ニコラス・ギジェンについて調べている。
安保寛尚さんがニコラス・ギジェンの専門家で、いくつも論文を発表しているが、ここでは、自分のためにギジェンの経歴を整理しておきたい。
ギジェンは1902年キューバ独立の年に生まれ、1989年ベルリンの壁崩壊の年に亡くなった。
生まれたのはカマグウェイ。両親はアフリカ系の血とスペイン系の血を引く。
16歳で詩を書き始める。
1919年に雑誌「Camagüey gráfico」に掲載。
1920年ハバナ大学法学部に入学。しかし経済的困窮のためカマグウェイに帰還。印刷所で働く。その後再び学業でハバナへ行くが、法学への関心も薄れ、カマグウェイに戻って来る(1922年)。
1919年に雑誌「Camagüey gráfico」に掲載。
1920年ハバナ大学法学部に入学。しかし経済的困窮のためカマグウェイに帰還。印刷所で働く。その後再び学業でハバナへ行くが、法学への関心も薄れ、カマグウェイに戻って来る(1922年)。
兄弟で文芸誌(Lis)を創刊。ローカル紙「El Camagüeyano」編集スタッフ。この時期に書き溜めた詩はのちに『Cerebro y corazón』としてまとめられる。
1926年再び首都へ。今度は内務省のタイピストの職を得る。
首都でグスタボ・E・ウルティア(「Diario de la Marina」創刊者で、黒人文化に取り組んだ人物)と知り合い、彼から新聞の一セクションを任される。そこに、詩集『ソンのモチーフ』(1930)としてまとめられる作品の最初のヴァージョンが掲載される。
1930年はガルシア=ロルカのキューバ訪問。ラングストン・ヒューズとも知り合ったとされる。
次の詩集『ソンゴロ・コソンゴ』は1932年刊行。34年には『西インド諸島株式会社』。
『ソンのモチーフ』『ソンゴロ・コソンゴ』そして『西インド諸島株式会社』まで。
外側から見た黒人を描いた作家たちがいるところに、民衆としての黒人の声を音楽性を強調して描く立場として登場したギジェン。そしてキューバおよびカリブ地方を制圧する帝国主義に焦点を当てた詩を書いていく過程だ。ギジェンといえばこの時期が重要だ。
外側から見た黒人を描いた作家たちがいるところに、民衆としての黒人の声を音楽性を強調して描く立場として登場したギジェン。そしてキューバおよびカリブ地方を制圧する帝国主義に焦点を当てた詩を書いていく過程だ。ギジェンといえばこの時期が重要だ。
1937年(1月)メキシコで開かれた作家芸術家会議に出席。同じ年にはスペインのバルセロナ、バレンシア、マドリードで開かれた文化防衛のための国際作家会議に出席。ちょうどスペイン内戦のとき。
およそ一年間キューバを離れていた。
1940年カマグウェイ市長戦に立候補するも敗北。
1942年ハイチの詩人ジャック・ルーマンに招かれハイチを訪れる。1944年文化誌「Gaceta de Cuba」創刊
1945年ベネズエラの作家ミゲル・オテロ・シルバの招きでベネズエラへ。その後、コロンビア、ペルー、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルを外遊。1948年帰国。
その後も頻繁に国際会議の出席のため海外にでている。
1949年ニューヨーク、パリ、チェコスロヴァキア、ソ連。
ハバナへポール・エリュアールと戻り、一緒にメキシコへ。
1953年はチリ。
1954年はラテンアメリカとヨーロッパ。
1955年から58年まではパリ在住。ラファエル・アルベルティの助力でブエノスアイレスへ移り、そこでキューバ革命のニュース。そしてキューバへ帰国。
以上がキューバ革命までのギジェンの足跡だ。
このなかでは40年から45年までの「カリブ」にいた時期が興味深い。1942年にハイチへ行っている。カルペンティエルが行ったのは1943年(この点については、エドゥアルド・ガレアーノ『火の記憶3 風の世紀』p.227を参照)。
キューバのアフロ系文化運動の流れが、他のカリブ諸島の動きとつながるのはやはりこの1943年前後とみていい。
ウィフレド・ラムとセゼールのつながりはわかっている。ではラムとギジェンのつながりはどうなのだろうか?すでに30年代にキューバ版「ネグリチュード」を達成した彼にとって1942年のハイチ体験、ラムの帰国にともなって花開いた「アメリカニズム(土着主義的アヴァンギャルド)」はどう見えていたのか?
(この項、続く)
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