2025年7月5日土曜日

7月5日

大崎清夏は「ハバナ日記」(『目を開けてごらん、離陸するから』リトルモア)で、2018年2月1日から10日にかけて、トロント経由で行ったハバナへの旅について書いている。「ブックフェアの人混みに揉まれ、ケティの後をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているうちに、スペイン語がわからないことに、というより、何もわからないまま誰かのあとをついていくしかないことに、いい加減、気持ちがばくはつしそうになってきた。さらに、実はアラマルを水曜日に引き払わなければならないことがわかり、それって今日じゃん。いつ行くの、次はどこに泊まればいいの?とケティに詰め寄ってしまった」(188から189ページ)。そして「ダニエルとカロリーナと一緒に詩の家に戻ると、扉が閉まっていて中に入れなかった。ええっ、スーツケースは?明日までスーツケースとはお別れだった。諦めて、ダニエルとタクシーに乗ってベダードに戻り、民泊の自分の部屋(があるって素敵!)でシャワーを浴びて、なんとか手持ちの服をやりくりして、グレーのタンクトップと、こういうときのために持ってきた大ぶりの三角ピアスでパーティー風に着替えた」(194から195ページ)。



2025年7月4日金曜日

7月4日

ガルシア=マルケスの語りの声は、政治制度に対しても、覇権的権力の倫理的な基盤に対しても、不遜であることで知られている。しかしその不遜さは、男性が女性に対して有する特権の神話を解体するにはいたらない。すなわち、男性性を能動的な性、攻撃性、知的探求、公的権威と並び立たせ、女性性を介護者や家事労働に矮小化するような伝統的ジェンダー階層は、彼の世界では自然化された要素である。とはいえ、逆説的なことに、彼の作品の女性たちが服従を許さない性格を持っていることも、彼のナラティブの際立った要素である。ガルシア=マルケスの女性たちは、本来的に従順ではないし、喜んで言いなりになっているわけではない。女性たちが家父長制的な期待を破ろうとする姿が描かれることで、ガルシア=マルケス世界にははからずも、カリブとラテンアメリカにおけるジェンダーと権力に内在する矛盾があらわれているのだ。(Nadia Celis-Salgado, The Power of Women in Gabriel García Márquez's world)

2025年7月3日木曜日

7月3日

柴崎友香は『帰れない探偵』(143-144ページ)で、「時間が時間の速度で過ぎた。静寂とはこういう時間のことをいうのか(後略)」「生まれて最初に聞いた言葉、話した言葉、友人たちと毎日どうでもいいようなことをしゃべり続けていた言葉は、わたしの中から消えない。長い間会っていない友人たちの声が、何十年も前に交わした言葉が、今もときどき聞こえてくる」「テラさんがあっというまに彼らの音楽に馴染んでいくのと対照的に、リズム感も運動神経もよくないので、わたしの太鼓はたどたどしかった。それでも、そのたどたどしいリズムに他の楽器の音が応答するように音楽が紡がれ、歌が響き、観客たちが声を上げた」と書いている。管啓次郎は朝日新聞(7月2日夕刊)で、ル・クレジオの『歌の祭り』を引きながら、パナマのワウナナ族の儀式について書いている。その儀式では「男も女も、子供も老人も、宙に吊るされた丸木舟のまわりに集い『祈りのように、音楽を奏でる』」「この踊りに『詩』がともなうと言うのではないが、その根拠は潜在的には言語であり、神話だ」


2025年7月2日水曜日

7月2日

「アレッホ・カルペンティエールは、みずからアメリカ大陸の偉大な小説家になることで、ラテン・アメリカの文学と芸術の資本設立における主導者、プロモーター、立役者となっている」「ラテン・アメリカ文学の特徴は今日でもなお、国家空間ではなく大陸空間のただなかにおける文学資本の創設という点にある。言語的・文化的統一のおかげで--政治的亡命によって知識人が祖国を離れ、大陸中を移動したことにも恵まれて--一九七〇年代初めのいわゆる「ブーム」の作家グループ(ならびに出版社)の取った戦略は、前提されたラテン・アメリカ的「性質」の産物である大陸的文体的統一を主張することであった」(以上は、パスカル・カザノヴァ『世界文学空間』岩切正一郎訳、297ページから299ページ)。岩切正一郎はフランス文学者・翻訳者で詩人。そしていま国際基督教大学の学長でもある。ここを参照してわかるけれども、今年の入学式の挨拶では、ハンナ・アーレントの言葉「思索はすべて孤独のうちになされる」を引用している。それ以外ではこんなことも言っている。「もともとサイエンスは『知ること』、アートは『技術』を意味する」(大意)。私自身もかつて大学でこれと同じようなことを聞き知ってきたし、それを今でも言うことが多いので、自分とつながっているな、と思ったり。ひとりの人間にできることは、孤独の中で、ある書物からある書物へと思うままに読み、その途中で授業や雑談で出てきた話が蘇り、へえ、あのときの話ってこういうことだったのか、おや、つながっているじゃないの、と感動したりしながら、またひとりの読書に戻っていくことだ。

2025年7月1日火曜日

7月1日

「その名が示すとおり、アマランタ・ウルスラはウルスラの子孫であるだけでなく、大叔母アマランタの後継者でもあり、アマランタの遺産には結婚への公然たる抵抗と、女性のエロティックな欲望の抑圧に対する密かな反抗が含まれている。ウルスラが近親相姦の断固たる反対者であった一方、アマランタはその祭司のような存在で、ブエンディア家の男たちに家系内の女性への欲望を育ませた者であった。アマランタとは異なり、また婚外の恋愛関係のために幽閉生活を強いられた妹メメとも異なり、アマランタ・ウルスラは結婚という枠のなかで自らの情熱を実現することに成功する」(Nadia Celis-Salgado, The Power of women in Gabriel García Márquez's world)

 

2025年6月30日月曜日

6月30日

Shu-Mei Shih(史書美)の論文「Comparison as Relation」(関係としての比較」)。誰か日本語に訳してほしい。グリッサンの『関係の詩学』を踏まえている。彼女は「The Plantation Arc(プランテーション・アーク)」を提起。これは西インド、アメリカ大陸の南、東インドを同じ構造で考えること。奴隷制のもと組織化されたプランテーション・システムの構造を出発点に、それぞれの地域で相互に関係しているが異なる一つのルートをたどること。関係としての比較。柴崎友香『帰れない探偵』からは「昔の地図が、きれいすぎる気がした。(中略)もし、書き換えられているとしたら、高い技術があり、周到に行われている」(19)、「資料は、よく整理されていた。むしろ、整理されすぎている気がした」(63)など。記録の書き換え、消去、記憶の不確かさ。もとに帰れない探偵。消えてしまった探偵の家への路地。うっすらと恐怖が立ち上がってくる。また「誰かが話すそのとき、その人が見ている光景。いつか確かに見た光景。(中略)わたしはそれが見たいのに、ずっと見ることができない」(71)から、当事者と語り手の距離感。

今日は6月30日。

2025年6月29日日曜日

6月29日

「今から、十年くらいあとの話」はスペイン語では、Diez años después esto había de ocurrirだろうか。「世界の表面がぺりぺりとめくれて、まったくおなじなのに、すべてが光り輝いた。眩しくて、耳の奥、頭蓋骨の中が、痛かった」以上、 柴崎友香『帰れない探偵』46ページなど第二話。「ガルシア=マルケスとグローバル・サウス」(Magalí Armillas-Tiseyra)では『百年の孤独』から、「開拓者になるのに、カリブ海もアフリカも大して変わらない」の引用。ベルギー、レオポルド2世、そしてガストン。スワローズは2試合連続零封。この暑さでは6月のデーゲームも難しい。先週末でも恐るべき暑さだった。ペルー料理店でセビーチェなどを食べてピスコ(pisco)やチルカーノ(chilcano)。チルカーノはピスコをジンジャーエールで割ったもの。