2023年6月18日日曜日

6月18日 社会主義から自由主義へ

エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ 革命の世紀の群像』(上下、みすず書房)は社会主義思想の展開を物語った本である。

フィンランド駅とは、レーニンが1917年4月に到着した駅で、フィンランドにあるのではなく、現在のサンクトペテルブルク、つまりロシアの駅でフィンランド鉄道が建てた駅らしい。

フィンランドとロシアということでは、映画『コンパートメントNo.6』が記憶に新しい。1990年代にフィンランド人女性がモスクワに留学する話から始まって、失意の旅行で乗った鉄道のコンパートメントで知り合うロシア人男性との関係を描いたもの。

このエドマンド・ウィルソンに向こうを張った本がバルガス=リョサの『部族の呼び声(La llamada de la tribu)』(2018)である。社会主義思想ではなく自由主義思想の展開をバルガス=リョサが叙述する。

序文によれば、「そうは見えないが自伝的な本である。私の知的・政治的な歴史、マルクス主義とサルトルの実存主義に感化された青春時代から、アルベール・カミュ、ジョージ・オーウェル、アーサー・ケストラーのような作家の読書によって得られた民主主義の再評価を通じて、成熟して以降の自由主義までが語られる。」(p.11)

とりあげられる人物は、アダム・スミス、オルテガ、ハイエク、ポパー、レイモン・アロン、アイザイア・バーリン、ジャン=フランソワ・ルヴェル。

「私のキューバとの、そしてある意味で社会主義との断絶は、その頃は超有名だった(今ではほとんど誰も覚えていないが)パディーリャ事件が原因だった。キューバ革命の熱心な賛同者だった(商務省の副大臣までのぼりつめた)詩人のエベルト・パディーリャが、1970年に政権の文化政策を批判しはじめた。最初は公的メディアで辛辣に攻撃され、その後CIAのエージェントだと馬鹿げた告発によって収監された。パディーリャと友人である我々5名(フアン・ルイス・ゴイティソロ、ハンス・マグヌス・エンツェンスべルガー、ホセ・マリア・カステレと私)は憤激してバルセロナの私のマンションで抗議の手紙を認め、それに世界中の多くの作家が賛同してくれた。」(p.17)

しかしその手紙が原因でバルガス=リョサを貶めるキャンペーンが行われ、数年間をかけて彼は自由主義思想に傾いていく。

「[それは]疑念と再考の時期で、その間に少しずつ私は理解していった。ブルジョア民主主義だと言われるものの『形式的な自由』とは、その背後に富者による貧者の搾取が隠されているようなただの見せかけではなく、人権間の境界、表現の自由、政治的多様性であるということを。そして共産党とその大物たちに代表される唯一の真実の名の下での権威主義的で抑圧的な体制は、あらゆる批判を封じ、ドグマ的なスローガンを押しつけ、不服従者を強制収容所に送ったり行方不明にできるということを。」(p.17-18)



【自由間接話法 文献続き】

若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社、2007年

この本の10章「『私の』部屋」(211-239ページ)はナボコフの自由間接話法について

井尻直志「小説の文体としての自由間接話法 スペイン語の場合」沖縄外国文学会、2019年34号、31-46ページ。

スペイン語作家から主として論じられるのはやはりバルガス=リョサ。


【近況】

「死者たちの夏2023」を受けて、今日は日本社会文学会の大会に行こうと思ったが難しそう。ハイブリッドだから自宅からでもと思ったが、すでに締め切られていた。残念。


2023年6月7日水曜日

6月7日 千歳船橋、ソフト/クワイエット

明後日から始まる「死者たちの2023」のお稽古を見学させてもらいに、千歳船橋まできた。

6月のこの時期は夕方が長い。久しぶりに小田急線に乗った。軽食をとろうとぶらぶらした。もちろん小田急OXがあった。

よそ者だから、メキシコシティのコヨアカンとかブエノスアイレスのパレルモのような緩さを体感できた。


映画『ソフト/クワイエット』は原題は"Soft & Quiet"。

実際にはワンショットではないのかもしれないが、女性たちが白人至上主義団体の活動を始めて仲間と集い、そこから仲間の家でワインでも飲もうと買い出しに行き、そして惨劇……が90分間切れ目なく続く。ドキュメンタリーのように登場人物たちのすぐ近くにカメラがあって彼らを追いかけてゆく。

差別行動は「上品に、そして静かに(ソフト&クワイエット)」進められる。それを黙認していては、その差別を追認することにほかならない。監督が映画を撮った理由はこれだ。映画の中で白人至上主義者として出てくるのは白人で、彼女らはラティーノ、黒人たちを言葉で差別しているが、その後実際に暴力を行使して死に追いやる相手のことについては言葉では名指さない。

ところでこの「ワンショット」という手法は、バルガス=リョサが自由間接話法を使うときの小説(『小犬たち』)と似ている。群像劇で、その登場人物たちが空間を移動しながらぺちゃくちゃおしゃべりをしたり、風景が目に入ったり音が聞こえてきたり、そしてそれにも反応していく様子を、ピリオドも少なくして段落を変えず、全体をまずは地の文として、そこに複数の人の声を紛れ込ませていくスタイルは、ある種ワンショット的である。

中編『小犬たち』(『ラテンアメリカ五人集』集英社文庫所収)を久しぶりに読み直して、スピード感あふれる流れるような自由間接話法(文体)だった。ただこういう小説スタイルはある種の実験というか、一回限りという感じもする。

ある論文で知ったのだが、自由間接話法が用いられると、そこは読書のスピードが落ちるそうだ。不思議なものだ、『小犬たち』を日本語で読んでいる限りではそういう感じがしない。原文で読んでもスピードは落ちないような気がする。読者に対しては注意力をある程度保たせるように強いるが、それがうまくいけば、スピード感が出る。

とはいえ長編を書くには自由間接話法だけでなく、また別の語りの手法、つまり地の文によって物語そのものを展開していく必要もあるし、そういう時には直接話法を織り交ぜたりするしかないのかな、と思う。




『ソフト/クワイエット』のHPに載っている監督の言葉を引用する。

「典型的な植民地主義を描いた物語にはしたくないという思いがありました。植民地主義が持つ憎しみを受け入れやすくした表現や、今なお続いている植民地主義者たちの犯罪行為を和らげ、赦免するために書かれた偽りのストーリーアークを映し出したくなかったからです。私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」

観客が1秒たりとも気を抜けないようにすること。なるほど。
 
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この前の星泉さんによるチベット文学講座は大変勉強になった。
大学HPに掲載されています。
 

2023年6月5日月曜日

6月5日 大雨その後

大雨で大学の桜の木が折れた。




相変わらずの自由間接話法。文献整理として。

ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学 言語学における社会学的方法の基本的問題[改訳版]』(桑野隆訳)、未来社、1998年。

前に挙げた工藤庸子『恋愛小説のレトリック』では「(前略)自由間接話法では、時制の一致による半過去の存在と人称代名詞や所有形容詞などの変換が、語り手の視点の存在を裏づけているわけで、つまり語り手の存在感だけを問題にするならば、直接話法<自由間接話法<間接話法と定義することができるでしょう」(p.172)として、その後バフチンを参照して、「要は『他者の言葉』との関係なのです。」と述べ、バフチンが上に挙げた本で言っている「疑似直接話法」のことに触れる。「語り手と作中人物がほぼ同じ資格において共存する。ただし両者が一体化しているわけではむろんない。あいだに微妙な距離があり、この距離は、あいまいであるがゆえに、いかようにも機能する」(p.172)。

この「あいまい」さは、語り手の作中人物に対する感情移入や、あるいは「風刺」や「アイロニー」をまとう場合もある。工藤も引用しているところだが、バフチンは言う。「フローベールは、自分が嫌悪の情をもよおし憎んでいるものに目を注がずにはいられない。しかしそのばあいにもかれは、みずからを感情移入し、この憎み嫌悪すべきものと自己を同一化する能力をもっている」(『マルクス主義と言語哲学』p.242)



もっと新しいのは以下の本。

平塚徹編『自由間接話法とは何か 文学と言語学のクロスロード』ひつじ書房、2017年。



この中の赤羽研三「小説における自由間接話法」(49-97ページ)の中では例えば以下のようなところに着目している。

「さらにSILにおいては、すでに述べたように、倒置形の疑問文、感嘆文、不完全な文といった間接話法では取り込めない発話も取り入れることができる。(中略)受け手に何かを訴えるというより、表出される情動の強度のほうに重点が移っているように思われる。強い情動が込められているということは、疑問符や感嘆符が多用されるところにも現れている。」(65-66、強調引用者)

 


「(前略)単純過去で非人称的に語っていた書き手自身が、エンマの思いをあたかも自分の思いのように発しているのだ。地の文と作中人物の発話の境界が取り払われてしまっているために、書き手自身もエンマの声に同調し、自分でも意識せずに突然自然に思いが噴出したという印象をもたらしている。書き手はここではもはや語り手という媒介者を通して、作中人物の意識を言語化し誰かに伝えているというより、その意識の現われを「直接的に」自分の声のように受け止めているというふうなのだ。言ってみれば、書き手はその存在に憑依したように言葉にしているのである。」(p.68、強調引用者)

 

 「情動のこもったSILは、非反省的意識に属することが多いのである。(中略)SILの文体論的特性は、この「非反省的意識」に関わるときにより強く現われるのだ。」(p.69、強調引用者)

 

論文では以下の2本。

橋本陽介「『物語世界の客体化』からみる自由間接話法の言語間比較」『慶應義塾大学藝文学会』2009, Vol. 96:165-181

溝上瑛梨「自由間接話法と語りのフレーム」『言語科学論集』2016, 22:107-127