2023年6月5日月曜日

6月5日 大雨その後

大雨で大学の桜の木が折れた。




相変わらずの自由間接話法。文献整理として。

ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学 言語学における社会学的方法の基本的問題[改訳版]』(桑野隆訳)、未来社、1998年。

前に挙げた工藤庸子『恋愛小説のレトリック』では「(前略)自由間接話法では、時制の一致による半過去の存在と人称代名詞や所有形容詞などの変換が、語り手の視点の存在を裏づけているわけで、つまり語り手の存在感だけを問題にするならば、直接話法<自由間接話法<間接話法と定義することができるでしょう」(p.172)として、その後バフチンを参照して、「要は『他者の言葉』との関係なのです。」と述べ、バフチンが上に挙げた本で言っている「疑似直接話法」のことに触れる。「語り手と作中人物がほぼ同じ資格において共存する。ただし両者が一体化しているわけではむろんない。あいだに微妙な距離があり、この距離は、あいまいであるがゆえに、いかようにも機能する」(p.172)。

この「あいまい」さは、語り手の作中人物に対する感情移入や、あるいは「風刺」や「アイロニー」をまとう場合もある。工藤も引用しているところだが、バフチンは言う。「フローベールは、自分が嫌悪の情をもよおし憎んでいるものに目を注がずにはいられない。しかしそのばあいにもかれは、みずからを感情移入し、この憎み嫌悪すべきものと自己を同一化する能力をもっている」(『マルクス主義と言語哲学』p.242)



もっと新しいのは以下の本。

平塚徹編『自由間接話法とは何か 文学と言語学のクロスロード』ひつじ書房、2017年。



この中の赤羽研三「小説における自由間接話法」(49-97ページ)の中では例えば以下のようなところに着目している。

「さらにSILにおいては、すでに述べたように、倒置形の疑問文、感嘆文、不完全な文といった間接話法では取り込めない発話も取り入れることができる。(中略)受け手に何かを訴えるというより、表出される情動の強度のほうに重点が移っているように思われる。強い情動が込められているということは、疑問符や感嘆符が多用されるところにも現れている。」(65-66、強調引用者)

 


「(前略)単純過去で非人称的に語っていた書き手自身が、エンマの思いをあたかも自分の思いのように発しているのだ。地の文と作中人物の発話の境界が取り払われてしまっているために、書き手自身もエンマの声に同調し、自分でも意識せずに突然自然に思いが噴出したという印象をもたらしている。書き手はここではもはや語り手という媒介者を通して、作中人物の意識を言語化し誰かに伝えているというより、その意識の現われを「直接的に」自分の声のように受け止めているというふうなのだ。言ってみれば、書き手はその存在に憑依したように言葉にしているのである。」(p.68、強調引用者)

 

 「情動のこもったSILは、非反省的意識に属することが多いのである。(中略)SILの文体論的特性は、この「非反省的意識」に関わるときにより強く現われるのだ。」(p.69、強調引用者)

 

論文では以下の2本。

橋本陽介「『物語世界の客体化』からみる自由間接話法の言語間比較」『慶應義塾大学藝文学会』2009, Vol. 96:165-181

溝上瑛梨「自由間接話法と語りのフレーム」『言語科学論集』2016, 22:107-127


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