2025年4月14日月曜日

4月14日 『植民地文化研究』23号

ケンブリッジのシリーズで昨年出たキューバ文学史が届いた。編者はラテンアメリカ・アヴァンギャルド研究のヴィッキー・ウンルー(Vicky Unruh)と、キューバ文化・文学研究で、ソ連影響下のキューバについて業績の多いジャクリーン・ロスの二人。

The Cambridge History of Cuban Literature, Edited by Vicky Unruh and Jacqueline Loss, Cambridge University Press, 2024.

全体で785ページ。このリンクから、目次やインデックスを見ることができる。




近況として、植民地文化学会の年報『植民地文化研究』23号(2025)に、比較文学者・ポーランド文学者の西成彦さんとの往復書簡「ラテンアメリカ文学者に聞く」が掲載された。

西さんの問いかけに答える形で、これまで書いたことがないような自伝的なことも含めて、『百年の孤独』を出発点に、これまでの研究を振り返りながら、あれこれラテンアメリカ文学について論文では書いていないようなことを書いた。

移民や東アジアの文学のことまで、こういう形式だからこそ自由に書けることも多かった。ちょうどこのやりとりをしている頃に、ハン・ガンのノーベル文学賞があったりして、往復書簡でも少し触れた津島佑子の存在の大きさを思った。今後はここに書いたようなことをもとに論文その他で形にしていきたい。



2025年4月6日日曜日

2025年4月6日

4月1日、新年度がはじまった。1月から3月まで、ほぼ3ヶ月をかけて、年度を終わらせることと年度をはじめることの両方を交互にやりながら、〈晴れて〉ではなく、〈雨と雹に降られる〉寒さの中、4月ははじまった。


それでも3月の終わりには春らしい日もあって、卒業生の結婚式に招かれて鎌倉まで出かけた時は暖かい良い天気で、新郎が「晴れ男なので」と言っていたが、その通り、この3月終わりから4月にかけてあれほどの好天はあの数日しかなかったのではないかと思うくらいの晴れっぷりだった。

映画『エミリア・ペレス』を観てきたのだが、この映画は大いに問題がある。そのことを含めて評価されるべきだと思った。この映画のたいていの紹介記事には、自身トランスジェンダーであるカルラ・ソフィア・ガスコンのかつてのSNSでの発言が炎上したことが書かれているが、ここでの問題はそこではなく、この映画そのもの、この映画におけるトランスジェンダーの描き方である。

この映画の内容は、暴力の限りを尽くした麻薬王が、性別移行によって免責され、無処罰(スペイン語で言うところのimpunidad)が可能になった物語である。

ラテンアメリカにおいては暴力に対する無処罰は深刻である。『思想』2025年2月号のファノン特集で石田智恵がアルゼンチンの軍事独裁暴力の免責に触れている。

コロンビアでは麻薬カルテルの極悪犯罪人が整形手術によって身元を偽り、逮捕を逃げている。この映画では、そうした整形手術が性別移行に転用され、手術を受けた人物は処罰されることなく、その後の行動は「寛大さ」として描き替えられていく。何かがおかしいという声はどこかにあるのだろうか?

埼玉県立近代美術館の展覧会「メキシコへのまなざし」を見てきた。学期が始まる直前にゼミでフィールドワークとして募ったところ大勢参加した。

当日はこの企画を担当された学芸員の方が学生たちのために、展示の概要を説明してくださり、その後みんなで鑑賞し、質疑応答、そして再度質疑に基づいて、展示を確認できるように整えていただいた。

利根川光人はメキシコの遺跡を形にして日本に持ち帰ろうと拓本を使う。その拓本も展示され、「心臓を喰らうジャガー」などを見ることができる。質疑応答の時に学生の質問に答える形で教えていただいたのだが、拓本は石を水で濡らして和紙をあてるだけなので、墨を塗って石碑を汚したりするわけではない。しかし欧米人は見様見真似で拓本をとろうとしてインクなどを使い石碑を汚してしまったという。

いまさら気づいたのだが、今回の企画展のチラシに使われている利根川光人の「いしぶみ」という作品は、雨や雷の神チャック(Chac)がモチーフとなっている。

チャックから連想されるのはカルロス・フエンテスの「チャックモール」なのだが、チャックモールとは生贄の儀礼に用いる横たわる彫像である。フエンテスの短篇ではこの二つ、すなわち雨の神(チャック)と生贄儀礼の石像(チャックモール、この名称は作品内にもある通り、ル・プロンジョンが発見して命名した)が融合した存在として出てきているということなのだろう。

日本では、1955年に催された「メキシコ美術展」(これが東京国立博物館で催されたという点にも注目したいが)よりあと、そしてメキシコでは1950年代、双方の芸術家たちは、「現代」というものを描くに際してメキシコの神話への参照を積極的に行なったということである。展覧会図録にはこのように書かれている。

「…日本の美術家に「メキシコ美術展」の「現代美術」が提示したのは、メキシコの歴史や伝統に依拠しながらも反動的な復古主義に陥らず、かつ社会的な主題を躍動感のあるリアリズムによって表現する美術であった。それが今後の美術の在り方を模索する当時の日本に驚きと興奮をもたらしたことは想像に難くない。」(吉岡知子「メキシコへのまなざしが問いかけるもの」、展覧会図録『メキシコへのまなざし』埼玉県立近代美術館館、p.74)


2025年2月27日木曜日

2025年2月27日

昨年の秋の「キューバ危機」のあと、バイデンは任期終了直前にテロ支援国家のリストからキューバを外したが、その10日ほどあと、トランプが再指定してしまった。

昨年はハン・ガンがノーベル文学賞をとったが、ちょうどそれと前後して津島佑子の『あまりに野蛮な』を読んでいた。それにしてもハン・ガンの『別れを告げない』や津島のこの小説、こんなとてつもない小説を読むと、しばらく外に出たくなくなる。出てぶらぶら街を歩いても外の風景は全く目に入らない。頭がいっぱいになる。日常の仕事やその他あれこれをやっているべきではない時間だ。

霧社事件は1930年、済州島四・三事件は「1947年から1954年」(訳者斎藤真理子氏のあとがき参照)。

津島の本は2008年、ハン・ガンの本は2021年刊行。

どちらの小説も「魔術的リアリズム」的と言えるのだが、ナショナルヒストリーから取りこぼされる史実に向き合うときに、こういう書き方が選び出される。

それにしても、リアルタイムで津島佑子やハン・ガンが書き、それが翻訳されている。

『百年の孤独』は時間的にも距離的にも遠い話だと思って読んでいたけれど、そんなことはなくて、エドウィージ・ダンティカの『骨狩りのとき』やバルガス=リョサの『ケルト人の夢』、J.M.クッツェー(『恥辱』)、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』、大江健三郎(『静かな生活』)とも一緒に読めるのだ。

たとえ知っている言語の原書で読んだとしても日本語の翻訳で読んだとしても、知らない言語で書かれているかのような、新しい言葉や表現だ。

文字の連なりはわかるとしても、一語一語をたどるようにして意味をつかむ。あるいは意味はつかめなくても、一語一語をたどる。

それだけで胸がいっぱいで苦しいが、それでも読まずにはいられない。辛いのに読みたい。

その地域や「国っていうもの」や「人間」や「歴史」に近づかせ、それらについてわかったという気持ちと、絶対にわかり切ることはないという気持ちの両方を味合わせてくれる。

こういう本に帯をつけて作品やその内容を説明するのは本当に大変だろうと思う。そういう「説明」ができないところから書かれている。

津島佑子はハン・ガンを読んだのだろうか。ハン・ガンは津島佑子を読んだのだろうか。

『別れを告げない』は、『あまりに野蛮な』がなければ書かれなかったのではないか。