2023年5月22日月曜日

5月22日 『果てしなき饗宴』(続き)【6月5日追記】

『果てしなき饗宴』(原書1975、邦訳1988)についての続き。

バルガス=リョサがなぜフロベールを気に入っているのかがわかる箇所。

彼はまずヌーヴォー・ロマンの大部分の作家の作品には退屈してはいたが、こうした作家がフロベールの意義を認めていることもあることは知っていて、研究書や論文を通じて新しい小説群とフロベールの関係を学び、中でもナタリー・サロートの論文「先駆者フロベール」を読んで、反論したい箇所が山ほどあって、それがこの『果てしなき饗宴』を書かせているとも言える。ちなみにナタリー・サロートのことは、『プリンストン大学で文学/政治を語る』でも言及している(p.21-22)。曰く「私は、ヌーヴォー・ロマンの作家たちの大部分は、今ではほとんど読まれていないと思います」(p.22)

バルガス=リョサにとってフロベールへの愛着が揺らぎのないものになったのは、フロベールが「騎士道小説を書くのはぼくの昔からの夢なんです」(『果てしなき饗宴』p.49)と言っているところとも思える。

またフロベールには、『ボヴァリー夫人』を書いているときに『ドン・キホーテ』を再読し、スペイン旅行の計画もあったらしい(結果的には実現しなかった)。(p.91)

そしてなるほどな、と思ったのは、この本の第三部で『ボヴァリー夫人』においては「凡庸さ」が美として描かれていることを称賛しているところである。

「『ボヴァリー夫人』では、両極【引用者注--英雄か怪物のこと】から等しく離れた中間地帯、地味で平坦でみじめな凡人の生活をふくむ曖昧な一帯が「美しさ」を産出するところに変貌する」(p.248)

バルガス=リョサが英雄的怪物、怪物的英雄を描いているようでいながら、実は「凡庸さ」好みの一面があることを証明する箇所である。

さて、自由間接話法についてバルガス=リョサは以下のように言っている。

「フロベールがもたらした偉大な技法、それは、「全知の語り手」を登場人物にかぎりなく近づけて、両者の境界線がついに見えなくなるところまでもってゆき、そこにひとつの両面性をつくり出し、語り手の言うことが、「不可視の報告者」に由来するものか、それとも頭のなかで独白をつぶやいている登場人物に由来するものか、読者が判定できぬようにしてしまうという方法である。」(p.241、ゴチックは邦訳では傍点強調)

そして例(下の引用の下線部)を挙げる。

「(前略)動詞を省略しただけで、登場人物の内面生活がほんの一瞬、稲妻が光るように垣間見えることもある。《ルオー爺さんにしてみれば、もてあまし気味の娘が片づくことに不服はなかった。娘は家にいても役に立つというほどのこともないのだ。だがその点、爺さんは内心あきらめていた。なにせうちの娘は頭がよすぎるから、農業なんてお天道様に呪われた仕事なんざやるがらじゃない。百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》引用部分の冒頭とおわりの部分で話しているのが、「全知の語り手」であることは、まちがいない。」(p.243、ゴチックはバルガス=リョサによる強調で邦訳では傍点、また下線部は引用者による)

この引用部分については、引用の冒頭部分(「ルオー爺さんにしてみれば」から「ほどのこともないのだ」までは「全知の語り手」によるものだが、その先では徐々に語り手がルオーに近づいていく。バルガス=リョサは原文の"intérieurement"(内心)に注目してそう言っている。

そしてバルガス=リョサは自身が傍点強調している「お天道さまに呪われた仕事」について、「これは、ルオー爺さんその人が、頭のなかでぼやいた台詞のように感じられるではないか。もちろん結論の部分(《百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》)では、これとちがって、明らかに「全知の語り手」が、話を引きついでいる。自由間接話法のおかげで、『ボヴァリー夫人の散文は、伸縮自在の柔軟性を与えられ、叙述のリズムや統一を乱すことなく、空間や時間の変化を自由にこなせるようになった。」(p.244)

『ボヴァリー夫人』から原文で引用すると以下の箇所。

“Le père Rouault n’eût pas été fâché qu’on le débarrassât de sa fille, qui ne lui servait guère dans sa maison. Il l’excusait intérieurement, trouvant qu’elle avait trop d’esprit pour la culture, métier maudit du ciel, puisqu’on n’y voyait jamais de millionnaire.”(抜粋:: Flaubert, Gustave  “Madame Bovary – Bilingual French-English Edition / Edition bilingue français-anglais (French Edition)”。 

スペイン語では以下のようになっている。

"Al tío Rouault no le hubiera disgustado que le liberasen de su hija, que le servía de poco en su casa. En su fuero interno la disculpaba, reconociendo que tenía demasiado talento para dedicarse a las faenas agrícolas, oficio maldito del cielo, ya que con él nadie se hacía millonario. "

「お天道様に呪われた仕事」の「呪われた」(maudit(仏)、maldito(西))が口語表現ととれるところから、ここをルオー爺さんの台詞のように読み取ろうというのがバルガス=リョサ。

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[6月5日追記]

『果てしなき饗宴』からさらに重要と思われるところは以下。

「『ボヴァリー夫人』においては、自由間接話法のシステムが用いられるのは、ほとんどいつも、現実から何かの刺激を受けた人間の精神が、記憶を通して過ぎ去った経験を甦らせるさまを見せるためである。さらに、あらゆる感覚や感情、強烈な印象をもたらした出来事などは、それ自体で孤立した存在ではなく、あるプロセスの開始、すなわち、時間が経ち、新しい経験があるたびに、追憶によってあらたな判断や意味がそれにつけ加えられてゆくプロセスの開始に当たるのだということを示唆するときにも、自由間接話法が使われる。」(p.260-261)




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