村上龍の『アメリカン★ドリーム』(講談社文庫、1985年)を読んでいたら、へえと思うような内容が。
「(前略)横田基地の周辺を描いたこの小説[『限りなく透明に近いブルー』]では、アメリカ兵から麻薬を貰い、アメリカ兵の性器を受け入れ、アメリカ(イギリス)の音楽を好む日本人の若い男女が描かれていた。/それが、「日本は今だに占領されている」という意識を持つ批評家を不愉快な気分にさせたのは当然だ。恐らく私のこのデビュー作は、後年、日本の「被占領性」を露呈したものとして、判断が下されるだろう。」(134ページ)
ちなみに、ここの「批評家」とは柄谷行人のことである。この話はいろんなところで見聞きした記憶がある。村上龍はバブル時代に、『Ryu's Bar』というテレビ番組とかもやっていたし、そこだったかもしれない。
そしてもっと面白いのが以下の一節。
「当時、江藤淳は、「…………ブルー」を酷評した。「植民地文学」「サブ・カルチャー」という言葉が使われた。江藤淳もさぞかし不愉快だったのだろう。気付いていたからだ。「植民地文学」と「サブ・カルチャー」しか残っていないと気付いていたからである。江藤淳は、もし小説家だったら、三島、川端に続いて自決していただろう。入水か薬物と言うオーソドックスな方法で。私達は江藤淳氏死すの報に接していたはずだ。それほど鋭い人物である。」(135ページ)
江藤淳(1932-1999)が田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を評価し、村上龍の『限りなく…』を酷評したのは知っていたが(この辺りは加藤典洋『アメリカの影』に詳しい)、村上龍は江藤淳に言われたそのことに応答しているわけだ。
このときの村上龍には想像できなかったが、江藤淳は本当に自殺する。
江藤淳のいう「植民地文学」というのは、「宗主国文学」というのがあって、それより低いものとしてある植民地の文学ということだ。
自分たちの日常を取り巻くあらゆるモノ(言葉や思想も)が自分のものではない占領状態にある。それを低レベルだとして、そこから抜け出して自己を打ち立てることが、優れた素晴らしいこととしている。憲法改正みたいに。
で、村上龍は江藤に対して、こう言うのである。「私は、最近、自分の役割が少しずつわかってきた。私は、日本の「被占領性」をさらに露呈させるために、小説を書くのである。」
日本が占領されていることを明かしだてて、批評家連を苛立たせようというのが村上の試みというわけで、なるほど、そうしてみると、占領するアメリカを追い出した国であるキューバの音楽にいれこんで、ミュージシャンを連れてきたり、キューバ音楽本を出したりすることはそういうふうに読める。ほら、キューバはこうしているよ、日本にはできないでしょ、という。
キューバに絡んだ日本の作家というと、村上龍の20歳年上の小田実(1932-2007)はキューバ訪問のあと、ベ平連へ。
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アンドレス・フェリペ・ソラーノはコロンビア出身の作家。1977年生まれ。彼は2013年から韓国に住んでいる。その彼が韓国におけるコロナウィルスとのたたかいを本にした。
Andrés Felipe Solano, Los días de la fiebre: Corea del Sur, el país que desafió al virus, Editorial Planeta, 2020.
柳美里さんの受賞した全米図書賞の最終候補の一冊だったのが、コロンビアの作家ピラール・キンタナの本。
Pilar Quintana, La perra, Literatura Random House, 2020[初版2017].
2019年にはバスケスの短篇集が出ていました。
Juan Gabriel Vásquez, Canciones para el incendio, Alfaguara, 2019.
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岩波の『世界』12月号、藤沢周さんが書評欄『読書の要諦』で、ガレアーノ『日々の子どもたちーーあるいは366篇の世界史』に触れてくださった。ありがとうございます。出版されてからそろそろ1年。この1年が過ぎつつある。この1年が。
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