2023年7月8日土曜日

7月8日

2本のドキュメンタリーをみた。

1本は西サハラ友の会経由で『銃か、落書きか

もう1本はプエルト・リコの歌手バッド・バニーの『停電(El Apagón)

それから、ジョン・ハーシー『ヒロシマ』のスペイン語版が届いた。

John Hersey, Hiroshima, Penguin Random House, 2022[初版2016]



スペイン語に翻訳したのはフアン・ガブリエル・バスケス。コロンビアの小説家。手元の2022年版は7刷。

日本語版は法政大学出版局が出版した第一号の本(1949年)。増補版が2003年に出ている。



ほかにも書き足しておきたいことがあるのだがとりあえずここまで。

2023年7月1日土曜日

7月1日 近況

フアン・ガブリエル・バスケスの『密告者』(服部綾乃、石川隆介訳、作品社)には、第二次世界大戦中のコロンビアに移住したドイツ人移民の中にいたナチ信奉者、あるいはそう目された者たちが出てくる。

カリブ沿岸の都市バランキーリャにはナチ党の支部があったと書かれている。これは史実と一致する。バランキーリャにおけるナチに関して多くの記事があるが、しかしそれらが報じられたのは、このバスケスの小説が出て以降のように思われる。少なくともこの小説が出るまで、というよりこの小説が日本語で翻訳されるまで知らなかった。

バスケスのこの小説はおそらく多くのコロンビア人にとっても貴重な内容なのだが、一見難しい語りの手法をとっている。

第4部でコロンビアにおける有力な人物(ガブリエル・サントーロ)が実は、あるドイツ人をナチ信奉者だと「密告した張本人」であったことが暴露されるシーンが出てくる。

そこはテレビ番組におけるインタビューの再現形式になっている。インタビュアーは番組進行役で、その人のセリフはイタリックになっていて、答えるのはアンヘリーナである。アンヘリーナが暴露する側である。

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【原文】
¿Estaba ella al tanto de la reputación de Gabriel Santoro?
  No. Bueno, cuando Angelina lo conoció, Gabriel estaba metido en una cama como un niño, y eso no realza la apariencia de nadie, hasta el presidente se vería disminuido y común reducido al piyama y las cobijas. Angelina sabía, (後略)

【英訳】
 Was she aware of Gabriel Santoro's reputation?
 
No. Well, when Angelina met him, Gabriel was tucked up in bed like a baby, and that doesn't enhance anybody's appearance, even the President would look diminished and common reduced to pyjamas and bedclothes. Angelina knew, (後略)

【久野による仮訳】
ガブリエル・サントーロの評判について彼女は知っていましたか?

いいえ。実はアンへリーナが彼と知り合った時、ガブリエルはベッドに赤ちゃんのように入っていて、そうなっているとどんな人もぱっとせず、大統領だってパジャマと毛布だけの小さな普通の人に見えてしまうものです。アンへリーナは知っていました、(後略)

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ここは三人称に対する問いかけになっている(彼女は知っていましたか?)。これをそのまま読めば、インタビュアーは、インタビュー相手とは別人の「彼女」がガブリエル・サントーロを知っていたかどうかを聞いていることになる。

それに対しての答えも、そのまま読めば、質問されている人とは別人の「彼女」のことについて答えている。その別の人とはアンへリーナで、アンへリーナがガブリエル・サントーロと知り合った経緯を話している。

スペイン語文法の人称を正確に反映させて読もうとすれば読もうとするほど、ここは三人称に引っ張られる。スペイン語の授業などでこの小説のこの部分を取り上げればそう読む人は出てきておかしくない。

しかしここでインタビューされているのはアンへリーナであり、アンへリーナが自分のこととして答えている場面なのだ。このインタビューの再現は以下のように書かれている方が理解しやすい。

¿Estaba usted al tanto de la reputación de Gabriel Santoro?(あなたはガブリエル・サントーロの評判を知っていましたか?)
 No. Bueno, cuando lo conocí, Gabriel estaba metido en una cama como un niño, y eso no realza la apariencia de nadie, hasta el presidente se vería disminuido y común reducido al piyama y las cobijas. Yo sabía, (後略)(いいえ、実は私が知り合った時、ガブリエルは……)【下線部が変更箇所】

こう書かれていればインタビューで交わされた会話のそのままの再現なのだとわかる。

スペイン語でこの本を読む人たち(あるいは欧米言語一般の読者:いわゆる標準ヨーロッパ言語[SAE]のこと)は三人称が用いられても、不思議な印象はないのだろうか?それともここの場面に見られるバスケスの手法は実験的になるのだろうか。

あらためてこの場面を整理すると、この物語の語り手である一人称の「yo(英語のI)」がこのインタビューをテレビで直に見て、その内容が重大であるために書き起こしている。つまり重要なのは、インタビューを見ている人「による」再現になっていることだ。

画面の中にインタビュアーとインタビューされるアンへリーナがいて、インタビューが始まる。これを語り手の「私」から見た語りとして地の文にするとどうなるか。

Yo vi en la televisión que el entrevistador le preguntaba a Angelina que ella había estado al tanto de la reputación de Gabriel Santoro. Vi que ella decía que no,  bueno, cuando Angelina lo conoció...(私はテレビで、インタビュアーがアンへリーナに、ガブリエル・サントーロの評判を知っていたかを尋ねるのを見た。私は見た、彼女がいいえ、実は知り合った時……と言うのを見た。)

おそらくこうなるのではないか。スペイン語の時制は想像なので間違っているかもしれない。ただ、欧米言語で物語る場合には、このようにして語り手というのが絶対的に存在し、その枠は揺るがない。したがって語り手が私という一人称であれば、その人物が他人の行為について見聞きしたものは、基本的に従属節的になる。場合によっては主節を省いて従属節の部分だけをそのまま書き込んでいく。つまり自由間接話法である。

この時に欧米言語では人称は間接話法のものがそのまま残る。会話を再現しているのは「私」であって、「私が見たもの」が大きな枠として設定され、その目線から再現される以上、テレビの画面の中での出来事は三人称で語られる。「私」はインタビュアーにも、アンへリーナにもなれない。

非欧米言語話者、日本語話者(日本語は主題優勢言語。SAEは主語優勢言語や主語卓越言語と言われる)として読むと、人称が不自然に見えるが、欧米言語の語りの規範からすれば三人称であって当然なのだと考えられる。あくまで「私」が、インタビュアー(彼)のアンへリーナ(彼女)に対する質問とその答えを再構成しているからである。

ところでSAEを主語卓越言語とする言語類型論についてだが、小説を読む上でSAEは「人称卓越言語」と言ったほうがわかりやすいかもしれない。卓越性があるのが主語か主題かというよりも、問題は人称ではないだろうか。主語は人称に依存しているので。

邦訳は工夫がなされていて、インタビューの再現形式であることがわかるようになっている。 ここは訳者を相当に悩ませたところに違いない。

 



角田光代の『八日目の蝉』は基本的に一人称で書かれている小説だが、冒頭部分に、三人称(希和子)で書かれているパートが置かれている。以下、引用。

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    玄関に突っ立ったまま、台所の奥、ぴたりと閉まった襖に希和子は目を向けた。色あせ、隅の黄ばんだ襖を凝視する。
 何をしようってわけじゃない。ただ、見つめるだけだ。あの人の赤ん坊を見るだけ。これで終わり。すべて終わりにする。明日には、いや、今日の午後にでも、新しい家具を買って仕事を探すんだ。今までのことはすっかり忘れて、新しい人生をはじめるんだ。希和子は何度も自分に言い聞かせ、靴を脱いだ。(中公文庫、7-8ページ)
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「何をしようってわけじゃない」から「新しい人生をはじめるんだ」までは希和子の内面の声(独白)であることは無理なくわかる。三人称の地の文に、その人の声が一人称で入ってきても、日本語では主語を示さなくてもわかるし、原文でその部分はカギカッコで括られていない。しかしスペイン語版では以下のようになる。

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 Paralizada en el espacio que queda junto a la puerta donde se dejan los zapato, [Kiwako]dirige la mirada al fusuma de detrás de la cocina, cerrado a cal y canto. Está descolorado, con las esquinas amarillentas.
  《No voy a hacer nada malo. Sólo quiero verlo aun momento. Sólo me gustaría ver a su bebé; eso es todo. Después pondré punto y final. Mañana... No, esta misma tarde compraré muebles nuevos, buscaré un trabajo. Lo olvidaré todo y empezaré una nueva vida.》Kiwako se lo repite a sí misma varias veces.(La cigarra del octavo día, Galaxia Gutenberg, p.7)
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希和子の独白は一人称で、しかもカギカッコ(二重ギュメ)で括られている。カギカッコがなくてもわかりそうなものだが、地の文が三人称である以上、そこにいきなり一人称が使われたら、一人称で語られた小説ととられてしまうだろう。希和子(三人称)から語るのが地の文の規範だ。


2023年6月18日日曜日

6月18日 社会主義から自由主義へ

エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ 革命の世紀の群像』(上下、みすず書房)は社会主義思想の展開を物語った本である。

フィンランド駅とは、レーニンが1917年4月に到着した駅で、フィンランドにあるのではなく、現在のサンクトペテルブルク、つまりロシアの駅でフィンランド鉄道が建てた駅らしい。

フィンランドとロシアということでは、映画『コンパートメントNo.6』が記憶に新しい。1990年代にフィンランド人女性がモスクワに留学する話から始まって、失意の旅行で乗った鉄道のコンパートメントで知り合うロシア人男性との関係を描いたもの。

このエドマンド・ウィルソンに向こうを張った本がバルガス=リョサの『部族の呼び声(La llamada de la tribu)』(2018)である。社会主義思想ではなく自由主義思想の展開をバルガス=リョサが叙述する。

序文によれば、「そうは見えないが自伝的な本である。私の知的・政治的な歴史、マルクス主義とサルトルの実存主義に感化された青春時代から、アルベール・カミュ、ジョージ・オーウェル、アーサー・ケストラーのような作家の読書によって得られた民主主義の再評価を通じて、成熟して以降の自由主義までが語られる。」(p.11)

とりあげられる人物は、アダム・スミス、オルテガ、ハイエク、ポパー、レイモン・アロン、アイザイア・バーリン、ジャン=フランソワ・ルヴェル。

「私のキューバとの、そしてある意味で社会主義との断絶は、その頃は超有名だった(今ではほとんど誰も覚えていないが)パディーリャ事件が原因だった。キューバ革命の熱心な賛同者だった(商務省の副大臣までのぼりつめた)詩人のエベルト・パディーリャが、1970年に政権の文化政策を批判しはじめた。最初は公的メディアで辛辣に攻撃され、その後CIAのエージェントだと馬鹿げた告発によって収監された。パディーリャと友人である我々5名(フアン・ルイス・ゴイティソロ、ハンス・マグヌス・エンツェンスべルガー、ホセ・マリア・カステレと私)は憤激してバルセロナの私のマンションで抗議の手紙を認め、それに世界中の多くの作家が賛同してくれた。」(p.17)

しかしその手紙が原因でバルガス=リョサを貶めるキャンペーンが行われ、数年間をかけて彼は自由主義思想に傾いていく。

「[それは]疑念と再考の時期で、その間に少しずつ私は理解していった。ブルジョア民主主義だと言われるものの『形式的な自由』とは、その背後に富者による貧者の搾取が隠されているようなただの見せかけではなく、人権間の境界、表現の自由、政治的多様性であるということを。そして共産党とその大物たちに代表される唯一の真実の名の下での権威主義的で抑圧的な体制は、あらゆる批判を封じ、ドグマ的なスローガンを押しつけ、不服従者を強制収容所に送ったり行方不明にできるということを。」(p.17-18)



【自由間接話法 文献続き】

若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社、2007年

この本の10章「『私の』部屋」(211-239ページ)はナボコフの自由間接話法について

井尻直志「小説の文体としての自由間接話法 スペイン語の場合」沖縄外国文学会、2019年34号、31-46ページ。

スペイン語作家から主として論じられるのはやはりバルガス=リョサ。


【近況】

「死者たちの夏2023」を受けて、今日は日本社会文学会の大会に行こうと思ったが難しそう。ハイブリッドだから自宅からでもと思ったが、すでに締め切られていた。残念。


2023年6月7日水曜日

6月7日 千歳船橋、ソフト/クワイエット

明後日から始まる「死者たちの2023」のお稽古を見学させてもらいに、千歳船橋まできた。

6月のこの時期は夕方が長い。久しぶりに小田急線に乗った。軽食をとろうとぶらぶらした。もちろん小田急OXがあった。

よそ者だから、メキシコシティのコヨアカンとかブエノスアイレスのパレルモのような緩さを体感できた。


映画『ソフト/クワイエット』は原題は"Soft & Quiet"。

実際にはワンショットではないのかもしれないが、女性たちが白人至上主義団体の活動を始めて仲間と集い、そこから仲間の家でワインでも飲もうと買い出しに行き、そして惨劇……が90分間切れ目なく続く。ドキュメンタリーのように登場人物たちのすぐ近くにカメラがあって彼らを追いかけてゆく。

差別行動は「上品に、そして静かに(ソフト&クワイエット)」進められる。それを黙認していては、その差別を追認することにほかならない。監督が映画を撮った理由はこれだ。映画の中で白人至上主義者として出てくるのは白人で、彼女らはラティーノ、黒人たちを言葉で差別しているが、その後実際に暴力を行使して死に追いやる相手のことについては言葉では名指さない。

ところでこの「ワンショット」という手法は、バルガス=リョサが自由間接話法を使うときの小説(『小犬たち』)と似ている。群像劇で、その登場人物たちが空間を移動しながらぺちゃくちゃおしゃべりをしたり、風景が目に入ったり音が聞こえてきたり、そしてそれにも反応していく様子を、ピリオドも少なくして段落を変えず、全体をまずは地の文として、そこに複数の人の声を紛れ込ませていくスタイルは、ある種ワンショット的である。

中編『小犬たち』(『ラテンアメリカ五人集』集英社文庫所収)を久しぶりに読み直して、スピード感あふれる流れるような自由間接話法(文体)だった。ただこういう小説スタイルはある種の実験というか、一回限りという感じもする。

ある論文で知ったのだが、自由間接話法が用いられると、そこは読書のスピードが落ちるそうだ。不思議なものだ、『小犬たち』を日本語で読んでいる限りではそういう感じがしない。原文で読んでもスピードは落ちないような気がする。読者に対しては注意力をある程度保たせるように強いるが、それがうまくいけば、スピード感が出る。

とはいえ長編を書くには自由間接話法だけでなく、また別の語りの手法、つまり地の文によって物語そのものを展開していく必要もあるし、そういう時には直接話法を織り交ぜたりするしかないのかな、と思う。




『ソフト/クワイエット』のHPに載っている監督の言葉を引用する。

「典型的な植民地主義を描いた物語にはしたくないという思いがありました。植民地主義が持つ憎しみを受け入れやすくした表現や、今なお続いている植民地主義者たちの犯罪行為を和らげ、赦免するために書かれた偽りのストーリーアークを映し出したくなかったからです。私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」

観客が1秒たりとも気を抜けないようにすること。なるほど。
 
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この前の星泉さんによるチベット文学講座は大変勉強になった。
大学HPに掲載されています。
 

2023年6月5日月曜日

6月5日 大雨その後

大雨で大学の桜の木が折れた。




相変わらずの自由間接話法。文献整理として。

ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学 言語学における社会学的方法の基本的問題[改訳版]』(桑野隆訳)、未来社、1998年。

前に挙げた工藤庸子『恋愛小説のレトリック』では「(前略)自由間接話法では、時制の一致による半過去の存在と人称代名詞や所有形容詞などの変換が、語り手の視点の存在を裏づけているわけで、つまり語り手の存在感だけを問題にするならば、直接話法<自由間接話法<間接話法と定義することができるでしょう」(p.172)として、その後バフチンを参照して、「要は『他者の言葉』との関係なのです。」と述べ、バフチンが上に挙げた本で言っている「疑似直接話法」のことに触れる。「語り手と作中人物がほぼ同じ資格において共存する。ただし両者が一体化しているわけではむろんない。あいだに微妙な距離があり、この距離は、あいまいであるがゆえに、いかようにも機能する」(p.172)。

この「あいまい」さは、語り手の作中人物に対する感情移入や、あるいは「風刺」や「アイロニー」をまとう場合もある。工藤も引用しているところだが、バフチンは言う。「フローベールは、自分が嫌悪の情をもよおし憎んでいるものに目を注がずにはいられない。しかしそのばあいにもかれは、みずからを感情移入し、この憎み嫌悪すべきものと自己を同一化する能力をもっている」(『マルクス主義と言語哲学』p.242)



もっと新しいのは以下の本。

平塚徹編『自由間接話法とは何か 文学と言語学のクロスロード』ひつじ書房、2017年。



この中の赤羽研三「小説における自由間接話法」(49-97ページ)の中では例えば以下のようなところに着目している。

「さらにSILにおいては、すでに述べたように、倒置形の疑問文、感嘆文、不完全な文といった間接話法では取り込めない発話も取り入れることができる。(中略)受け手に何かを訴えるというより、表出される情動の強度のほうに重点が移っているように思われる。強い情動が込められているということは、疑問符や感嘆符が多用されるところにも現れている。」(65-66、強調引用者)

 


「(前略)単純過去で非人称的に語っていた書き手自身が、エンマの思いをあたかも自分の思いのように発しているのだ。地の文と作中人物の発話の境界が取り払われてしまっているために、書き手自身もエンマの声に同調し、自分でも意識せずに突然自然に思いが噴出したという印象をもたらしている。書き手はここではもはや語り手という媒介者を通して、作中人物の意識を言語化し誰かに伝えているというより、その意識の現われを「直接的に」自分の声のように受け止めているというふうなのだ。言ってみれば、書き手はその存在に憑依したように言葉にしているのである。」(p.68、強調引用者)

 

 「情動のこもったSILは、非反省的意識に属することが多いのである。(中略)SILの文体論的特性は、この「非反省的意識」に関わるときにより強く現われるのだ。」(p.69、強調引用者)

 

論文では以下の2本。

橋本陽介「『物語世界の客体化』からみる自由間接話法の言語間比較」『慶應義塾大学藝文学会』2009, Vol. 96:165-181

溝上瑛梨「自由間接話法と語りのフレーム」『言語科学論集』2016, 22:107-127


2023年5月28日日曜日

5月28日 『TAR /ター』とアマゾン、そして近況

映画『TAR /ター』の主人公リディア・ターはベルリン・フィルではじめて女性で首席指揮者になった人物だ。映画はできるかぎり現実世界との連続性を持たせようと、実在の人物によるターへのインタビューが冒頭シーンに据えられている。

仮構は仮構として面白いと思ったのは、アメリカ生まれの彼女はペルー・アマゾン、ウカヤリ(Ukayalí)地方に住む先住民シピボ=コニボ族(Shipipo-konibo)の音楽の専門家ということである。5年間アマゾンで調査をした経験が、彼女が出版しようとしている本で書かれている。

そのペルー音楽は映画でも流れる。Elisa Vargas Fernándezの「Cura Mente」という曲だ。Youtubeには、映画制作よりも昔の映像がある。例えばこれとかこれ

シピポ=コニボ族の住むウカヤリは行政単位としては県のようだが、その首都はプカルパ(Pucallpa)である。バルガス=リョサの作品に慣れ親しんでいればよく聞く地名で、『ラ・カテドラルでの対話』でアンブローシオがアマーリアと行った場所だ。

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バルガス=リョサの方の進展で言うと、『果てしなき饗宴』から、その翻訳者工藤庸子の『恋愛小説のレトリック』(東京大学出版会、1998)を経由して、そこから芳川泰久『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む』(せりか書房、2015)へ。



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近況としては、昨日今日と気圧低下できついけれど、そう、先週末に3年ぶりにスペイン語文学研究会が復活して4時間を超えた。この分なら午前午後から続く5、6時間くらいの研究会ができる環境になってきたということで、楽しみだ。

ラテンアメリカ学会が6月3日・4日(明治大学駿河台キャンパス)。

同じ6月3日には、東京外大で市民講座、星泉さんによる「犬から目線で楽しむチベット文学」がある。

6月9日・10日・11日は調布のせんがわ劇場で「死者たちの夏2023」。

そしてその次の週末の土曜日6月17日は再び東京外大で市民講座、「イスラームのいま」。なおかつ、この土日は西洋中世学会が明治大学駿河台キャンパスで。

『緑の家』論を書きたいものだ、いつか必ず!


2023年5月22日月曜日

5月22日 『果てしなき饗宴』(続き)【6月5日追記】

『果てしなき饗宴』(原書1975、邦訳1988)についての続き。

バルガス=リョサがなぜフロベールを気に入っているのかがわかる箇所。

彼はまずヌーヴォー・ロマンの大部分の作家の作品には退屈してはいたが、こうした作家がフロベールの意義を認めていることもあることは知っていて、研究書や論文を通じて新しい小説群とフロベールの関係を学び、中でもナタリー・サロートの論文「先駆者フロベール」を読んで、反論したい箇所が山ほどあって、それがこの『果てしなき饗宴』を書かせているとも言える。ちなみにナタリー・サロートのことは、『プリンストン大学で文学/政治を語る』でも言及している(p.21-22)。曰く「私は、ヌーヴォー・ロマンの作家たちの大部分は、今ではほとんど読まれていないと思います」(p.22)

バルガス=リョサにとってフロベールへの愛着が揺らぎのないものになったのは、フロベールが「騎士道小説を書くのはぼくの昔からの夢なんです」(『果てしなき饗宴』p.49)と言っているところとも思える。

またフロベールには、『ボヴァリー夫人』を書いているときに『ドン・キホーテ』を再読し、スペイン旅行の計画もあったらしい(結果的には実現しなかった)。(p.91)

そしてなるほどな、と思ったのは、この本の第三部で『ボヴァリー夫人』においては「凡庸さ」が美として描かれていることを称賛しているところである。

「『ボヴァリー夫人』では、両極【引用者注--英雄か怪物のこと】から等しく離れた中間地帯、地味で平坦でみじめな凡人の生活をふくむ曖昧な一帯が「美しさ」を産出するところに変貌する」(p.248)

バルガス=リョサが英雄的怪物、怪物的英雄を描いているようでいながら、実は「凡庸さ」好みの一面があることを証明する箇所である。

さて、自由間接話法についてバルガス=リョサは以下のように言っている。

「フロベールがもたらした偉大な技法、それは、「全知の語り手」を登場人物にかぎりなく近づけて、両者の境界線がついに見えなくなるところまでもってゆき、そこにひとつの両面性をつくり出し、語り手の言うことが、「不可視の報告者」に由来するものか、それとも頭のなかで独白をつぶやいている登場人物に由来するものか、読者が判定できぬようにしてしまうという方法である。」(p.241、ゴチックは邦訳では傍点強調)

そして例(下の引用の下線部)を挙げる。

「(前略)動詞を省略しただけで、登場人物の内面生活がほんの一瞬、稲妻が光るように垣間見えることもある。《ルオー爺さんにしてみれば、もてあまし気味の娘が片づくことに不服はなかった。娘は家にいても役に立つというほどのこともないのだ。だがその点、爺さんは内心あきらめていた。なにせうちの娘は頭がよすぎるから、農業なんてお天道様に呪われた仕事なんざやるがらじゃない。百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》引用部分の冒頭とおわりの部分で話しているのが、「全知の語り手」であることは、まちがいない。」(p.243、ゴチックはバルガス=リョサによる強調で邦訳では傍点、また下線部は引用者による)

この引用部分については、引用の冒頭部分(「ルオー爺さんにしてみれば」から「ほどのこともないのだ」までは「全知の語り手」によるものだが、その先では徐々に語り手がルオーに近づいていく。バルガス=リョサは原文の"intérieurement"(内心)に注目してそう言っている。

そしてバルガス=リョサは自身が傍点強調している「お天道さまに呪われた仕事」について、「これは、ルオー爺さんその人が、頭のなかでぼやいた台詞のように感じられるではないか。もちろん結論の部分(《百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》)では、これとちがって、明らかに「全知の語り手」が、話を引きついでいる。自由間接話法のおかげで、『ボヴァリー夫人』の散文は、伸縮自在の柔軟性を与えられ、叙述のリズムや統一を乱すことなく、空間や時間の変化を自由にこなせるようになった。」(p.244)

『ボヴァリー夫人』から原文で引用すると以下の箇所。

“Le père Rouault n’eût pas été fâché qu’on le débarrassât de sa fille, qui ne lui servait guère dans sa maison. Il l’excusait intérieurement, trouvant qu’elle avait trop d’esprit pour la culture, métier maudit du ciel, puisqu’on n’y voyait jamais de millionnaire.”(抜粋:: Flaubert, Gustave  “Madame Bovary – Bilingual French-English Edition / Edition bilingue français-anglais (French Edition)”。 

スペイン語では以下のようになっている。

"Al tío Rouault no le hubiera disgustado que le liberasen de su hija, que le servía de poco en su casa. En su fuero interno la disculpaba, reconociendo que tenía demasiado talento para dedicarse a las faenas agrícolas, oficio maldito del cielo, ya que con él nadie se hacía millonario. "

「お天道様に呪われた仕事」の「呪われた」(maudit(仏)、maldito(西))が口語表現ととれるところから、ここをルオー爺さんの台詞のように読み取ろうというのがバルガス=リョサ。

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[6月5日追記]

『果てしなき饗宴』からさらに重要と思われるところは以下。

「『ボヴァリー夫人』においては、自由間接話法のシステムが用いられるのは、ほとんどいつも、現実から何かの刺激を受けた人間の精神が、記憶を通して過ぎ去った経験を甦らせるさまを見せるためである。さらに、あらゆる感覚や感情、強烈な印象をもたらした出来事などは、それ自体で孤立した存在ではなく、あるプロセスの開始、すなわち、時間が経ち、新しい経験があるたびに、追憶によってあらたな判断や意味がそれにつけ加えられてゆくプロセスの開始に当たるのだということを示唆するときにも、自由間接話法が使われる。」(p.260-261)