2025年2月27日木曜日

2025年2月27日

昨年の秋の「キューバ危機」のあと、バイデンは任期終了直前にテロ支援国家のリストからキューバを外したが、その10日ほどあと、トランプが再指定してしまった。

昨年はハン・ガンがノーベル文学賞をとったが、ちょうどそれと前後して津島佑子の『あまりに野蛮な』を読んでいた。それにしてもハン・ガンの『別れを告げない』や津島のこの小説、こんなとてつもない小説を読むと、しばらく外に出たくなくなる。出てぶらぶら街を歩いても外の風景は全く目に入らない。頭がいっぱいになる。日常の仕事やその他あれこれをやっているべきではない時間だ。

霧社事件は1930年、済州島四・三事件は「1947年から1954年」(訳者斎藤真理子氏のあとがき参照)。

津島の本は2008年、ハン・ガンの本は2021年刊行。

どちらの小説も「魔術的リアリズム」的と言えるのだが、ナショナルヒストリーから取りこぼされる史実に向き合うときに、こういう書き方が選び出される。

それにしても、リアルタイムで津島佑子やハン・ガンが書き、それが翻訳されている。

『百年の孤独』は時間的にも距離的にも遠い話だと思って読んでいたけれど、そんなことはなくて、エドウィージ・ダンティカの『骨狩りのとき』やバルガス=リョサの『ケルト人の夢』、J.M.クッツェー(『恥辱』)、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』、大江健三郎(『静かな生活』)とも一緒に読めるのだ。

たとえ知っている言語の原書で読んだとしても日本語の翻訳で読んだとしても、知らない言語で書かれているかのような、新しい言葉や表現だ。

文字の連なりはわかるとしても、一語一語をたどるようにして意味をつかむ。あるいは意味はつかめなくても、一語一語をたどる。

それだけで胸がいっぱいで苦しいが、それでも読まずにはいられない。辛いのに読みたい。

その地域や「国っていうもの」や「人間」や「歴史」に近づかせ、それらについてわかったという気持ちと、絶対にわかり切ることはないという気持ちの両方を味合わせてくれる。

こういう本に帯をつけて作品やその内容を説明するのは本当に大変だろうと思う。そういう「説明」ができないところから書かれている。

津島佑子はハン・ガンを読んだのだろうか。ハン・ガンは津島佑子を読んだのだろうか。

『別れを告げない』は、『あまりに野蛮な』がなければ書かれなかったのではないか。


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