2016年3月28日月曜日

キューバ文学(17)パディーリャ、ワーズワース、サン=ジョン・ペルス

前回の投稿でワーズワースの詩「トゥサン・ルヴェルチュールへ」について触れた。

原文とスペイン語訳を引いておく。

To Toussaint L’Ouverture

Toussaint, the most unhappy Man of Men!
Whether the rural Milk-maid by her Cow
Sing in thy hearing, or thou liest now
Alone in some deep dungeon’s earless den,
O miserable Chieftain! where and when
Wilt thou find patience? Yet die not; do thou
Wear rather in thy bonds a cheerful brow:
Though fallen Thyself, never to rise again,
Live, and take comfort. Thou hast left behind
Powers that will work for thee; air, earth, and skies;
There’s not a breathing of the common wind
That will forget thee; thou hast great allies;
Thy friends are exultations, agonies,
And love, and Man’s unconquerable mind.

続いてパディーリャによるスペイン語訳。

 A Toussaint L’Ouverture

Toussaint, ¡el más desdichado de los hombres!
Aunque el labriego empuñe el arado y silbe
y hasta tu oído llegue su tonada, o ahora esté
tu cabeza apoyada en la piedra de una sorda mazmorra
¡oh triste capitán!
¿en qué lugar y cuándo encontrarás paciencia?
Di un no a la muerte, muestra mejor en la prisión
un rostro de alegría.
Aunque hayas caído para no alzarte más,
descansa y vive.
Detrás dejaste fuerzas que lucharán por ti:
aire, tierra, cielos.
No hay hálito en el invento que te pueda olvidar.
Tienes grandes aliados.
Tus amigos son las exultaciones y agonías
y el amor
y la mente del hombre, inconquistable.

パディーリャの自伝『忌まわしい記憶(Mala memoria)』をかつて部分的に翻訳したことがあるので覚えていたのだが、たしか彼にとって母語はスペイン語だが、幼少期からフランス語と英語を習っていた。

パディーリャはサン=ジョン・ペルスを翻訳した。ペルスとは直接面識もあった。以下、少し『忌まわしい記憶』からその箇所を引用する。1958年のワシントンでの場面である。

 「ペルスは翻訳のほうにはほとんど関心をしめさなかった。わたしは自分がいちばん気に入っていた詩篇「Imágenes para Crusoe」を『Eloges』から訳してあった。しかしペルスはカストロのことを知りたがった。植民地世界に何かが起きているとペルスは言っていたが、わたしには古臭い話に聞こえた。キューバと植民地世界(たとえばアルジェリアのような)にいったいどんな関係があるというのか?こういうことは、はるか昔の1898年、スペイン人がキューバから追い出されたときに終わった話ではないか。だがサン=ジョン・ペルスの年齢を感じさせない皺だらけの表情といつもの不動の口ひげは不安を物語っていた。(中略)

 たぶんペルスはフランスで、わたしにはあまり興味のない詩のほうで評価されているものと思う。わたしが惹かれていたのは、彼が生まれたアンティール世界に着想を得た初期の本だった。読み返したことはないが、大きな魅力と瑞々しさに満ちた詩の数々。それらをわたしは記憶のなかでそのまま汚すことなく保っているし、青春期と同じ熱情でいまもそれらを評価している。
 ペルスはなじみのM街のカフェにわたしを誘った。わたしたちはそこで長い時間語り合った。彼はフランスに戻るつもりはなく、ワシントンの国会図書館で居心地よく仕事をしているようだった。やはり長い別の恋愛詩、具体的な肉体の愛、肉欲を扱った恋愛詩に取り組んでいた。彼が自分の詩作の意図を語ったときの正確さをわたしはいまも覚えている。しかしいちばん忘れられないのは彼自身だ。」

カストロが革命運動を起こしているニュースに関心を示すペルス。まったく関心のないパディーリャ。パディーリャにとって「植民地解放」は1898年に終わっている。

パディーリャはウィリアム・ブレイクを翻訳したが、出版されなかった。

それに対し、ワーズワースの翻訳は出版された。

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