2021年5月26日水曜日

ラングストン・ヒューズ自伝

ラングストン・ヒューズの自伝は3巻本で、うち第2巻『きみは自由になりたくないか?』にキューバやハイチの紀行が載っていた。これは1930年のこと。

 

 タイトルは以下の通り。
「ハバナの夜」
「キューバのカラー・ライン」
「海に面したホテル」
「包みをもち運びしなさるな」
「靴のないひとびと」
「公式代表団」
「マラリアではなかった」

「キューバのカラー・ライン」ではヒューズがハバナの浜辺で受けた人種差別が書かれている。アメリカの人種主義は彼らの遊び場(植民地)にも適用されている。

「キューバは、明らかに黒人系の国であるという事実にもかかわらず、そこには、一種の三重のカラー・ラインが存在する。この三重の線は、適用の度合いこそさまざまであるが、全西インド諸島に共通だ。カラー尺度の最底辺には、純血の黒人[ニグロ]、色でいえば黒か濃い褐色がいる。中間は、混血のひとびと、薄い褐色や、白黒混血のひとびと、山吹色がかった黄色や、さまざまな色あいのインディアン・スペイン系の髪をしたほとんど白人に近いものまでがいる。それから、さらに白人に近いもの、黒人の血を八分の一だけ受けた黒白混血児、それに純粋に皮膚の白いものがいる。キューバでは、これら三重の明瞭な区分が存在するけれども、その境界線は、カリブ海のいくつかの他の島々ほど厳密に引かれてはいない。イギリス領の島々は、この点では最もひどい。ラテン系の島々は、人種問題に関しては、ずっとおおまかなのである」(p.21)

「キューバでは、時々たいへん色の黒い黒人が非常に高い地位を占めている。これが、合衆国からやってくる多数の訪問者ーー特にカラー・ラインが存在しないといえる国を熱心に探し求めている黒人訪問者ーーを惑わせるのであるが、それはキューバのカラー・ラインが、合衆国のそれに比較して、ずっと融通性に富んでいて、より希薄だからである。」(p.22)

ヒューズはこんなふうにキューバのカラー・ラインが緩やかであるとみている。しかし以下のようなことが起きていく。

「アメリカ人の観光客が冬の遊び場としてハバナを使うようになって、大陸から南部の人種偏見の割り当て分がやってきた。以前はカラー・ラインを適用することにきわめてのんびりしていたホテルが、なんとかアメリカ人の顧客のご機嫌をとろうとして、今では黒白混血のキューバ人をさえも失望させている。」

こうしてヒューズは浜辺の入場を許されず、あげくに警察に連行される。その警察署にいる黒人のキューバ人は、「これは言語道断なことだ。しかし、これがアメリカ白人が管理しているキューバで起こることなのですよ」と同情してくれる。翌日は裁判。

裁判で警察側はまったくの嘘の罪状をでっち上げて告訴するのだが、裁判官は以下のことを言って却下する。「きみたち[警察]がしたことは、旅行者を手厚くもてなすというキューバの主義に、また、人種や皮膚の色による差別を認めないというキューバの法律にも、そむいている。」


ハイチではジャック・ルーマンに会っている。なんと『朝露の主たち』を英語に翻訳したのはラングストン・ヒューズだった。

一方、第1巻『ぼくは多くの河を知っている』には第一次世界大戦後、メキシコに行った経緯が書かれている。彼の父親はメキシコにいた。それもメキシコが革命の時で、ラングストンも幼少期をメキシコで過ごしている。


メキシコ篇となるのは以下。
「不意のめぐりあい」
「父」
「帰国」
「ぼくは多くの河を知っている」
「メキシコ再訪」
「散策」
「逃げる術」
「クエルナバカから届いた葉書」
「闘牛」
「トルカでの惨劇」
「マンハッタン島」:ここの冒頭、「わたしは、メキシコを去れるので嬉しかった」とあって、それが1921年9月。

2021年5月22日土曜日

ハバナ零年、その後

『ハバナ零年』の英語版が出ました。せっかくなので特大サイズで。

翻訳者のChristinaさんは、日本語になっている作家だとバレリア・ルイセリ(『俺の歯の話』)も翻訳している。この英語の本もまた多くの人に読まれるのだろう。表紙は自転車。電話の話だけれども、確かに自転車も活躍する。色使いはキューバ国旗から。

今年は「Tokyo Year Zero」になってしまいそうだ(デイヴィッド・ピースはすでにこういうタイトルの小説を書いているが)。バルセロナの友人とやりとりしたら、その方は間もなく1回目のワクチン接種とのこと。4月ごろバルセロナでは多くの大学で無料のPCR検査をやっていた。5月の終わりから6月にかけては、スペインにとって最も、とにかく最も重要なイギリスからの観光客を迎え入れる方針で、新聞記事をみたら日本からの渡航客も受け入れてくれると書いてある。え、とびっくり。

パディーリャ事件50年と前に書いたが、Cuadernos Hispanoamericanosの850号で特集。ウェブで読めるようです。

 



2021年5月19日水曜日

ラングストン・ヒューズとキューバ

前のエントリーではラングストン・ヒューズとニコラス・ギジェンが1930年にキューバで会っていることを記した。その直接の記録がないものかと思っていたら、ヒューズの本に書いてあった。

ラングストン・ヒューズ『黒人芸術家の立場 ラングストン・ヒューズ評論集』(木島始編訳、創樹社、1977年)


「(前略)その年[1930年]わたしは、メダルと四百ドルからなるハーモン文学賞を得ました[小説『Not With Laughter』が受賞作]。そこでその四百ドルをもってハイチに行きました。その途中でキューバに立ちより、作家や芸術家たちから心をこめた歓迎を受けました。わたしは、砂糖王たちによるキューバの搾取をよんだ詩を書いたり、ニコラス・ギレンのたとえば次のような詩を数おおく翻訳しました。

(中略)[ここにギジェンの詩「砂糖きび」が引用]

 これは、独裁的なマチャード政権下の時代のことでした。おそらく、だれかがこれらの詩や翻訳に注目したのでありましょう。なぜならば何週間かたってハイチから帰ってきたときに、わたしはキューバ上陸を許されず、サンチァゴの移民局に監禁され、ひとつの島にとめおかれました。三日後にアメリカ領事がやって来て、田舎をとおりすぎてハバナに行き、ただちにキューバの地を離れるという条件でわたしを放免してくれるまで、その島におかれたのでした。」(「社会詩人としてのわたしの冒険」、p.153)

それから、ヒューズは日本の警察にも拘留されたことがあるとも書かれている。

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曇りと雨が続くと、睡眠と覚醒の境界線がぼやけてくる。すでに紫陽花が咲いているようです。

2021年5月18日火曜日

ロルカとネラ・ラーセン、ギジェンとラングストン・ヒューズ/5月半ば

1929年のニューヨークで、ガルシア=ロルカはネラ・ラーセンに会った。彼女はいわゆる「ハーレム・ルネサンス」として括られる黒人の文化運動の中に位置づけられる作家である。ロルカに会った頃、評判になる小説を出版したばかりだった。その小説とは『Passing』で、日本語訳は『白い黒人』(植野達郎訳、春風社)。

ロルカはネラ・ラーセンと一緒にハーレムを訪れた。そして彼女の自宅のパーティにも行っている。その時のことを手紙でロルカは以下のように書いている。

「この小説家[ネラ・ラーセン]は優しさにあふれ、黒人特有の深い、感動的な憂愁をたたえた、素晴らしい女性です。
 彼女が自宅でパーティを開いたのですが、集まったのは黒人ばかりでした。彼女と行動を共にするのはこれでもう二度目なのですが、それはぼくが大変興味を惹かれているからです。
 そのパーティで白人はぼくだけでした。彼女の家は二番街にあるのですが、そこの窓から明りがついたニューヨークの街全体が見渡せるのです。ちょうど夜で、空にはサーチライトが交差していました。黒人たちは歌い、ダンスに興じました。素晴らしいうたでした。これに匹敵しうるものといえば、アンダルシアのカンテ・ホンドくらいでしょう。
 黒人霊歌を歌った少年がいました。ぼくもピアノを弾きながらうたを歌いました。言うまでもないことですが、みんながぼくのうたを楽しんでくれました……黒人というのはとても素晴らしい人たちです。別れ際にはみんながぼくを抱き締め、女流作家は見事な署名入りの自著をぼくにくれたのですが、ふだん彼女はそんなことはしませんから、なにか特別なことだと他の人たちは考えたようでした。」(イアン・ギブソン『ロルカ』内田吉彦・本田誠二訳、中央公論社、p.288)

1930年のハバナで、ニコラス・ギジェンはラングストン・ヒューズに会った。ヒューズもまたハーレム・ルネサンスの代表的な作家である。1926年、詩集『The Weary Blues』を出している。その後、ヒューズはニコラス・ギジェンの詩集を英語に翻訳する(『Cuba Libre』というタイトル)。

手元にあるラングストン・ヒューズの本は『ジャズの本』(木島始訳、晶文社)で、この「訳者あとがき」には、木島さんがヒューズと手紙や本のやりとりをしていたことが書かれている。 木島さんのところにそのギジェンの英訳書が届いている。

「『自由キューバ』というのは、ニコラス・ギリエンの大版の翻訳詩集で、凸版の絵の入った美しい本であった。わたしは、キューバ革命よりずっと前にキューバの黒人詩人の作品を英訳で読んでいたのだった。」(「訳者あとがき」『ジャズの本』、p.215) 


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5月半ばに入って、すでに梅雨のような天気で、そういえばこの5月は、「五月晴れ」とか「初夏のような陽気」を体験していないような。

2021年5月11日火曜日

マリアーナ・エンリケス(続き)とバキネー/5月10日

マリアーナ・エンリケスの短篇集『ベッドで煙草を吸う危険 Los peligros de fumar en la cama』には1ダースの短篇が入っている。

その1番目、「El desentierro de la angelita」にはバキネーが出てくる。内容はタイトルにある通りで、幼い子どもの死体の掘り返し。

語り手には同居しているお祖母ちゃんがいる。そのお祖母ちゃん、中庭に自分の妹の死体が埋められているというのだ。語り手がたまたま雨の日に中庭を掘り返したら、骨が出てきて、どうやらそれが、その生後数ヶ月で亡くなった女の子、語り手から見たら大叔母の亡骸なのだそうだ。お祖母ちゃんは葬儀の時のことを振り返る。

「(…)[亡くなった子は]花で飾られたテーブルの上に載せられ、薔薇色の布切れに包まれて、大きな枕にもたせかけられていた。すぐに天に昇れるように、ダンボールで翼を作ってやり、口には赤い花びらをいっぱい満たし」た。「一晩中踊りが続き、歌がうたわれた」。(p.15)

こういう子どもの葬儀をプエルト・リコではバキネーという。バキネーは一説によれば、「Back in it」が訛ったものらしい。

プエルト・リコ出身で、パリでは同じカリブ出身のカミーユ・ピサロと知り合ったフランシスコ・オジェルという画家がいて、彼の代表作に『通夜 El Velorio』という大作があるのだが、この絵は幼な子の通夜を描いている。

このオジェルの絵を見たときはっとした。というのは、ガルシア=マルケスの処女作『落葉』で読んだシーンが蘇ったからだ。イサベルという女性が幼な子の通夜に行くシーンが出てきて、テーブルの上に横たえられた子どもが描写される。上に引用したのとだいたい同じだ。

幼な子の死はそもそも大変痛ましく、それゆえに葬儀はその悲しさを吹き飛ばすために、大勢の人を呼び、賑やかに催す。いやそれどころか大騒ぎしなければらならない。涙に暮れていると、幼な子の天使の翼が濡れてしまいますよ、と母親は諭される・・・

文章で読んで、そういうものだろうと納得していたが、その後オジェルの絵で、まさしくそれが再現されていることを発見したのだ。

こういう幼な子の通夜はカリブでは様々な芸術の題材になっていて、ウィリー・コロンには『El baquiné de angelitos negros』というアルバムがある。その表紙は以下のようなものだ。

 

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感染状況は悪化の一途で、先が見通せない。しばらくはこういう状態が続きそうだ。

2021年5月9日日曜日

マリアーナ・エンリケス/5月9日

マリアーナ・エンリケスはアルゼンチンの作家。1973年生まれ。邦訳では『わたしたちが火の中で失くしたもの』(安藤哲行訳、河出書房)がある。

彼女の本で、最近、国際ブッカー賞の最終候補作になったのが以下の短編集。リンクは2021年の4月の記事で、この本の初版は2009年。Anagramaで最初に出たのが2017年で、手元にあるのは2019年の第三版。息が長くていいな。

 

 

彼女の本では、別のを読もうと思ってとっくに届いているのが、以下の伝記もの。シルビーナ・オカンポの伝記でタイトルは『妹』。これは初版が2018年で、手元のは2020年の第二版。

 

  
 
 
他にもアルゼンチンの女性作家で伝記ものがあるのだが、それはまた別の機会に。

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大学の授業は、大学の指示でGWの2週間はオンラインになって、週明けからは再び対面に戻る。
 
東京の緊急事態宣言は3度目。
 
1度目は、2020年4月7日から5月25日まで。
2度目は、2021年1月7日から3月22日まで。
3度目は、2021年4月25日から。
 
不思議にも、昨年の6月から晩秋まではそれなりに余裕があったんですね。

オリンピックは中止以外の判断は考えられないが、中止にしたとしてもワクチン接種が劇的にスピードアップするとは思えない。ゆっくりワクチンを接種していくとなると、え、来年(2022年)もまだこのまま?
 
大学がオーソライズする留学(感染症危険レベルが1にならないとダメ)は当分無理と考えた方が良さそう。

2021年5月1日土曜日

パディーリャ事件から50年/4月終わりから5月にかけて

少しも考えたことがなかったのだが、キューバ関係のメーリングリストで、パディーリャ事件から50年が経過したことを知った。

詩人のエベルト・パディーリャが拘束を解かれ、UNEACのホールで自己批判をしたのが1971年4月27日だったので、それから半世紀が経過したということだ。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」の季刊誌「カサ」の65-66号(1971年)にはその時のパディーリャの発言内容が載っている。

 

 

で、「カサ・デ・ラス・アメリカス」は半世紀にあたって、このパディーリャの発言も含め、当時の文書をまとめて一冊の本にしている。

Diario de Cubaでは、アントニオ・ホセ・ポンテがインタビューに答えている。彼によれば、パディーリャが話しているところをICAICが撮影していて、いまだに日の目を見ていないが、フィルムはあるとのことだ。

なるほど、ニュースで放映してもおかしくない内容だから、撮影が入っていて当然だろう。いずれどこかから流出するのだろうか。

しかしそれにしてもキューバ文化のデジタルアーカイブ化の進展はすごい。Lunes、Ciclón、 Mariel、Orígenesなど、主要雑誌が軒並みインターネットでタダで読める時代がやってきた。このRialta.orgを見ていたら、何日でも過ごせそうだ。

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4月から対面ではじめた授業は、2週間やって再び2週間限定でオンラインになった。その後は緊急事態宣言が延長されても対面に戻す予定。もちろん、あくまで予定。

これほど悲観的な日々はなかなか経験できない。