2024年9月28日土曜日

9月28日 近況

フェルナンド・バジェホ『崖っぷち』(原作 El desbarrancadero, 2001)を刊行したのは2011年で(松籟社)、つまり原作刊行から10年が過ぎていたわけだ。その時は、まだ原作が出たばかりというような感じがあった。翻訳の際にはフランス語版(タイトルはEt nous irons tous en enfer翻訳者はGabriel Laculliさん。刊行年は2003)を参照したが、英訳は存在しなかった。それから13年が過ぎて、2024年に英訳が刊行された。そしてその英訳(The Abyss)が、2024年全米図書賞の翻訳部門のロングリストに入った。翻訳者はYvette Siegertさん。まだ英語版は未入手だが、どんなふうに翻訳されているのかを見てみたい。出版社はNew Directions Publishingで、多和田葉子さんの『献灯使』の英訳The Emissary(原作2014、英訳2018)を出しているところで、この作品は2018年にこの賞を受賞した。

上のリンクは全米図書賞のHPだが、そこにはこの作品の概要が書かれている。「バジェホはセリーヌ、トマス・ペイン、そしてマシャード・デ・アシスの後継者である」とある。

セリーヌはまあそうかな、と思うが、米国18世紀・独立期の社会思想家であるトマス・ペインと言われてもピンとこない。アメリカ文学史的にはそうなのだろうか。無神論者で埋葬場所も見つからなかった人らしい。それからブラジル19世紀作家のマシャード・デ・アシス。これも一瞬意外な気がしたが、『ブラス・クーバスの死後の回想』とは繋がりがありそうだ。

バジェホ『崖っぷち』以外で、2024年のロングリスト(翻訳部門)ですでに日本語訳があるのは、楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』(三浦裕子訳、中央公論新社、2023)かな。

ラテンアメリカ作家では、サマンタ・シュウェブリン『七つの空っぽな家』(見田悠子訳、河出書房新社)の英訳が受賞(2022)。

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ユダヤ文化事典』(丸善出版、2024年7月31日)で「新大陸のスペイン・ポルトガル語圏文学」の項目を担当した。これと関連して、9月16日世界文学・語圏横断ネットワークのパネル「ユダヤ文学の語圏横断性」に参加し「ラテンアメリカのユダヤ文学」について報告した。



2024年9月9日月曜日

9月9日 近況 メキシコからの絵葉書

メキシコから絵葉書が届いた。絵葉書をもらうなんて果たして何年ぶりだろうか? 最近では自分が海外に行った時に記念に自分宛に出して、どれくらいの日数で着いたのかを知って驚いたりするくらいのことしか記憶がない。

もらった絵葉書は、メキシコシティの中央郵便局(Palacio Postal)から出されたもので、消印は8月16日。たぶん2週間くらいで着いているのではないだろうか。とすると、これは30年ほど前とそんなに変わらないかもしれない(当たり前と言えば当たり前だが)。最近海外から届くものといえば本ぐらいしかないが、葉書もなくならずに届くのだ。

メキシコシティの中央郵便局は、べジャス・アルテス(Palacio de Bellas Artes)の向かい、ラテンアメリカタワーもすぐのところだ。アラメダ公園は滑って転んでしまいやしないかと思うくらいつるつるに磨かれている。この辺は目をつぶってでも歩いて回れるくらい知っている(つもりだ)。

メキシコでこの近くに集合してカテドラル見物をしたことがあり、その時は地下鉄イダルゴ駅で降り、朝早かったので朝ごはんを食べた。米国の簡易食堂(ダイナー)のようなのがどこにでもあった。

朝のメキシコシティは確か1年のどんな時でも涼しいか寒く、晴れていて、どんな楽しい長い一日があるのだろうと思ったものだった。というかそういう良い思い出にしておきたい。











2024年9月2日月曜日

9月2日 近況


前便の続きで、小池東京都知事の記者会見の表現は、政府答弁書と違って本人の表現のように見えるが、すでに「答え」が用意されている。

昨年(2023年8月18日)の記者会見で、追悼文を送付しないことについて質問されると、

「私は慰霊大法要において都知事といたしまして、先の関東大震災、また大戦で犠牲となられた全ての方々への哀悼の意を表しております。震災による極度の混乱下での事情で犠牲となられた方々も含めて全ての方々に対しまして慰霊する気持ちを改めまして表すということで、私自身は対応してまいったところでございます。これは以前もお伝えをしている通りであります。以上です。」(下線引用者)

今年の8月23日の記者会見では、「虐殺についてその事実をお認めになるか、知事のご認識、お考えを聞かせください」と問われ、

「これについては、様々な研究や様々な文献などお調べになっているのかと思います。それについては、それぞれが研究されておられることだと思いますが、私自身はこの、よくこの慰霊の追悼文を出さないのかということを問われているところでございますけれども、毎年、この東京都の慰霊堂で開かれる大法要で、震災による極度の混乱下での事情で犠牲となった方も含めて、全ての方々に対して慰霊する気持ちを改めて表しているところでございます。じゃあ読売さん。」

翌週の8月30日の記者会見では、

「これはもう何度もお答えしておりますけれども、慰霊大法要を行います。都知事として先の関東大震災及び大戦で犠牲となられた全ての方々への哀悼の意を表させていただいております。震災による極度の混乱下での事情で犠牲となった方々も含めまして、全ての方々に対して慰霊する気持ちを改めて表すということで私自身は対応してきたわけでございます。この考えは今後とも変わらないということです。」

虐殺された人のことは、常に「極度の混乱下での事情で犠牲となった」とする。記者会見の動画を見てみると、この部分を答えるときには原稿を読んでいる。つまり答えが用意されている。

8月30日では虐殺についての研究について、「その様々な研究の中には虐殺はなかったという研究も含まれるんでしょうか」という質問に対して、

「様々な研究があるということです。よろしいですか。今日は以上です。」

つまり、「虐殺はなかった」という研究が含まれて「いない」とは言っていない。記者会見から判断すると、2024年の今年から、「虐殺がなかったという説もあり」に傾いてきている。

虐殺という表現を避けて「極度の混乱で犠牲になった方」と言い、虐殺について「様々な研究がある」といい、そこには「虐殺がなかったとする研究」も含まれている。

ちょうどチリ映画『エターナルメモリー』を見たところだ。


2024年8月31日土曜日

9月1日を前に 1923-2024

2017年以降、この2024年も小池百合子(東京都知事)は「9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に追悼文を送らない。

この流れと同調し、より深刻な事態だと考えられるが、関東大震災時の朝鮮人虐殺についての政府の考えについては、岸田文雄(総理大臣)の答弁書(2023年10月31日)を参照しておく必要がある。(他にも似たような答弁書がいくつか出てくる)。

これを読むと政府の答弁が巧妙に作成され、何も答えないように見せながら、実は虐殺を否定しようとしていることがわかる。

石垣のり子(参議院議員)は質問主意書の四で、国会図書館その他に歴史的な事実を検証した資料が残っていること、裁判の判例があることを政府が把握しているのかを問うている。これはつまり、まず把握しているかどうかをイエスかノーで答えられる問いである。

それに対して岸田は、そういう資料や判例の「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難である」と答えている。

資料や判例の「具体的に意味するところが明らかではない」とは? はっきり言って論理的に通らない答えで、話をまぜっ返して言い逃れをしているとしか思えない。こんな答弁を真面目に解釈しても意味がないかもしれない。

しかし資料や判例の意味するところとは、殺害が歴史的事実であるということにほかならない。したがって、その「意味するところが明らかではない」という答えは、短いけれども実に雄弁である。

お答えするのが困難というのは、文字通り解釈すれば答えられないということで、「具体的に意味するところ」が虐殺を指すわけだから、それに対してお答えすることはできないということだ。答えたくないと言いたいが、そうも言えないので、困難であると言っている。

「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えすることは困難である」という表現は、質問主意書六に対する答えとしても使われている。

「お尋ねの『歴史の検証』の具体的に意味するところが明らかではないため、お答えすることは困難である。」

ここで質問者の言う「歴史の検証」とは、虐殺の実態を解明するための検証のことで、それを行うべきかを問うている。ここも
イエスかノーで答えられる。

その「検証」の「具体的に意味するところ」が「明らかではない」とは?

「歴史の検証」がどういう意味かわからないということなのか?そんなわけはないから、「歴史の検証」はできない、したくないと言っているとしか思えない。

虐殺やその検証に話が及ぶと、答えられない、とくる。

2023年10月の段階で、政府は虐殺は明らかではない、またあったかどうかを含め、その検証をしたくないと主張をするに至っている。検証されることを恐れるということは否定したいということだ。

「虐殺があった」という時代から、「虐殺があったことは明らかになっていない」時代に移った。次はどうなるか。おそらくこの答弁書の内容「も」教科書に載せようとする方向に進むことが予想される。

その後のことは『百年の孤独』のバナナ虐殺をめぐるエピソードに書かれている。


加藤直樹『九月、東京の路上で』ころから、2014年




こういう答弁書を作成するのは役人なのだろうが、論理的にもわけのわからない答えを用意することは、もし仮にも論理的に物を考えようとする人間ならば、精神的に相当辛いだろう。思考を停止して、ただ適当に作文して勤務時間を過ごしているのかもしれない(自分なら後者だ。もしかすると、してやったりの答えを作ったと思うかもしれない)。

作文ができなければパワハラされる場合もあるだろう、怒鳴られたり、恥をかかされたり、上下関係のあるところではいくらでもそんなことがある、上に立っている人間は上に立っているだけで、いつの間にかそういうことをやる。

民主的な社会でさえも、そんなふうに振る舞う人間が権力を持つことがある、選挙で、真に公正な選挙で選ばれることもある。

どんな風通しの良さそうな場所でも、どれほど自由な対話がありそうなところでも、一度権力が生まれると、蛆虫のようにそんな上役が湧いてくる。

そんな蛆虫に自分もいつかなってしまうかもしれない、恐ろしいことだ、ああ、人が、自分が、恐ろしい。

蛆虫なら踏み潰してしまえばいい、だが人間は、そうやって人を差別し、殺し、死体を焼いて埋めておいて、具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難であると言うようになるのだ。

「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難である。」

Es difícil responder a esta pregunta, ya que el significado concreto no está claro.

権力者にしか言えない表現だ。質問者の能力が低いとでも言っているように聞こえる。

いや、人殺しが自分の罪を認めたくない時にも言える表現だ。

2024年8月26日月曜日

8月26日 近況

終わったイベントを告知するわけではないのだが、以下のイベントでコメンテーターを務めた



ブラジルの日系人、朝鮮民主主義人民共和国の美術、砂川闘争などなどということで自分の専門地域からも学問分野からも遠かったのだが、想像したのよりも多くの共通点があり、とても有意義だった。5時間半に及ぶ、内容の濃い、それぞれの発表が交錯した研究会。

以下、事前にページをめくった文献を備忘録としてあげておく。

洪善杓『韓国近代美術史: 甲午改革から1950年代まで』稲葉 真以 、米津 篤八訳、東京大学出版会、2019年
金 英那『韓国近代美術の百年』三元社、2011年
古川美佳『韓国の民衆美術 抵抗の美学と思想』岩波書店、2018年
川名 晋史『在日米軍基地 米国と国連軍、「2つの顔」の80年史』中公新書、2024年
高原太一「「砂川問題」の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に―」Quadrante: クァドランテ、2019年
オスカール・ナカザト『ニホンジン』武田千香訳、水声社、2022年
丹羽京子『タゴール』清水書院、2016年(新装版)
武内進一・中山智香子編『ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ アメリカからグローバル世界へ』東京外国語大学出版会、2022年
太田昌国『極私的60年代追憶 精神のリレーのために』インパクト出版会、2014年
太田昌国「『反カストロ文書』を読む」現代思想、2008年5月臨時増刊(フィデル・カストロ特集)
インディアス群書編集部「『インディアス群書』通信13」、2005年

しかし全部21世紀に入ってから出た本ばかり。そういう時代なのだな。

今年の3月にソウルへ行って美術館をいくつか見て、そのこともどこかで整理しておく必要があるのにほったらかしになっている。韓国美術に関する本はその基礎的文献で貴重だ。

--8月27日追記--
上記の『在日米軍基地』の30ページに朝鮮戦争時の国連軍への参加国が列挙され、その中にキューバも入っている(地上軍)。

2024年7月31日水曜日

7月31日 近況

更新しないでいると、更新の仕方を忘れてしまいそうだ。

久しぶりにキューバ文学の本が届いた。





表紙の写真は日本人でNHKの腕章をつけている。カストロの演説を間近から撮ろうとしている。でもこれは加工写真で、クレジットによればキューバ人アーティストの作品である。本の内容はこれまでに書いた試論をまとめたものだが、検閲の歴史ということで、文学に限らずアートのことも書かれている。

ラテンアメリカ文学を旅する58章』が明石書店から出たのがもう2カ月前。奥付刊行日は2024年5月30日。予定では2024年4月刊行を目指していたが、こういうのは遅れるもので、原稿が揃い、作業を進めていきながらだんだん春になり、さてではいつを目標に出そうかと編集者と相談し、ラテンアメリカ学会の定期大会が5月25日・26日に慶応大学(日吉キャンパス)で開催されることになっていたので、ではそこで見本だけでも並べようということでGW明けに作業を終えた。

ほとんど忘れていたのだが、6月に『百年の孤独』の文庫が出る話だったので、まあ渡りに船という感じで、今大きな本屋では、明石書店の《エリアスタディーズ》が文学の棚にラテンアメリカ文学関係の類書と並んで置いてある。帯がないので、本を手に取って中身を見てくれないと、ラテンアメリカ文学ガイド本であることが伝わりにくいかもしれない。じんぶん堂にも短い宣伝文を書いた。あと外大のHPでも紹介した。

こういうシリーズ本は書評が出にくいらしい。編集者は文芸誌にも見本を送ってくださっているようだが、書評が出たという話は聞かない。今のところ、先日の図書新聞(2024年7月27日、3649号)の2024年上半期読書アンケートで、崎山政毅さん(ラテンアメリカ思想史)が紹介してくださったのがあるだけだ。

2024年4月1日月曜日

2024年4月1日 差別との果てしないたたかい/図書新聞3634号

ブログの更新をしている余裕がないまま、何ヶ月も過ぎてしまった。誰でもそうだから、あえていうのも馬鹿馬鹿しいけれども、同時進行でことが進んでいる。

その日ごとに優先順位を決めて、すぐに片付けるべきことはすぐ片付け、「片付ける」という表現が適切でないような時間を要する事柄に対しては、それに取り組むときとそうでないときとをスケジュールと睨めっこして時間を作り出していかないと、結局何をやっているのかわからなくなってしまう。

そんな甘い自分の状況などはどうでもいいことではある。

苛烈な状況に置かれた弱者は日常の雑事に追われながら、差別、マイクロアグレッション、ハラスメントに対して声を上げ続けなければ状況は変わらないが、といって声を上げることすらも不可能で、立場をおとしめられたまま、不遇に人生を終えていかざるを得なかった人たちのことを思わずにはいられない。

差別は巧妙に行われる。差別する人が差別する人に対して言う、「差別するつもりではない」という表現が、「これを差別と取られてしまうと、どうしようもないから言わせてもらうんだけど」という表現が、どれほど差別の巧妙さを示していることか。

そこがどんな小さな組織であれ、組織的に差別を行うことまでをやってのける人は少ない。いないとさえ言っていい。むしろ全員が公平であることに差別者はこだわる。そして差別者は、自分が差別者ではないことを証明しようと、民主的な決定にこだわりながら、つまり「みんなで話し合って決めよう」と言う表現を使いながら、差別者が元々構想している組織のあり方への賛同意識を構成員の中に醸成していく。時に被害者を装いながら。

実は、差別者はそうした術に長けているのではない。差別を表立って行うことを避けようとしていくうちに、結果的に内なる差別心を自分の中で正当化してしまうのである。「差別しているのではない」という意識がその人の差別心を逆に正当化する。

差別というのは常に自分のなかにある。あらゆる言動は差別的になる可能性がある。そうした当たり前が、「差別しているつもりはない」という意識によって当たり前でなくなってしまう。これは本当に怖いことだ。

他人に対して無性に優しくしようとすること、他人に対して丁寧に接しようとすること、他人に対して理解を示そうとすること、これらの一つ一つにはマイクロアグレッションが潜んでいる。パターナリズム的な行動全てがマイクロアグレッションかもしれない(ああパターナリズム、ここからどうやって自由になれるのか?)。加害者になることへの意識はどんな時にも持っておかねばならない。

ある犯罪が行われ、複数の容疑者が浮上した時、一番怪しいとされるのは、その日に限って日頃と異なる行動をとっている人物である。

差別その他の行動もそういうものだ。自分が日頃とは異なる行動、反応をしてしまうとき、それは危険信号だ。今までの自分の行動に照らして、今回取ろうとしている行動はどう見えるか。常日頃から律していかねばならない。

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『図書新聞』3634号にレイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(安藤哲行訳、インスクリプト)の書評が掲載された。

そこで書いたことだけれども、アレナスの5部作「ペンタゴニーア(Pentagonía)」に対しては、これまで「5つの苦悩」という日本語が当てられてきているが、私なりには「5つの断末魔」と解釈している。