2020年11月19日木曜日

アンゴラ作家ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』

アンゴラのポルトガル語作家ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの本が日本語になった。

ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』(木下眞穂訳)、白水社、2020年)


実はこの本のことは知っていて、翻訳が出るとは思っていなかったので、スペイン語版を入手していた。2015年にアルゼンチンで出て、2017年にスペインでも。

José Eduardo Agualusa, Teoría general del olvido(Traducción de Claudia Solans), Edhasa, Barcelona, 2017. 


この本の存在を知ったのは、キューバのアンゴラ派兵のことを調べている時に読んだ論文がきっかけで、未読のままアンゴラ関係の本と一緒にしまわれていた。

その論文ではこの本の一節をエピグラフに置いていたので目を引いた。以下のような一節だ。

「あんたやあんたのお仲間は『社会主義』だの『自由』だの『革命』だのごたいそうなことを言って口が満たされるんだろうさ。だけど、その傍らで人が痩せ衰え、病気になり、大勢が死んでいる。演説は栄養にはならないよ。(中略)あたしに言わせればね、革命ってのは、まず国民を食卓に座らせることを先にしようって、そういうものでなくちゃね」(『忘却についての一般論』103ページ)

作者は1960年生まれ。アンゴラに生まれ、ポルトガルやブラジルにも住んだことがある。

キューバのアンゴラ派兵は1975年11月。ポルトガルのカーネーション革命が1974-1975でポルトガルの独裁が終了でアンゴラ独立なのだが、直ちに内戦突入。スペインではフランコがこの年に死んで、西サハラの独立が1976年。

イベリア半島の独裁終了がアフリカの内戦につながり、それが冷戦の代理戦争のように見えながら、キューバの場合には血の同盟としての派兵が行われ(カストロの演説「キューバはラテンアフリカである」)、そう、それは「カルロータ作戦」という、キューバで19世紀に蜂起した女性奴隷の名前から取られた作戦名だった。

その後キューバでは例えば、エリセオ・アルベルト(1951-2011)の『カラコル・ビーチ Caracol Beach』(1998)がアンゴラ帰還兵の物語。さらにはカルラ・スアレス(1969-)の『英雄の息子 El hijo del héroe』(2017)となる。

いや、エリセオ・アルベルトやカルラ・スアレスの前に、アンヘル・サンティエステーバン(1966-)の『真夏の日の夢 Sueño de un día de verano』が1995年に出ている。

『忘却についての一般論』はポルトガル語では"Teoria Geral do Esquecimento"。

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ついこの前は、都内のとある中高一貫校で模擬授業をやってきた。いろんな大学から様々な専門分野の先生がやってくるという催しで、オンラインの先生もいたようだが、半数くらいは対面授業でやったようだ。高校では教壇にアクリル板は置いてあって、マスク必須だったけれども、いつものように授業が行われている。こちらは久しぶりの対面型の講義で、目の前に顔があることはありがたいと思った。

秋が深まったと思ったら、ここ数日はやたらに温度が高い。写真は11月なかば。

 


2020年11月1日日曜日

11月の本探し(アレクシスとカルペンティエル)

去年の秋に取ったメモを読み返していて、その時に読んでいた本を探そうとしたらなかなか見つからず、けっこう焦ってしまった。本の大きさや書影を思い違いしていて、余計に時間がかかった。こういうときのために、ブログに書いておくとあとあと自分が助かる。

1956年パリで開かれた第1回黒人作家芸術家会議でハイチのジャック・ステファン・アレクシス (Jacques Stephen Alexis, 1922-1961)は、「ハイチの驚異的リアリズム(Du réalisme merveilleux des Haïtiens)」と題した講演を行った。

『プレザンス・アフリケーヌ』誌(8-10、1956年6月-11月)に掲載されている。

 

 

なんだか、アレホ・カルペンティエル(Alejo Carpentier, 1904-1980)の「驚異的な現実 lo real maravilloso」と関わっていそうな感じがする。

カルペンティエルがこの用語を使ったのは、1949年に発表した『この世の王国』の序文である。

アレクシスの講演にはカルペンティエルへの言及はない。

で、この両者を比較分析したのが、アルゼンチンのカリブ文学研究者グアダルーペ・シルバ(Guadalupe Silva)の論考である。

題して、「驚異的な現実をめぐるカリブ言説ーージャック・ステファン・アレクシスとアレホ・カルペンティエル(El discurso caribeño de lo real maravilloso: Jaques Stephen Alexis y Alejo Carpentier)」。

なかなか見つからなかったこの文章、以下の本にある。

Guadalupe Silva y María Fernanda Pampín(Compiladoras), Literaturas caribeñas: Debates, reescrituras, tradiciones, Editorial de la Facultad de Filosofía y Letras, Universidad de Buenos Aires, 2015

 


この論文を紹介する余裕は今はないのだが、一応おさえておくこととして、カルペンティエルは『この世の王国』を書くにあたって、「ハイチ民族学研究所(el Instituto de Etnología Haitiana)」とコンタクトを取っている。

この研究機関は1941年設立。創立者はジャン・プリス(プライス)・マルス(Jean Price-Mars, 1876-1969)、ジャック・ルーマン(Jacques Roumain, 1907-1944)、そしてピエール・マビーユ(Pierre Mabille, 1904-1952)である。

アレクシスの講演はスペイン語に翻訳されていて、こちらはネットで見つかる。

2020年10月21日水曜日

10月半ば/『異端の鳥』

研究室から授業をやっていたら、学内のWi-Fiの調子が悪く、接続が不安定との通知が出ていて、最後にはZoomが落ちた。フリーズを起こしているという声が学生があり、まずいなと思っていたところだった。

結局サポートの力を借りて授業は半分の時間しかできなかったものの、なんとか乗り越えた。学内でのZoomではトラブルが結構発生しているようだ。

この前、映画『異端の鳥』を見てきた。昨年の東京国際映画祭で上映され、コロナで封切りが遅れていたのだが、ようやく公開となった。

原作の「小説」は『ペインティッド・バード』(西成彦訳、松籟社)として翻訳出版されている。映画の方も確か昨年の映画祭時には『ペインティッド・バード』と題されていたかと思う。

原作の作者はイェジー・コシンスキ(1933-1991)。ポーランドのウッチに生まれた。

ウッチといえば、ホロコーストを逃れてアルゼンチンに渡ったユダヤ人が再び故郷を訪れる映画『家に帰ろう』(原題は"El último traje"[最後のスーツ]、スペイン・アルゼンチン・ポーランド、2017年)で、クライマックスに出てくるところだ。

『ペインティッド・バード』はオリジナルが英語で書かれているのだが、それにも一部分に目を通したことがある。その時点で、すでに『異端の鳥』というタイトルで日本語の翻訳があったのだが、それは未読で、2011年の新訳『ペインティッド・バード』を読み、英語で受けた衝撃をあらためて日本語でも体験し、そして今度は映画で・・・という流れだ。

米国の出版直後、この本は「小説=フィクション」としてよりは「証言」として読まれたようだが、読んでいてあまりそのようなことは考えなかった。小説というのは便利な容れ物である。現実世界に参照物はあったりなかったりだ。悲惨な物語を「空想」の物語として受け止めて、ほっと胸を撫で下ろした瞬間に、でも違うかもしれないと思い直すその自由な行き来が可能なのが小説だ。

戦争に巻き込まれた子どもの物語としては、スペイン語圏では映画『パンズラビリンス 』のようなものもあったりする。あれもなかなかきつい。

 


原作は英語、書いたのはユダヤ人の両親を持つポーランド人、そして映画を撮ったのはチェコ人(ヴァーツラフ・マルホウル)、二種類の日本語訳。それぞれの文脈がある。

映画はまだ公開中なので、あまり書けないかな。

そもそも映像を勘違いして理解している部分もあるかもしれない。ただどうしても、一箇所、備忘録として書いておきたい。

東欧をさまようユダヤ少年はドイツ兵に捕まり、傷を負った老人とともに兵舎に連れ込まれる。彼らの処分のため、長靴がぴかぴかに磨かれたSSの将校が登場する。

深い傷を負い、ほとんど身動きを満足に取れない状態の太った老人は、最後のあがきとばかりに、勇敢にもその将校に向かって唾を吐きかける。SSの将校は銃を取り出し、冷徹に銃殺する。二発の銃弾が老人を貫き、老人は息絶える。

それを見た少年に去来した思いは何なのか。彼はどうしたか。ここが最も印象深いシーンだった。

権力に歯向かって殺された人の勇気を称えるばかりではなく、それを目の当たりにした少年の生き抜く知恵をも称える必要がある。その後、彼がどんな人生を送ったとしても。

映画パンフレットには監督のインタビューも載っている。沼野充義氏と深緑野分氏の解説もまた読み応えあり。

2020年10月11日日曜日

近況

秋の学期がはじまって2週間。すでに9月は遠い過去。

朝一番でオンライン授業をやってから大学行って対面授業というのはスリリングといえばスリリング。

日々やるべきことこなしてはいるけれど、とても落ち着いていられるような状況ではないですね。

そんな中で、読んでいるのが以下の本。

アンドルー・ペティグリー『印刷という革命ーールネサンスの本と日常生活』桑木野幸司訳、白水社

内容はタイトル通りで、結構スペイン関係のネタが多くて面白い。それ以外にも、ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会ーー印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、原聖訳)を読んだが、こちらもスペイン語圏の状況をたくさんとりあげてくれる。

それから本屋で見つけてつい買ってしまったのが、幸徳秋水『二十世紀の怪物 帝国主義』(光文社古典新訳文庫、山田博雄訳)。

この本は1901年に出版された。米西戦争の直後だ。なのでこんなことが書かれている。

「米国は最初、スペイン領キューバで起こった独立運動を助けてスペインと戦ったときには、自由のため、人道のために虐政を取り除くと称していた。本当にその通りなら、道義にかなったすばらしい行為である。そして、もしキューバの人民がその恩に感じ入り、徳を慕って、米国統治下の人民となることを願うなら、米国がこれを併合するのもわるいことではない。そうであればわたしは必ずしも米国があれこれと策を講じて、キューバ島民をあおり立て教唆した事実を摘発しないだろう。
 しかしフィリピン群島の併呑、征服にいたっては、断じて許すことができない。米国は本当にキューバがスペインから独立と自由を勝ちとる運動のために戦ったのか。それなら、なぜ一方で、あんなに激しくフィリピン人民の自由を束縛するのか。」(149ページ)

幸徳秋水が書いた1901年の段階で、まだキューバは独立していなかった。米国の軍事占領下で、独立は1902年5月である。

一方フィリピンは1899年1月21日に独立するものの、アメリカが認めず戦争に突入。


 

「国民はもはや小さい。それなのに、どうして国家が大きくなれるというのか。大きいようにみえるが、それははかなく消える泡にすぎない。空中楼閣にすぎない。砂上の家にすぎない。台風が通り過ぎれば、たちまち消え去って跡形もない雲霧と同じである。これは昔から今に至るまで、歴史が明らかにしているところである。それなのに、哀しいものだな、世界各国は競ってこの実質のないはかない泡のような膨張につとめて、しかも滅亡に向かって進んでいる危険を知らないのだ。」(177ページ)

わかりやすい。そして、弱い文章であるところもいい。

「『帝国主義』とは、すなわち大帝国(グレーター・エンパイア)の建設を意味する。大帝国の建設は、そのまま自国の領土の大いなる拡張を意味する。わたしは哀しむ。自国の領土を大々的に拡張することは、多くの不正を犯すことを意味し、道理にそむくことを意味するのだから。(中略)世界中のどんな土地にも、すでに主人があり、住人があるとすれば、大帝国を建設しようとする人たちは、果たして暴力を用いず、戦争もせず、また嘘偽りを言わずに、うまい具合に、わずかばかりの土地を自分のものにできるだろうか。ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカにおいて行い、米国が南米において行う領土拡張政策は、みな軍国主義によって行われているではないか。武力によって行われているではないか。」(136ページ)

「哀しむ」がここにも出てきて、それが弱さだと思うのだが、そこがいい。

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この本には内村鑑三が序文を書いている。

「政府には宇宙や世界の調和について考えることのできる哲学者が一人もいないのに、陸には十三師団の兵があって、武器はいたるところでまばゆく輝いている。民間には人民の鬱々として気持ちを癒すことのできる詩人が一人もいないのに、海には二十六万トンの戦艦があって、平和な海上に大きな波しぶきを立てている。」(15ページ)

今の状況(日本学術会議の会員任命拒否に端を発する一連の問題)に即していうなら、人々を分断しないようにするべき立場の人が、統合なんかどうでもいいとばかりに、敵を作って分断を煽り、強い言葉を次々に繰り出している。

罵倒の応酬に持ち込んでいる。強い言葉はもっと強い言葉を呼び込む。

強い言葉はものすごいダメージを与えるので、弱い人は負けてしまう。

鬱々とした状況を癒すためにできることがわからないまま、耳を閉ざすことができなければ、その中に参入して、もっと強い言葉を吐き出すしかないとでもいうような、とても辛い状況が続いている。

ここ数日の雨で金木犀はすっかり花を落としてしまった。散歩道のあちこちで、オレンジ色が目に入る。

2020年9月30日水曜日

ゴーギャンとリマ、その後 Part III

福永武彦の『ゴーギャンの世界』(新潮社、全集版)とバルガス=リョサの『楽園への道』(河出文庫)から。

「そして彼は[1865年]以後の六年間を海上で暮し、水夫や火夫や舵手を経験し、成年以後は水兵となって、その間に南米やインドやスカンジナヴィアへ行った。それは恰もボードレールが、二十歳の頃モーリス島[モーリシャス島]へと旅行し、その航海の体験が、後年のボードレールの詩作を彩っているのと似てはいないだろうか。こうしてゴーギャンが二十三歳でフランスへ戻った時に、母親は既に死に、姉は嫁ぎ、彼には家庭もなく家もなかった。後見人のギュスタヴ・アローザが、彼をパリの、ラフィット街の株式仲買商ベルタンに紹介した。ここから平凡な一人の株屋の生活が始まる。」(福永、21ページ)

前便に引き続き『楽園への道』では船員時代のことは、こんな風に書かれている。

「 (前略)船員だった頃、外洋でルツィターノ号やチリ号の船倉や船室で、何度も彼はそのように振る舞った[男色の趣味についてからかわれると相手の顔を殴っていたということ]。それらの商船で三年を過ごし、その後、戦艦のジェローム=ナポレオン号で、プロイセンと戦争状態にあった時期に二年を過ごした。(中略)その頃のおまえは、世界のあらゆる海や港を、あらゆる国や民族や風景を訪ねながら、ベテランの船員として経験を積み、やがては船長になることに憧れていた。(中略)見習い水夫としての最初の航海はフランスからリオ・デ・ジャネイロまでで、三か月と二十一日かかった。」(バルガス=リョサ、91ページ)

船乗り時代に訪れた場所は、『楽園への道』では、「リオ・デ・ジャネイロ、バルパライソ、ナポリ、トリエステ、ヴェネツィア、コペンハーゲン、ベルゲン[ノルウェーの古都]」とある。

バルパライソは当然、マゼラン海峡経由だろう。チャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗ってここを通ったのが1834年のことだ。

ゴーギャンは23歳で船を降りた後、11年間株式仲買人をやり、その合間に印象派の画家の作品を蒐集する。カリブ海出身のピサロと知り合い、絵を学び始めたのもこの時期だ。ゴッホとも知り合った(1886年)。

そしていよいよカリブ海へ行く。1887年のことである。

「一八八七年五月から十月まで、初めはパナマ、次いでマルティニック島のサン=ピエール郊外での苦難続きの滞在をとおして、おまえは本物の画家になったのだ。フィンセントがそれを最初に見抜いた。それに比べれば、蚊に刺されながらレセップス氏の運河の工事現場でつるはしを手に日雇い労働者として働き、マルティニックでは赤痢とマラリアで死にそうになったが、それくらいのひどい目はどうってことはないだろう。そのとおりだった。カリブのまばゆい太陽に照らされたあのサン=ピエールの絵の中では、色彩が熟した果物のように炸裂し、赤、青、黄、緑、黒などの色彩が主導権争いをするかのように剣闘士の獰猛さで互いに競い合ってい」(バルガス=リョサ、98-99ページ)た。

 パナマに行った経緯は福永の本に詳しい。

「この姉[ゴーギャンの姉マリイのこと]は、良人であるジュアン・ウリーブが、当時パナマのコロンにいて商売を営み、弟をそこへ差向けようと考えた。(中略)明るい南国への誘惑は、その間にも彼の心の中に燃え続けていた。」(福永、38ページ)

ゴーギャンの姉の夫がパナマでやっている商売はやはり運河がらみなのだろうか。

「無一文の彼はとにかくパリを逃げ出し、野蛮人として太陽の下で暮したかったのだ。パナマは彼の魂の故郷であるペルーからは近い。彼の中の血が自然の華かな色彩、強い香気、青い海を呼んでいたに違いない。」(福永、39ページ)

 彼は妻への書簡には以下のように書いている(1887年4月)。

「……画家としてのこの私の名前は一日ごとに有名になって来ている。が、今のところ、私は三日位は何一つ食わないことがよくあるのだ。こいつは健康をそこなうだけでなく、私の気力までもそこなってしまう。この気力という奴を私は取り返したい。私がパナマへ行くのは野蛮人[傍点あり]として生きるためだ。私はパナマ海峡から一海里のところに、太平洋の中の小さな島(タボガ)を知っている。そこは殆ど住む人もなく、自由で、豊穣なのだ。私は自分の絵具と筆とを持って行き、人間共から離れて自分を鍛え直すつもりだ。」(福永、38ページ)

太平洋の小さな島を知っている、というこの書き方もずいぶん思わせぶりだ。どうして知っていたのだろう。この島はパナマ市から20キロ南の太平洋に浮かぶ小島だ。

大航海時代、パナマ越えをして太平洋に至り(太平洋の発見)、その後ペルーを征服するフランシスコ・ピサロとヌニェス・デ・バルボアがこの島を踏んでいる。

このカリブへの旅に付き添ったのは弟子のシャルル・ラヴァル。彼らはこの島に3ヶ月滞在したが、絵筆は握らなかった。だからパナマ時代の絵は一枚も残っていない。しかしこの島にはゴーギャンが立ち寄ったことを示すプレートがビーチに据え付けられている。

 運河工事の人夫として働いて病気になったのでタボガ島へ行ったという話もあるが、この書簡からすればそもそもの目的がこの島に行くことだったわけだ。この手紙の書きっぷりにはすでに、その後タヒチでのゴーギャンが見える。

しかし義兄は職を用意してくれなかった。パナマでは結局この時期進んでいた運河の工事の人夫となって「朝の五時半から夕の六時まで炎天の下で働き、ラ・マルチニックへ行く旅費をためようとした。」(福永、39ページ)。

ということは最初の目的はパナマ(タボガ)で、思そしてマルチニークに行った、つまりハプニングだったのだ。

そしてゴーギャンとラヴァルは6月にマルチニークに到着。

「小さな首都サン・ピエルから反時間ほどの土人の小舎に住んだ。(中略)それは全くの楽園だった。黒人の男や女はひねもす歌い、空は晴れ、大気は暑くしかも風は涼しかった。(中略)そこは確に、彼の感覚を悦ばせる風景に富んでいたが、しかしラ・マルチニックは後のタヒチのように、個性ある作品を生み出させるまでには至らなかった。(中略)この楽園での生活はものの半年とは続かなかった。二人は飢えていたし、虚弱なラヴァルがまずマラリアに罹った。ゴーギャンもそれに感染し、更に赤痢に罹った。彼は殆ど死にかけて骸骨のように痩せ衰え」、「十一月に、弟子をサン・ピエルの病院に入れると、水夫として帆船に乗り込んで、単身パリへ戻って来た。」(福永、40ページ)

バルガス=リョサは、福永が書いていないゴーギャンの性に並々ならぬ関心を寄せて描く。

「サン=ピエールでのうだるような夜、燃えるようなクレオール語を話す、腰のほっそりした黒人女の一人を組み伏すことができたとき、女ヴァイキングに再会したら、遅ればせながら教えてやろうと。(中略)マルティニックでの作品は熱帯の桁外れの色彩のおかげで描かれたのではなく、絵を描くことと同時にセックスすること、本能を大切にすること、自分の内にある自然なものと悪魔を受け入れ、自然のままに生きる人間として欲求を満たすことを学んだ画家、未開人としての新参者が勝ち取った、因習からの自由と精神の自由のおかげだった。(中略)あの不運続きのパナマとマルティニックの旅から戻ったとき、おまえは野蛮人だっただろうか。そうなりはじめていたところだったね、ポール。いずれにしても、もうおまえの振る舞いは文明化されたブルジョワのものではなかった。パナマの密林の中、情け容赦なく照り付ける太陽の下でシャベルを振るって汗を流し、混血女や黒人女を、カリブの泥や赤土や汚れた砂の上で愛したあとで、どうしてそんなふうに振る舞えようか。」(バルガス=リョサ、101ページ) 

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下は秋晴れの日の東京。

 



2020年9月29日火曜日

ゴーギャンとリマ Part II

 前便の続きで、福永武彦『ゴーギャンの世界』から

「[リマの]ドン・ピオの屋敷には多くの女たちが住んでいた。家族の他に黒人の侍女たちもいる。父親のないポールは一族の女たちに愛されていたし、夜になると、彼と姉のマリイとに、床をともにして黒人の娘が寝た。この早熟な、感覚の鋭い子供が習い覚えたものは、母親による精神的な愛情の他に、獣じみた匂いのする肌の感覚だった。リマを去る前に、この子供は「従妹の一人を犯そうとした。私はその時六つだった。」(『前後録』P.140)このような環境に投げ込まれて、異常に早くから目覚めさせられた感覚、そこには後年の、傲慢な、自分の眼しか信じなかった画家、野蛮で豪奢な自然に憧れた夢想家、常に彼方[原文傍点]へと逃亡した放浪者の面影を、早くも読み取ることが出来る。この小さな暴君が、リマを去って故郷のフランスへ戻ったのは、彼が漸く七歳の時にすぎなかった。」(『福永武彦全集 第19巻』20ページ) 

バルガス=リョサの『楽園への道』はゴーギャンがタヒチへ行ってからのことから書き出されるが、リマ時代の思い出も時折こんな具合に出てくる。

「おまえはずっと母親を好きではなかったのか、ポール。たしかに死んだときは愛情を感じていなかった。けれども子供の頃、母の大叔父ドン・ピオ・トリスタンの住むあのリマにいた頃は大好きだったよね。おまえの幼年期の鮮明な思い出の一つは、リマの中心にあるサン・マルセロ地区でおまえたちの一族が王さまのように暮らしていた大きな屋敷の中で、若い未亡人がどんなに美しく愛らしかったかということだ。アリーヌ・ゴーギャンはペルーの貴婦人のように装い、ほっそりした身体を銀の刺繍の入った大きなマンティーリャで包んで、リマの婦人たちのあいだで流行していたタパーダと呼ばれるやり方で頭と顔半分を覆い、片目だけを見せる装いをしていた。」(『楽園への道』田村さと子訳、河出文庫、186ページ)

タパーダと呼ばれるやり方は、Tapada limeñaでWikipediaの項目がある。

ドイツの画家Mauricio Rugendas(1802-58)がこんな絵を描いている。1800年ごろの絵だ。このような装いは1500年代にはすでに見られ、19世紀半ばまで続いたそうだ。

 

 

「その少年が、やがて十七歳の時に、不意に船乗りになりたいという決心をした。母親には自分の子の気持ちが分らなかった。その決心が抜き難いことを知ると、せめて海軍に入れて士官にさせようと思った。しかしそのためには何年かの学校教育を受けなければならない。ポールは母親にさからい。今じきに海へ行きたいと言った。彼はル・アーヴルへ赴き、ルツィターノ号の見習い水夫になる契約を自分でやってのけた。」(21ページ)

「ルツィターノ号はル・アーヴルとリオ・デ・ジャネーロとの間に就航している。フランスの学校で教育を受けた少年にとって、赫かしい太陽と香ばしい大気、黒人の娘やインディアンの赤銅の肌の記憶ほど、自然な、生き生きした美しさを持ったものは見当たらなかった。」(21ページ)

[続く]

2020年9月27日日曜日

ゴーギャンとリマ Part I(福永武彦『ゴーギャンの世界』より)

福永武彦『ゴーギャンの世界』(『福永武彦全集 第19巻』新潮社、昭和63年)から、タヒチ以前のゴーギャンのリマ、パナマ、マルチニーク紀行を拾ってみる。

まずはリマから。巻末の年表の1849年、ゴーギャンが一歳の時。

「前年度の二月革命とルイ・ナポレオンの大統領当選の後に、父のクロヴィス・ゴーギャンはパリを逃れて、妻の母[フローラ・トリスタンのこと]の実家であるペルーのドン・ピオ・トリスタン・モスコーソを訪ねようと、家族と共に船に乗るが、航海中に動脈瘤のため十月三十日急逝し、マジェラン海峡の小さな港で埋葬される。三十五歳。母[アリーヌ=マリ・シャザール]はそのままポールとその姉のマリを連れて旅行を続ける。家族は六年間リマ市に滞在。」 (261ページ)

このようにしてリマに着いたゴーギャン一家。

「ポール・ゴーギャンが幼年時の四年間を過ごしたのは、このリマである。一八五〇年代のリマは、高度の文明と古代の野蛮との混淆、豪奢と不潔の共存だった。貴族たちは兀鷹の棲む城壁を張り廻した大邸宅に在って贅を尽し、その馬車は悪臭を放つ下町を練り歩いた。下町では黒人やインディアンが惨めな小舎の中に原始的な暮しを送っていた。この都市は奇妙な対照を形づくった。」(19ページ)

ペルーは奴隷解放が1854年。ゴーギャン一家がいた頃は、教科書的にはラモン・カスティーリャ統治時代で安定していて、グアノという海鳥の糞尿の堆積が肥料として輸出されるのが好調な時代だった。グアノ(guano)はコンラッドが『ノストローモ』で架空の国名として作り出した「コスタグアナ(Costaguana)」の元ネタではないかと言われている。

「若い未亡人が頼って来たのは、祖父の兄に当る、嘗てのペルー総督ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソである。この家長は当時既に百歳以上と傳えられていたが、尚矍鑠として健在だった。亡命の一家は此処で壮麗な邸宅を与えられ、なに不自由ない生活を送った。子供の眼を開いたものは、この異邦の、赫かしい太陽と海と街とである。」(19ページ)

この邸宅がどこにあったのか。インターネットで検索すると、こんな記事が出て来た。エマンシパシオン通りだったようだ。「百歳以上」と見られたドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソはアレキパに1773生まれ、1859年リマで没。

「パリ生まれの子供にとってすべては驚異に充ちていた。宮殿のような大邸宅、白い壁を飾る画幅と織物。銀器、燭台、壺などを置いた部屋、そこを行き交う婦人たちの絹の衣裳、裸の顎を飾る珍しい宝石、給仕をつとめるシナ人の可愛い侍童。街へ出れば華かなカーニヴァルの祭りのざわめき、黒色あるいは褐色の肌を見せた半裸の女たちの行列、子供たちの喧しい遊び声。」

地図でエマンシパシオン通り253(ゴーギャンが住んでいた住所)を検索すると、近くにチャイナタウン(Barrio Chino)がある。Wikipediaによれば、この地区ができたのは19世紀の半ば、ちょうどゴーギャンがいた頃。

[今日はここまで]