2019年9月15日日曜日

マヤコフスキーとアメリカ(3)

その後、マヤコフスキーのアメリカ紀行の日本語版を眺めてみた。

マヤコフスキー『私のアメリカ發見(鹿島保夫訳)和光社、1955年。



マヤコフスキーはディエゴ・リベラの案内でメキシコシティを見聞していく。

「わたしたちは、駅からホテルにいき、手廻り品をほっぽり出しておいてメキシコ博物館へ出掛けた。ディエゴは、数百の崇拝者たちに答えて挨拶をおくり、親しい人たちと握手を交し、反対側を歩いている人たちと大声で叫びあいながら、黒雲の勢いで歩く。わたしたちは古代絵画や、円形絵画や、石版画や、メキシコのピラミッドのなかから発掘されたアッテカ人(古代メキシコ人)の暦や、面が二つあって一方の顔がもう一つの顔と並んでいるといった風の偶像を見た。わたしたちはこれらのものを展観したが、それはわたしには無駄なことではなかったと思う。パリ駐在メキシコ大使で、メキシコの有名な短篇小説家であるライエス氏が、わたしに今日のメキシコ芸術のイデーが、ヨーロッパから導入された亜流折衷主義的諸形式でなくて、古代の種々雑多な荒けずりな芸術から出発していることを、早くも前もって教えてくれていたのである。このイデーは、植民地奴隷の闘争と解放のイデーの、自覚された部分には、おそらくまだなっていないようだが、しかし、その一部分ではある。粗野で特徴的な古代美術と最新のフランス近代絵画とのコンビネーションをディエゴは、メキシコ文部省の全建築物の壁画という、まだ完成を見ていない仕事のなかでもくろんでいる。それは、メキシコの過去・現在・未来の歴史を描いた数十枚の壁画である。自由な労働、古代の風俗、とうもろこしの祭り、死と生の魔神のダンス、自然からあたえられた果物と花の贈物などが描かれている原始的な天国の図。」(32-33頁)


ディエゴとマヤコフスキーが訪れた「メキシコ博物館」は、おそらく今の国立人類学博物館のことだろう。

「メキシコの有名な短篇小説家であるライエス氏」とは、メキシコの文人アルフォンソ・レイエス(1889-1959)のことである。なるほどマヤコフスキーはパリでレイエスからすでにレクチャーを受けていたわけである。

「アメリカ風のカフェ〈サンボーン〉の巨大な建物は、外庭の上に硝子屋根をつけて組立てられたもので、ただそれだけのものである。」(45頁)

「サンボーン」とは「Sanborns」というチェーンのカフェだが、1903年から開業しているということで、なんとすでに100年以上の歴史があるのだ。

「メキシコ・シティは、自動車事故の件数からいって世界一の都市である。」(49頁)

これもまた驚くには当たらない表現だが、すでにこのときからそうだったのだ。



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