2023年6月18日日曜日

6月18日 社会主義から自由主義へ

エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ 革命の世紀の群像』(上下、みすず書房)は社会主義思想の展開を物語った本である。

フィンランド駅とは、レーニンが1917年4月に到着した駅で、フィンランドにあるのではなく、現在のサンクトペテルブルク、つまりロシアの駅でフィンランド鉄道が建てた駅らしい。

フィンランドとロシアということでは、映画『コンパートメントNo.6』が記憶に新しい。1990年代にフィンランド人女性がモスクワに留学する話から始まって、失意の旅行で乗った鉄道のコンパートメントで知り合うロシア人男性との関係を描いたもの。

このエドマンド・ウィルソンに向こうを張った本がバルガス=リョサの『部族の呼び声(La llamada de la tribu)』(2018)である。社会主義思想ではなく自由主義思想の展開をバルガス=リョサが叙述する。

序文によれば、「そうは見えないが自伝的な本である。私の知的・政治的な歴史、マルクス主義とサルトルの実存主義に感化された青春時代から、アルベール・カミュ、ジョージ・オーウェル、アーサー・ケストラーのような作家の読書によって得られた民主主義の再評価を通じて、成熟して以降の自由主義までが語られる。」(p.11)

とりあげられる人物は、アダム・スミス、オルテガ、ハイエク、ポパー、レイモン・アロン、アイザイア・バーリン、ジャン=フランソワ・ルヴェル。

「私のキューバとの、そしてある意味で社会主義との断絶は、その頃は超有名だった(今ではほとんど誰も覚えていないが)パディーリャ事件が原因だった。キューバ革命の熱心な賛同者だった(商務省の副大臣までのぼりつめた)詩人のエベルト・パディーリャが、1970年に政権の文化政策を批判しはじめた。最初は公的メディアで辛辣に攻撃され、その後CIAのエージェントだと馬鹿げた告発によって収監された。パディーリャと友人である我々5名(フアン・ルイス・ゴイティソロ、ハンス・マグヌス・エンツェンスべルガー、ホセ・マリア・カステレと私)は憤激してバルセロナの私のマンションで抗議の手紙を認め、それに世界中の多くの作家が賛同してくれた。」(p.17)

しかしその手紙が原因でバルガス=リョサを貶めるキャンペーンが行われ、数年間をかけて彼は自由主義思想に傾いていく。

「[それは]疑念と再考の時期で、その間に少しずつ私は理解していった。ブルジョア民主主義だと言われるものの『形式的な自由』とは、その背後に富者による貧者の搾取が隠されているようなただの見せかけではなく、人権間の境界、表現の自由、政治的多様性であるということを。そして共産党とその大物たちに代表される唯一の真実の名の下での権威主義的で抑圧的な体制は、あらゆる批判を封じ、ドグマ的なスローガンを押しつけ、不服従者を強制収容所に送ったり行方不明にできるということを。」(p.17-18)



【自由間接話法 文献続き】

若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』作品社、2007年

この本の10章「『私の』部屋」(211-239ページ)はナボコフの自由間接話法について

井尻直志「小説の文体としての自由間接話法 スペイン語の場合」沖縄外国文学会、2019年34号、31-46ページ。

スペイン語作家から主として論じられるのはやはりバルガス=リョサ。


【近況】

「死者たちの夏2023」を受けて、今日は日本社会文学会の大会に行こうと思ったが難しそう。ハイブリッドだから自宅からでもと思ったが、すでに締め切られていた。残念。


2023年6月7日水曜日

6月7日 千歳船橋、ソフト/クワイエット

明後日から始まる「死者たちの2023」のお稽古を見学させてもらいに、千歳船橋まできた。

6月のこの時期は夕方が長い。久しぶりに小田急線に乗った。軽食をとろうとぶらぶらした。もちろん小田急OXがあった。

よそ者だから、メキシコシティのコヨアカンとかブエノスアイレスのパレルモのような緩さを体感できた。


映画『ソフト/クワイエット』は原題は"Soft & Quiet"。

実際にはワンショットではないのかもしれないが、女性たちが白人至上主義団体の活動を始めて仲間と集い、そこから仲間の家でワインでも飲もうと買い出しに行き、そして惨劇……が90分間切れ目なく続く。ドキュメンタリーのように登場人物たちのすぐ近くにカメラがあって彼らを追いかけてゆく。

差別行動は「上品に、そして静かに(ソフト&クワイエット)」進められる。それを黙認していては、その差別を追認することにほかならない。監督が映画を撮った理由はこれだ。映画の中で白人至上主義者として出てくるのは白人で、彼女らはラティーノ、黒人たちを言葉で差別しているが、その後実際に暴力を行使して死に追いやる相手のことについては言葉では名指さない。

ところでこの「ワンショット」という手法は、バルガス=リョサが自由間接話法を使うときの小説(『小犬たち』)と似ている。群像劇で、その登場人物たちが空間を移動しながらぺちゃくちゃおしゃべりをしたり、風景が目に入ったり音が聞こえてきたり、そしてそれにも反応していく様子を、ピリオドも少なくして段落を変えず、全体をまずは地の文として、そこに複数の人の声を紛れ込ませていくスタイルは、ある種ワンショット的である。

中編『小犬たち』(『ラテンアメリカ五人集』集英社文庫所収)を久しぶりに読み直して、スピード感あふれる流れるような自由間接話法(文体)だった。ただこういう小説スタイルはある種の実験というか、一回限りという感じもする。

ある論文で知ったのだが、自由間接話法が用いられると、そこは読書のスピードが落ちるそうだ。不思議なものだ、『小犬たち』を日本語で読んでいる限りではそういう感じがしない。原文で読んでもスピードは落ちないような気がする。読者に対しては注意力をある程度保たせるように強いるが、それがうまくいけば、スピード感が出る。

とはいえ長編を書くには自由間接話法だけでなく、また別の語りの手法、つまり地の文によって物語そのものを展開していく必要もあるし、そういう時には直接話法を織り交ぜたりするしかないのかな、と思う。




『ソフト/クワイエット』のHPに載っている監督の言葉を引用する。

「典型的な植民地主義を描いた物語にはしたくないという思いがありました。植民地主義が持つ憎しみを受け入れやすくした表現や、今なお続いている植民地主義者たちの犯罪行為を和らげ、赦免するために書かれた偽りのストーリーアークを映し出したくなかったからです。私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」

観客が1秒たりとも気を抜けないようにすること。なるほど。
 
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この前の星泉さんによるチベット文学講座は大変勉強になった。
大学HPに掲載されています。
 

2023年6月5日月曜日

6月5日 大雨その後

大雨で大学の桜の木が折れた。




相変わらずの自由間接話法。文献整理として。

ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学 言語学における社会学的方法の基本的問題[改訳版]』(桑野隆訳)、未来社、1998年。

前に挙げた工藤庸子『恋愛小説のレトリック』では「(前略)自由間接話法では、時制の一致による半過去の存在と人称代名詞や所有形容詞などの変換が、語り手の視点の存在を裏づけているわけで、つまり語り手の存在感だけを問題にするならば、直接話法<自由間接話法<間接話法と定義することができるでしょう」(p.172)として、その後バフチンを参照して、「要は『他者の言葉』との関係なのです。」と述べ、バフチンが上に挙げた本で言っている「疑似直接話法」のことに触れる。「語り手と作中人物がほぼ同じ資格において共存する。ただし両者が一体化しているわけではむろんない。あいだに微妙な距離があり、この距離は、あいまいであるがゆえに、いかようにも機能する」(p.172)。

この「あいまい」さは、語り手の作中人物に対する感情移入や、あるいは「風刺」や「アイロニー」をまとう場合もある。工藤も引用しているところだが、バフチンは言う。「フローベールは、自分が嫌悪の情をもよおし憎んでいるものに目を注がずにはいられない。しかしそのばあいにもかれは、みずからを感情移入し、この憎み嫌悪すべきものと自己を同一化する能力をもっている」(『マルクス主義と言語哲学』p.242)



もっと新しいのは以下の本。

平塚徹編『自由間接話法とは何か 文学と言語学のクロスロード』ひつじ書房、2017年。



この中の赤羽研三「小説における自由間接話法」(49-97ページ)の中では例えば以下のようなところに着目している。

「さらにSILにおいては、すでに述べたように、倒置形の疑問文、感嘆文、不完全な文といった間接話法では取り込めない発話も取り入れることができる。(中略)受け手に何かを訴えるというより、表出される情動の強度のほうに重点が移っているように思われる。強い情動が込められているということは、疑問符や感嘆符が多用されるところにも現れている。」(65-66、強調引用者)

 


「(前略)単純過去で非人称的に語っていた書き手自身が、エンマの思いをあたかも自分の思いのように発しているのだ。地の文と作中人物の発話の境界が取り払われてしまっているために、書き手自身もエンマの声に同調し、自分でも意識せずに突然自然に思いが噴出したという印象をもたらしている。書き手はここではもはや語り手という媒介者を通して、作中人物の意識を言語化し誰かに伝えているというより、その意識の現われを「直接的に」自分の声のように受け止めているというふうなのだ。言ってみれば、書き手はその存在に憑依したように言葉にしているのである。」(p.68、強調引用者)

 

 「情動のこもったSILは、非反省的意識に属することが多いのである。(中略)SILの文体論的特性は、この「非反省的意識」に関わるときにより強く現われるのだ。」(p.69、強調引用者)

 

論文では以下の2本。

橋本陽介「『物語世界の客体化』からみる自由間接話法の言語間比較」『慶應義塾大学藝文学会』2009, Vol. 96:165-181

溝上瑛梨「自由間接話法と語りのフレーム」『言語科学論集』2016, 22:107-127


2023年5月28日日曜日

5月28日 『TAR /ター』とアマゾン、そして近況

映画『TAR /ター』の主人公リディア・ターはベルリン・フィルではじめて女性で首席指揮者になった人物だ。映画はできるかぎり現実世界との連続性を持たせようと、実在の人物によるターへのインタビューが冒頭シーンに据えられている。

仮構は仮構として面白いと思ったのは、アメリカ生まれの彼女はペルー・アマゾン、ウカヤリ(Ukayalí)地方に住む先住民シピボ=コニボ族(Shipipo-konibo)の音楽の専門家ということである。5年間アマゾンで調査をした経験が、彼女が出版しようとしている本で書かれている。

そのペルー音楽は映画でも流れる。Elisa Vargas Fernándezの「Cura Mente」という曲だ。Youtubeには、映画制作よりも昔の映像がある。例えばこれとかこれ。

シピポ=コニボ族の住むウカヤリは行政単位としては県のようだが、その首都はプカルパ(Pucallpa)である。バルガス=リョサの作品に慣れ親しんでいればよく聞く地名で、『ラ・カテドラルでの対話』でアンブローシオがアマーリアと行った場所だ。

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バルガス=リョサの方の進展で言うと、『果てしなき饗宴』から、その翻訳者工藤庸子の『恋愛小説のレトリック』(東京大学出版会、1998)を経由して、そこから芳川泰久『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む』(せりか書房、2015)へ。



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近況としては、昨日今日と気圧低下できついけれど、そう、先週末に3年ぶりにスペイン語文学研究会が復活して4時間を超えた。この分なら午前午後から続く5、6時間くらいの研究会ができる環境になってきたということで、楽しみだ。

ラテンアメリカ学会が6月3日・4日(明治大学駿河台キャンパス)。

同じ6月3日には、東京外大で市民講座、星泉さんによる「犬から目線で楽しむチベット文学」がある。

6月9日・10日・11日は調布のせんがわ劇場で「死者たちの夏2023」。

そしてその次の週末の土曜日6月17日は再び東京外大で市民講座、「イスラームのいま」。なおかつ、この土日は西洋中世学会が明治大学駿河台キャンパスで。

『緑の家』論を書きたいものだ、いつか必ず!


2023年5月22日月曜日

5月22日 『果てしなき饗宴』(続き)【6月5日追記】

『果てしなき饗宴』(原書1975、邦訳1988)についての続き。

バルガス=リョサがなぜフロベールを気に入っているのかがわかる箇所。

彼はまずヌーヴォー・ロマンの大部分の作家の作品には退屈してはいたが、こうした作家がフロベールの意義を認めていることもあることは知っていて、研究書や論文を通じて新しい小説群とフロベールの関係を学び、中でもナタリー・サロートの論文「先駆者フロベール」を読んで、反論したい箇所が山ほどあって、それがこの『果てしなき饗宴』を書かせているとも言える。ちなみにナタリー・サロートのことは、『プリンストン大学で文学/政治を語る』でも言及している(p.21-22)。曰く「私は、ヌーヴォー・ロマンの作家たちの大部分は、今ではほとんど読まれていないと思います」(p.22)

バルガス=リョサにとってフロベールへの愛着が揺らぎのないものになったのは、フロベールが「騎士道小説を書くのはぼくの昔からの夢なんです」(『果てしなき饗宴』p.49)と言っているところとも思える。

またフロベールには、『ボヴァリー夫人』を書いているときに『ドン・キホーテ』を再読し、スペイン旅行の計画もあったらしい(結果的には実現しなかった)。(p.91)

そしてなるほどな、と思ったのは、この本の第三部で『ボヴァリー夫人』においては「凡庸さ」が美として描かれていることを称賛しているところである。

「『ボヴァリー夫人』では、両極【引用者注--英雄か怪物のこと】から等しく離れた中間地帯、地味で平坦でみじめな凡人の生活をふくむ曖昧な一帯が「美しさ」を産出するところに変貌する」(p.248)

バルガス=リョサが英雄的怪物、怪物的英雄を描いているようでいながら、実は「凡庸さ」好みの一面があることを証明する箇所である。

さて、自由間接話法についてバルガス=リョサは以下のように言っている。

「フロベールがもたらした偉大な技法、それは、「全知の語り手」を登場人物にかぎりなく近づけて、両者の境界線がついに見えなくなるところまでもってゆき、そこにひとつの両面性をつくり出し、語り手の言うことが、「不可視の報告者」に由来するものか、それとも頭のなかで独白をつぶやいている登場人物に由来するものか、読者が判定できぬようにしてしまうという方法である。」(p.241、ゴチックは邦訳では傍点強調)

そして例(下の引用の下線部)を挙げる。

「(前略)動詞を省略しただけで、登場人物の内面生活がほんの一瞬、稲妻が光るように垣間見えることもある。《ルオー爺さんにしてみれば、もてあまし気味の娘が片づくことに不服はなかった。娘は家にいても役に立つというほどのこともないのだ。だがその点、爺さんは内心あきらめていた。なにせうちの娘は頭がよすぎるから、農業なんてお天道様に呪われた仕事なんざやるがらじゃない。百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》引用部分の冒頭とおわりの部分で話しているのが、「全知の語り手」であることは、まちがいない。」(p.243、ゴチックはバルガス=リョサによる強調で邦訳では傍点、また下線部は引用者による)

この引用部分については、引用の冒頭部分(「ルオー爺さんにしてみれば」から「ほどのこともないのだ」までは「全知の語り手」によるものだが、その先では徐々に語り手がルオーに近づいていく。バルガス=リョサは原文の"intérieurement"(内心)に注目してそう言っている。

そしてバルガス=リョサは自身が傍点強調している「お天道さまに呪われた仕事」について、「これは、ルオー爺さんその人が、頭のなかでぼやいた台詞のように感じられるではないか。もちろん結論の部分(《百姓家業に百万長者が出たためしはないのである》)では、これとちがって、明らかに「全知の語り手」が、話を引きついでいる。自由間接話法のおかげで、『ボヴァリー夫人』の散文は、伸縮自在の柔軟性を与えられ、叙述のリズムや統一を乱すことなく、空間や時間の変化を自由にこなせるようになった。」(p.244)

『ボヴァリー夫人』から原文で引用すると以下の箇所。

“Le père Rouault n’eût pas été fâché qu’on le débarrassât de sa fille, qui ne lui servait guère dans sa maison. Il l’excusait intérieurement, trouvant qu’elle avait trop d’esprit pour la culture, métier maudit du ciel, puisqu’on n’y voyait jamais de millionnaire.”(抜粋:: Flaubert, Gustave  “Madame Bovary – Bilingual French-English Edition / Edition bilingue français-anglais (French Edition)”。 

スペイン語では以下のようになっている。

"Al tío Rouault no le hubiera disgustado que le liberasen de su hija, que le servía de poco en su casa. En su fuero interno la disculpaba, reconociendo que tenía demasiado talento para dedicarse a las faenas agrícolas, oficio maldito del cielo, ya que con él nadie se hacía millonario. "

「お天道様に呪われた仕事」の「呪われた」(maudit(仏)、maldito(西))が口語表現ととれるところから、ここをルオー爺さんの台詞のように読み取ろうというのがバルガス=リョサ。

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[6月5日追記]

『果てしなき饗宴』からさらに重要と思われるところは以下。

「『ボヴァリー夫人』においては、自由間接話法のシステムが用いられるのは、ほとんどいつも、現実から何かの刺激を受けた人間の精神が、記憶を通して過ぎ去った経験を甦らせるさまを見せるためである。さらに、あらゆる感覚や感情、強烈な印象をもたらした出来事などは、それ自体で孤立した存在ではなく、あるプロセスの開始、すなわち、時間が経ち、新しい経験があるたびに、追憶によってあらたな判断や意味がそれにつけ加えられてゆくプロセスの開始に当たるのだということを示唆するときにも、自由間接話法が使われる。」(p.260-261)




2023年5月21日日曜日

【イベント告知】死者たちの夏2023:6月9日、10日、11日音楽会と朗読会

実行委員のひとりとして関わっているイベントの告知です。


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死者たちの夏2023 ジェノサイドをめぐる音楽と文学の3日間 


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100年前の首都圏で、日本人はなぜ、ふつうに人間に対するように、朝鮮人に向き合うことが出来なかったのか。 


人を「殺害可能」な存在とみなすために、どのような偏見や妄想が準備されたのか。


私たちは7年前の夏に相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きたときにも同じ問いを自分にぶつけた。 


世界には残虐な行為があふれている。いまも、さまざまな場所で、人間が人間を殺している。なぜ? 


たしかに、人間を戦争に向かわせ、ジェノサイドに向かわせるのに、言葉や音楽は大きな力を発揮する。


しかし、そこに気づかせてくれるのも音楽、そして文学なのだ。


西 成彦 


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◉会場:調布市せんがわ劇場 東京都調布市仙川町1-21-5/京王線仙川駅徒歩4分
◉チケット:一般3,200円(自由席・前売当日共)/学生1,800円(学生証提示) (席に限りがありますお早めのご予約を!)
◉リピーター料金:(チケット半券提示で)各回 500円割引
◉お問い合わせ:2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)


◉チケット予約はこちら:リンクに飛べない方は以下のURLから
https://forms.gle/g4x5toLi8bWPJANy6





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1)音楽会
2023年6月9日(金)
開演19:00 開場18:30
イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ


(演奏曲目)
Yisrolik, Papirosn (たばこ売りの戦争孤児の歌/イディッシュソング)
N’kosi Sikelel iAfrica (アフリカ黒人解放運動アンセム)
Der Graben (塹壕/第一次大戦の悲惨さを問う反戦歌)
鳳仙花 (韓国初の近代歌曲かつ抗日運動のアンセム)
不屈の民 (南米民主化運動の世界的アンセム)
平和に生きる権利 (チリ民主化運動に命を捧げたビクトル・ハラの名曲) ほか




◉出演:こぐれみわぞう(歌、チンドン太鼓)
大熊ワタル(クラリネット ほか)
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
◉解題トーク:東 琢磨、西 成彦


◉チケット予約はこちら

HPはこちら


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2)&3) 朗読会
2023年6月10日(土) 開演14:00 開場13:30
ホロコーストの記憶との闘い


(朗読テキスト)
チェスワフ・ミウォシュ「カンポ・ディ・フィオーリ」
ヴワディスワフ・シュレンゲル「向こう側が見える窓」
パウル・ツェラン「死のフーガ」「暗闇」「白楊」
後藤みな子「炭塵のふる町」
シャルロット・デルボー「マネキンたち」
ドヴィド・ベルゲルソン「二匹のけだもの」 ほか

(キーワード) ワルシャワ/アウシュビッツ/ヒロシマ/ナガサキ/ウクライナ


2023年6月11日(日)
開演14:00 開場13:30 ポストコロニアルを生きる道


(朗読テキスト)
エドウィージ・ダンティカ「骨狩りのとき」
エドゥアルド・ガレアーノ「日々の子どもたち」
エドゥアール・グリッサン「苦しみの台帳」
ダヴィッド・ジョップ「アフリカ」
ダニエル・キンテーロ「度々の実践について」
アブドゥラマン・A・ワベリ「いくつもの頭蓋骨が」
目取真俊「面影と連れて」 ほか


(キーワード) ハイチ/マルティニーク/ペルー/アルゼンチン/ルワンダ/オキナワ


◉出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
◉解題トーク:久野量一、大辻 都、西 成彦 ほか
◉演出:堀内 仁 
◉音楽:近藤達郎


◉チケット予約はこちら


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◉照明・舞台監督:伊倉広徳
◉音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
◉舞台美術:菅野 猛
◉衣装:ひろたにはるこ
◉撮影:片桐久文 
◉プロデューサー:瀧川真澄
◉協力:立命館大学国際言語文化研究所、劇団もっきりや、株式会社ヘリンボーン、俳協、有限会社プロダクション・タンク


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「死者たちの夏2023」実行委員会
◉実行委員長
西 成彦 (ポーランド文学、比較文学)
◉実行委員(50音順)
石田智恵 (南米市民運動の人類学)
大辻 都 (フランス語圏カリブの女性文学)
久野量一 (ラテンアメリカ文学)
栗山雄佑 (沖縄文学)
近藤 宏 (パナマ・コロンビア先住民の人類学)
瀧川真澄 (俳優・プロデューサー)
寺尾智史 (社会言語学)  
中川成美 (日本近代文学、比較文学)
中村隆之 (フランス語圏カリブの文学と思想)
野村真理 (東欧史、社会思想史)
原 佑介 (朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨 (音楽批評・文化批評)
福島 亮 (フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁 (演出家)
◉補佐
田中壮泰 (ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅 (原爆文学)
◉アドバイザー
細見和之 (詩人・社会思想史)





2023年5月18日木曜日

5月18日 『ウェストサイド物語』とジャニー喜多川

ジャニー喜多川(1931-2019)のことが取り沙汰されているが、この事件は日本の芸能界にとって大きな転換期になるかもしれない。

ジャニー喜多川の死、そして彼の暗部が明かされるのとほぼ同時期に、奇しくも『ウェストサイド物語』のリメイク版ができている。

ブロードウェイのミュージカルを元に映画化されたのが1961年。そしてスピルバーグによるリメイクが2021年。この間にジャニーズ事務所の誕生から隆盛、そして衰退がある。

ジャニーズ事務所の設立は1962年。ジャニー喜多川が『ウェストサイド物語』を少年たちと見に行って、それに感銘して少年アイドルグループによる芸能界への参入に至ったのは有名な話だ。

矢野利裕の『ジャニーズと日本』(講談社現代新書、2016年)にはその辺りのことが書かれている。1962年のNHKの『夢であいましょう』に田辺靖雄のバックダンサーとしてジャニーズのタレントが出演したのが最初らしい(同書、p.39)。

この本にはジャニー喜多川の経歴が書かれているが、その中で驚いてしまった箇所がある。

日系2世としてロサンゼルスに生まれたジャニー喜多川は、アメリカ人として朝鮮戦争に従軍していたのだ(同書、p.20)。おそらく朝鮮半島では国連軍所属のさまざまな出自の兵士、米軍ではプエルト・リコ出身の兵士にも会っただろう。

ジャニー喜多川がいたのはロサンゼルスというラティーノたちの多い都市である。ロサンゼルスでは劇場でアルバイトをしていたという。

間違いなく1940年代、50年代のロスのメキシコ系移民への差別は目の当たりにしているのだ。日系、ラティーノ系の入り混じるエンターテインメントの都市にいたら、カタコトのスペイン語くらいできたとしてもおかしくない。

アメリカ時代の長かったジャニーはもしかすると、ミュージカル版の『ウェストサイド物語』すら見た経験があり、それが映画化されたのでジャニーズ少年野球団と一緒に見にいったのかもしれない。

ジャニーは物語の題材がプエルト・リコ移民に対するヘイト・クライムだということが、すぐにわかっただろう。日系2世としての彼が感情移入したのは、もちろんプエルト・リコ移民だったにちがいないからだ。

アメリカ文化を日本に持ち込んだその出発点が、『ウェストサイド物語』(=移民差別映画)を見たことにあるというジャニー喜多川の立身出世物語には、自らも移民でありおそらく差別を受けたジャニーなりの葛藤が隠されていると読み取りたい。