2023年5月28日日曜日

5月28日 『TAR /ター』とアマゾン、そして近況

映画『TAR /ター』の主人公リディア・ターはベルリン・フィルではじめて女性で首席指揮者になった人物だ。映画はできるかぎり現実世界との連続性を持たせようと、実在の人物によるターへのインタビューが冒頭シーンに据えられている。

仮構は仮構として面白いと思ったのは、アメリカ生まれの彼女はペルー・アマゾン、ウカヤリ(Ukayalí)地方に住む先住民シピボ=コニボ族(Shipipo-konibo)の音楽の専門家ということである。5年間アマゾンで調査をした経験が、彼女が出版しようとしている本で書かれている。

そのペルー音楽は映画でも流れる。Elisa Vargas Fernándezの「Cura Mente」という曲だ。Youtubeには、映画制作よりも昔の映像がある。例えばこれとかこれ

シピポ=コニボ族の住むウカヤリは行政単位としては県のようだが、その首都はプカルパ(Pucallpa)である。バルガス=リョサの作品に慣れ親しんでいればよく聞く地名で、『ラ・カテドラルでの対話』でアンブローシオがアマーリアと行った場所だ。

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バルガス=リョサの方の進展で言うと、『果てしなき饗宴』から、その翻訳者工藤庸子の『恋愛小説のレトリック』(東京大学出版会、1998)を経由して、そこから芳川泰久『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む』(せりか書房、2015)へ。



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近況としては、昨日今日と気圧低下できついけれど、そう、先週末に3年ぶりにスペイン語文学研究会が復活して4時間を超えた。この分なら午前午後から続く5、6時間くらいの研究会ができる環境になってきたということで、楽しみだ。

ラテンアメリカ学会が6月3日・4日(明治大学駿河台キャンパス)。

同じ6月3日には、東京外大で市民講座、星泉さんによる「犬から目線で楽しむチベット文学」がある。

6月9日・10日・11日は調布のせんがわ劇場で「死者たちの夏2023」。

そしてその次の週末の土曜日6月17日は再び東京外大で市民講座、「イスラームのいま」。なおかつ、この土日は西洋中世学会が明治大学駿河台キャンパスで。

『緑の家』論を書きたいものだ、いつか必ず!


2023年5月22日月曜日

5月22日 『果てしなき饗宴』(続き)【6月5日追記】

『果てしなき饗宴』(原書1975、邦訳1988)についての続き。

バルガス=リョサがなぜフロベールを気に入っているのかがわかる箇所。

彼はまずヌーヴォー・ロマンの大部分の作家の作品には退屈してはいたが、こうした作家がフロベールの意義を認めていることもあることは知っていて、研究書や論文を通じて新しい小説群とフロベールの関係を学び、中でもナタリー・サロートの論文「先駆者フロベール」を読んで、反論したい箇所が山ほどあって、それがこの『果てしなき饗宴』を書かせているとも言える。ちなみにナタリー・サロートのことは、『プリンストン大学で文学/政治を語る』でも言及している(p.21-22)。曰く「私は、ヌーヴォー・ロマンの作家たちの大部分は、今ではほとんど読まれていないと思います」(p.22)

バルガス=リョサにとってフロベールへの愛着が揺らぎのないものになったのは、フロベールが「騎士道小説を書くのはぼくの昔からの夢なんです」(『果てしなき饗宴』p.49)と言っているところとも思える。

またフロベールには、『ボヴァリー夫人』を書いているときに『ドン・キホーテ』を再読し、スペイン旅行の計画もあったらしい(結果的には実現しなかった)。(p.91)

そしてなるほどな、と思ったのは、この本の第三部で『ボヴァリー夫人』においては「凡庸さ」が美として描かれていることを称賛しているところである。

「『ボヴァリー夫人』では、両極【引用者注--英雄か怪物のこと】から等しく離れた中間地帯、地味で平坦でみじめな凡人の生活をふくむ曖昧な一帯が「美しさ」を産出するところに変貌する」(p.248)

バルガス=リョサが英雄的怪物、怪物的英雄を描いているようでいながら、実は「凡庸さ」好みの一面があることを証明する箇所である。

さて、自由間接話法についてバルガス=リョサは以下のように言っている。

「フロベールがもたらした偉大な技法、それは、「全知の語り手」を登場人物にかぎりなく近づけて、両者の境界線がついに見えなくなるところまでもってゆき、そこにひとつの両面性をつくり出し、語り手の言うことが、「不可視の報告者」に由来するものか、それとも頭のなかで独白をつぶやいている登場人物に由来するものか、読者が判定できぬようにしてしまうという方法である。」(p.241、ゴチックは邦訳では傍点強調)

そして例(下の引用の下線部)を挙げる。

「(前略)動詞を省略しただけで、登場人物の内面生活がほんの一瞬、稲妻が光るように垣間見えることもある。《ルオー爺さんにしてみれば、もてあまし気味の娘が片づくことに不服はなかった。娘は家にいても役に立つというほどのこともないのだ。だがその点、爺さんは内心あきらめていた。なにせうちの娘は頭がよすぎるから、農業なんてお天道様に呪われた仕事なんざやるがらじゃない。百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》引用部分の冒頭とおわりの部分で話しているのが、「全知の語り手」であることは、まちがいない。」(p.243、ゴチックはバルガス=リョサによる強調で邦訳では傍点、また下線部は引用者による)

この引用部分については、引用の冒頭部分(「ルオー爺さんにしてみれば」から「ほどのこともないのだ」までは「全知の語り手」によるものだが、その先では徐々に語り手がルオーに近づいていく。バルガス=リョサは原文の"intérieurement"(内心)に注目してそう言っている。

そしてバルガス=リョサは自身が傍点強調している「お天道さまに呪われた仕事」について、「これは、ルオー爺さんその人が、頭のなかでぼやいた台詞のように感じられるではないか。もちろん結論の部分(《百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》)では、これとちがって、明らかに「全知の語り手」が、話を引きついでいる。自由間接話法のおかげで、『ボヴァリー夫人の散文は、伸縮自在の柔軟性を与えられ、叙述のリズムや統一を乱すことなく、空間や時間の変化を自由にこなせるようになった。」(p.244)

『ボヴァリー夫人』から原文で引用すると以下の箇所。

“Le père Rouault n’eût pas été fâché qu’on le débarrassât de sa fille, qui ne lui servait guère dans sa maison. Il l’excusait intérieurement, trouvant qu’elle avait trop d’esprit pour la culture, métier maudit du ciel, puisqu’on n’y voyait jamais de millionnaire.”(抜粋:: Flaubert, Gustave  “Madame Bovary – Bilingual French-English Edition / Edition bilingue français-anglais (French Edition)”。 

スペイン語では以下のようになっている。

"Al tío Rouault no le hubiera disgustado que le liberasen de su hija, que le servía de poco en su casa. En su fuero interno la disculpaba, reconociendo que tenía demasiado talento para dedicarse a las faenas agrícolas, oficio maldito del cielo, ya que con él nadie se hacía millonario. "

「お天道様に呪われた仕事」の「呪われた」(maudit(仏)、maldito(西))が口語表現ととれるところから、ここをルオー爺さんの台詞のように読み取ろうというのがバルガス=リョサ。

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[6月5日追記]

『果てしなき饗宴』からさらに重要と思われるところは以下。

「『ボヴァリー夫人』においては、自由間接話法のシステムが用いられるのは、ほとんどいつも、現実から何かの刺激を受けた人間の精神が、記憶を通して過ぎ去った経験を甦らせるさまを見せるためである。さらに、あらゆる感覚や感情、強烈な印象をもたらした出来事などは、それ自体で孤立した存在ではなく、あるプロセスの開始、すなわち、時間が経ち、新しい経験があるたびに、追憶によってあらたな判断や意味がそれにつけ加えられてゆくプロセスの開始に当たるのだということを示唆するときにも、自由間接話法が使われる。」(p.260-261)




2023年5月21日日曜日

【イベント告知】死者たちの夏2023:6月9日、10日、11日音楽会と朗読会

実行委員のひとりとして関わっているイベントの告知です。


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死者たちの夏2023 ジェノサイドをめぐる音楽と文学の3日間 


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100年前の首都圏で、日本人はなぜ、ふつうに人間に対するように、朝鮮人に向き合うことが出来なかったのか。 


人を「殺害可能」な存在とみなすために、どのような偏見や妄想が準備されたのか。


私たちは7年前の夏に相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きたときにも同じ問いを自分にぶつけた。 


世界には残虐な行為があふれている。いまも、さまざまな場所で、人間が人間を殺している。なぜ? 


たしかに、人間を戦争に向かわせ、ジェノサイドに向かわせるのに、言葉や音楽は大きな力を発揮する。


しかし、そこに気づかせてくれるのも音楽、そして文学なのだ。


西 成彦 


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◉会場:調布市せんがわ劇場 東京都調布市仙川町1-21-5/京王線仙川駅徒歩4分
◉チケット:一般3,200円(自由席・前売当日共)/学生1,800円(学生証提示) (席に限りがありますお早めのご予約を!)
◉リピーター料金:(チケット半券提示で)各回 500円割引
◉お問い合わせ:2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)


◉チケット予約はこちら:リンクに飛べない方は以下のURLから
https://forms.gle/g4x5toLi8bWPJANy6





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1)音楽会
2023年6月9日(金)
開演19:00 開場18:30
イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ


(演奏曲目)
Yisrolik, Papirosn (たばこ売りの戦争孤児の歌/イディッシュソング)
N’kosi Sikelel iAfrica (アフリカ黒人解放運動アンセム)
Der Graben (塹壕/第一次大戦の悲惨さを問う反戦歌)
鳳仙花 (韓国初の近代歌曲かつ抗日運動のアンセム)
不屈の民 (南米民主化運動の世界的アンセム)
平和に生きる権利 (チリ民主化運動に命を捧げたビクトル・ハラの名曲) ほか




◉出演:こぐれみわぞう(歌、チンドン太鼓)
大熊ワタル(クラリネット ほか)
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
◉解題トーク:東 琢磨、西 成彦


◉チケット予約はこちら

HPはこちら


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2)&3) 朗読会
2023年6月10日(土) 開演14:00 開場13:30
ホロコーストの記憶との闘い


(朗読テキスト)
チェスワフ・ミウォシュ「カンポ・ディ・フィオーリ」
ヴワディスワフ・シュレンゲル「向こう側が見える窓」
パウル・ツェラン「死のフーガ」「暗闇」「白楊」
後藤みな子「炭塵のふる町」
シャルロット・デルボー「マネキンたち」
ドヴィド・ベルゲルソン「二匹のけだもの」 ほか

(キーワード) ワルシャワ/アウシュビッツ/ヒロシマ/ナガサキ/ウクライナ


2023年6月11日(日)
開演14:00 開場13:30 ポストコロニアルを生きる道


(朗読テキスト)
エドウィージ・ダンティカ「骨狩りのとき」
エドゥアルド・ガレアーノ「日々の子どもたち」
エドゥアール・グリッサン「苦しみの台帳」
ダヴィッド・ジョップ「アフリカ」
ダニエル・キンテーロ「度々の実践について」
アブドゥラマン・A・ワベリ「いくつもの頭蓋骨が」
目取真俊「面影と連れて」 ほか


(キーワード) ハイチ/マルティニーク/ペルー/アルゼンチン/ルワンダ/オキナワ


◉出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
◉解題トーク:久野量一、大辻 都、西 成彦 ほか
◉演出:堀内 仁 
◉音楽:近藤達郎


◉チケット予約はこちら


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◉照明・舞台監督:伊倉広徳
◉音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
◉舞台美術:菅野 猛
◉衣装:ひろたにはるこ
◉撮影:片桐久文 
◉プロデューサー:瀧川真澄
◉協力:立命館大学国際言語文化研究所、劇団もっきりや、株式会社ヘリンボーン、俳協、有限会社プロダクション・タンク


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「死者たちの夏2023」実行委員会
◉実行委員長
西 成彦 (ポーランド文学、比較文学)
◉実行委員(50音順)
石田智恵 (南米市民運動の人類学)
大辻 都 (フランス語圏カリブの女性文学)
久野量一 (ラテンアメリカ文学)
栗山雄佑 (沖縄文学)
近藤 宏 (パナマ・コロンビア先住民の人類学)
瀧川真澄 (俳優・プロデューサー)
寺尾智史 (社会言語学)  
中川成美 (日本近代文学、比較文学)
中村隆之 (フランス語圏カリブの文学と思想)
野村真理 (東欧史、社会思想史)
原 佑介 (朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨 (音楽批評・文化批評)
福島 亮 (フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁 (演出家)
◉補佐
田中壮泰 (ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅 (原爆文学)
◉アドバイザー
細見和之 (詩人・社会思想史)





2023年5月18日木曜日

5月18日 『ウェストサイド物語』とジャニー喜多川

ジャニー喜多川(1931-2019)のことが取り沙汰されているが、この事件は日本の芸能界にとって大きな転換期になるかもしれない。

ジャニー喜多川の死、そして彼の暗部が明かされるのとほぼ同時期に、奇しくも『ウェストサイド物語』のリメイク版ができている。

ブロードウェイのミュージカルを元に映画化されたのが1961年。そしてスピルバーグによるリメイクが2021年。この間にジャニーズ事務所の誕生から隆盛、そして衰退がある。

ジャニーズ事務所の設立は1962年。ジャニー喜多川が『ウェストサイド物語』を少年たちと見に行って、それに感銘して少年アイドルグループによる芸能界への参入に至ったのは有名な話だ。

矢野利裕の『ジャニーズと日本』(講談社現代新書、2016年)にはその辺りのことが書かれている。1962年のNHKの『夢であいましょう』に田辺靖雄のバックダンサーとしてジャニーズのタレントが出演したのが最初らしい(同書、p.39)。

この本にはジャニー喜多川の経歴が書かれているが、その中で驚いてしまった箇所がある。

日系2世としてロサンゼルスに生まれたジャニー喜多川は、アメリカ人として朝鮮戦争に従軍していたのだ(同書、p.20)。おそらく朝鮮半島では国連軍所属のさまざまな出自の兵士、米軍ではプエルト・リコ出身の兵士にも会っただろう。

ジャニー喜多川がいたのはロサンゼルスというラティーノたちの多い都市である。ロサンゼルスでは劇場でアルバイトをしていたという。

間違いなく1940年代、50年代のロスのメキシコ系移民への差別は目の当たりにしているのだ。日系、ラティーノ系の入り混じるエンターテインメントの都市にいたら、カタコトのスペイン語くらいできたとしてもおかしくない。

アメリカ時代の長かったジャニーはもしかすると、ミュージカル版の『ウェストサイド物語』すら見た経験があり、それが映画化されたのでジャニーズ少年野球団と一緒に見にいったのかもしれない。

ジャニーは物語の題材がプエルト・リコ移民に対するヘイト・クライムだということが、すぐにわかっただろう。日系2世としての彼が感情移入したのは、もちろんプエルト・リコ移民だったにちがいないからだ。

アメリカ文化を日本に持ち込んだその出発点が、『ウェストサイド物語』(=移民差別映画)を見たことにあるというジャニー喜多川の立身出世物語には、自らも移民でありおそらく差別を受けたジャニーなりの葛藤が隠されていると読み取りたい。



 

2023年5月16日火曜日

5月16日 村上春樹とガルシア=マルケス

村上春樹の『街とその不確かな壁』にガルシア=マルケスが引用されている。『コレラの時代の愛』の一節だ。

丁寧にも村上春樹は、その場面が小説の終わりの方に出てくることを教えてくれているが、かなり唐突な印象を与える引用であることは間違いない。

『街とその不確かな壁』も同じように終わり部分に差し掛かっていて、ストーリー展開としては、ここがこの小説の最後の大きなターンと言える。

引用部分は、老齢になったフロレンティーノ・アリサがついに初恋の相手であるフェルミーナ・ダーサとマグダレナ川の船旅に出た場面である。フロレンティーノにとっては50年越しの恋が、夫を失ってフェルミーナが未亡人になったことで叶えられそうになる。二人はコレラ危機の中で船旅に出る。そしてマグダレナ川に出没する女の亡霊伝説が言及されるのだが、そこが春樹小説で引用される。

その亡霊は「白い服を着た」「溺死した女 una ahogada」と書かれている。実は先日の学部のゼミ生の発表を聞いてハッとしたのだが、そうか、これはコロンビア版の「泣く女 la llorona」伝説だったのだ。

死んだ女が川辺りに現れる--そうして見ると、この春樹の小説で、『コレラの時代の愛』の引用後すぐに出てくる場面は面白くなる。だからこそ最後の大きなターンなのだ。

その場面ではこの小説の重要なモチーフである川が出てきて、その川辺で45歳になった男(「私」)と少女との再会が起こる。17歳の少年時の束の間の恋は、その少女が忽然と消えることで少年の心に傷を残す。

その後、少年だった「私」は、フロレンティーノ・アリサのように彼女を思いに思い続ける。彼女はどうなってしまったのか?小説では簡単にはわからない。

でも『コレラ』からすれば、おそらく白い服を着て(春樹の小説では淡い緑のワンピースだが)川べりに出没する亡霊になったのだ。そんな亡霊の存在を信じたいという作者によってG=マルケスが引用されている。

16歳のこの少女は、17歳の「私」と連絡を絶ったあと死んだということだ。






2023年5月14日日曜日

5月14日 『ケルト人の夢』と『緑の家』

フシーアについては、立林良一の論文「『緑の家』におけるフシーアの人間像と文体」がある(東京外国語大学大学院外国語学研究科言語・文化研究会『言語文化研究』4号、71-79、1986)。この論文でも、このブログでかつて触れたバルガス=リョサのHistoria secreta de una novelaが参照されている。

しかしそれにしても、その後の『楽園への道』と『ケルト人の夢』が書かれたいま、フシーアという人間にバルガス=リョサが関心を抱いたことは改めて考えてみたくなる。

研究者のエフライン・クリスタルは、『緑の家』をコンラッド『闇の奥』のアマゾン版とみて、フシーアをクルツと重ねている。

「クルツと同じようにフシーアは外国人ながら先住民の領土を作り上げ、クルツと同じようにボートによる死の旅に出て、大きな川を下ってジャングルの中心地から移動していく(後略)」(Efraín Kristal, From utopia to reconciliation, The Cambridge companion to Mario Vargas Llosa, p.142)

クリスタルはそして、『緑の家』の白人ゴム事業者フリオ(・レアテギ)は、『ケルト人の夢』に出てきた実在のフリオ(・C・アラナ)のことだとしている。

この指摘はかなり面白いが、残念ながら、Historia secreta de una novelaの中にはフリオ・C・アラナの名前は出てこず、フリオ・レアテギは実在した人物として言及されているので、そう簡単にこの2人のフリオを直結はできない。もし50年代、60年代にバルガス=リョサがフリオ・C・アラナに言及していた資料でも出てきたら、うれしい悲鳴をあげる研究者は多いだろうが。

バルガス=リョサはこの小説を書いているとき、パリにいてルプーナの木がなんなのかまったくわからずにパリの植物園で調べて書いたり、フシーアの病気についてはフローベールのエジプト紀行から想像を膨らませていた。

史料があることを前提に書いていった実在のゴーギャンやケイスメントと、伝説上の存在であるフシーアをつなぐ点線を、クルツや以前言及したフィツカラルドを介在させながら浮かび上がらせてみたいものだ。

Historia secreta de una novelaでは、ゴム・ブームそのもの、そしてその期間にあった白人からの暴力のことはまったくと言っていいほど触れられていない。バルガス=リョサがアマゾンをめぐってその時見るもの・聞くもの・読むものというのは、面白いことに、これから書こうとする内容(つまりその後『緑の家』になるもの)に事前に影響を受けている。

もちろんまず見ることがあってそれから書くわけだから、書くことはあくまで見たあとに事後的に起こる。しかしそれでも、時間的には見る行為の後にやってくる書く行為は、見る行為に事前に力を及ぼしうる。書こうとしていないこと(言語化できないこと)は目に入らないものであって、ここがまた面白いところだ。

しかしだからこそ、フィクションとしての『緑の家』にはそうしてこぼれ落ちていった言語化されなかった(見えなかった)ものの痕跡が多々見つかるのではないか、ということだ。フシーアはもちろんのこと、フムしかり、先住民に対する暴力もしかり。

そう、それからクリスタルは、歴史的に存在した娼館としての「緑の家」を建てた者もまたケイスメントと同様、クィアであったと見ている(この部分はあまりにあっさり書かれているので、何を根拠にしているのか、まだよくわからない)。


「『ケルト人の夢』のアマゾンセクションはゴム・ブームの全盛期のことだが、これはゴム・ブーム後に時代が設定された『緑の家』の前史なのだ」(p.142)

つまりバルガス=リョサが見たのは、暴力が起こったあとの静けさだったのかもしれない。



2023年5月13日土曜日

5月13日 バルガス=リョサと通底器(vasos comunicantes)

バルガス=リョサは『若い小説家に宛てた手紙』のほぼ最後の11章で「通底器」を取り上げている。スペイン語ではvasos comunicantesというこの用語はバルガス=リョサが小説の分析の際にとくに好んで言及する手法である。当然それは自らの小説にも生かされていく。

ではこの「通底器」をいつからこの作家が言っていたのかということについて文献を探ってみたところ、一次資料は見つからなかったのだが、少なくとも研究者が引用していることを参照すれば、1969年8月11日ウルグアイの共和国大学(Universidad de la República)で行なった講演が最も古いのかもしれない。

この講演録はモンテビデオの「Cuadernos de Literatura」(1969年第2号)に掲載されているようだ。この情報の出典は、José Luis Martín, La narrativa de Vargas Llosa: acercamiento estilístico, Editorial Gredos, 1974 である。

孫引きになるが、この上記研究書から引用しておくと、そこでバルガス=リョサは「通底器」について以下のように言っている。

Consiste en asociar dentro de una unidad narrativa acontecimientos, personajes, situaciones, que ocurren en tiempos o en lugares distintos; consiste en asociar o en fundir dichos acontecimientos, personajes, situaciones. Al fundirse en una sola realidad narrativa cada situación aporta sus propias tensiones, sus propias emociones, sus propias vivencias, y de esa fusión surge una nueva vivencia que es la que me parece que va a precipitar un elemento extraño, inquietante, turbador, que va a dar esa ilusión, esa apariencia de vida. (José Luis Marín, p.181)

その後、バルガス=リョサは『ガルシア=マルケス論ーー神殺しの歴史』でこの手法について再び言及する。この研究書は1971年に刊行され、昨年日本語に翻訳された(寺尾隆吉訳、水声社)。

vasos comunicantesの訳語は「連通管」になっている。以下、『大佐に手紙は来ない』の分析箇所である。

「(前略)これによって、楽観的理想主義の世界観(主人公の精神)を示す態度と、客観的現実によってこの世界観が容赦なく反駁される状況とが、作品内に交互に現れることになる。連通管の手法(二つ以上の異なる時間や空間で生起する状況、二つ以上の性質の異なる情報が一つの物語内で溶け合うことで、双方の現実が引き立て合い、修正し合いながら豊かさを増し、単なる寄せ集めにとどまらない新たな現実を作り上げること)によるこうした題材の組織(後略)」(『ガルシア=マルケス論』、p.247)

ちなみに「通底器」については、バルガス=リョサがカタルーニャ語による騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』に寄せた序文でも触れていることが別の文献(Inger Enkvist, Las técnicas narrativas de Vargas Llosa, Acta Universitatis Gothoburgenesis, 1987)でもわかっている。


この騎士道小説の日本語版の序文(『ティラン・ロ・ブラン』岩波書店)にもバルガス=リョサの序文は載っているのだが、これは2003年に書かれたものである。

このような流れを経て『若い小説家に・・・』の執筆に至っているようだ。

写真は、バルガス=リョサのガルシア=マルケス論の書影。この論文でマドリード・コンプルテンセで博士号を授与した。

 

Mario Vargas Llosa, García Márquez: Historia de un deicidio, Barral, 1971. 

この本はかつて神奈川大学の図書館で借りて読み、その後現物を入手した。

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村上春樹の『街とその不確かな壁』にガルシア=マルケスが引用されている。『コレラの時代の愛』の一節で、老齢になったフロレンティーノ・アリサがついに初恋の相手であるフェルミーナ・ダーサとマグダレナ川の船旅に出た場面である。

村上春樹は丁寧にもその場面が小説の終わりの方に出てくることを教えてくれているが、かなり唐突な印象を与える引用で、そこはマグダレナ川に出没する女の幽霊が言及されている。原文でも「溺死した女 una ahogada」の幽霊と書かれていて、実は昨日の学部のゼミ生の発表を聞いてハッとしたのだが、コロンビア版の「泣く女 la llorona」伝説である。

そうして見ると、この春樹の小説で、『コレラの時代の愛』の引用後すぐに出てくる場面が面白くなる。そこではこの小説の重要なモチーフである川が出てきて、その川辺で45歳になった「私」と少女との再会があるのだ。つまり、15歳のこの少女は死んでいたということになる。