2020年9月27日日曜日

ゴーギャンとリマ Part I(福永武彦『ゴーギャンの世界』より)

福永武彦『ゴーギャンの世界』(『福永武彦全集 第19巻』新潮社、昭和63年)から、タヒチ以前のゴーギャンのリマ、パナマ、マルチニーク紀行を拾ってみる。

まずはリマから。巻末の年表の1849年、ゴーギャンが一歳の時。

「前年度の二月革命とルイ・ナポレオンの大統領当選の後に、父のクロヴィス・ゴーギャンはパリを逃れて、妻の母[フローラ・トリスタンのこと]の実家であるペルーのドン・ピオ・トリスタン・モスコーソを訪ねようと、家族と共に船に乗るが、航海中に動脈瘤のため十月三十日急逝し、マジェラン海峡の小さな港で埋葬される。三十五歳。母[アリーヌ=マリ・シャザール]はそのままポールとその姉のマリを連れて旅行を続ける。家族は六年間リマ市に滞在。」 (261ページ)

このようにしてリマに着いたゴーギャン一家。

「ポール・ゴーギャンが幼年時の四年間を過ごしたのは、このリマである。一八五〇年代のリマは、高度の文明と古代の野蛮との混淆、豪奢と不潔の共存だった。貴族たちは兀鷹の棲む城壁を張り廻した大邸宅に在って贅を尽し、その馬車は悪臭を放つ下町を練り歩いた。下町では黒人やインディアンが惨めな小舎の中に原始的な暮しを送っていた。この都市は奇妙な対照を形づくった。」(19ページ)

ペルーは奴隷解放が1854年。ゴーギャン一家がいた頃は、教科書的にはラモン・カスティーリャ統治時代で安定していて、グアノという海鳥の糞尿の堆積が肥料として輸出されるのが好調な時代だった。グアノ(guano)はコンラッドが『ノストローモ』で架空の国名として作り出した「コスタグアナ(Costaguana)」の元ネタではないかと言われている。

「若い未亡人が頼って来たのは、祖父の兄に当る、嘗てのペルー総督ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソである。この家長は当時既に百歳以上と傳えられていたが、尚矍鑠として健在だった。亡命の一家は此処で壮麗な邸宅を与えられ、なに不自由ない生活を送った。子供の眼を開いたものは、この異邦の、赫かしい太陽と海と街とである。」(19ページ)

この邸宅がどこにあったのか。インターネットで検索すると、こんな記事が出て来た。エマンシパシオン通りだったようだ。「百歳以上」と見られたドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソはアレキパに1773生まれ、1859年リマで没。

「パリ生まれの子供にとってすべては驚異に充ちていた。宮殿のような大邸宅、白い壁を飾る画幅と織物。銀器、燭台、壺などを置いた部屋、そこを行き交う婦人たちの絹の衣裳、裸の顎を飾る珍しい宝石、給仕をつとめるシナ人の可愛い侍童。街へ出れば華かなカーニヴァルの祭りのざわめき、黒色あるいは褐色の肌を見せた半裸の女たちの行列、子供たちの喧しい遊び声。」

地図でエマンシパシオン通り253(ゴーギャンが住んでいた住所)を検索すると、近くにチャイナタウン(Barrio Chino)がある。Wikipediaによれば、この地区ができたのは19世紀の半ば、ちょうどゴーギャンがいた頃。

[今日はここまで]

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