2026年10月18日日曜日

10月18日

『百年の孤独』ではメルキアデスが不眠症と忘却に苦しむ人々を一気に解決してしまう。一種のデウス・エクス・マキナだという話をしていたら、読んで訳していた文学論の一節にデウス・エクス・マキナが出てきた。そこではデウス・エクス・マキナはまがいものであるから受け入れられないと著者はいう。このデウスを乗り越えることが文学のために取り置かれている領域なのだと。つまりは文学は「神殺し」というわけで、ここでバルガス=リョサのガルシア=マルケス論を思い出す。

それはともかく訳していたデウス・エクス・マキナを乗り越えようと説く文学論では、「不和」というものの素晴らしさが伝わってくる。これを書いた人は、人と不和であることを引き受けている。それはその人が同性愛者である自分の存在を賭けたその結果でもあったと私は読んでいる。

彼はacoplamientoという単語を使う。「連結」とか「結合」という意味で、動詞だとacoplar。この単語には交尾(する)という意味もある。同性愛者であった彼は、その行為の不可能性に向き合わざるを得なかった。彼から見れば、acoplamientoというのは妥協的な機能でしかない。交尾はただの妥協の産物であるということだ。一方で交尾の不可能性を引き受けることは、交尾による繁殖とは逆の反生産に向かうことでもある。何かが生まれることを目指さない、いまそこに存在していることのみしか約束されているものはない。

彼にとって文学とは、自分の存在を預け、そこで実現できるものを試す場所だったかもしれない。しかもときにはそれどころか、彼は文学にしかいられなかったのではないか、そこにいることしかできなかったのではないかと思える。文学にデウス・エクス・マキナなどいてはならないのだ。

2026年10月12日月曜日

10月12日

スマホを見直していたら、ハバナで撮ったユダヤ教会堂(シナゴーグ)の写真が出てきた。比較的新しい写真とはいえ、もうすでに8年も前だった。教会堂の横には建物が付設され、むしろそちらの方が大きい。シナゴーグの正面を撮った後、その横にある、ちょっと洒落たデザインの建物だなと思って一緒に撮ったのだろう。そこはユダヤ教会堂とともに建てられ、かつてはユダヤ人コミュニティセンターだった。

緑色に塗られたそれは1950年代の建築物で、窓の部分に日除(ブリーズソレイユ)がある。これはル・コルビュジエが考案した熱帯向けの建築様式だ。設計したのはアキレス・カパブランカ。でもここが本来の目的であったユダヤ人コミュニティの施設だったのは革命までだったのかもしれない。革命後はユダヤ人も減って(国を出て)、あまり使われなくなり、それが原因で1980年代の終わり頃に、現在のブレヒト劇場・文化センターに転用されたのだろう。

2026年10月7日水曜日

10月7日

状況は複雑になってきている。こういうことが起きる原因は、やっぱり年齢のせいで頭の働きが遅くなっているのがあるだろうし、追いついていない話に追いついた気になってしまっていて、それに気づいてまたしても焦ったりとか、あまりよくわからないままだ。

パク・ソルメは『未来散歩練習』でこんなことを書いている。「朝の七時で、もう一度寝るのは無理で、テーブルの前に座って本を読んだ。今回持ってきたのはロベルト・ボラーニョの短篇集だった。読んでいるうちにふと、今は連絡の途絶えた友達が、この本の翻訳者と友達だと言っていたことを思い出した。アメリカのボラーニョ翻訳者と日本のボラーニョ翻訳者、イタリアやドイツ、そして韓国のボラーニョ翻訳者が一堂に会するとしたら、彼らはスペイン語で会話するんだろうか。まずは英語で最初のあいさつをすることになるだろうか。『2666』に出てくる翻訳者たちのように友情を分かち合い、秘密を分かち合うことができるだろうか。」(p.89)

この小説はこういうふうに、すいすい進むのに抗うような、行きつ戻りつスタイルである。原型には短篇集『もう死んでいる十二人の女たちと』に入っている「じゃあ、何を歌うんだ」というのがある。1980年の光州事件や1982年の釜山のアメリカ文化院放火事件のこと。そういうなかにメキシコやチリの若者たちの抵抗運動にさらりと言及したりしている。

こんなふうに書物やそこに書かれているパッセージ、そして未知の人との出会いを繰り返しながら、そういうのに混じり込んでくるように授業の準備、会議で話し合っていることが整理がつかないまま頭の中で混濁していて、状況が複雑になってきているように思う。すべてを分からない状態のまま形にして、その時を待つ、みたいにはしておけないという事柄も少なくない。

とくに最近では待っていられないことが多い。それがなんであっても、まだその時が来ていないので待ちましょう、とはなかなか言えない。さっさとAIに聞いて片付けて仕舞えばいいのに、あるいはせめて片付け方くらいは相談して仕舞えばいいなどと思ってしまう時もある(いわゆる業務的なものだが)。

途中にあるという感覚は大切だが、切り替える感覚も持たないと、いつまでもひとつのところに滞留してしまい、ジャンプできない感じ、というか、ジャンプをしてはいけないのだ、留まるのだ、という自縛にもつながる。これはこれで辛くなる時がある。難しい。おい、こんなに難しいのか、俺、と呆れてしまうくらい、何もかもが難しい。

今年のノーベル文学賞、スペイン語圏ならエレナ・ポニアトウスカを希望。


2026年10月4日日曜日

10月4日

春先には、この夏の8月23日から9月5日にかけてバンクーバーとメキシコシティに行こうと計画して夢を膨らませていた。行ってみたい美術館や公園や博物館も調べていたのだが、結局断念せざるをえなかった。それでその悔しさを晴らしに9月にソウルに行ってきた。ポンピドゥーセンター・ソウル館でキュビズム展を、国立現代美術館でソ・ドホ展をやっていた。植民地博物館の展示にも興味があった。そのどれもを満喫して、毎回行っているリウム美術館も行って良かった。はじめての仁川空港発着便で、ソウル駅でのチェックインにもトライした。帰国したら、東京都現代美術館で台湾の近代美術展をやっていていてもたってもいられなくなりすぐに行った。ポンピドゥーでは韓国の前衛芸術家の展示も見ていた(李箱[イ・サン]や朴崍賢[パク・レヒョン]とか)のと繋がる。日帝時代の芸術家たち。都美では多田美波展やコレクション展も見て、いつものように最後は消化不良。

というところまで来て、ある研究会に出たら、なんと驚いたことに、ソニア・ドローネー、ブレーズ・サンドラールの『シベリア横断鉄道とフランスの小さなジャンヌへの散文』(1913年)が触れられていた。フランスの前衛芸術の一端として。この作品はソウルでドローネーのキュビズム絵画の横に並んでいて、ぱっと見ではよく分からないままだった。長細い絵と詩が並列している作品だったと思う。もっときちんとみておくべきだった。

思い出したが、夏の初めに瀧口修造展(アーティゾン美術館)にも行った。

2026年8月26日水曜日

8月26日

メキシコの出版社エラ社(Ediciones Era)が事業を縮小すると発表した。出版社のHPに告知文が載っている(2026年8月18日付)。曖昧な書き方なのでよくわからないけれど、これまで66年間に出してきた本は引き続き出版を続けるが、新しい本の編集刊行はストップするということかもしれない。エレナ・ポニアトウスカ(『メキシコの1968年』藤原書店)やホセ・エミリオ・パチェコ(『砂漠の戦い』は集英社文庫の『ラテンアメリカ五人集』に入っているはず)はエラ社だし、ガルシア=マルケスの『大佐に手紙は来ない』もメキシコではここが版元だった。ラテンアメリカの本屋に行くとアルファグアラやセイクス・バラルの本が目立つような気がするが、前者はペンギン・ランダムハウスの傘下で、後者はプラネタの傘下。メキシコのエラ社の本は手に取りやすい大きさでソフトカバーで、いい本しか出していない印象があった。告知文の「世界は変わった。パンデミックはメキシコの書物の生態系を根こそぎ変えた」という表現に着目せねば。



2026年8月24日月曜日

8月24日

『百年の孤独』セカンドシーズン第4話の最後は、途中でなんとなく予想がついたが、レメディオスの昇天だった。1時間の中に多くのエピソードを詰め込んでいる。鉄道敷設、フェルナンダの父の死(死体のクリスマスプレゼント)、メメとホセ・アルカディオの留学(二人揃ってミッション系の学校に進学する)、ヘリネルドの失恋(アマランタに告白して失敗)、バナナ会社の進出(ハーバート氏とブラウン氏)、マグニフィコ・ビスバルと孫の惨殺(名前は出てこず、バナナ会社の警備員に撲殺される)、レメディオスに恋した男の事故死(風呂場を覗いて転落死)、レメディオスの昇天(白いシーツに包まれて、垂直に浮かび上がって消える)といったあたりか。アウレリャノ大佐が「パナマ」と口にする。セットは豪勢でエキストラもたくさんいるし、色彩は豊かで音楽も鳴り響くから、映画館で見るともっと迫力があるだろう。映画館で一挙上映とかやってほしい。第5話はストライキやメメの帰還があるだろう。ベルギー人ガストンがどう出てくるか。

2026年8月23日日曜日

8月23日

『叛逆のサウンドトラック』の監督は『シャドー・ディール 武器ビジネスの闇』と同じ人だった。ヨハン・グリモンプレ。

『マイ・リトル・クィーンズ』の監督はクラウディア・レイニケ。この人はペルーに生まれてスイスで育った人。『アイム・スティル・ヒア』と展開が似ているので怖い。寅さんみたいなさすらいの男が二人の娘と事実上最後の再会になる数日を青春映画っぽく撮っているが、その男がなぜちゃらんぽらんなのか、なぜホラを吹くのか。ただのダメンズじゃない。ちょうど映画が取り扱う1990年代の初頭、毛沢東主義のセンデロ・ルミノソがJICAの技術者を殺害した事件があった。夜間外出禁止令の時間帯に外に出ることの怖さ。『ボサノヴァ 撃たれたピアニスト』も確か夜間にフラッとサンドイッチか何かを買いに出てしまってそれっきりになった話だった。アウレリャノ・ホセも夜間外出禁止令を破って外にいて撃ち殺された。

Netflixの『百年の孤独』セカンドシーズン第3話は、フェルナンダとホセ・アルカディオ・セグンドの結婚から鉄道敷設直前まで(12章、13章あたり)。マコンドではすでに映画館はあって、『ジキル博士とハイド氏』を上映している。フェルナンダがなぜ夫の放蕩生活や愛人問題を受け入れたのかが焦点だ。フェルナンダは一度はブエンディア家を出ていく決心をする。しかしそこにウルスラがあらわれる。ウルスラはフェルナンダの妊娠だけでなく、生まれてくるのは男だとも予言し、まともなブエンディア家の男を一緒に育てて教皇にしましょうとなだめ、それにフェルナンダは心を打たれるのだ。敬虔なカトリック信者であるフェルナンダとしてウルスラにそこまで言われては出ていけない。ウルスラにこうして権威づけされたフェルナンダはブエンディア家に君臨することになる。