2025年8月9日土曜日

8月9日

ポール・ベンジャミンの『スクイズ・プレー』(田村俊樹訳、新潮文庫)の解説で、池上冬樹は主人公の私立探偵が息子と野球を見にいくエピソードが「繊細でリリカルで、とても美しい」と書いている(386ページ)。元メジャーリーガーのスター選手の相談を解決するのがこの探偵の仕事なので、この小説は野球小説でもあり、野球を描くときとくに力が込められている(最後から2番目の19章)。池上が言うように、スタジアムに入るシーンはさすがで、親子はチケットを見せてトンネルのようなところを抜ける。「が、そのあと傾斜路をあがると、そこにある。それを一度に吸収するのは無理だ。いきなり眼前に現われる空間の広がりに、自分がどこにいるのかも一瞬わからなくなる。何もかもが巨大で、見渡すかぎりグリーンで、完璧に整っている。まさに巨人の城の中に造られた美しい庭園」(333ページ)。ここの目線は探偵のというよりはじめてスタジアムを訪れる息子のそれだ。東京ドームのように、すり鉢状の球場のある程度の高さから入場するタイプの場合、下方にフィールドが広がっている設計ではこういう描写にならないのではないか。横浜スタジアムは何十年も行っていないから覚えていないけれども、球場というのは、神宮にしても外からはただの壁で、その壁に開けられた穴から入り、階段をのぼっていくとグリーンの芝生や土の部分がちらりと目に入ってその眩しさに惹かれて早足になってしまうようなのがいい。おそらくヤンキースタジアムであるこの1ページ半は確かに読ませるが、それでもやはりそのあとの試合展開のくだりが圧巻だ。「私たちの席はホームと一塁のあいだのグラウンドレヴェルのなかなかいい席だった」から「このプレーはシーズンを通して繰り返し語られることだろう」(334から341ページ)の7ページが書けなければ、この小説は完成しないのだから。キューバ作家のレオナルド・パドゥーラは、野球というスポーツの不思議を説明するとき、例えばサッカーのようにすぐにルールがわからないことや、ボールを持っている側が「攻撃側」ではなく「守備側」であるということをあげているが、そのさきで、なるほどと思わせることを言っている。曰く、ゲームで一見何も起きていないようなとき、プレイヤーが誰一人として動かない瞬間に最も重要なことが決定されつつあるのが野球なのだと。大谷がトラウトを三振に取る寸前のサイン交換は、静止している最もエキサイティングな瞬間であるだろう。ポール・オースター(ポール・ベンジャミン)のような野球用語を使う作家のスペイン語翻訳は、野球に馴染みのないイベリア半島の人には難しいだろうとパドゥーラは言っている。

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