2020年8月31日月曜日

キューバ映画『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』

セルヒオ・ヒラル監督の奴隷三部作の第一作が『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』(1975)。

この映画はかなり凝った作りになっている。19世紀のキューバの小説家アンセルモ・スアレス・イ・ロメロ(Anselmo Suárez y Romero, 1818-78)が書いた小説『フランシスコ Francisco』を批判的に読み解くのだが、そのプロセスも映画にしてしまっている。

キューバ、ひいてはアメリカ大陸の奴隷制についての実態を教える映画なので、教育的でもあり、またスアレスの書き手としての限界を示しながら批判するので、極めてポストコロニアル的である。この映画を巡っては研究論文もあって、教育的な役割を持つのが第三世界映画なのだと言っている。

小説『フランシスコ』は、1838年に当時キューバで文芸サークル(tertulia)を立ち上げつつあったドミンゴ・デル・モンテ(Domingo del Monte, 1804-1853)の慫慂によって書かれ、キューバにいたイギリスの奴隷廃止論者リチャード・マッデン(1798-1886)がイギリスに持ち帰った。出版されたのはスアレスの死後、1880年のことである。出版されたのはNY。

小説の内容は、フランシスコとドロテアという二人の黒人奴隷同士の恋愛(細かいことを言えば、フランシスコは10歳でアフリカからキューバに連れて来られ、一方のドロテアはキューバ生まれのムラータ)にはじまり、彼ら奴隷が仕えている製糖農場の御曹司リカルドがドロテアに惚れてフランシスコに嫉妬するところから話がこじれ、苦しむドロテアはリカルドに身を委ね、それを知ったフランシスコが自殺するというもの。

監督は、当時の奴隷の置かれていた状況を考えさせることを目的に、スアレスが描かなかった「もう一人のフランシスコ El otro Francisco」を提示する。シェイクスピアの『テンペスト The Tempest』に対するエメ・セゼールの『もう一つのテンペスト Une Tempête』と同じように。

小説で行われているのは奴隷の理想化であるとして(悲恋により自殺するフランシスコ)、本物のフランシスコ(悲恋で自殺する可能性はあるが、しないかもしれない)を描いてみせましょう、という流れそのものをまたナレーション付きで教えてくれる。

ヒラル監督のその他2作にもあった白人の狂気は、農場の御曹司や、特に奴隷の監督係・人足頭(Mayoral)に取りつく。次第に機械化され、生産力を高めていく農場では、ますます多くの奴隷が必要になってくる。

奴隷が怪我や病気で診療所に入れられると、労働力が不足する。不足すれば経営は悪化する。だから診療所を訪れた農場主は医師に対し、とっととこいつらを働かせろ!と怒鳴りつける。当時の奴隷は4時間睡眠だった。逃亡して捕らえられれば、首にベルを吊るされる。懲罰小屋では両足を固定されて監禁される。こうした行為を積み重ねていくうちに、奴隷の監督係は歯止めが効かなくなる。

奴隷たちは夜間にダンスを許されるのだが、徐々にそのアフロ系の儀礼の太鼓と歌とダンスが白人たちの頭も心も支配していくかのようだ。もちろんこの儀礼が奴隷の蜂起にもつながっている。ファノンのいうように、植民地における生活は暴力そのものなのだ。

19世紀の前半にキューバでは多くの蜂起があった。その中では、ホセ・アントニオ・アポンテ(José Antonio Aponte, 1812没)による蜂起が有名だ。

イギリスは奴隷制度では割りに合わず、彼らを自由にして生かさず殺さずの労働者にとどめおく方が有利であると説くのだが(だから奴隷廃止論は博愛ゆえではないというのがよく知られているが)、キューバの製糖農場主はハイチの事例を見ているがために、奴隷制度を維持しようとする。黒人への恐怖がキューバの独立にブレーキをかける。

 



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