2016年7月13日水曜日

芝居『この村に泥棒はいない」/『コルネリア』

芝居を見てきた。

演出:守山真利恵『この村に泥棒はいない』/『コルネリア』
出演:鎌田紗矢香、むらさきしゅう

「この村に泥棒はいない」の原作はガルシア=マルケス、「コルネリア」のほうは、原題が「鏡の前のコルネリア」でシルビーナ・オカンポが原作。どちらもラテンアメリカの短篇小説。そしてどちらも邦訳は安藤哲行氏。台詞は翻訳書から用いられている。

「鏡の前のコルネリア」は何年か前にアルゼンチンで映画になっていて、その記憶が残っている。 トレイラーはこちら

芝居では二つの短篇が5分の休憩を挟んで、75分で演じられた。順番は「コルネリア」が先で、後に「この村に泥棒はいない」。冒頭だったかと思うが、おそらくこの曲が使われていた。とても好きな曲だ。

プログラムに演出の守山さんが一筆書いている。彼女は「コルネリア」から一節を引いたあと、こう言っている。

「この圧倒的な孤独の感覚はどこから生まれてくるのだろうか、とふと思う。孤独というより、圧倒的な『うまくいってなさ』と言うほうが正しいかもしれない。(中略)オカンポ、マルケス両名が今日の2作品に描き込んだ鈍痛が、特にわたしたちの世代には無意識に落とし込まれてしまうくらい自然な問題(後略)。それがそもそも痛みなのだということすら、既に知覚できなくなっているんじゃないか、と。」

 「わたしたちの世代」というのは守山さんの世代で、おそらく20代。「うまくいってなさ」というのは、個々人の私的なレベルから、いまの日本のみならず、現実世界の状況まで広い範囲をさしているのだろう。

うまくいっていないという感覚、ある種のストレスやもどかしさを、おそらくまったく共通点のなさそうなこの2篇に見出したというのはとても面白い、いやすごいと思った。

原作のコンテクストで言えば、おそらく「鏡の前のコルネリア」ではブエノスアイレスのブルジョア的かつ夢幻の世界が、また「この村に泥棒はいない」の場合には、カリブ熱帯の退屈世界が背景として広がっているのだが、そういったものを削ぎ落としたところには、男女のすれ違い、(生きる)意味のすれ違い、(生きる)時間のすれ違いなどが共通テーマとして出てくるわけだ。

そしてそのすれ違いのもどかしさやイライラは、二人の熱っぽい、ときにヒヤヒヤするような演技によって存分に示されていたと思う。

いろいろと考えさせる芝居だった。

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