2020年9月30日水曜日

ゴーギャンとリマ、その後 Part III

福永武彦の『ゴーギャンの世界』(新潮社、全集版)とバルガス=リョサの『楽園への道』(河出文庫)から。

「そして彼は[1865年]以後の六年間を海上で暮し、水夫や火夫や舵手を経験し、成年以後は水兵となって、その間に南米やインドやスカンジナヴィアへ行った。それは恰もボードレールが、二十歳の頃モーリス島[モーリシャス島]へと旅行し、その航海の体験が、後年のボードレールの詩作を彩っているのと似てはいないだろうか。こうしてゴーギャンが二十三歳でフランスへ戻った時に、母親は既に死に、姉は嫁ぎ、彼には家庭もなく家もなかった。後見人のギュスタヴ・アローザが、彼をパリの、ラフィット街の株式仲買商ベルタンに紹介した。ここから平凡な一人の株屋の生活が始まる。」(福永、21ページ)

前便に引き続き『楽園への道』では船員時代のことは、こんな風に書かれている。

「 (前略)船員だった頃、外洋でルツィターノ号やチリ号の船倉や船室で、何度も彼はそのように振る舞った[男色の趣味についてからかわれると相手の顔を殴っていたということ]。それらの商船で三年を過ごし、その後、戦艦のジェローム=ナポレオン号で、プロイセンと戦争状態にあった時期に二年を過ごした。(中略)その頃のおまえは、世界のあらゆる海や港を、あらゆる国や民族や風景を訪ねながら、ベテランの船員として経験を積み、やがては船長になることに憧れていた。(中略)見習い水夫としての最初の航海はフランスからリオ・デ・ジャネイロまでで、三か月と二十一日かかった。」(バルガス=リョサ、91ページ)

船乗り時代に訪れた場所は、『楽園への道』では、「リオ・デ・ジャネイロ、バルパライソ、ナポリ、トリエステ、ヴェネツィア、コペンハーゲン、ベルゲン[ノルウェーの古都]」とある。

バルパライソは当然、マゼラン海峡経由だろう。チャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗ってここを通ったのが1834年のことだ。

ゴーギャンは23歳で船を降りた後、11年間株式仲買人をやり、その合間に印象派の画家の作品を蒐集する。カリブ海出身のピサロと知り合い、絵を学び始めたのもこの時期だ。ゴッホとも知り合った(1886年)。

そしていよいよカリブ海へ行く。1887年のことである。

「一八八七年五月から十月まで、初めはパナマ、次いでマルティニック島のサン=ピエール郊外での苦難続きの滞在をとおして、おまえは本物の画家になったのだ。フィンセントがそれを最初に見抜いた。それに比べれば、蚊に刺されながらレセップス氏の運河の工事現場でつるはしを手に日雇い労働者として働き、マルティニックでは赤痢とマラリアで死にそうになったが、それくらいのひどい目はどうってことはないだろう。そのとおりだった。カリブのまばゆい太陽に照らされたあのサン=ピエールの絵の中では、色彩が熟した果物のように炸裂し、赤、青、黄、緑、黒などの色彩が主導権争いをするかのように剣闘士の獰猛さで互いに競い合ってい」(バルガス=リョサ、98-99ページ)た。

 パナマに行った経緯は福永の本に詳しい。

「この姉[ゴーギャンの姉マリイのこと]は、良人であるジュアン・ウリーブが、当時パナマのコロンにいて商売を営み、弟をそこへ差向けようと考えた。(中略)明るい南国への誘惑は、その間にも彼の心の中に燃え続けていた。」(福永、38ページ)

ゴーギャンの姉の夫がパナマでやっている商売はやはり運河がらみなのだろうか。

「無一文の彼はとにかくパリを逃げ出し、野蛮人として太陽の下で暮したかったのだ。パナマは彼の魂の故郷であるペルーからは近い。彼の中の血が自然の華かな色彩、強い香気、青い海を呼んでいたに違いない。」(福永、39ページ)

 彼は妻への書簡には以下のように書いている(1887年4月)。

「……画家としてのこの私の名前は一日ごとに有名になって来ている。が、今のところ、私は三日位は何一つ食わないことがよくあるのだ。こいつは健康をそこなうだけでなく、私の気力までもそこなってしまう。この気力という奴を私は取り返したい。私がパナマへ行くのは野蛮人[傍点あり]として生きるためだ。私はパナマ海峡から一海里のところに、太平洋の中の小さな島(タボガ)を知っている。そこは殆ど住む人もなく、自由で、豊穣なのだ。私は自分の絵具と筆とを持って行き、人間共から離れて自分を鍛え直すつもりだ。」(福永、38ページ)

太平洋の小さな島を知っている、というこの書き方もずいぶん思わせぶりだ。どうして知っていたのだろう。この島はパナマ市から20キロ南の太平洋に浮かぶ小島だ。

大航海時代、パナマ越えをして太平洋に至り(太平洋の発見)、その後ペルーを征服するフランシスコ・ピサロとヌニェス・デ・バルボアがこの島を踏んでいる。

このカリブへの旅に付き添ったのは弟子のシャルル・ラヴァル。彼らはこの島に3ヶ月滞在したが、絵筆は握らなかった。だからパナマ時代の絵は一枚も残っていない。しかしこの島にはゴーギャンが立ち寄ったことを示すプレートがビーチに据え付けられている。

 運河工事の人夫として働いて病気になったのでタボガ島へ行ったという話もあるが、この書簡からすればそもそもの目的がこの島に行くことだったわけだ。この手紙の書きっぷりにはすでに、その後タヒチでのゴーギャンが見える。

しかし義兄は職を用意してくれなかった。パナマでは結局この時期進んでいた運河の工事の人夫となって「朝の五時半から夕の六時まで炎天の下で働き、ラ・マルチニックへ行く旅費をためようとした。」(福永、39ページ)。

ということは最初の目的はパナマ(タボガ)で、思そしてマルチニークに行った、つまりハプニングだったのだ。

そしてゴーギャンとラヴァルは6月にマルチニークに到着。

「小さな首都サン・ピエルから反時間ほどの土人の小舎に住んだ。(中略)それは全くの楽園だった。黒人の男や女はひねもす歌い、空は晴れ、大気は暑くしかも風は涼しかった。(中略)そこは確に、彼の感覚を悦ばせる風景に富んでいたが、しかしラ・マルチニックは後のタヒチのように、個性ある作品を生み出させるまでには至らなかった。(中略)この楽園での生活はものの半年とは続かなかった。二人は飢えていたし、虚弱なラヴァルがまずマラリアに罹った。ゴーギャンもそれに感染し、更に赤痢に罹った。彼は殆ど死にかけて骸骨のように痩せ衰え」、「十一月に、弟子をサン・ピエルの病院に入れると、水夫として帆船に乗り込んで、単身パリへ戻って来た。」(福永、40ページ)

バルガス=リョサは、福永が書いていないゴーギャンの性に並々ならぬ関心を寄せて描く。

「サン=ピエールでのうだるような夜、燃えるようなクレオール語を話す、腰のほっそりした黒人女の一人を組み伏すことができたとき、女ヴァイキングに再会したら、遅ればせながら教えてやろうと。(中略)マルティニックでの作品は熱帯の桁外れの色彩のおかげで描かれたのではなく、絵を描くことと同時にセックスすること、本能を大切にすること、自分の内にある自然なものと悪魔を受け入れ、自然のままに生きる人間として欲求を満たすことを学んだ画家、未開人としての新参者が勝ち取った、因習からの自由と精神の自由のおかげだった。(中略)あの不運続きのパナマとマルティニックの旅から戻ったとき、おまえは野蛮人だっただろうか。そうなりはじめていたところだったね、ポール。いずれにしても、もうおまえの振る舞いは文明化されたブルジョワのものではなかった。パナマの密林の中、情け容赦なく照り付ける太陽の下でシャベルを振るって汗を流し、混血女や黒人女を、カリブの泥や赤土や汚れた砂の上で愛したあとで、どうしてそんなふうに振る舞えようか。」(バルガス=リョサ、101ページ) 

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下は秋晴れの日の東京。

 



2020年9月29日火曜日

ゴーギャンとリマ Part II

 前便の続きで、福永武彦『ゴーギャンの世界』から

「[リマの]ドン・ピオの屋敷には多くの女たちが住んでいた。家族の他に黒人の侍女たちもいる。父親のないポールは一族の女たちに愛されていたし、夜になると、彼と姉のマリイとに、床をともにして黒人の娘が寝た。この早熟な、感覚の鋭い子供が習い覚えたものは、母親による精神的な愛情の他に、獣じみた匂いのする肌の感覚だった。リマを去る前に、この子供は「従妹の一人を犯そうとした。私はその時六つだった。」(『前後録』P.140)このような環境に投げ込まれて、異常に早くから目覚めさせられた感覚、そこには後年の、傲慢な、自分の眼しか信じなかった画家、野蛮で豪奢な自然に憧れた夢想家、常に彼方[原文傍点]へと逃亡した放浪者の面影を、早くも読み取ることが出来る。この小さな暴君が、リマを去って故郷のフランスへ戻ったのは、彼が漸く七歳の時にすぎなかった。」(『福永武彦全集 第19巻』20ページ) 

バルガス=リョサの『楽園への道』はゴーギャンがタヒチへ行ってからのことから書き出されるが、リマ時代の思い出も時折こんな具合に出てくる。

「おまえはずっと母親を好きではなかったのか、ポール。たしかに死んだときは愛情を感じていなかった。けれども子供の頃、母の大叔父ドン・ピオ・トリスタンの住むあのリマにいた頃は大好きだったよね。おまえの幼年期の鮮明な思い出の一つは、リマの中心にあるサン・マルセロ地区でおまえたちの一族が王さまのように暮らしていた大きな屋敷の中で、若い未亡人がどんなに美しく愛らしかったかということだ。アリーヌ・ゴーギャンはペルーの貴婦人のように装い、ほっそりした身体を銀の刺繍の入った大きなマンティーリャで包んで、リマの婦人たちのあいだで流行していたタパーダと呼ばれるやり方で頭と顔半分を覆い、片目だけを見せる装いをしていた。」(『楽園への道』田村さと子訳、河出文庫、186ページ)

タパーダと呼ばれるやり方は、Tapada limeñaでWikipediaの項目がある。

ドイツの画家Mauricio Rugendas(1802-58)がこんな絵を描いている。1800年ごろの絵だ。このような装いは1500年代にはすでに見られ、19世紀半ばまで続いたそうだ。

 

 

「その少年が、やがて十七歳の時に、不意に船乗りになりたいという決心をした。母親には自分の子の気持ちが分らなかった。その決心が抜き難いことを知ると、せめて海軍に入れて士官にさせようと思った。しかしそのためには何年かの学校教育を受けなければならない。ポールは母親にさからい。今じきに海へ行きたいと言った。彼はル・アーヴルへ赴き、ルツィターノ号の見習い水夫になる契約を自分でやってのけた。」(21ページ)

「ルツィターノ号はル・アーヴルとリオ・デ・ジャネーロとの間に就航している。フランスの学校で教育を受けた少年にとって、赫かしい太陽と香ばしい大気、黒人の娘やインディアンの赤銅の肌の記憶ほど、自然な、生き生きした美しさを持ったものは見当たらなかった。」(21ページ)

[続く]

2020年9月27日日曜日

ゴーギャンとリマ Part I(福永武彦『ゴーギャンの世界』より)

福永武彦『ゴーギャンの世界』(『福永武彦全集 第19巻』新潮社、昭和63年)から、タヒチ以前のゴーギャンのリマ、パナマ、マルチニーク紀行を拾ってみる。

まずはリマから。巻末の年表の1849年、ゴーギャンが一歳の時。

「前年度の二月革命とルイ・ナポレオンの大統領当選の後に、父のクロヴィス・ゴーギャンはパリを逃れて、妻の母[フローラ・トリスタンのこと]の実家であるペルーのドン・ピオ・トリスタン・モスコーソを訪ねようと、家族と共に船に乗るが、航海中に動脈瘤のため十月三十日急逝し、マジェラン海峡の小さな港で埋葬される。三十五歳。母[アリーヌ=マリ・シャザール]はそのままポールとその姉のマリを連れて旅行を続ける。家族は六年間リマ市に滞在。」 (261ページ)

このようにしてリマに着いたゴーギャン一家。

「ポール・ゴーギャンが幼年時の四年間を過ごしたのは、このリマである。一八五〇年代のリマは、高度の文明と古代の野蛮との混淆、豪奢と不潔の共存だった。貴族たちは兀鷹の棲む城壁を張り廻した大邸宅に在って贅を尽し、その馬車は悪臭を放つ下町を練り歩いた。下町では黒人やインディアンが惨めな小舎の中に原始的な暮しを送っていた。この都市は奇妙な対照を形づくった。」(19ページ)

ペルーは奴隷解放が1854年。ゴーギャン一家がいた頃は、教科書的にはラモン・カスティーリャ統治時代で安定していて、グアノという海鳥の糞尿の堆積が肥料として輸出されるのが好調な時代だった。グアノ(guano)はコンラッドが『ノストローモ』で架空の国名として作り出した「コスタグアナ(Costaguana)」の元ネタではないかと言われている。

「若い未亡人が頼って来たのは、祖父の兄に当る、嘗てのペルー総督ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソである。この家長は当時既に百歳以上と傳えられていたが、尚矍鑠として健在だった。亡命の一家は此処で壮麗な邸宅を与えられ、なに不自由ない生活を送った。子供の眼を開いたものは、この異邦の、赫かしい太陽と海と街とである。」(19ページ)

この邸宅がどこにあったのか。インターネットで検索すると、こんな記事が出て来た。エマンシパシオン通りだったようだ。「百歳以上」と見られたドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソはアレキパに1773生まれ、1859年リマで没。

「パリ生まれの子供にとってすべては驚異に充ちていた。宮殿のような大邸宅、白い壁を飾る画幅と織物。銀器、燭台、壺などを置いた部屋、そこを行き交う婦人たちの絹の衣裳、裸の顎を飾る珍しい宝石、給仕をつとめるシナ人の可愛い侍童。街へ出れば華かなカーニヴァルの祭りのざわめき、黒色あるいは褐色の肌を見せた半裸の女たちの行列、子供たちの喧しい遊び声。」

地図でエマンシパシオン通り253(ゴーギャンが住んでいた住所)を検索すると、近くにチャイナタウン(Barrio Chino)がある。Wikipediaによれば、この地区ができたのは19世紀の半ば、ちょうどゴーギャンがいた頃。

[今日はここまで]

2020年9月24日木曜日

嵐のまえに

気がつけば秋分の日も過ぎている。台風とともに秋風がやってきそうな気配。春に比べれば心の準備もできた状態で秋の授業を迎えることができている(と思う)。

非常勤先の授業ははじまりつつあるのだが、春と違ってオンライン授業をすんなりはじめられて、ああこれで授業ができちゃうんだと。それはそれでいいとしても、なんとなく虚しさを感じる。なんか違うんじゃないか。 

半年前よりも、よほど今の方が、コロナ時代でいかに生きていくのかを考えている。オンラインでいいのかというのは、これからもっともっと悩ましい問題になってくる。

この秋からは、自宅からオンライン授業をやったあと、大学に行って対面授業という日がある。

エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち 366篇の世界史』(岩波書店)の紹介文が日本ラテンアメリカ学会の会報132号に載った。書いてくれたのは、マヤの歴史研究者・郷澤圭介さん。ありがとうございます。

イヴァン・ジャブロンカ『歴史家と少女殺人事件ーーレティシアの物語』(真野倫平訳、名古屋大学出版会)を読んだり、カルデロンの『人の世は夢』を読んだり。

大学図書館の利用サービスで新しい案内があった。 一時期よりは利用条件は良くなっているが、首都圏の大学図書館は軒並み学外者は入館できないので、専門的な論文を書いている人にとってはきついと思う。

コロナ時代に入って、地域の公共図書館を利用するようにもなった。涼しくなってようやく歩ける。

気が晴れるときを待つ。

2020年8月31日月曜日

キューバ映画『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』

セルヒオ・ヒラル監督の奴隷三部作の第一作が『もう一人のフランシスコ El otro Francisco』(1975)。

この映画はかなり凝った作りになっている。19世紀のキューバの小説家アンセルモ・スアレス・イ・ロメロ(Anselmo Suárez y Romero, 1818-78)が書いた小説『フランシスコ Francisco』を批判的に読み解くのだが、そのプロセスも映画にしてしまっている。

キューバ、ひいてはアメリカ大陸の奴隷制についての実態を教える映画なので、教育的でもあり、またスアレスの書き手としての限界を示しながら批判するので、極めてポストコロニアル的である。この映画を巡っては研究論文もあって、教育的な役割を持つのが第三世界映画なのだと言っている。

小説『フランシスコ』は、1838年に当時キューバで文芸サークル(tertulia)を立ち上げつつあったドミンゴ・デル・モンテ(Domingo del Monte, 1804-1853)の慫慂によって書かれ、キューバにいたイギリスの奴隷廃止論者リチャード・マッデン(1798-1886)がイギリスに持ち帰った。出版されたのはスアレスの死後、1880年のことである。出版されたのはNY。

小説の内容は、フランシスコとドロテアという二人の黒人奴隷同士の恋愛(細かいことを言えば、フランシスコは10歳でアフリカからキューバに連れて来られ、一方のドロテアはキューバ生まれのムラータ)にはじまり、彼ら奴隷が仕えている製糖農場の御曹司リカルドがドロテアに惚れてフランシスコに嫉妬するところから話がこじれ、苦しむドロテアはリカルドに身を委ね、それを知ったフランシスコが自殺するというもの。

監督は、当時の奴隷の置かれていた状況を考えさせることを目的に、スアレスが描かなかった「もう一人のフランシスコ El otro Francisco」を提示する。シェイクスピアの『テンペスト The Tempest』に対するエメ・セゼールの『もう一つのテンペスト Une Tempête』と同じように。

小説で行われているのは奴隷の理想化であるとして(悲恋により自殺するフランシスコ)、本物のフランシスコ(悲恋で自殺する可能性はあるが、しないかもしれない)を描いてみせましょう、という流れそのものをまたナレーション付きで教えてくれる。

ヒラル監督のその他2作にもあった白人の狂気は、農場の御曹司や、特に奴隷の監督係・人足頭(Mayoral)に取りつく。次第に機械化され、生産力を高めていく農場では、ますます多くの奴隷が必要になってくる。

奴隷が怪我や病気で診療所に入れられると、労働力が不足する。不足すれば経営は悪化する。だから診療所を訪れた農場主は医師に対し、とっととこいつらを働かせろ!と怒鳴りつける。当時の奴隷は4時間睡眠だった。逃亡して捕らえられれば、首にベルを吊るされる。懲罰小屋では両足を固定されて監禁される。こうした行為を積み重ねていくうちに、奴隷の監督係は歯止めが効かなくなる。

奴隷たちは夜間にダンスを許されるのだが、徐々にそのアフロ系の儀礼の太鼓と歌とダンスが白人たちの頭も心も支配していくかのようだ。もちろんこの儀礼が奴隷の蜂起にもつながっている。ファノンのいうように、植民地における生活は暴力そのものなのだ。

19世紀の前半にキューバでは多くの蜂起があった。その中では、ホセ・アントニオ・アポンテ(José Antonio Aponte, 1812没)による蜂起が有名だ。

イギリスは奴隷制度では割りに合わず、彼らを自由にして生かさず殺さずの労働者にとどめおく方が有利であると説くのだが(だから奴隷廃止論は博愛ゆえではないというのがよく知られているが)、キューバの製糖農場主はハイチの事例を見ているがために、奴隷制度を維持しようとする。黒人への恐怖がキューバの独立にブレーキをかける。

 



2020年8月30日日曜日

キューバ映画『ランチェアドル(略奪者)』

続けてみたのは、セルヒオ・ヒラル監督『Rancheador』(1976年)。

ヒラル監督の奴隷三部作の二作目。

ランチェアドルとは略奪者・襲撃人という意味だが、キューバでは逃亡奴隷狩りを請け負う非道な個人事業主をさしている。彼らは農場主の依頼によって、製糖農場から逃亡した奴隷を追いかける。猟銃を持って馬に乗って犬を連れ、徒党を組んで山中を探し回る。

植民地時代、キューバの貧農(guajiro)は、法的には権利はないが、おそらく自分たちで開拓した土地を事実上の住まいとして(大抵は山の中)、コーヒー農園などを営んでいた。こうした貧農たちは、同じように山の中に逃げ込んでいる逃亡奴隷、また彼らの住う集落(パレンケ)と取引をしながら持ちつ持たれつの関係を築いていた。

ハイチ革命の後、ハイチの砂糖産業が低調になると、時代としては19世紀の前半から半ば以降のことだが、キューバは砂糖生産の拠点になっていく。

製糖農場主(豪農)は総督府と結託して、貧農から土地を収用して手広く事業を広げようとする。ランチェアドルはそのとき、農場主の最も有能な「手先」として、砂糖産業を支える自負も担っているかのような一種の傭兵である。

だから、ランチェアドルの任務は逃亡奴隷狩りに加え、貧農いじめをして土地から追い立てることもする。貧農に食糧を要求したり、暴力をふるい、農場に火を放つ。

この映画は、19世紀の作家シリーロ・ビジャベルデ(Cirilo Villaverde, 1812-1894)の『ランチェアドルの日記』を下敷きにしている。

フランシスコ・エステベスはそういう極悪非道なランチェアドルの一人。仲間と農場を回り、逃亡奴隷を探し出し、連行し、貧農をとことんいじめ抜いて恨みを買っている。彼の暴力によって被害を被った農民たちが訴えを起こすこともしばしばだが、エステベスは抵抗する貧農を殺させ、制御できない部下たちは女子をレイプしたりする。

このような非道は問題になり、手を下したエステベスの部下は死刑になる(処刑の方法は、あのgarrote。鉄の環による絞首刑。椅子に座り、首に鉄輪が嵌められる。後ろからその鉄輪を徐々に絞っていく方法)。

ランチェアドルも手先だが、その先にはまた手先がいて…とキリがない。植民地・奴隷制度によって生まれた暴力システムは、常に支える人が出てくる・・・

逃亡奴隷狩りをやっているうちに狂気に取り憑かれるエステベスの敵は、いまだ姿を見たことのない逃亡奴隷のリーダー、メルチョラ。彼女は製糖農場に火を放つ。

彼女を捕獲しようとして、エステベスは手に入れた黒人奴隷を手引きに山に入る。しかし山の中には彼がこれまで見たことのない世界があり、仲間割れをへて彼の狂気が極限に達したところで黒人奴隷との対決になる。

2020年8月29日土曜日

キューバ映画『マルアラ Maluala』

『マルアラ Maluala』は1979年のキューバ映画。

監督はセルヒオ・ヒラル(Sergio Giral 1937-)。

キューバ生まれでアメリカで教育を受けた後、ネストル・アルメンドロスに誘われて映画の世界に入ったらしい。

奴隷制度をテーマにした3部作があって『マルアラ Maluala』はその最後の作品。残りの二つは、『El otro Francisco』と『Rancheador』。

『マルアラ』は、欧米の大学では頻繁に上映されている。アフリカ、ブラックカルチャーの特集で取り上げられていることが多い。キューバ発のアフロ映画として知られているということだ。監督自身もアフロ系である。

時代設定は18世紀から19世紀のキューバの植民地時代で、逃亡奴隷(シマロン Cimarrón)の集落(パレンケ)がいくつも、キューバ島東部の山の中に存在している。

パレンケにはカリスマ的なリーダーがいて、映画のタイトルである「マルアラ」のリーダーはガジョ、そしてもう一つのブンバのリーダーがコバである。

スペイン政府・総督府はパレンケ側からの要求である自由と土地のうち、表向きは「自由」を与え、その代わり、統治機構の軍隊の一翼を担わせようとする。

いくつかのパレンケのリーダーはオファーをのんでしまうのだが、ガジョとコバは拒む。そのあとは総督府から送られた軍隊との武力衝突となる。

コバはその戦いのうちに自害するが、ガジョのマルアラの人々はスペインの軍隊を撃退する。最後、ほうほうの体で逃げ帰ったクリオーリョ司令官は、おりしも街で行われている黒人たちのカーニバルの仮装行列に巻き込まれ、恐怖の表情を浮かべる。

コンラッドの『闇の奥』のクルツが叫ぶ「恐怖!」を思わせもするシーンだ。映画の中ではアフロ系の儀礼シーンをかなり丁寧に描いている。

この映画は1979年が第1回のハバナ映画祭での金賞?一等章?受賞作。
ヒラル監督の出発点はドキュメンタリーで、『逃亡奴隷』(1967)と題されたフィルムもある。

この記事
はヒラル監督について、ルベン・リカルド・インファンテ(Rubén Ricardo Infante)というキューバの研究者が書いたもの。2020年のLASA学会でも発表しているらしいのだが、そういえば、5月のこの学会(開催地グアダラハラ)はどのような形式で開催したのだろうか。当然オンラインでしょうが。