2024年4月1日月曜日

2024年4月1日 差別との果てしないたたかい/図書新聞3634号

ブログの更新をしている余裕がないまま、何ヶ月も過ぎてしまった。誰でもそうだから、あえていうのも馬鹿馬鹿しいけれども、同時進行でことが進んでいる。

その日ごとに優先順位を決めて、すぐに片付けるべきことはすぐ片付け、「片付ける」という表現が適切でないような時間を要する事柄に対しては、それに取り組むときとそうでないときとをスケジュールと睨めっこして時間を作り出していかないと、結局何をやっているのかわからなくなってしまう。

そんな甘い自分の状況などはどうでもいいことではある。

苛烈な状況に置かれた弱者は日常の雑事に追われながら、差別、マイクロアグレッション、ハラスメントに対して声を上げ続けなければ状況は変わらないが、といって声を上げることすらも不可能で、立場をおとしめられたまま、不遇に人生を終えていかざるを得なかった人たちのことを思わずにはいられない。

差別は巧妙に行われる。差別する人が差別する人に対して言う、「差別するつもりではない」という表現が、「これを差別と取られてしまうと、どうしようもないから言わせてもらうんだけど」という表現が、どれほど差別の巧妙さを示していることか。

そこがどんな小さな組織であれ、組織的に差別を行うことまでをやってのける人は少ない。いないとさえ言っていい。むしろ全員が公平であることに差別者はこだわる。そして差別者は、自分が差別者ではないことを証明しようと、民主的な決定にこだわりながら、つまり「みんなで話し合って決めよう」と言う表現を使いながら、差別者が元々構想している組織のあり方への賛同意識を構成員の中に醸成していく。時に被害者を装いながら。

実は、差別者はそうした術に長けているのではない。差別を表立って行うことを避けようとしていくうちに、結果的に内なる差別心を自分の中で正当化してしまうのである。「差別しているのではない」という意識がその人の差別心を逆に正当化する。

差別というのは常に自分のなかにある。あらゆる言動は差別的になる可能性がある。そうした当たり前が、「差別しているつもりはない」という意識によって当たり前でなくなってしまう。これは本当に怖いことだ。

他人に対して無性に優しくしようとすること、他人に対して丁寧に接しようとすること、他人に対して理解を示そうとすること、これらの一つ一つにはマイクロアグレッションが潜んでいる。パターナリズム的な行動全てがマイクロアグレッションかもしれない(ああパターナリズム、ここからどうやって自由になれるのか?)。加害者になることへの意識はどんな時にも持っておかねばならない。

ある犯罪が行われ、複数の容疑者が浮上した時、一番怪しいとされるのは、その日に限って日頃と異なる行動をとっている人物である。

差別その他の行動もそういうものだ。自分が日頃とは異なる行動、反応をしてしまうとき、それは危険信号だ。今までの自分の行動に照らして、今回取ろうとしている行動はどう見えるか。常日頃から律していかねばならない。

--------------
『図書新聞』3634号にレイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(安藤哲行訳、インスクリプト)の書評が掲載された。

そこで書いたことだけれども、アレナスの5部作「ペンタゴニーア(Pentagonía)」に対しては、これまで「5つの苦悩」という日本語が当てられてきているが、私なりには「5つの断末魔」と解釈している。

2023年11月14日火曜日

11月14日 カヴァフィス

カヴァフィスの詩集は2種類の翻訳が出ている。

『カヴァフィス全詩』池澤夏樹訳、書肆山田、2018年
『カヴァフィス全詩集』(第二版)、中井久夫訳、みすず書房、1991年


とある人は「若者がジョン・ダンとカヴァフィスを知らないと国の未来は暗い」と言っていた。

「蝋燭」という詩のスペイン語版はここに載っている。池澤夏樹によると1893年8月に書かれた詩。

Los días del futuro están delante de nosotros
como una hilera de velas encendidas
-velas doradas, cálidas, y vivas.
Quedan atrás los días ya pasados,
una triste línea de veles apagadas;
las más cercanas aún despiden humo,
velas frías, derretidas, y dobladas.
No quiero verlas; sus formas me apenan,
y me apena recordar su luz primera.
Miro adelante mis velas encendidas.
No quiero volverme, para no verlas y temblar,
cuán rápido la línea oscura crece,
cuán rápido aumentan las velas apagadas.


未来の日々はぼくたちの前にある
火の灯った一列の蝋燭のように
黄金色の、熱い、生きている蝋燭たち。
ぼくたちの後ろ側に過ぎ去った日々がある
消えた蝋燭の悲しい列。
いちばん近い蝋燭はまだ煙が出ている
冷たくなって、溶けて、折れ曲がった蝋燭たち。
その蝋燭は見たくない。その形状にぼくは辛くなる
最初に放っていた光を思い出すと辛くなる。
前にある、ぼくの火のついた蝋燭を見る。
振り返って、見て震えたくない。
暗い列はどれほどの速さで育つことか
消えた蝋燭はどれほどの速さで増えることか。




----------
一ヶ月に一回ぐらいしか更新できなくなっている。そのあいだにも思うことはあるのだけれども書けない内容の方が多い。こういうのは結局ストレスになってよくない。カモフラージュしてでも書くべきなのだろうなあ。小説とか詩とかが書かれているのもそういう面はあるだろうし。カヴァフィスの詩も部分的に自分の代理なのかもしれない。

2023年10月15日日曜日

10月15日 近況 コロナには罹らないに限る

ついにここにもCovid-19がやってきて、授業最初の1週間にぶつかってしまった。かかるものではなくて、息切れはするし、頭の回転も戻らないので、10月12日に授業があったのにその日が何の日なのかについて言うのを忘れてしまい、もったいないことをした。

10月14日土曜日は例の講座の司会があった。コロナで横になっているうちに季節が変わってしまった。


以下は、最近届いた本。

Julio Cortázar, Carlos Fuentes, Gabriel García Márquez, Mario Vargas Llosa, Las cartas del Boom, Edición de Carlos Aguirre, Gerald Martin, Javier Munguía y Augusto Wong Campos, Alfaguara, 2023.

562ページ・・・


手にするだけでお腹いっぱいの感じ。ぱっと見、手紙の書き方の勉強になったりして。

ガルシア=マルケスからバルガス=リョサへの手紙(1967年5月12日付):

Mi querido Mario:

De acuerdo con todo lo que me dices en tu carta. (...) Como primer paso, y ya con plena conciencia de trabajo, en este mismo correo he aceptado la invitación al congreso de Caracas en agosto, torciendo mi principio de no asistir a esta clase de eventos estériles. Ahora hay un buen motivo, aunque solamente nosotros lo sepamos: vamos a poner las primeras bases del plan.(pp.215-216)

2023年9月15日金曜日

9月15日 近況:3年半ぶりのキューバ

前回キューバに行ったのが2020年2月終わりから3月頭で、この2023年9月の訪問が3年半ぶりだった。

今年の頭にメキシコシティに行った時にも思ったが、海外に行くときに感覚的にこなしていたことがコロナで期間があいてしまったのと、(たぶんこちらの方が大きいが)加齢が原因でできなくなっていたり忘れていたりで、着いてから、ああそうだった!ということがあった。

エアカナダのフライトがなくなってしまった。東京ートロントは復活しているが、トロントーハバナがない。だからアエロメヒコで行った。

往路はメキシコシティで一泊しなくてはならず、午後12時台に着くとはいえ、シティのどこかのホテルなりなんなりに身を落ち着けるのは午後3時を回り、翌朝のハバナ行きが午前11時発だから、どこに行くにも交通渋滞を覚悟しなくてはならないメキシコシティなので、できることは少ない

そもそもアエロメヒコの場合、帰りのメキシコシティー東京のあの深夜便(夜12時前後発)は、乗る前も降りた後も身にこたえる。

東京ーメキシコシティは、往路がおおよそ13時間、復路が14時間。メキシコシティーハバナは往路と復路が2時間半プラマイ10分。

平日の夕方、ハバナの街に人が少ないなと思ったが、そうか、かつてのように人びとは公園のWi-Fiスポットを目指していないのだ。スマホで4Gに繋いでいる。そして1990年に生まれたあのCUC(兌換ペソ)が2020年末をもって消えてしまった。前回訪問時にまもなく無くなると聞いてはいたのだが、いよいよ二重通貨時代が終わり(通貨統一 unificación monetaria)、何がやってきたのか。

何人かの友人はこの3年半の間にキューバを出てしまった。インフレ、燃料不足による停電などで状況は90年代初頭よりも悪い、そして治安も悪化しているというのを聞いて、行く前にかなり構えてしまったのだが、確かにそのように見える面はあったかもしれない。いや、わからない。

こういうのは脅かしすぎになるのが常で、でもそれがそうだと確認するには行ってみなければわからない。少なくともいわゆるラ米の「ビオレンシア」はないという点は変わっていないと思ったが。

夏のカリブはハリケーンがあるので、この時期にカリブ海に出かけるのは控えていたが、もはや行くには時期的にここしかなく、覚悟を決めて行った。

沸騰的暑さは7月より楽になったというのだが、9月に入ってもかなりの暑さで、朝の9時から夕方5時くらいまではきつかった。基本、ハバナは自分の用事がすべて徒歩で回れるから良いのであって、2月から3月なら30分から1時間くらい歩くのが気持ち良いが、今回はそうもいかず、夕方の5時過ぎから、完全に暗くなる8時あたりがゴールデンタイム。

FOCSAのビルはいつ見ても場違いなのか似合っているのか迷ってしまう。ハバナのどこでもそうだが廃墟感が漂って、1階の店舗は半分くらいしかやっていない(ように見える)。




G77プラス中国のサミットがちょうどこの9月15日・16日とハバナで開催されることになっていて、空港から市街までの幹線道路にはその旗が飾られている。日本の商店街の街灯に夏祭りの旗を飾るのとは規模が違うし、この暑さでよくやったものだ。

それにしてもこのサミットに関する日本語の報道は日経新聞がちょっと書いているくらいで、ほとんど見かけない。もちろんキューバの人にこんな国際イベントがもたらしてくれるものはほとんどゼロだろうが、世界に起きつつある状況の中で、先進国の果たしている貢献的な役割は極めて小さく、グローバルサウスという言葉だけが一人歩きして、ノースの人たちは今やこの用語を濫用し戯れている。こうしていつもレッテルばっかりが流布してしまう。自分も気をつけないといけない。

そう、気をつけないといけないというなら、キューバは2021年1月12日にトランプ・米国によってテロ支援国家に指定されているので、キューバに渡航歴があると米国にESTAだけでは入れず、別に査証が必要になる。米国国土安全保障省のHPは日本語でも読めてその辺りのことが書かれているが、旅行代理店でもキューバ渡航を希望する人にはまずこのことが伝えられる。

これはこれで相当に意味が大きい。査証の取得には費用も時間もかかるわけで、若い人や研究者や今後米国に行きたいと思っている人にとってハードルが一気に高くなる。キューバに行ったばっかりに、米国に観光旅行に行くのに数万円かけて査証なんか取りたくはないでしょう。選ぶというのはこういうことで、自販機のジュースをどれにするかのようではない踏み絵を踏まされる。

自分にとって、今回のキューバ渡航によって晴れて米国にESTAでは入国できなくなったことは一つの成果である。いっそのこと、米国人との付き合いにも、米国映画の鑑賞にも、米国小説の読書にも、世界各地のディズニーランドの入場にも、場合によっては米語の発話にも査証を課して欲しいものだ。米国も米国人によるキューバへのアクセスに待ったをかけるべきだろう。プリンストン大学その他多くの大学が保有するキューバ関係のアーカイブを手放すとか。そういえば、ハバナシンドロームの原因がコオロギの鳴き声というのは十分にありえる話だ。テロ支援国家なのだから。ホテル・カプリやナシオナルで起きたらしいのだが、米大使館員はここに住んでいるのかもしれない。

キューバ渡航の場合、出発空港でツーリストカードを確認される。5、6年前に行った時、ラ米各地を回っていく予定だったのでこれを持たずに行って、最後どこで手に入るかなとどきどきしてしまったが、パナマの空港で買った記憶がある。この時は搭乗の際、キューバ人の列とそれ以外の人の列を作らされた。

今回、日本の空港でチェックインの時にこのツーリストカードの「発券日」はいつなのかを聞かれ、どうもそれをシステム上で入力しないと先に進めず、チェックインができないようだったのだが、ツーリストカードに発券日は書いていないので、その場で係員と相談の上、「適切と思われる日」を入力することで解決した。多分どんな日が入力されていても大丈夫だと思う。

さらにさらに思い出してきたが、ハバナの空港でキューバ運輸省の手続きを義務付けられた。入国前、つまり出発する時までに済ませることも可能なのだが、知らなかった。

その場で係員がWi-Fiに繋いでくれて、スマホからいっぱいデータを入力しなければならない。税関申告書とコロナ絡みで健康に関する申告書を兼ねているようで、2022年1月から始まったとのこと。スマホがなかったらどうなるのだろう。空港のWi-Fiではメキシコシティの空港は簡単に繋がり、街中も「メキシコシティの人なら誰でもWi-Fi」というのがあって観光客フレンドリーだ。

以上は手続き的なことを忘れないようにと書いたメモだが、それはともかくも、短い滞在の間に、いつもの通り、あらかじめ連絡を取っていた人と楽しく話をすることができた。知り合ってもう25年くらい経つけどぜんっぜん変わらないよね、白髪が増えた以外は(笑・・・と言われたり、ひょっとして会えるかなと思っていた人にも会えたりした。イグナシオ・セルバンテスのピアノからアルジェリア、アンゴラまであれこれ話したが、あと3日は欲しいと思った。

出版状況は3年半前からほとんど変わっていない。つまり出ていない。コロナ以降もっと悪い。もともとがらんどうの本屋はもっとがらんどうである。




下の本は、雑誌「Pensamiento crítico」刊行50年を記念して開かれたコロックを収録したものだが、出たのは2019年。



キューバの古本ブームというのは確かに一時期あって、時期としては稀覯本を巡るアクション映画の『ナインスゲート』(ポランスキー)の頃だと思う(2002年)。

-----------

出発直前に、こちらの司会を務めた。今年度4月に始まったこの催しもようやく後半戦に入りつつある。しかし土曜日の午後というのは、自分の所属する学会の大会開催日と重なっていまして、それが少々・・・ 

もちろん講演はどれも素晴らしく、拙い司会で申し訳ない。次回は10月14日。若い聴衆がもっと(×10)増えて欲しいのだが、土曜日の15時だから難しいか。

2023年8月13日日曜日

8月13日 死者たちの夏2023 動画配信について & 文学のカウボーイ

今年はロベルト・ボラーニョが亡くなって20年ということだ。亡くなったのが7月15日だから、その日付周辺の新聞や雑誌にそれなりに記事が見つかる。La Vanguardia紙(ウェブ版)では、「文学の侍、ボラーニョが亡くなって20年」というタイトルがある。侍ときたか。ぼくからすればカウボーイかな。古くささとかっこよさと空想上の存在という意味で。

2023年は、関東大震災から100年で、雑誌『現代思想』の9月の臨時増刊号は総特集が「関東大震災100年」である。

2ヶ月前に催した「死者たちの夏2023」も、主催した「ジェノサイド・奴隷制研究会」は、関東大震災100年のこの年に照準を合わせて活動していた。

----------------------
このイベントはせんがわ劇場で3日間にわたって催されました。

今回、その動画を有料配信することになったので告知します。

どうか予告編の動画をご覧ください。

当日の雰囲気、いや、この映像は当日とは別のもの、とてつもなく素晴らしい作品だと思います。予告編のYoutubeから販売サイトの情報も見つかります。どうぞよろしくお願いします。
----------------------

そして今年はレイナルド・アレナスの生誕80年でもある。1943年7月16日に生まれ、1990年12月7日に死んだキューバの作家で、誕生日近辺の7月半ば、わずかの記事がこのことに触れていた。

アレナスとボラーニョは年齢で言えば10歳しか違わないのに、作家としての活動期間はほぼ重ならない。アレナスが作家アレナスだったのは1970年代から80年代で(90年より前の作家の感じがする)、ボラーニョが作家ボラーニョだったのは1990年以降(で、21世紀には入っていないような感じがする)。

面白いのは、アレナスが読まれたのは90年代で、ボラーニョが読まれたのは21世紀に入ってからということ。






2023年7月8日土曜日

7月8日

2本のドキュメンタリーをみた。

1本は西サハラ友の会経由で『銃か、落書きか

もう1本はプエルト・リコの歌手バッド・バニーの『停電(El Apagón)

それから、ジョン・ハーシー『ヒロシマ』のスペイン語版が届いた。

John Hersey, Hiroshima, Penguin Random House, 2022[初版2016]



スペイン語に翻訳したのはフアン・ガブリエル・バスケス。コロンビアの小説家。手元の2022年版は7刷。

日本語版は法政大学出版局が出版した第一号の本(1949年)。増補版が2003年に出ている。



ほかにも書き足しておきたいことがあるのだがとりあえずここまで。

2023年7月1日土曜日

7月1日 近況

フアン・ガブリエル・バスケスの『密告者』(服部綾乃、石川隆介訳、作品社)には、第二次世界大戦中のコロンビアに移住したドイツ人移民の中にいたナチ信奉者、あるいはそう目された者たちが出てくる。

カリブ沿岸の都市バランキーリャにはナチ党の支部があったと書かれている。これは史実と一致する。バランキーリャにおけるナチに関して多くの記事があるが、しかしそれらが報じられたのは、このバスケスの小説が出て以降のように思われる。少なくともこの小説が出るまで、というよりこの小説が日本語で翻訳されるまで知らなかった。

バスケスのこの小説はおそらく多くのコロンビア人にとっても貴重な内容なのだが、一見難しい語りの手法をとっている。

第4部でコロンビアにおける有力な人物(ガブリエル・サントーロ)が実は、あるドイツ人をナチ信奉者だと「密告した張本人」であったことが暴露されるシーンが出てくる。

そこはテレビ番組におけるインタビューの再現形式になっている。インタビュアーは番組進行役で、その人のセリフはイタリックになっていて、答えるのはアンヘリーナである。アンヘリーナが暴露する側である。

-----------------

【原文】
¿Estaba ella al tanto de la reputación de Gabriel Santoro?
  No. Bueno, cuando Angelina lo conoció, Gabriel estaba metido en una cama como un niño, y eso no realza la apariencia de nadie, hasta el presidente se vería disminuido y común reducido al piyama y las cobijas. Angelina sabía, (後略)

【英訳】
 Was she aware of Gabriel Santoro's reputation?
 
No. Well, when Angelina met him, Gabriel was tucked up in bed like a baby, and that doesn't enhance anybody's appearance, even the President would look diminished and common reduced to pyjamas and bedclothes. Angelina knew, (後略)

【久野による仮訳】
ガブリエル・サントーロの評判について彼女は知っていましたか?

いいえ。実はアンへリーナが彼と知り合った時、ガブリエルはベッドに赤ちゃんのように入っていて、そうなっているとどんな人もぱっとせず、大統領だってパジャマと毛布だけの小さな普通の人に見えてしまうものです。アンへリーナは知っていました、(後略)

------------------

ここは三人称に対する問いかけになっている(彼女は知っていましたか?)。これをそのまま読めば、インタビュアーは、インタビュー相手とは別人の「彼女」がガブリエル・サントーロを知っていたかどうかを聞いていることになる。

それに対しての答えも、そのまま読めば、質問されている人とは別人の「彼女」のことについて答えている。その別の人とはアンへリーナで、アンへリーナがガブリエル・サントーロと知り合った経緯を話している。

スペイン語文法の人称を正確に反映させて読もうとすれば読もうとするほど、ここは三人称に引っ張られる。スペイン語の授業などでこの小説のこの部分を取り上げればそう読む人は出てきておかしくない。

しかしここでインタビューされているのはアンへリーナであり、アンへリーナが自分のこととして答えている場面なのだ。このインタビューの再現は以下のように書かれている方が理解しやすい。

¿Estaba usted al tanto de la reputación de Gabriel Santoro?(あなたはガブリエル・サントーロの評判を知っていましたか?)
 No. Bueno, cuando lo conocí, Gabriel estaba metido en una cama como un niño, y eso no realza la apariencia de nadie, hasta el presidente se vería disminuido y común reducido al piyama y las cobijas. Yo sabía, (後略)(いいえ、実は私が知り合った時、ガブリエルは……)【下線部が変更箇所】

こう書かれていればインタビューで交わされた会話のそのままの再現なのだとわかる。

スペイン語でこの本を読む人たち(あるいは欧米言語一般の読者:いわゆる標準ヨーロッパ言語[SAE]のこと)は三人称が用いられても、不思議な印象はないのだろうか?それともここの場面に見られるバスケスの手法は実験的になるのだろうか。

あらためてこの場面を整理すると、この物語の語り手である一人称の「yo(英語のI)」がこのインタビューをテレビで直に見て、その内容が重大であるために書き起こしている。つまり重要なのは、インタビューを見ている人「による」再現になっていることだ。

画面の中にインタビュアーとインタビューされるアンへリーナがいて、インタビューが始まる。これを語り手の「私」から見た語りとして地の文にするとどうなるか。

Yo vi en la televisión que el entrevistador le preguntaba a Angelina que ella había estado al tanto de la reputación de Gabriel Santoro. Vi que ella decía que no,  bueno, cuando Angelina lo conoció...(私はテレビで、インタビュアーがアンへリーナに、ガブリエル・サントーロの評判を知っていたかを尋ねるのを見た。私は見た、彼女がいいえ、実は知り合った時……と言うのを見た。)

おそらくこうなるのではないか。スペイン語の時制は想像なので間違っているかもしれない。ただ、欧米言語で物語る場合には、このようにして語り手というのが絶対的に存在し、その枠は揺るがない。したがって語り手が私という一人称であれば、その人物が他人の行為について見聞きしたものは、基本的に従属節的になる。場合によっては主節を省いて従属節の部分だけをそのまま書き込んでいく。つまり自由間接話法である。

この時に欧米言語では人称は間接話法のものがそのまま残る。会話を再現しているのは「私」であって、「私が見たもの」が大きな枠として設定され、その目線から再現される以上、テレビの画面の中での出来事は三人称で語られる。「私」はインタビュアーにも、アンへリーナにもなれない。

非欧米言語話者、日本語話者(日本語は主題優勢言語。SAEは主語優勢言語や主語卓越言語と言われる)として読むと、人称が不自然に見えるが、欧米言語の語りの規範からすれば三人称であって当然なのだと考えられる。あくまで「私」が、インタビュアー(彼)のアンへリーナ(彼女)に対する質問とその答えを再構成しているからである。

ところでSAEを主語卓越言語とする言語類型論についてだが、小説を読む上でSAEは「人称卓越言語」と言ったほうがわかりやすいかもしれない。卓越性があるのが主語か主題かというよりも、問題は人称ではないだろうか。主語は人称に依存しているので。

邦訳は工夫がなされていて、インタビューの再現形式であることがわかるようになっている。 ここは訳者を相当に悩ませたところに違いない。

 



角田光代の『八日目の蝉』は基本的に一人称で書かれている小説だが、冒頭部分に、三人称(希和子)で書かれているパートが置かれている。以下、引用。

---------
    玄関に突っ立ったまま、台所の奥、ぴたりと閉まった襖に希和子は目を向けた。色あせ、隅の黄ばんだ襖を凝視する。
 何をしようってわけじゃない。ただ、見つめるだけだ。あの人の赤ん坊を見るだけ。これで終わり。すべて終わりにする。明日には、いや、今日の午後にでも、新しい家具を買って仕事を探すんだ。今までのことはすっかり忘れて、新しい人生をはじめるんだ。希和子は何度も自分に言い聞かせ、靴を脱いだ。(中公文庫、7-8ページ)
--------

「何をしようってわけじゃない」から「新しい人生をはじめるんだ」までは希和子の内面の声(独白)であることは無理なくわかる。三人称の地の文に、その人の声が一人称で入ってきても、日本語では主語を示さなくてもわかるし、原文でその部分はカギカッコで括られていない。しかしスペイン語版では以下のようになる。

----------
 Paralizada en el espacio que queda junto a la puerta donde se dejan los zapato, [Kiwako]dirige la mirada al fusuma de detrás de la cocina, cerrado a cal y canto. Está descolorado, con las esquinas amarillentas.
  《No voy a hacer nada malo. Sólo quiero verlo aun momento. Sólo me gustaría ver a su bebé; eso es todo. Después pondré punto y final. Mañana... No, esta misma tarde compraré muebles nuevos, buscaré un trabajo. Lo olvidaré todo y empezaré una nueva vida.》Kiwako se lo repite a sí misma varias veces.(La cigarra del octavo día, Galaxia Gutenberg, p.7)
----------

希和子の独白は一人称で、しかもカギカッコ(二重ギュメ)で括られている。カギカッコがなくてもわかりそうなものだが、地の文が三人称である以上、そこにいきなり一人称が使われたら、一人称で語られた小説ととられてしまうだろう。希和子(三人称)から語るのが地の文の規範だ。