴染みが良い。なんというか、ドキュメンタリー独特の流れにも合っている。コロンビアのニュース番組で散々聞いたせいなのか、あの若干シリアスで、歯切れの良いスペイン語がしっくりくる。

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写真は6月20日の夕焼け。

 

2021年6月13日日曜日

スペイン語の『鋼鉄はいかに鍛えられたか』/6月13日

 ニコライ・オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』のスペイン語版。

 

 

Nikolái Ostrovski, Así se templó el acero(Traducción de J. Vento y A. Herráiz), Editorial Porrúa, Ciudad de México, 2017.

この二人の翻訳者(ホセ・ベント José Ventoとアンヘル・エライス Ángel Herráiz)は、ショーロホフの『開かれた処女地』も翻訳している。スペイン語のタイトルは『Campos roturados』。

彼らはスペイン内戦時にソ連に亡命した知識人たちで、その中で最も有名なのは、コミンテルンの通訳者でもあったビセンテ・ペルテガス・マルティネス(Vicente Pertegaz Martínez, 1909-2002)。

スペイン内戦時のスペイン共産党員の主たる亡命先はパリ、メキシコだが、その中でソ連亡命の痕跡(特に文化的な痕跡)はなかなか辿るのが難しい(Alicia Alted Vigilの論文、El exilio español en la Unión Soviética)。

作家としては、「社会主義リアリズム作家」セサル・ムニョス・アルコナーダ(César Múñoz Arconada、1898-1964)の存在が知られている。1939年にソビエトへ亡命、亡くなったのはモスクワだ。彼の小説『タホ川 Río Tajo』(1938)はぜひ読んでみたい。

亡命スペイン人と革命キューバ人がソ連で出会い、それをヘスス・ディアス『シベリアの女』が描いている。

亡命スペイン人はスペイン語教師にもなる。エベルト・パディーリャがモスクワでスペイン語がうまいロシア人に会っているが、彼らは亡命スペイン人から習ったのだろう。

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ワクチン接種のスケジュールが少し前倒しになったようです。

私の住んでいる自治体では、6月14日(月曜日)に40歳から59歳までの人を対象に接種券が郵送され、予約受付開始日は7月5日(月曜日)。実際の接種日がいつになるかは、予約の埋まり方次第と思われます。

今年の夏至は6月21日月曜日。今日6月13日、東京の日の入りは18時58分。雨がぱらぱらと降ったぐらいで、長い夕方は気持ちがいいですね。

2021年6月8日火曜日

ラングストン・ヒューズ『ニグロと河』(斎藤忠利訳)/6月8日

ラングストン・ヒューズ『ニグロと河』斎藤忠利訳、国文社、1984年。

原題はThe Weary Blues(物憂いブルース)で、1926年刊行。

 

カリブ海を歌ったのは「カリブ海の日没」という4行詩。

「神さまが出血して
 血が空で咳をすると
 黒々とした海が赤くそまる
 それがカリブ海の日没だ」

キューバが言及されるのは「ソールダッド(あるキューバ人の肖像)」。 
  ※「ソールダッド」の原文表記はSoledad

「愛を営んだ あまりに多くの夜の
 影が
 お前の眼の下に おちている
   お前の眼
   苦痛と情熱でいっぱいの
   いつわりでいっぱいの
   苦痛と情熱でいっぱいの
   ソールダッド
   傷あとが深々ときざまれて
   声もない叫びをあげて じっとしている」

メキシコにいる父親と大学進学をめぐって議論して、ヒューズは「世界最大の黒人都市」ハーレムを見たいと伝える。反対はされたようがだが、結局コロンビア大学に入学した。

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日本ラテンアメリカ学会は昨年度は中止になったが、今年はオンラインで6月5日・6日開催。横浜国立大学が開催校。

春の学期も折り返し点をすぎた。写真は5月の終わり、散歩途中に見つけた紫陽花。随分早いですね。

 


 

2021年5月26日水曜日

ラングストン・ヒューズ自伝

ラングストン・ヒューズの自伝は3巻本で、うち第2巻『きみは自由になりたくないか?』にキューバやハイチの紀行が載っていた。これは1930年のこと。

 

 タイトルは以下の通り。
「ハバナの夜」
「キューバのカラー・ライン」
「海に面したホテル」
「包みをもち運びしなさるな」
「靴のないひとびと」
「公式代表団」
「マラリアではなかった」

「キューバのカラー・ライン」ではヒューズがハバナの浜辺で受けた人種差別が書かれている。アメリカの人種主義は彼らの遊び場(植民地)にも適用されている。

「キューバは、明らかに黒人系の国であるという事実にもかかわらず、そこには、一種の三重のカラー・ラインが存在する。この三重の線は、適用の度合いこそさまざまであるが、全西インド諸島に共通だ。カラー尺度の最底辺には、純血の黒人[ニグロ]、色でいえば黒か濃い褐色がいる。中間は、混血のひとびと、薄い褐色や、白黒混血のひとびと、山吹色がかった黄色や、さまざまな色あいのインディアン・スペイン系の髪をしたほとんど白人に近いものまでがいる。それから、さらに白人に近いもの、黒人の血を八分の一だけ受けた黒白混血児、それに純粋に皮膚の白いものがいる。キューバでは、これら三重の明瞭な区分が存在するけれども、その境界線は、カリブ海のいくつかの他の島々ほど厳密に引かれてはいない。イギリス領の島々は、この点では最もひどい。ラテン系の島々は、人種問題に関しては、ずっとおおまかなのである」(p.21)

「キューバでは、時々たいへん色の黒い黒人が非常に高い地位を占めている。これが、合衆国からやってくる多数の訪問者ーー特にカラー・ラインが存在しないといえる国を熱心に探し求めている黒人訪問者ーーを惑わせるのであるが、それはキューバのカラー・ラインが、合衆国のそれに比較して、ずっと融通性に富んでいて、より希薄だからである。」(p.22)

ヒューズはこんなふうにキューバのカラー・ラインが緩やかであるとみている。しかし以下のようなことが起きていく。

「アメリカ人の観光客が冬の遊び場としてハバナを使うようになって、大陸から南部の人種偏見の割り当て分がやってきた。以前はカラー・ラインを適用することにきわめてのんびりしていたホテルが、なんとかアメリカ人の顧客のご機嫌をとろうとして、今では黒白混血のキューバ人をさえも失望させている。」

こうしてヒューズは浜辺の入場を許されず、あげくに警察に連行される。その警察署にいる黒人のキューバ人は、「これは言語道断なことだ。しかし、これがアメリカ白人が管理しているキューバで起こることなのですよ」と同情してくれる。翌日は裁判。

裁判で警察側はまったくの嘘の罪状をでっち上げて告訴するのだが、裁判官は以下のことを言って却下する。「きみたち[警察]がしたことは、旅行者を手厚くもてなすというキューバの主義に、また、人種や皮膚の色による差別を認めないというキューバの法律にも、そむいている。」


ハイチではジャック・ルーマンに会っている。なんと『朝露の主たち』を英語に翻訳したのはラングストン・ヒューズだった。

一方、第1巻『ぼくは多くの河を知っている』には第一次世界大戦後、メキシコに行った経緯が書かれている。彼の父親はメキシコにいた。それもメキシコが革命の時で、ラングストンも幼少期をメキシコで過ごしている。


メキシコ篇となるのは以下。
「不意のめぐりあい」
「父」
「帰国」
「ぼくは多くの河を知っている」
「メキシコ再訪」
「散策」
「逃げる術」
「クエルナバカから届いた葉書」
「闘牛」
「トルカでの惨劇」
「マンハッタン島」:ここの冒頭、「わたしは、メキシコを去れるので嬉しかった」とあって、それが1921年9月。

2021年5月22日土曜日

ハバナ零年、その後

『ハバナ零年』の英語版が出ました。せっかくなので特大サイズで。

翻訳者のChristinaさんは、日本語になっている作家だとバレリア・ルイセリ(『俺の歯の話』)も翻訳している。この英語の本もまた多くの人に読まれるのだろう。表紙は自転車。電話の話だけれども、確かに自転車も活躍する。色使いはキューバ国旗から。

今年は「Tokyo Year Zero」になってしまいそうだ(デイヴィッド・ピースはすでにこういうタイトルの小説を書いているが)。バルセロナの友人とやりとりしたら、その方は間もなく1回目のワクチン接種とのこと。4月ごろバルセロナでは多くの大学で無料のPCR検査をやっていた。5月の終わりから6月にかけては、スペインにとって最も、とにかく最も重要なイギリスからの観光客を迎え入れる方針で、新聞記事をみたら日本からの渡航客も受け入れてくれると書いてある。え、とびっくり。

パディーリャ事件50年と前に書いたが、Cuadernos Hispanoamericanosの850号で特集。ウェブで読めるようです。

 



2021年5月19日水曜日

ラングストン・ヒューズとキューバ

前のエントリーではラングストン・ヒューズとニコラス・ギジェンが1930年にキューバで会っていることを記した。その直接の記録がないものかと思っていたら、ヒューズの本に書いてあった。

ラングストン・ヒューズ『黒人芸術家の立場 ラングストン・ヒューズ評論集』(木島始編訳、創樹社、1977年)


「(前略)その年[1930年]わたしは、メダルと四百ドルからなるハーモン文学賞を得ました[小説『Not With Laughter』が受賞作]。そこでその四百ドルをもってハイチに行きました。その途中でキューバに立ちより、作家や芸術家たちから心をこめた歓迎を受けました。わたしは、砂糖王たちによるキューバの搾取をよんだ詩を書いたり、ニコラス・ギレンのたとえば次のような詩を数おおく翻訳しました。

(中略)[ここにギジェンの詩「砂糖きび」が引用]

 これは、独裁的なマチャード政権下の時代のことでした。おそらく、だれかがこれらの詩や翻訳に注目したのでありましょう。なぜならば何週間かたってハイチから帰ってきたときに、わたしはキューバ上陸を許されず、サンチァゴの移民局に監禁され、ひとつの島にとめおかれました。三日後にアメリカ領事がやって来て、田舎をとおりすぎてハバナに行き、ただちにキューバの地を離れるという条件でわたしを放免してくれるまで、その島におかれたのでした。」(「社会詩人としてのわたしの冒険」、p.153)

それから、ヒューズは日本の警察にも拘留されたことがあるとも書かれている。

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曇りと雨が続くと、睡眠と覚醒の境界線がぼやけてくる。すでに紫陽花が咲いているようです。

2021年5月18日火曜日

ロルカとネラ・ラーセン、ギジェンとラングストン・ヒューズ/5月半ば

1929年のニューヨークで、ガルシア=ロルカはネラ・ラーセンに会った。彼女はいわゆる「ハーレム・ルネサンス」として括られる黒人の文化運動の中に位置づけられる作家である。ロルカに会った頃、評判になる小説を出版したばかりだった。その小説とは『Passing』で、日本語訳は『白い黒人』(植野達郎訳、春風社)。

ロルカはネラ・ラーセンと一緒にハーレムを訪れた。そして彼女の自宅のパーティにも行っている。その時のことを手紙でロルカは以下のように書いている。

「この小説家[ネラ・ラーセン]は優しさにあふれ、黒人特有の深い、感動的な憂愁をたたえた、素晴らしい女性です。
 彼女が自宅でパーティを開いたのですが、集まったのは黒人ばかりでした。彼女と行動を共にするのはこれでもう二度目なのですが、それはぼくが大変興味を惹かれているからです。
 そのパーティで白人はぼくだけでした。彼女の家は二番街にあるのですが、そこの窓から明りがついたニューヨークの街全体が見渡せるのです。ちょうど夜で、空にはサーチライトが交差していました。黒人たちは歌い、ダンスに興じました。素晴らしいうたでした。これに匹敵しうるものといえば、アンダルシアのカンテ・ホンドくらいでしょう。
 黒人霊歌を歌った少年がいました。ぼくもピアノを弾きながらうたを歌いました。言うまでもないことですが、みんながぼくのうたを楽しんでくれました……黒人というのはとても素晴らしい人たちです。別れ際にはみんながぼくを抱き締め、女流作家は見事な署名入りの自著をぼくにくれたのですが、ふだん彼女はそんなことはしませんから、なにか特別なことだと他の人たちは考えたようでした。」(イアン・ギブソン『ロルカ』内田吉彦・本田誠二訳、中央公論社、p.288)

1930年のハバナで、ニコラス・ギジェンはラングストン・ヒューズに会った。ヒューズもまたハーレム・ルネサンスの代表的な作家である。1926年、詩集『The Weary Blues』を出している。その後、ヒューズはニコラス・ギジェンの詩集を英語に翻訳する(『Cuba Libre』というタイトル)。

手元にあるラングストン・ヒューズの本は『ジャズの本』(木島始訳、晶文社)で、この「訳者あとがき」には、木島さんがヒューズと手紙や本のやりとりをしていたことが書かれている。 木島さんのところにそのギジェンの英訳書が届いている。

「『自由キューバ』というのは、ニコラス・ギリエンの大版の翻訳詩集で、凸版の絵の入った美しい本であった。わたしは、キューバ革命よりずっと前にキューバの黒人詩人の作品を英訳で読んでいたのだった。」(「訳者あとがき」『ジャズの本』、p.215) 


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5月半ばに入って、すでに梅雨のような天気で、そういえばこの5月は、「五月晴れ」とか「初夏のような陽気」を体験していないような。

2021年5月11日火曜日

マリアーナ・エンリケス(続き)とバキネー/5月10日

マリアーナ・エンリケスの短篇集『ベッドで煙草を吸う危険 Los peligros de fumar en la cama』には1ダースの短篇が入っている。

その1番目、「El desentierro de la angelita」にはバキネーが出てくる。内容はタイトルにある通りで、幼い子どもの死体の掘り返し。

語り手には同居しているお祖母ちゃんがいる。そのお祖母ちゃん、中庭に自分の妹の死体が埋められているというのだ。語り手がたまたま雨の日に中庭を掘り返したら、骨が出てきて、どうやらそれが、その生後数ヶ月で亡くなった女の子、語り手から見たら大叔母の亡骸なのだそうだ。お祖母ちゃんは葬儀の時のことを振り返る。

「(…)[亡くなった子は]花で飾られたテーブルの上に載せられ、薔薇色の布切れに包まれて、大きな枕にもたせかけられていた。すぐに天に昇れるように、ダンボールで翼を作ってやり、口には赤い花びらをいっぱい満たし」た。「一晩中踊りが続き、歌がうたわれた」。(p.15)

こういう子どもの葬儀をプエルト・リコではバキネーという。バキネーは一説によれば、「Back in it」が訛ったものらしい。

プエルト・リコ出身で、パリでは同じカリブ出身のカミーユ・ピサロと知り合ったフランシスコ・オジェルという画家がいて、彼の代表作に『通夜 El Velorio』という大作があるのだが、この絵は幼な子の通夜を描いている。

このオジェルの絵を見たときはっとした。というのは、ガルシア=マルケスの処女作『落葉』で読んだシーンが蘇ったからだ。イサベルという女性が幼な子の通夜に行くシーンが出てきて、テーブルの上に横たえられた子どもが描写される。上に引用したのとだいたい同じだ。

幼な子の死はそもそも大変痛ましく、それゆえに葬儀はその悲しさを吹き飛ばすために、大勢の人を呼び、賑やかに催す。いやそれどころか大騒ぎしなければらならない。涙に暮れていると、幼な子の天使の翼が濡れてしまいますよ、と母親は諭される・・・

文章で読んで、そういうものだろうと納得していたが、その後オジェルの絵で、まさしくそれが再現されていることを発見したのだ。

こういう幼な子の通夜はカリブでは様々な芸術の題材になっていて、ウィリー・コロンには『El baquiné de angelitos negros』というアルバムがある。その表紙は以下のようなものだ。

 

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感染状況は悪化の一途で、先が見通せない。しばらくはこういう状態が続きそうだ。

2021年5月9日日曜日

マリアーナ・エンリケス/5月9日

マリアーナ・エンリケスはアルゼンチンの作家。1973年生まれ。邦訳では『わたしたちが火の中で失くしたもの』(安藤哲行訳、河出書房)がある。

彼女の本で、最近、国際ブッカー賞の最終候補作になったのが以下の短編集。リンクは2021年の4月の記事で、この本の初版は2009年。Anagramaで最初に出たのが2017年で、手元にあるのは2019年の第三版。息が長くていいな。

 

 

彼女の本では、別のを読もうと思ってとっくに届いているのが、以下の伝記もの。シルビーナ・オカンポの伝記でタイトルは『妹』。これは初版が2018年で、手元のは2020年の第二版。

 

  
 
 
他にもアルゼンチンの女性作家で伝記ものがあるのだが、それはまた別の機会に。

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大学の授業は、大学の指示でGWの2週間はオンラインになって、週明けからは再び対面に戻る。
 
東京の緊急事態宣言は3度目。
 
1度目は、2020年4月7日から5月25日まで。
2度目は、2021年1月7日から3月22日まで。
3度目は、2021年4月25日から。
 
不思議にも、昨年の6月から晩秋まではそれなりに余裕があったんですね。

オリンピックは中止以外の判断は考えられないが、中止にしたとしてもワクチン接種が劇的にスピードアップするとは思えない。ゆっくりワクチンを接種していくとなると、え、来年(2022年)もまだこのまま?
 
大学がオーソライズする留学(感染症危険レベルが1にならないとダメ)は当分無理と考えた方が良さそう。

2021年5月1日土曜日

パディーリャ事件から50年/4月終わりから5月にかけて

少しも考えたことがなかったのだが、キューバ関係のメーリングリストで、パディーリャ事件から50年が経過したことを知った。

詩人のエベルト・パディーリャが拘束を解かれ、UNEACのホールで自己批判をしたのが1971年4月27日だったので、それから半世紀が経過したということだ。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」の季刊誌「カサ」の65-66号(1971年)にはその時のパディーリャの発言内容が載っている。

 

 

で、「カサ・デ・ラス・アメリカス」は半世紀にあたって、このパディーリャの発言も含め、当時の文書をまとめて一冊の本にしている。

Diario de Cubaでは、アントニオ・ホセ・ポンテがインタビューに答えている。彼によれば、パディーリャが話しているところをICAICが撮影していて、いまだに日の目を見ていないが、フィルムはあるとのことだ。

なるほど、ニュースで放映してもおかしくない内容だから、撮影が入っていて当然だろう。いずれどこかから流出するのだろうか。

しかしそれにしてもキューバ文化のデジタルアーカイブ化の進展はすごい。Lunes、Ciclón、 Mariel、Orígenesなど、主要雑誌が軒並みインターネットでタダで読める時代がやってきた。このRialta.orgを見ていたら、何日でも過ごせそうだ。

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4月から対面ではじめた授業は、2週間やって再び2週間限定でオンラインになった。その後は緊急事態宣言が延長されても対面に戻す予定。もちろん、あくまで予定。

これほど悲観的な日々はなかなか経験できない。

2021年4月17日土曜日

プエルト・リコのレヴィ=ストロース/2021年4月半ば

1941年、レヴィ=ストロースは「ポール・ルメルル大尉号」に乗ってマルセイユを出て、マルチニークへ向かった。アンドレ・ブルトン、エメ=セゼール、ウィフレド・ラムらも乗っていた船である。

「徒刑囚」のように350人が詰め込まれ、不衛生に大西洋を一ヶ月を航海してようやくフォール・ド・フランスに入港。

『悲しき熱帯』でレヴィ=ストロースが当時を振り返る文章を読むと、その2年前、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチがフロブリ号でグディーニャを出てブエノスアイレスに向かった時のことを『トランス=アトランティック』で書いているのとは随分違う。

「1939年8月21日、小生は、フロブリ号の船客として、ブエノスアイレスに入港するところ。グディーニャからブエノスアイレスまでの航海はすこぶる快適……上陸するのがもったいないほどだった。なにせ、二十日間にわたり、空と海のはざまで、記憶に値する何もなく、ひがな潮風に身をあずけ、波飛沫にさらされ、風に吹きさらされる日々だった。」(西成彦訳)

『悲しき熱帯』は紀行文、『トランス=アトランティック』は小説だ。だからといって、前者を真実らしさに満ちたもの、後者を虚構と見なすのはどちらも早計だろう。そんな簡単に読んではならないと思う。

レヴィ=ストロースは船中でアンドレ・ブルトンと知り合う。

「彼(ブルトン)と私とのあいだに、手紙の遣り取りによって、その後も続いた友情が始まろうとしていた。手紙の遣り取りは、この果てしない旅のあいだかなり長く続いたが、その中で私たちは、審美的に見た美しさというものと絶対的な独創性との関係を論じた。」(川田順造訳)

ますます紀行文が信じられなくなりかけるし、小説(虚構)のほうは、どこか読者を異世界に連れ込もうとしているようだ。

それはともかく、レヴィ=ストロースはマルチニークのあとニューヨークに向かうのだが、その間にプエルト・リコが挟まっている。

「こうして私は、純白に塗装したスウェーデンのと或るバナナ船で、プエルト・リコに向かった。」

この後、彼はブラジルでの調査資料(カード、日誌、ノート、地図、写真など)が原因でしばしプエルト・リコに足止めされることになる。

「入国管理当局は、私を格式ばったスペイン式のホテルに、船会社の費用持ちではあったが、監禁しておくことに決めた(中略)。そのホテルで私は、牛肉の煮込みやひよこ豆の食事をあてがわれ」た。

この食事からして、なるほどスペイン料理だなあと思ってしまう。ただそこはプエルト・リコである。

「このようにして、プエルト・リコで、私はアメリカ合衆国と接触したことになる。初めて私は、生ぬるいワニスとウィンター・グリーン(中略)の匂いをかいだ。この二つは、いわば嗅覚で感知しうる両極で、これらのあいだにアメリカ式快適さの様々な段階ーー自動車からラジオや菓子や煉歯磨きを経てトイレットに至るまでーーが並んでいるのである。(中略)大アンティール諸島というかなり特殊な背景においてではあったが、アメリカの町に共通して見られる或る様相をまず私が認めたのも、プエルト・リコにおいてであった。どこへ行っても、建物が軽快で、効果だの通行人の関心を惹くことばかりねらっている点で、いつまでも催されている万国博覧会か何かに似ていた。ただここでは、人々はむしろ博覧会のスペイン会場にいるような気がするのである。」

プエルト・リコにアメリカ合衆国をみて、さらにそこで箱庭のように保存されているスペインをみる。植民地状態が継続している。

「旅の偶然は、しばしば、事物のこのような二面性を見せてくれるものである。(中略)その後かなり経ってからのことであるが、私が初めてイギリス式の大学を訪れたのは、東部ベンガルのダッカにあるネオ・ゴティック様式の並ぶ構内においてであったため、今でも私には、オクスフォード大学は、泥と黴と植物の氾濫を制御するのに成功したインドのように見えるのである。」

ここでレヴィ=ストロースが言っている感覚は植民地の文化をやっているものにはお馴染みのものだろう。

植民地の方が宗主国の様式をより過剰に演出してみせる。マドリードの大学のキャンパスに足を入れると、なるほどここはハバナ大学だなと。

写真は2012年2月のプエルト・リコ(サン・フアン)。

 

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2021年度の授業が始まった。この4月、感染者の数は増えつつある中で、オンラインの授業もあるし、対面の授業もある。

2021年4月6日火曜日

マリア・フェルナンダ・アンプエロ『闘鶏』

マリア・フェルナンダ・アンプエロは、エクアドルのグアヤキル出身の作家。1976年生まれ。アルゼンチンのマリア・ガインサ(María Gainza)やアリアナ・ハルヴィッツ(Ariana Harwicz)と同世代。

マリア・フェルナンダの短篇集『闘鶏 Pelea de gallos』は2018年刊行。

 


 

映画『パラサイト』と同じように、このうちの短篇「競売」でも「臭い」が人を支配する。父が闘鶏をやっていたので、娘は幼い頃、父について闘鶏場へ通った。年配の男たちにからかわれたりしているうちに、闘鶏の雰囲気に慣れる。闘鶏場の臭い、死んだ鶏の臭いを忘れる事はない。というか嗅げば、その瞬間にわかる。

「数千キロ離れていても、その臭いならわかるだろう。私の人生の臭い、父の臭い。血の、男の、糞の、安い酒の、酸っぱい汗の、工場油の臭いがする。」

彼女は囚われている。工場の廃屋かどこかで目隠しをされ、毛布か何かを被せられている。銃口を突きつけられているのを感じる。

仕事に疲れ、ふとバーで一杯飲んだ。横の客と話をして、さらに疲れてしまった。タクシーに乗って、さあやっと家に帰れると思った。が、それが終わりの始まりだった。

運転手にピストルを向けられ、連れて行かれたのは町外れ。そこであの臭いが彼女の鼻に届く。「どこかに鶏がいる」

囚われているのは彼女だけではない。彼らは一様にタクシーに乗って脅されて連れてこられた。ある程度の金品を奪い取ることができるという予測のもと、タクシー運転手に選び出された。コロンビアなら「パセオ・ミジョナリオ Paseo millonario」と呼ばれる強盗。

しばらくすると「競売」が始まる。

裕福な男がせりにかけられる。住まいは「貧しい俺たちには覗くこともできない」ゲイテッド・コミュニティ。

複数の銀行口座、会社役員で企業家の息子、芸術品所有などなどの情報を聞き出す。銃で脅して暗証番号を聞き出し、有り金を全額を引き出させればまずは成功。屋敷に入りこみ、財産をまるごと盗むこともあるらしい。

さて主人公の女は?

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新年度がはじまった。

昨年度は困難や苦労にぶつかり、それはそれでよかった。あまりにも贅沢な経験だったと思う。

自分一人では生活が難しい人をできる限りで助けようと思って行動したし、日頃は聞かない話を聞いたりする時間をたくさん持つようにした。これまでにないことだ。

懐かしい人から連絡があって、話をしたりしたし、これはオンライン効果。

この春、同年代の同僚がこの世を去るという信じられない悲しい出来事があった。

写真は一週間前の桜。


 

2021年3月22日月曜日

キューバ映画『クンビット Cumbite』/ジャック・ルーマン『朝露の主たち』

キューバ映画の『クンビット』をみた。

監督はトマス・グティエレス=アレアで、1964年の映画。

 



15年間、キューバの砂糖黍農場で働いたハイチ人マヌエルは故郷のフォンルージュに戻った。

帰ってみると、村は土地の争いで揉め事があり、血が流れ、それ以降、人々は真っ二つに分かれている。しかも雨がまったく降らず、旱魃に苦しみ、このままでは滅亡の危機さえある。

マヌエルの父と母は息子の帰郷を喜ぶが、マヌエルは帽子を編んで街に売りにいく生活ではやっていけないと将来を案じる。水はどうしたら手に入るのか?どこかに水源があるはずだ。探索するが見つからない。

村人たちは宗教儀礼で雨乞いをするばかりだ。映画では、この儀礼の場面にたっぷり時間をとって見せてくれる。

100分程度の映画だが、雨乞い、埋葬など、儀礼の部分に相当の時間を使っている。撮り方には、なんとなくその後のアレア作品『低開発の記憶』の冒頭シーンを思わせるところがないではない。

マヌエルはそうした宗教的な慣習をあまり信じていないようにも見える。軽蔑しているわけではないようだが。映画では、そうしたマヌエルの合理的思考はキューバで培われたようにも見せている。キューバ人監督だからなのかな、と思ってしまったのだが、さて。

実はこの映画を見ようと思ったのは、この映画の原作がハイチの作家ジャック・ルーマンの『朝露の主たち』であることを知ったからである。そして教えてもらったのだが、この小説には翻訳があるという。

なんと!と思ってすぐに入手した。

ジャック・ルーマン『朝露の主たち』松井裕史訳、作品社、2020年。

 


ざっと読んだ限りだが、マヌエルの理知的な考えの背後にキューバがあるのは原作を踏まえているとみて良いようだ。

例えば、以下はマヌエル(映画ではスペイン語なのでマヌエルだが、原作はマニュエル)と恋人のアナイサ(同様に原作はアナイズ)との会話。

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「フォンルージュまで水を引くとなると大仕事になる。みんなが力をあわせる必要があるし、和解しないとそれは無理だろう。ひとつ話をしてあげよう。キューバでは初め、何ら抗議することも抵抗することもなかった。ある人は自分を白人だと思っていて、またある人は自分を黒人だと思っていて、両者のあいだにはちょっとした不和があった。砂みたいにバラバラで、主人たちはその砂の上を歩いていた。でも自分たちがみんな似通っているとわかると、ウエルガをするために結束すると……」
「『ウエルガ』って言葉、なに?」
「君たちはむしろストライキって言うだろうね」(97-98ページ)
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こんなふうにマヌエルはキューバの経験をハイチに持ち込もうとする。引用にあるように、マヌエルはスペイン語をかなり使う。15年キューバにいたからスペイン語が出てきてしまうのだ。

アナイサは敵対するグループの娘なので、彼女との将来を夢見るマヌエルだが、前途多難である。アナイサはマヌエルに会うために人目を避けつつも、実はマヌエルに引かれている。

いよいよマヌエルは泉を山で発見する。その噂は村を流れ、大騒ぎになる。「あいつはキューバから魔法の棒を持ち帰った。それで地面を叩いて水を見つけたのさ」と解釈する村人もいる。

ここで映画のタイトルの「クンビット」の話になる。「クンビット」とは、クレオール語で集団農業労働を意味する。翻訳書の解説によれば、この単語はスペイン語のconvite(招待)が語源とのこと。

善人マヌエルは、敵味方なしにみんなで水路を村に引こうと提案する。「クンビット」をしよう、と。父親は反対する。血が流れたんだぞ、協力なんてしたくない。敵方も折れてくれない。

「血は死、水は生命」との言葉を持って、話をしに行ったマヌエルなのだが、その帰り道に襲われてしまう。

が、このマヌエルの犠牲によって村は結束し……となる。

2021年2月11日木曜日

朝鮮戦争とコロンビア

朝鮮戦争にコロンビアが出兵していたことは、ガルシア=マルケスが記事に書いている。以下の本で読むことができる。

 


 

この記事は1954年12月、「朝鮮から現実へ De Corea a la realidad」と題して3回にわたって連載されたものだ。日本語訳では108ー122ページ。

以下の原書では、315-328ページ。



「国内では馴染みのなかった『帰還兵』という言葉が、第一次の派遣隊の帰国後間もなく流行語になった。」(108ページ)

ずいぶん昔にバランキーリャで知り合った方も、この戦争の帰還兵veteranosだった。1948年のボゴタ暴動以降、内戦に突入したこの国の人がはじめて国外の戦争に出かけていった。

「(…)一九五一年六月十九日、釜山で下船した彼らは、小柄で抜け目のない韓国大統領李承晩のじきじきのお迎えを受けたのだった。韓国の国家元首は、歓迎の挨拶をしたが、千六十三名の人間を共産主義者と戦うために派遣した、南米の国の名を公式の場で口にしたのは、おそらく、彼の生涯でこの時が初めてであったろう。」(109ページ)

最終的に戦争に送られたのは4000名に及ぶ。戦死したもの、負傷したもの、前線にはいかなかったもの、さまざまだ。

彼らがどのようなルートで韓国まで行ったのか。ガルシア=マルケスは、コロンビア兵が横浜で日本人女性と出会ったことに言及している。「太平洋方面に駐留中、コロンビア兵士はヨコハマで、少なくとも五日間の自由行動が許された」(111ページ)。では日本まではどうやって?

ずいぶん前のエントリーで紹介したフアン・ガブリエル・バスケスの短篇集『Canciones para el incendio』(2019)でわかった。

 

短篇「蛙 Las ranas」は朝鮮戦争の「帰還兵」の物語である。それによると、バスに分乗してボゴタから太平洋岸のブエナベントゥーラに行き、そこでアメリカのAiken Victoryに乗っている。船はハワイ・ホノルルを経由して、横浜に立ち寄り、そして釜山に着いたということになる。

もちろんその中には、どんな戦争にもいるように、兵士とは言えない者たちも含まれている。バスケスの短篇は、書いてしまうのはもったいない驚くべき内容だ。タイトルにある蛙は、ここでは、妊娠検査薬以前に用いられた方法で使用する生き物として登場する。

しかしこの短編集、すごい話ばかり……

2021年1月13日水曜日

『シャドー・ディール 武器ビジネスの闇』

あっという間に1月も半ばだ。

配給会社のご好意で、映画『シャドー・ディール』を観せていただいた。

この映画はベルギー人のヨハン・グリモンプレ監督による軍需産業の内幕を暴いたドキュメンタリーである。

監督はこの映画をエドゥアルド・ガレアーノに捧げていて、作品中で彼の『日々の子どもたち』と『鏡たちーーほとんど世界中の物語』からいくつかのエピソードが、ガレアーノの声で読まれる。

挿入される映像のうち一つは、グリモンプレ自身のサイトで見ることができる。

映画は多くのインタビューで構成されるが、マイケル・ハートと、そしてなんとヴィジャイ・プラシャド(『褐色の世界史』)も出ていて、プラシャドはかなり長く話している。

ブッシュの記者会見で靴を投げたジャーナリストも登場する。

1月30日からシアター・イメージフォーラムで公開。

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東京外国語大学出版会から出た本が届いた。

アルベール・サロー『植民地の偉大さと隷従』小川了訳、東京外国語大学出版会、2021年6月

 

表紙の写真、右のメガネの男が1922年植民地大臣のサローである。