2016年8月19日金曜日

キューバ映画(9)『最後の晩餐』(La última cena)

キューバ映画『最後の晩餐』(La última cena) は、1976年のトマス・グティエレス=アレア監督作品。

舞台は18世紀後半、キューバの砂糖黍農場(ingenio)で四旬節(灰の水曜日から聖週間)に起きた出来事。キリスト教の暦がこの映画では重要だ。
 
ヨーロッパ貴族で砂糖農場のオーナーである伯爵は農場を訪れ、奴隷たちの過酷な状況を見たのち、彼らを晩餐会に招くことにする。

奴隷頭のマヌエル(El mayoral)にさんざん痛めつけられている奴隷に同情を覚え、一種の贖いをしたくなったからだ。

実はその日伯爵が見たのは、犬に捕らえられた逃亡奴隷が手ひどい暴力を受けるところだった。残虐さを目の当たりにしたことが、伯爵をキリスト教精神の発揮に向かわせる。

キリスト教と奴隷制度はどのような関係にあるのか、というのがこの映画の主題。

晩餐に招かれたのは12名の奴隷。そのなかには、年老いて、いつになったら自由になれるのかを心待ちにしている奴隷もいる。

大きなテーブルに、ダヴィンチの絵をそのままコピーしたかのように、一同は腰掛ける。

伯爵は中央に座り、酒を飲み、酔いも回って上機嫌になり、いくつかのキリスト教的教訓話を聞かせる。また「最後の晩餐」よろしく、奴隷の足を洗い、口づけする。翌日の聖金曜日はキリスト教のしきたりに従って休んでよいとさえ請け合う。しまいに伯爵は酔いつぶれる。

奴隷はそんな伯爵の話に、ときに真剣に、ときに笑いながら耳を傾ける。わかったようなわからないような話だ。結局苦しむのが人間という風にも聞こえる。それでも食べ、飲み、踊り、歌い、これまでにない歓びを味わう。

翌日、奴隷たちは晩餐のときの約束にしたがって働かない。ところが話が違う。マヌエルは暴力を用いて強いてくるのだ。

耐えられない奴隷はついに反乱を起こす。一斉蜂起が始まる。

奴隷はマヌエルを捕らえて正義、つまり処刑を求めるが、それに先立って、前日に意気投合した伯爵の立ち会いがあるべきとの判断。結果、二人の使者(二人の奴隷)を伯爵邸に向かわせることにする。

自邸で目を覚ました伯爵は司祭の訪問を受ける。今日は休みですね、と確認を求められるが、伯爵は、それはマヌエルが決めることだと相手にしない。おや、昨日の伯爵の寛容はなんだったのか? と司祭は疑問に思う。

そうこうするうちに、伯爵は奴隷反乱の知らせを受け、農場へ向かうことにする。奴隷への同情は、なぜか薄れつつある。昨夜は酔いに任せて調子に乗っただけだったのか。

道中、伯爵一行は、伯爵邸に向かってきた二人の奴隷と対面する。奴隷の一人を殺し、農場へ行く。
 
伯爵が着いたころ、すでにマヌエルは処刑され、農場には火が放たれていたが、多勢に無勢、奴隷の反乱は鎮圧される。

教会には遺体が運び込まれ、司祭がミサを執り行おうとする。

伯爵は遺体のなかに、マヌエルや砂糖農場経営者の妻(蜂起に巻き込まれて死んだ)のみならず、死んだ奴隷も並べられるのを見て怒りに火がつく。

前の日に同じテーブルをともにしたのだったが、奴隷が「白人やムラート」と平等に扱われていることは、やはり伯爵にとっては受け入れ難いことだったのだ。

伯爵は、その場にいた老奴隷(前の日には冗談を言い合った仲)の殺害を命じる。さらに、晩餐に出席したすべての奴隷の殺害を命じ、一人を除いて処刑される。

こうして、博愛から残虐へと一気に態度を翻した伯爵は、死んだ奴隷頭マヌエルのために十字架を立てる。

そのころ、たった一人逃げおおせた逃亡奴隷は山をのぼっていた……

おおむね、以上のようなストーリーである。

クレジットを調べると、原作者としてマヌエル・モレノ・フラヒナルの名前があがっている。マイアミに没したキューバの歴史学者だ。彼の本は一冊邦訳がある。 

砂糖大国キューバの形成―製糖所の発達と社会・経済・文化』(本間宏之訳)、エルコ、1994年。

 ひょっとしてこの本に映画のタネがあるのだろうか?今度調べてみよう。

[この項、続く]

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