キューバ文学(6)で、カブレラ=インファンテから見たヘミングウェイについて触れた。
ノルベルト・フェンテスの『ヘミングウェイ キューバの日々』を見たところ、カブレラ=インファンテの書いたエピソードがそのまま載っていた。
バー、フロリディータでキューバ人作家リサンドロ・オテロと友人がヘミングウェイに話しかけると、「仕事をしているときに邪魔をするな」と言われ、あこがれていた作家の横柄な態度にがっかりする。
そのときヘミングウェイは、オテロといたキューバ人にふざけてパンチを放つそぶりを見せ、男がうまくかわすと、ボクサーになればいい、と言った。その後、ヘミングウェイが自邸フィンカ・ビヒアに彼らを招待し、後日訪れる。
カブレラ=インファンテの「自伝」では、彼もこのときにバーにいてヘミングウェイを見、また後日一緒にフィンカ・ビヒアに行ったことになっているのだが、フェンテスの本ではそのようには書かれていない。
カブレラ=インファンテは見てきたようなことを書くのが得意だから、ここもそういうことかもしれない。ただ彼がキューバを去ったあと、マドリードでヘミングウェイと会話をしたことが記されている(pp.285-286)。むしろ、「自伝」によればカブレラ=インファンテは映画『老人と海』(1958年)の撮影の取材をしていたようなのだが、この話はフェンテスの本には出て来ない。
いっぽう、『ヘミングウェイ キューバの日々』にはニコラス・ギジェンやカルペンティエル、サムエル・フェイホー(画家)のヘミングウェイ観も載っている。
ギジェンの詩「西インド会社」の冒頭をヘミングウェイは翻訳したらしい。「ヘミングウェイは実際にはキューバ人を知らなかった」(p.250)。
うかつなことに、エドムンド・デスノエスがヘミングウェイをどう見ていたのかもある。先日、『低開発の記憶』に関する論文を書いたところだった。この本も参考になったはずだ。
デスノエスによれば、「ヘミングウェイが旧スペイン植民地キューバに住まいを定めたのは、そこで、スペインと同じ言語が話され、スペイン文化の多くの要素が保たれているからだった。キューバは、スペインを愛するアメリカ人にとっては理想の住みかだった」(p.270)。
また、ノルベルト・フェンテスによれば、「キューバは、スペイン内戦の以前から、ヘミングウェイの関心おくあたわざる争乱、革命の地でもあった。1930年代初め、彼がキューバで学んだものは、『アフリカの緑の丘』のなかの会話に、要約したかたちで表現されている」(p.270)。
(続く)
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