しかしそれにしても、その後の『楽園への道』と『ケルト人の夢』が書かれたいま、フシーアという人間にバルガス=リョサが関心を抱いたことは改めて考えてみたくなる。
研究者のエフライン・クリスタルは、『緑の家』をコンラッド『闇の奥』のアマゾン版とみて、フシーアをクルツと重ねている。
「クルツと同じようにフシーアは外国人ながら先住民の領土を作り上げ、クルツと同じようにボートによる死の旅に出て、大きな川を下ってジャングルの中心地から移動していく(後略)」(Efraín Kristal, From utopia to reconciliation, The Cambridge companion to Mario Vargas Llosa, p.142)
クリスタルはそして、『緑の家』の白人ゴム事業者フリオ(・レアテギ)は、『ケルト人の夢』に出てきた実在のフリオ(・C・アラナ)のことだとしている。
この指摘はかなり面白いが、残念ながら、Historia secreta de una novelaの中にはフリオ・C・アラナの名前は出てこず、フリオ・レアテギは実在した人物として言及されているので、そう簡単にこの2人のフリオを直結はできない。もし50年代、60年代にバルガス=リョサがフリオ・C・アラナに言及していた資料でも出てきたら、うれしい悲鳴をあげる研究者は多いだろうが。
バルガス=リョサはこの小説を書いているとき、パリにいてルプーナの木がなんなのかまったくわからずにパリの植物園で調べて書いたり、フシーアの病気についてはフローベールのエジプト紀行から想像を膨らませていた。
史料があることを前提に書いていった実在のゴーギャンやケイスメントと、伝説上の存在であるフシーアをつなぐ点線を、クルツや以前言及したフィツカラルドを介在させながら浮かび上がらせてみたいものだ。
Historia secreta de una novelaでは、ゴム・ブームそのもの、そしてその期間にあった白人からの暴力のことはまったくと言っていいほど触れられていない。バルガス=リョサがアマゾンをめぐってその時見るもの・聞くもの・読むものというのは、面白いことに、これから書こうとする内容(つまりその後『緑の家』になるもの)に事前に影響を受けている。
もちろんまず見ることがあってそれから書くわけだから、書くことはあくまで見たあとに事後的に起こる。しかしそれでも、時間的には見る行為の後にやってくる書く行為は、見る行為に事前に力を及ぼしうる。書こうとしていないこと(言語化できないこと)は目に入らないものであって、ここがまた面白いところだ。
しかしだからこそ、フィクションとしての『緑の家』にはそうしてこぼれ落ちていった言語化されなかった(見えなかった)ものの痕跡が多々見つかるのではないか、ということだ。フシーアはもちろんのこと、フムしかり、先住民に対する暴力もしかり。
そう、それからクリスタルは、歴史的に存在した娼館としての「緑の家」を建てた者もまたケイスメントと同様、クィアであったと見ている(この部分はあまりにあっさり書かれているので、何を根拠にしているのか、まだよくわからない)。
「『ケルト人の夢』のアマゾンセクションはゴム・ブームの全盛期のことだが、これはゴム・ブーム後に時代が設定された『緑の家』の前史なのだ」(p.142)
つまりバルガス=リョサが見たのは、暴力が起こったあとの静けさだったのかもしれない。
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