2026年4月29日水曜日

4月29日

『週刊読書人』(2026年4月24日号)には、庄司宏子・木村朗子・西成彦による鼎談「災害の世紀に、文学にできること」が掲載されている。この鼎談は、刊行されたばかりの『〈災害〉文学の可能性』(作品社)の執筆者のうちの3人によるもので、書評紙ならではの今日性の高い内容になっている。「そもそも天災と人災を分けることは難し」く、「天災は、社会の不正義や不平等なシステムと結びついて人災となり」、「そうした人の世の『時間』と『場所』に堆積し続けてきた〈災害〉の記憶を掬い取り、読者に深い思索を促す、その可能性を文学はもっているのではないか」と庄司は提起する。西は「かねがね気になってきたのは、『文学者』には作家も研究者も含まれるということです。(中略)学者と創作者が束にならないと、この世の中の流れを止められないという危機感が日に日に強まっている」、なぜなら「ポストコロニアルという言葉でも、世界の総体はカバーできない。旧植民地だけでなく、先進国内部で起こっている悲惨をまで見なければならない」からだと。木村は「言葉の流れる速度がとにかく早い」時代にあって、「文学でしか果たせない役割の一つは、ゆっくり進むこと」、「研究者の仕事の半分は、読む人を育てる教育」で、「読むことは、一つの技術」だという。

さらにこの号には、管啓次郎による『生を見つめる翻訳ーー世界の深部を開いた150年』(東京外国語大学出版会)の書評が載っている。「外国語大学とは、なんと魅力的な響きだろう!学生たちはひたすら、ひとつあるいは複数の外国語を徹底的に学ぶ。専門化・細分化された知の枝がその先にどれだけひろがろうと、ことばを学び、読み書き話すという訓練を経るとき、学習者の頭の中にはずぶとい知識の世界樹の幹がいやでも育ってゆく。」ここでいう専門化・細分化された知の技には、学術的な知以外の多くの、場合によっては「外国語を学ぶのはあくまで手段であって、外国語を学ぶのは、それを使って何をするかである」のような考えも含まれるだろう。しかし管はそれを認めた上で、もっと根源的なこととして、外国語を学ぶ行為には、もともと学習者が予見もしていなかったさまざまな知にふれる偶然性が待ち受けており、その偶然が蓄える養分は、枝を幹に、そしてそれは、簡単には折れないような太い樹木に成長するのだと言っている。手に負えないほどの知に向き合いながら、それと一体化したりそれを乗り越えようとしたり、格闘していくこと、それが翻訳なのだ。

鼎談に戻ると、西は「翻訳作品は一般読者を喜ばせるためだけでなく、作家に新たな文学を生み出すヒントや力を与える一種の触媒になり得る」と、木村は「日本の翻訳文化はやはり素晴らしいです。マイナー言語なのに、日本語だけで研究できる、そのような国はほかにありません」と。

この鼎談ではいろんな本が紹介されているが、バルガス=リョサ『激動の時代』もあげてくださっている。それに関わって、こんなイベントを5月20日、三鷹のユニテでやります。

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