コロンビアで、日本の学術振興会にあたるColciencias(科学技術振興院)が、博士課程の学生への予算を人文社会系には配分率をゼロとし、すべて科学分野に充当することになった。
たまたまコロンビアの新聞を読んでいたら見つけた記事がこれ(タイトルは「Colciencias 対 人文学」)で、きちんと読んでいないのだが、日本で起きていることとよく似ているように見える。
実際、他の記事(タイトルは「人文学の終わり?」)では、今回のコロンビアの決定は、日本で起きていることと似たようなケースだと言っている。
コロンビアの国立大学の人文社会系学部の学部長が連帯して抗議声明を発表している。それがこれ。カリにあるデル・バジェ大学のウェブページに載ったものだ。
コロンビアの歴史学者エドゥアルド・ポサーダ・カルボーもEl Tiempo紙で人文社会系研究を擁護するオピニオンを掲載している。
いま挙げてきたのはどれもこの10月に入ってからのことだ。
しかし調べてみると、どうやら今年のはじめくらいから、Colcienciasは人文社会系の研究の「業績評価」や「学術貢献度」を数値化する方向性を打ち出し、そのことが人文社会系研究者たちのあいだからの反感を引き起こしていたようだ。それがこの記事。
(この項、続く)
El mundo cambia constantemente.
ラテンアメリカ文学、キューバの文学、カリブの文学などについてメモのようなものを書いています。忘れないように書いているというのもあるけれど、忘れてもいいように書いている。書くことは悪魔祓いみたいなもので、書くとあっさり忘れられる。それがいい。
Escribir es un acto de exorcismo. Escribir cura, alivia.
2015年10月26日月曜日
2015年10月25日日曜日
メキシコで文化省創設?
メキシコ大統領のエンリケ・ペニャ・ニエトが「文化省」の創設を提案している。
記事はたとえばこちら。
目的は、「文化遺産の研究、維持、普及、芸術文化活動の活性化、芸術教育、読書、そういったものに関するIT利用の促進などなど」というものである。
メキシコでは「省」のことをスペイン語では"Secretaría"であらわすので、「Secretaría de Cultura」という。
Ministerioを使っている国なら、「Ministerio de Cultura」となる。
で、調べてみたら、アルゼンチンが「文化省」を創設したというニュースがあった。昨年2014年5月のことである。時期的にメキシコと近いのが気になる。在アルゼンチン日本大使館のウェブページにも記事がある。大統領府にあった文化庁を格上げしたとのこと。
ちなみにコロンビアで「文化省」が設けられたのは1997年。キューバは1976年。
メキシコの文化省創設の提案について、ある評論家はExcelsior紙に文章を寄せている。「文化、目的は?」というタイトル。
そして探してみたら、Nexos誌にはかなり長めの文章が載っていた。「文化省、目的は?」
タイトルが似ている。 日付ではNexos誌のほうが先に出ている。
さらにProceso誌にも記事がある。 「論争を呼ぶ今回の文化省」
読解のクラスでExcelsior紙の文章を読んでいる。内容についてはまた別の機会に。
記事はたとえばこちら。
目的は、「文化遺産の研究、維持、普及、芸術文化活動の活性化、芸術教育、読書、そういったものに関するIT利用の促進などなど」というものである。
メキシコでは「省」のことをスペイン語では"Secretaría"であらわすので、「Secretaría de Cultura」という。
Ministerioを使っている国なら、「Ministerio de Cultura」となる。
で、調べてみたら、アルゼンチンが「文化省」を創設したというニュースがあった。昨年2014年5月のことである。時期的にメキシコと近いのが気になる。在アルゼンチン日本大使館のウェブページにも記事がある。大統領府にあった文化庁を格上げしたとのこと。
ちなみにコロンビアで「文化省」が設けられたのは1997年。キューバは1976年。
メキシコの文化省創設の提案について、ある評論家はExcelsior紙に文章を寄せている。「文化、目的は?」というタイトル。
そして探してみたら、Nexos誌にはかなり長めの文章が載っていた。「文化省、目的は?」
タイトルが似ている。 日付ではNexos誌のほうが先に出ている。
さらにProceso誌にも記事がある。 「論争を呼ぶ今回の文化省」
読解のクラスでExcelsior紙の文章を読んでいる。内容についてはまた別の機会に。
2015年10月20日火曜日
キューバ映画(7)の2 『ザ・キング・オブ・ハバナ』(続き)
『ザ・キング・オブ・ハバナ』の監督アグスティ・ビジャロンガのインタビューがあったので、それを読んでみた。以下はそのなかから少しだけ翻訳したもの。
「ぼくはキューバ人じゃない。でも週末だけキューバで過ごしたというわけじゃない」
「ウォルター・サレスのように、もっとスタイリッシュにあの(キューバの)現実を説明することはできるし、そうすれば耳を傾けてくれる人も、もっと増えるかもしれない。でもぼくは、ぼくが見たものが映画に映し出されることを望んだ。人はセックスをして、クソをして、小便をして、足は臭い。なぜならそういうものだからだ。キューバにいて、高級ホテルから一歩も出ずにそれを見ない人もいる。でもそれはそこにある。映画のなかで重要なのは、物質的な貧しさがいかに人々とその生き方に影響を与えてしまうかということだ。」
「ぼくが語りたいのは、ペドロ・フアン・グティエレスのように陽気な人間が語る汚らしい現実だ。そういう世界を真正面から見たくない人はそれでいいと思う、でもこの映画は別の方向は見ていない。」
「キューバは色鮮やかなところじゃない、ジャマイカではない。とてもヨーロッパ的だがひどく落ちぶれている。」
「(ストーリー)はもちろん、少しばかりセルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』や『ラサリーリョ・デ・トルメス』、『ハックルベリー・フィン』のようにピカレスク小説を思わせる。」
「ぼくはキューバ人じゃない。でも週末だけキューバで過ごしたというわけじゃない」
「ウォルター・サレスのように、もっとスタイリッシュにあの(キューバの)現実を説明することはできるし、そうすれば耳を傾けてくれる人も、もっと増えるかもしれない。でもぼくは、ぼくが見たものが映画に映し出されることを望んだ。人はセックスをして、クソをして、小便をして、足は臭い。なぜならそういうものだからだ。キューバにいて、高級ホテルから一歩も出ずにそれを見ない人もいる。でもそれはそこにある。映画のなかで重要なのは、物質的な貧しさがいかに人々とその生き方に影響を与えてしまうかということだ。」
「ぼくが語りたいのは、ペドロ・フアン・グティエレスのように陽気な人間が語る汚らしい現実だ。そういう世界を真正面から見たくない人はそれでいいと思う、でもこの映画は別の方向は見ていない。」
「キューバは色鮮やかなところじゃない、ジャマイカではない。とてもヨーロッパ的だがひどく落ちぶれている。」
「(ストーリー)はもちろん、少しばかりセルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』や『ラサリーリョ・デ・トルメス』、『ハックルベリー・フィン』のようにピカレスク小説を思わせる。」
2015年10月18日日曜日
禁断のテキスト(ラテンアメリカ編)
読むことを禁じる短篇アンソロジーのようなものを考えている。
いますぐに思いつくのは以下のようなもの。
アンドレス・カイセード「カニバリズム」
ビルヒリオ・ピニェーラ「落下」
ジョランダ・アロージョ「強奪」
アンドレア・ヘフタノビッチ「家系樹」
似たような企画としては、たとえば、すでにこういう本がある。
この本にはプエルト・リコのマヌエル・ラモス・オテロの唯一の邦訳作品が入っていて、とても貴重だ。
あるいはこういう本もある。そしてこういう本も。
なんと最近はこんな本も出ていた。
ラテンアメリカ禁断アンソロジーが必要だ。
ラテンアメリカではすでにいくつか似たようなものを見たことがあるけれども、たとえば以下のような本がある。
Quiroga, José(compilador), Mapa callejero: Crónicas sobre lo gay desde América Latina, Eterna Cadencia, 2010.
いますぐに思いつくのは以下のようなもの。
アンドレス・カイセード「カニバリズム」
ビルヒリオ・ピニェーラ「落下」
ジョランダ・アロージョ「強奪」
アンドレア・ヘフタノビッチ「家系樹」
似たような企画としては、たとえば、すでにこういう本がある。
この本にはプエルト・リコのマヌエル・ラモス・オテロの唯一の邦訳作品が入っていて、とても貴重だ。
あるいはこういう本もある。そしてこういう本も。
なんと最近はこんな本も出ていた。
ラテンアメリカ禁断アンソロジーが必要だ。
ラテンアメリカではすでにいくつか似たようなものを見たことがあるけれども、たとえば以下のような本がある。
Quiroga, José(compilador), Mapa callejero: Crónicas sobre lo gay desde América Latina, Eterna Cadencia, 2010.
2015年10月13日火曜日
キューバ映画(7)『ザ・キング・オブ・ハバナ』
ラテンビート映画祭で『ザ・キング・オブ・ハバナ』を見た。
監督はスペイン・マジョルカ出身のアグスティ・ビジャロンガ。他作品では『ブラック・ブレッド』が入手可。
ビジャロンガについての記事はたとえばこれ。
ウェブ新聞『Diario de Cuba』には映画について、こんなにたくさん記事があった。
いくつかの記事によると、撮影はドミニカ共和国とスペインで行なわれた。撮影直前になってキューバの映画公社ICAICが撮影に許可を出さなかったからだ。
『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』、『苺とチョコレート』、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』とは違うハバナを見せることに成功しているのはこの映画だ。
アントニオ・ホセ・ポンテの「ハバナ=廃墟」という新しい美学に、ある種のストーリーを与えたのがこの映画の原作者ペドロ・フアン・グティエレスということになるのだろう。
(この項、続く)
監督はスペイン・マジョルカ出身のアグスティ・ビジャロンガ。他作品では『ブラック・ブレッド』が入手可。
ビジャロンガについての記事はたとえばこれ。
ウェブ新聞『Diario de Cuba』には映画について、こんなにたくさん記事があった。
いくつかの記事によると、撮影はドミニカ共和国とスペインで行なわれた。撮影直前になってキューバの映画公社ICAICが撮影に許可を出さなかったからだ。
『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』、『苺とチョコレート』、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』とは違うハバナを見せることに成功しているのはこの映画だ。
アントニオ・ホセ・ポンテの「ハバナ=廃墟」という新しい美学に、ある種のストーリーを与えたのがこの映画の原作者ペドロ・フアン・グティエレスということになるのだろう。
(この項、続く)
2015年10月12日月曜日
グアナファトのエイゼンシュテイン
ピーター・グリーナウェイの映画『Eisenstein in Guanajuato』を見た。
調べてみると、映画と関連する記事やブログがかなり出てきたので資料として掲げておく。
こちらはエイゼンシュテインが書いたイラストについての記事。1996年の『ラ・ホルナーダ』紙より。
映画ではエイゼンシュテインがグアナファトで知り合ったパロミノ・カニェード(Jorge Palomino y Cañedo)との関係が華々しく展開する。
こちらでエイゼンシュテインがカニェードに書いた手紙(フランス語)を見る事ができる。
エイゼンシュテインのメキシコ時代についての本もある。
監督グリーナウェイのインタビューはこちら。 Part1から3まである。
これを見ると、アステカ文明への愛着を通じてヨーロッパ中心主義を相対化しようとするグリーナウェイの意図がわかる。
これは撮影がグアナファトで行なわれたことを報じる記事。これも。
製作のPaloma Negra Filmsのページはこちら。
映画ではフアレス劇場が使われていた(下の写真、筆者撮影)。
調べてみると、映画と関連する記事やブログがかなり出てきたので資料として掲げておく。
こちらはエイゼンシュテインが書いたイラストについての記事。1996年の『ラ・ホルナーダ』紙より。
映画ではエイゼンシュテインがグアナファトで知り合ったパロミノ・カニェード(Jorge Palomino y Cañedo)との関係が華々しく展開する。
こちらでエイゼンシュテインがカニェードに書いた手紙(フランス語)を見る事ができる。
エイゼンシュテインのメキシコ時代についての本もある。
監督グリーナウェイのインタビューはこちら。 Part1から3まである。
これを見ると、アステカ文明への愛着を通じてヨーロッパ中心主義を相対化しようとするグリーナウェイの意図がわかる。
これは撮影がグアナファトで行なわれたことを報じる記事。これも。
製作のPaloma Negra Filmsのページはこちら。
映画ではフアレス劇場が使われていた(下の写真、筆者撮影)。
2015年10月4日日曜日
メキシコ文学(1)メキシコシティから離れる
メキシコの作家についてふと考えてみると、メキシコシティで生まれたり、育ったり、学んだり、死んだりした人ばかりだ。
カルロス・フェンテス、エレナ・ポニアトウスカ、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、ホルヘ・ボルピ、アルフォンソ・レイエス……
翻訳がない作家でも、たとえばマリオ・ベジャティン、グアダルーペ・ネッテルのような作家もメキシコシティが居場所である。
メキシコ人ではないけれども、長く住んでいる作家、ガルシア=マルケス、フェルナンド・バジェホ、ロベルト・ボラーニョでさえも、メキシコシティが拠点だ。
国の大きさからして、これでは偏っているような気がしないでもない。
というわけで、いま関心はメキシコシティ以外の作家にある。手元に作品のある作家で、しかも自分と同世代くらいを意図的に選んで並べてみる。順不同。
フアン・パブロ・ビジャロボス(Juan Pablo Villalobos):1973年グアダラハラ生まれ。
クリスティナ・リベラ・ガルサ(Cristina Rivera Garza):1964年タマウリパス生まれ。
トリーノ・マルドナード(Tryno Maldonado):1977年サカテカス生まれ。
エドゥアルド・アントニオ・パーラ(Eduardo Antonio Parra):1965年グアナファト生まれ。
アルバロ・エンリゲ(Álvaro Enrigue):1969年グアダラハラ生まれ。
マウリシオ・モンティエル・フィゲイラス:1968年グアダラハラ生まれ。
ジョルディ・ソレール(Jordi Soler):1963年ベラクルス生まれ。
ホアキン・ウルタード・ペレス(Joaquín Hurtado Pérez):1961年モンテレイ生まれ。
(この項、追って作品について増補予定)
カルロス・フェンテス、エレナ・ポニアトウスカ、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、ホルヘ・ボルピ、アルフォンソ・レイエス……
翻訳がない作家でも、たとえばマリオ・ベジャティン、グアダルーペ・ネッテルのような作家もメキシコシティが居場所である。
メキシコ人ではないけれども、長く住んでいる作家、ガルシア=マルケス、フェルナンド・バジェホ、ロベルト・ボラーニョでさえも、メキシコシティが拠点だ。
国の大きさからして、これでは偏っているような気がしないでもない。
というわけで、いま関心はメキシコシティ以外の作家にある。手元に作品のある作家で、しかも自分と同世代くらいを意図的に選んで並べてみる。順不同。
フアン・パブロ・ビジャロボス(Juan Pablo Villalobos):1973年グアダラハラ生まれ。
クリスティナ・リベラ・ガルサ(Cristina Rivera Garza):1964年タマウリパス生まれ。
トリーノ・マルドナード(Tryno Maldonado):1977年サカテカス生まれ。
エドゥアルド・アントニオ・パーラ(Eduardo Antonio Parra):1965年グアナファト生まれ。
アルバロ・エンリゲ(Álvaro Enrigue):1969年グアダラハラ生まれ。
マウリシオ・モンティエル・フィゲイラス:1968年グアダラハラ生まれ。
ジョルディ・ソレール(Jordi Soler):1963年ベラクルス生まれ。
ホアキン・ウルタード・ペレス(Joaquín Hurtado Pérez):1961年モンテレイ生まれ。
(この項、追って作品について増補予定)
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