2020年10月21日水曜日

10月半ば/『異端の鳥』

研究室から授業をやっていたら、学内のWi-Fiの調子が悪く、接続が不安定との通知が出ていて、最後にはZoomが落ちた。フリーズを起こしているという声が学生があり、まずいなと思っていたところだった。

結局サポートの力を借りて授業は半分の時間しかできなかったものの、なんとか乗り越えた。学内でのZoomではトラブルが結構発生しているようだ。

この前、映画『異端の鳥』を見てきた。昨年の東京国際映画祭で上映され、コロナで封切りが遅れていたのだが、ようやく公開となった。

原作の「小説」は『ペインティッド・バード』(西成彦訳、松籟社)として翻訳出版されている。映画の方も確か昨年の映画祭時には『ペインティッド・バード』と題されていたかと思う。

原作の作者はイェジー・コシンスキ(1933-1991)。ポーランドのウッチに生まれた。

ウッチといえば、ホロコーストを逃れてアルゼンチンに渡ったユダヤ人が再び故郷を訪れる映画『家に帰ろう』(原題は"El último traje"[最後のスーツ]、スペイン・アルゼンチン・ポーランド、2017年)で、クライマックスに出てくるところだ。

『ペインティッド・バード』はオリジナルが英語で書かれているのだが、それにも一部分に目を通したことがある。その時点で、すでに『異端の鳥』というタイトルで日本語の翻訳があったのだが、それは未読で、2011年の新訳『ペインティッド・バード』を読み、英語で受けた衝撃をあらためて日本語でも体験し、そして今度は映画で・・・という流れだ。

米国の出版直後、この本は「小説=フィクション」としてよりは「証言」として読まれたようだが、読んでいてあまりそのようなことは考えなかった。小説というのは便利な容れ物である。現実世界に参照物はあったりなかったりだ。悲惨な物語を「空想」の物語として受け止めて、ほっと胸を撫で下ろした瞬間に、でも違うかもしれないと思い直すその自由な行き来が可能なのが小説だ。

戦争に巻き込まれた子どもの物語としては、スペイン語圏では映画『パンズラビリンス 』のようなものもあったりする。あれもなかなかきつい。

 


原作は英語、書いたのはユダヤ人の両親を持つポーランド人、そして映画を撮ったのはチェコ人(ヴァーツラフ・マルホウル)、二種類の日本語訳。それぞれの文脈がある。

映画はまだ公開中なので、あまり書けないかな。

そもそも映像を勘違いして理解している部分もあるかもしれない。ただどうしても、一箇所、備忘録として書いておきたい。

東欧をさまようユダヤ少年はドイツ兵に捕まり、傷を負った老人とともに兵舎に連れ込まれる。彼らの処分のため、長靴がぴかぴかに磨かれたSSの将校が登場する。

深い傷を負い、ほとんど身動きを満足に取れない状態の太った老人は、最後のあがきとばかりに、勇敢にもその将校に向かって唾を吐きかける。SSの将校は銃を取り出し、冷徹に銃殺する。二発の銃弾が老人を貫き、老人は息絶える。

それを見た少年に去来した思いは何なのか。彼はどうしたか。ここが最も印象深いシーンだった。

権力に歯向かって殺された人の勇気を称えるばかりではなく、それを目の当たりにした少年の生き抜く知恵をも称える必要がある。その後、彼がどんな人生を送ったとしても。

映画パンフレットには監督のインタビューも載っている。沼野充義氏と深緑野分氏の解説もまた読み応えあり。

2020年10月11日日曜日

近況

秋の学期がはじまって2週間。すでに9月は遠い過去。

朝一番でオンライン授業をやってから大学行って対面授業というのはスリリングといえばスリリング。

日々やるべきことこなしてはいるけれど、とても落ち着いていられるような状況ではないですね。

そんな中で、読んでいるのが以下の本。

アンドルー・ペティグリー『印刷という革命ーールネサンスの本と日常生活』桑木野幸司訳、白水社

内容はタイトル通りで、結構スペイン関係のネタが多くて面白い。それ以外にも、ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会ーー印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、原聖訳)を読んだが、こちらもスペイン語圏の状況をたくさんとりあげてくれる。

それから本屋で見つけてつい買ってしまったのが、幸徳秋水『二十世紀の怪物 帝国主義』(光文社古典新訳文庫、山田博雄訳)。

この本は1901年に出版された。米西戦争の直後だ。なのでこんなことが書かれている。

「米国は最初、スペイン領キューバで起こった独立運動を助けてスペインと戦ったときには、自由のため、人道のために虐政を取り除くと称していた。本当にその通りなら、道義にかなったすばらしい行為である。そして、もしキューバの人民がその恩に感じ入り、徳を慕って、米国統治下の人民となることを願うなら、米国がこれを併合するのもわるいことではない。そうであればわたしは必ずしも米国があれこれと策を講じて、キューバ島民をあおり立て教唆した事実を摘発しないだろう。
 しかしフィリピン群島の併呑、征服にいたっては、断じて許すことができない。米国は本当にキューバがスペインから独立と自由を勝ちとる運動のために戦ったのか。それなら、なぜ一方で、あんなに激しくフィリピン人民の自由を束縛するのか。」(149ページ)

幸徳秋水が書いた1901年の段階で、まだキューバは独立していなかった。米国の軍事占領下で、独立は1902年5月である。

一方フィリピンは1899年1月21日に独立するものの、アメリカが認めず戦争に突入。


 

「国民はもはや小さい。それなのに、どうして国家が大きくなれるというのか。大きいようにみえるが、それははかなく消える泡にすぎない。空中楼閣にすぎない。砂上の家にすぎない。台風が通り過ぎれば、たちまち消え去って跡形もない雲霧と同じである。これは昔から今に至るまで、歴史が明らかにしているところである。それなのに、哀しいものだな、世界各国は競ってこの実質のないはかない泡のような膨張につとめて、しかも滅亡に向かって進んでいる危険を知らないのだ。」(177ページ)

わかりやすい。そして、弱い文章であるところもいい。

「『帝国主義』とは、すなわち大帝国(グレーター・エンパイア)の建設を意味する。大帝国の建設は、そのまま自国の領土の大いなる拡張を意味する。わたしは哀しむ。自国の領土を大々的に拡張することは、多くの不正を犯すことを意味し、道理にそむくことを意味するのだから。(中略)世界中のどんな土地にも、すでに主人があり、住人があるとすれば、大帝国を建設しようとする人たちは、果たして暴力を用いず、戦争もせず、また嘘偽りを言わずに、うまい具合に、わずかばかりの土地を自分のものにできるだろうか。ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカにおいて行い、米国が南米において行う領土拡張政策は、みな軍国主義によって行われているではないか。武力によって行われているではないか。」(136ページ)

「哀しむ」がここにも出てきて、それが弱さだと思うのだが、そこがいい。

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この本には内村鑑三が序文を書いている。

「政府には宇宙や世界の調和について考えることのできる哲学者が一人もいないのに、陸には十三師団の兵があって、武器はいたるところでまばゆく輝いている。民間には人民の鬱々として気持ちを癒すことのできる詩人が一人もいないのに、海には二十六万トンの戦艦があって、平和な海上に大きな波しぶきを立てている。」(15ページ)

今の状況(日本学術会議の会員任命拒否に端を発する一連の問題)に即していうなら、人々を分断しないようにするべき立場の人が、統合なんかどうでもいいとばかりに、敵を作って分断を煽り、強い言葉を次々に繰り出している。

罵倒の応酬に持ち込んでいる。強い言葉はもっと強い言葉を呼び込む。

強い言葉はものすごいダメージを与えるので、弱い人は負けてしまう。

鬱々とした状況を癒すためにできることがわからないまま、耳を閉ざすことができなければ、その中に参入して、もっと強い言葉を吐き出すしかないとでもいうような、とても辛い状況が続いている。

ここ数日の雨で金木犀はすっかり花を落としてしまった。散歩道のあちこちで、オレンジ色が目に入る。