ラングストン・ヒューズの自伝は3巻本で、うち第2巻『きみは自由になりたくないか?』にキューバやハイチの紀行が載っていた。これは1930年のこと。
タイトルは以下の通り。
「ハバナの夜」
「キューバのカラー・ライン」
「海に面したホテル」
「包みをもち運びしなさるな」
「靴のないひとびと」
「公式代表団」
「マラリアではなかった」
「キューバのカラー・ライン」ではヒューズがハバナの浜辺で受けた人種差別が書かれている。アメリカの人種主義は彼らの遊び場(植民地)にも適用されている。
「キューバは、明らかに黒人系の国であるという事実にもかかわらず、そこには、一種の三重のカラー・ラインが存在する。この三重の線は、適用の度合いこそさまざまであるが、全西インド諸島に共通だ。カラー尺度の最底辺には、純血の黒人[ニグロ]、色でいえば黒か濃い褐色がいる。中間は、混血のひとびと、薄い褐色や、白黒混血のひとびと、山吹色がかった黄色や、さまざまな色あいのインディアン・スペイン系の髪をしたほとんど白人に近いものまでがいる。それから、さらに白人に近いもの、黒人の血を八分の一だけ受けた黒白混血児、それに純粋に皮膚の白いものがいる。キューバでは、これら三重の明瞭な区分が存在するけれども、その境界線は、カリブ海のいくつかの他の島々ほど厳密に引かれてはいない。イギリス領の島々は、この点では最もひどい。ラテン系の島々は、人種問題に関しては、ずっとおおまかなのである」(p.21)
「キューバでは、時々たいへん色の黒い黒人が非常に高い地位を占めている。これが、合衆国からやってくる多数の訪問者ーー特にカラー・ラインが存在しないといえる国を熱心に探し求めている黒人訪問者ーーを惑わせるのであるが、それはキューバのカラー・ラインが、合衆国のそれに比較して、ずっと融通性に富んでいて、より希薄だからである。」(p.22)
ヒューズはこんなふうにキューバのカラー・ラインが緩やかであるとみている。しかし以下のようなことが起きていく。
「アメリカ人の観光客が冬の遊び場としてハバナを使うようになって、大陸から南部の人種偏見の割り当て分がやってきた。以前はカラー・ラインを適用することにきわめてのんびりしていたホテルが、なんとかアメリカ人の顧客のご機嫌をとろうとして、今では黒白混血のキューバ人をさえも失望させている。」
こうしてヒューズは浜辺の入場を許されず、あげくに警察に連行される。その警察署にいる黒人のキューバ人は、「これは言語道断なことだ。しかし、これがアメリカ白人が管理しているキューバで起こることなのですよ」と同情してくれる。翌日は裁判。
裁判で警察側はまったくの嘘の罪状をでっち上げて告訴するのだが、裁判官は以下のことを言って却下する。「きみたち[警察]がしたことは、旅行者を手厚くもてなすというキューバの主義に、また、人種や皮膚の色による差別を認めないというキューバの法律にも、そむいている。」
ハイチではジャック・ルーマンに会っている。なんと『朝露の主たち』を英語に翻訳したのはラングストン・ヒューズだった。
一方、第1巻『ぼくは多くの河を知っている』には第一次世界大戦後、メキシコに行った経緯が書かれている。彼の父親はメキシコにいた。それもメキシコが革命の時で、ラングストンも幼少期をメキシコで過ごしている。
「不意のめぐりあい」
「父」
「帰国」
「ぼくは多くの河を知っている」
「メキシコ再訪」
「散策」
「逃げる術」
「クエルナバカから届いた葉書」
「闘牛」
「トルカでの惨劇」
「マンハッタン島」:ここの冒頭、「わたしは、メキシコを去れるので嬉しかった」とあって、それが1921年9月。
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