El mundo cambia constantemente.
ラテンアメリカ文学、キューバの文学、カリブの文学などについてメモのようなものを書いています。忘れないように書いているというのもあるけれど、忘れてもいいように書いている。書くことは悪魔祓いみたいなもので、書くとあっさり忘れられる。それがいい。
Escribir es un acto de exorcismo. Escribir cura, alivia.
2022年7月17日日曜日
7月17日
2022年7月12日火曜日
7月12日 自伝(フリアン・デル・カサル)
学期を通じて練習していたピアノ曲は結局できるようになっていないけれど、授業は最終週に入ってほっとひと息。
弾いていてつっかえていたところができるようになるときの、なにかわからない憑物が落ちたような、あれっできてる?というあの感じがもっとあるといいなあ。
しかし楽譜通りに演奏しようとする行為は翻訳と本当によく似ている。悩まずにすらっと訳せるところは、楽譜を見てスムーズに弾けるときの感覚と似ているし、どうにもうまく弾けないところは、こなれた訳文にならなくて進まないときと同じ。できるところを先に訳して一応先に進むが、結局うまくいかない数小節ができなければ、完成には至らない。
目の前に鍵盤なしに楽譜を見ながら指を動かすのがあるが、あれは原文を読みながら頭の中で日本語をタイプしていくイメージ翻訳みたいなもの。
引き続きフリアン・デル・カサル。前便は「はじめに Introducción」だったが、『Hojas al viento』の本格的な一番最初の詩はこの「自伝」。
この第一詩集が出たのが1890年で、この詩は1890年3月30日に書かれた。発表されたのは「La Habana Elegante」。詩人が27歳の時なのだが、彼が死ぬのはそれから約2年半後の1893年10月21日で、30歳になることもできなかった。
自伝 Autobiografía
Nací en Cuba. El sendero de la vida
firme atravieso, con ligero paso,
sin que encorve mi espalda vigorosa
la carga abrumadora de los años.
Al pasar por las verdes alamedas,
cogido tiernamente de la mano,
mientras cortaba las fragantes flores
o bebía la lumbre de los astros,
vi la Muerte, cual pérfido bandido,
abalanzarse rauda ante mi paso
y herir a mis amantes compañeros,
dejándome, en el mundo solitario.
¡Cuán difícil me fue marchar sin guía!
¡Cuántos escollos ante mí se alzaron!
¡Cuán ásperas hallé todas las cuestas!
Y ¡cuán lóbregos todos los espacios!
¡Cuántas veces la estrella matutina
alumbró, con fulgores argentados,
la huella ensangrentada que mi planta
iba dejando en los desiertos campos,
recorridos en noches tormentosas,
entre el fragor horrísono del rayo,
bajo las gotas frías de la lluvia
y a la luz funeral de los relámpagos!
全体68行のうちの最初の24行。あと10行で内容としてはひとくぎりになるのだが、まずはここまで。
最初の4行。キューバ生まれのぼくは、足取り軽く、人生の道を着実に進んでいる。歳月とともに背負う荷物はますます重くなるが、精力もあるので持ちこたえられる。
ここでちょっと難しいのは、firmeとligeroが矛盾するような形容詞になっているところ。paso firmeだと「足取りもしっかりと」という意味になる。
次の8行。ぼくは緑の並木路を手をつないで歩きながら(おそらく母と手をつないでということだろう)、匂い立つ花を摘んだり天体の輝きを味わったりしたものだ。そんな幸せな折、ぼくは死神に出会ったのだった。その死神は、信用ならない盗賊のようにぼくの道に急に立ちはだかって、大切な仲間を傷つける。こうしてぼくは世界に独り取り残される。
次の12行。導く人がいなければ、生きていくのは実に難しく、どれほどの障害が持ち上がったことか。厳しい坂が立ちはだかり、どこもかしこも暗い風景ばかりだ。ぼくはひと気のない野原を嵐の夜歩いた。ぞっとするような恐ろしい風のうなりに包まれ、冷たい雨滴に打たれ、葬送の稲光を浴びながら。そんなふうにしてぼくが残した血まみれの足跡を、明け方、銀白色の星がいったい何度照らしたことだろう。
2022年7月10日日曜日
7月10日 はじめに(フリアン・デル・カサル)
フリアン・デル・カサルの第一詩集『Hojas al viento(葉を風にのせて)』から。
"hojas"にはページ、紙の意味があるので、「詩を書き記した紙片を風にのせて」とも取れる。
その詩集の一番最初の詩は、「はじめに(Introducción)」というタイトル。
Arbol de mi pensamiento
lanza tus hojas al viento
del olvido,
que, al volver las primaveras,
harán en ti las quimeras
nuevo nido;
y saldrán de entre tus hojas,
en vez de amargas congojas,
las canciones
que en otro Mayo tuvistes,
para consuelo de tristes
corazones.
頭の中にはいろいろな思考があって、それはさながら一本の樹木である。それが1行目。
2行目のlanza(動詞lanzar)を、ここでは二人称の命令形(arbol=túへの命令)と理解すると、「わが思考からなる樹よ、おまえの葉を忘却の風にまかせよ」となる。注釈本でも、1行目の終わりにコンマが入っているべきとある(コンマがあれば命令形と取ることに迷いはなくなる)。
4行目、季節が巡って春が戻るころ、とある。つまり2行目の葉が風に飛んでいく季節は秋がイメージされているのだろう。
春が戻って、再びその樹木に葉が芽吹くとき、その葉はおまえという樹木の中に、空想という新しい巣を作るだろう。
※ここは文法的にちょっと無理をして解釈。harán(動詞hacerの三人称複数未来形)の主語をtus hojas、目的語をlas quimerasとすると、「葉は空想を作る」となって、その場所がen tiなので、「おまえという樹木の中に」。最後のnuevo nidoは、las quimerasと同格のように解釈して、「空想という新しい巣」。あるいは、5行目までで切って、「それが新しい巣なのだ」とまとめても良いかもしれない。
7-9行目。おまえの新しい葉から聞こえてくるのは、苦しみの嘆き声ではない。それは歌である。
10-12行目。その歌は先の5月(春)に、悲しみに暮れる心を慰めようとして、おまえが歌ったあの歌だ。
10行目のtuvistesは現在ならtuviste。古いスペイン語の用法。
2022年7月9日土曜日
7月9日 夏の光景(フリアン・デル・カサル)
フリアン・デル・カサル(Julián del Casal, 1863-1893)の詩を読んでいる。
夏の光景 Paisaje de verano
2022年7月5日火曜日
7月5日 近況
近頃、届いた本2冊。
メキシコのユダヤ系作家マルゴ・グランツの自伝・家族伝。
Margo Glantz, The Family Tree: an illustrated novel, Translation by Susan Bassnett, Serpient's Tail, London, 1991.
オリジナルはスペイン語で、La genealogíasというタイトル。表紙の絵はフリーダ・カーロ。
マルゴさんとはブエノスアイレスで2012年の9月にフェルナンド・バジェホさんから紹介されて挨拶をしたことがある(ただそれだけだが)。
続いてやはりユダヤ系。ただし今度はイディッシュで書かれたラテンアメリカ作家のアンソロジー。
上記のマルゴ・グランツの父親Jacobo Glantzの文章が下の本に入っている。マルゴはスペイン語、父ハコボはイディッシュ語で書いている。
Alan Astro(ed.), Yiddish South of Border: An Anthology of Latin American Yiddish Writing, University of New Mexico Press, Albuquerque, 2003.
時間には限りがあるので、自分にできることは少ない。その中でできることは何かと言えば、スペイン語で書かれたものを読むことである。はっきり言えば、自分にはそのことしかできない。
読んでどうするのか、ただ読んでいればいいのか、という問題は常にある。その先を考えなければいけない。
しかしこの問題は、いつでもどこでもどんな人からも問われてきたことだ。
自分でもその問いは止まない。でも自分にとってその問題はいつも先送りするしかない。読む前に読んだ後のことを考えていてどうするのだ?と考えてしまうからだ。
なんとなく思っているのは、読んだ後には読む前の自分はいないかもしれないということだ。そうやって考えれば、読む前に立てた計画は無意味ということになる。
この歳になってどんなに読むのに慣れたって、スペイン語の本を、外国語の本を読むには時間がかかる。日本語の本だって、それがまるで外国語で書かれているように読むとすれば、同じだけ時間がかかる。
ある程度読むと、なんとか形にしなくてはとは思う。焦りもある。読めないときには焦りが募る。でも速度は上がらない。
だから、時間が来るのを、形になるのを待つ。
それには時間がかかってしまうのだが、そして時間には限りがあり、それはその通りだとわかっていても、時間はこのままいつまでも尽きずに続くのだと思いながら、読み続けるのだ。