2016年4月25日月曜日

キューバ文学(21)反帝国主義文学に向けて

ハバナにオバマ大統領が着いたころ、雨はかなり強く降っていた。それまでの5日間、一滴も雨は降らず、降りそうにも見えず、朝の10時過ぎまではとてもさわやかで、気持ちのよい日が続いていた。しかしそのさわやかさも、日が進むうちに、知らないうちに湿り気を徐々に含むようになっていったのだろう。オバマがやって来たのはそうして迎えた日曜日だった。午後5時、彼がハバナ司教と会っているころ、ホセ・マルティ反帝国主義公園(Tribuna antiimperialista José Martí)は無惨だった。

エリアン事件を受けて、キューバ政府がアメリカ合衆国利益代表部の目の前に作った公園だ。黒い旗を立てて、アメリカ政府が文字盤を通じて送る反革命メッセージを、キューバ人の目に入らないようにした。この公園が、いまよりも意味を持っていたころのキューバはとても暗かった。そのように記憶している。

今回、公園の横をタクシーで通るとき、思わず見てしまった。(もともとそうだが)人気がなく、何本もある鉄のポールには黒い旗も掲げられていなかった。そしてかつてのアメリカ合衆国利益代表部のビルには、大きく「アメリカ合衆国大使館」という文字が読めた。いつでもビルの周りをビザ欲しさに並んでいる人がいたが、今回そういう人の列を見ることはなかった。

アメリカと国交を結んだいま、キューバにとって「反帝国主義」とはどのような意味があるのだろうか。

もちろん重要な意味があることは前提としても、意味合いは変わってくるだろう。

たとえば文学という分野で見たとき、キューバから現代世界文学を見れば、やはり圧倒的に「帝国主義的」な容貌をしている。多文化を許容する昨今の先進国に見られる文学への「優しい」まなざしは、きわめて帝国主義的なまなざしといえる。

たとえば作家誕生プロセスと同時並行で進められる文学賞・映画化・翻訳出版といったもの。昨今このような流れと無縁の文学地帯を探すことは不可能だろう。しかし現在でもキューバはその地位を守っている(あるいは守らせられている)。

今回滞在中に会った何人かの作家・研究者は、一見時代遅れのような方法で本を読み、本を書き、本を読み直し続けている。

 しかし果たして時代遅れなのだろうか?

 優しさにみちた帝国主義的世界文学状況に対抗するものとして、キューバで生まれる文学は依然として有効である。

また、研究者による、キューバからまなざす「ラテンアメリカ文学論」は依然有効である。

いや、こういう時期だからこそ、反帝国主義的な文学の読解には特別な価値が付されるかもしれない。

世界(文学)は一つになったように見える。あらゆる情報(文学)が瞬時に一カ所に集まり、瞬時に翻訳され、それを理解し合うコミュニティが瞬時に生まれ、瞬時に消えてゆく。世界文学の誕生である。

祭りとしての文学。カーニバルのような回帰する祝祭ではなく、一度きりの祭り(作家が、同じ賞を二度受けることはほとんどない)。

キューバは、キューバという存在は、常にその瞬時性に疑問を投げている。回帰する文学。世界は一つではない(フェルナンデス=レタマール)。

キューバの文学へのまなざしには時間の経過がある。時間をかけたときにしかわからない何か、時間の蓄積、読みの蓄積、憎悪の蓄積、愛情の蓄積、イデオロギーの蓄積の果てに生まれるまなざしがある。

世界は変わり続ける。 ソ連もアメリカ合衆国も変わった。もちろんキューバも変わった。これからも変わり続けるだろう。キューバに流れた時間をぼくはきちんと理解しているだろうか。

(この項、続く)

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