2023年2月19日日曜日

2月19日 La casa verdeの難所 (1)

Mario Vargas LlosaのLa casa verde(1966)には難所がある。

この小説はまず、全体が4部とエピローグに分かれている。要するに5部ある。ここにすでにこの本の読み方が示されているようだ。一冊の本に5つの小説が入っていることだ。

実際、この「部」にあたるところを、スペイン語では、Uno, Dos, Tres, Cuatro, Epílogoと書いてある。つまり「1部」をPrimera parteとは表記していない。

そしてその各部が概ね4つの章に分かれている(そうではないところもあるが)。章はスペイン語ではCapítuloである。1章はCapítulo I, 第2章はCapítulo IIと、章番号にはローマ数字を使っている。

こんな表記の仕方はどうでもいいと言えばいいのだが、のちのちのために書いておく。

さらにその章の中は、概ね5つのパートに分かれている。ここも5である。パートと言っているが、これは便宜的な言い方である。パートが変わるごとに1行空いている。1行の空白があり、人物・舞台が違ってくるので、パートの見分けがつかない人はいない。

実はこれでもまだ説明は終わっていない。実は各章の頭には、数字の振られていないパートがある。ここは数字が振られていないので、便宜的に0章とする。

Kindle版を使って読んでいるのだが、1部の目次を見ると、以下のようになっている。


Uno

 Capítulo I

 Capítulo II

 Capítulo III

 Capítulo IV


Unoと書かれたページをめくると、いきなり文章が始まり、そこは章番号が置かれていない。だから0章と理解しているのだが、しばらく進むとその部分が終わり、1章がはじまる。

つまりこの0章にあたる部分は目次には見えない、隠された部分である。小説家がこういう隠された部分を置いたら、なんらかの意味づけがあるとみて間違いないだろう・・・5つあるが、4に見せている。

さて、次いで章のなかにある5つのパートについての説明が必要だ。便宜的にアルファベットを使う(La casa verdeのスペイン語版ウィキペディアはこの方式を使っている)。


A 伝道所(サンタ・マリア・デ・ニエバ)

B フシーア(マラニョン川を航行中)

C 兵舎(ボルハ)

D アンセルモ(ピウラ)

E リトゥーマ(ピウラのマンガチェリーア地区)


以上が1部の1章にある5つのパートである。かっこの中は物語が展開する場所である。ピウラが2つのパートで使われている。つまり5つに見せて4つでもあるのだ。5であり、4でもある。全体が4部+エピローグであることと同じだ。


さて、現在解読に苦労しているのは、Uno(日本語だと1部)のCapítulo II(日本語だと2章)である。

1部2章の5パートは次のようになる。


A 伝道所(1章の続き)

B フシーア(1章の続き)

C フリオ・レアテギを中心として白人行政官や事業者たち(サンタ・マリア・デ・ニエバだが1章とは続いていない)

D アンセルモ(1章の続き)

E リトゥーマ(1章の続き)


かっこの中に書いたように、1章でAに該当するパートは、2章のAに物語としては続いている。BDEも同様である。ところがCパートは続いていない。だからややこしい。登場人物を挙げる。


Julio Reátegui

Manuel Águila

Pedro Escabino

Árevalo Benzas


彼らはビールを飲んでいる。


Él mismo sirve los vasos; la espuma blanca burbujea, se infla y rompe en cráteres:(...)(La casa verde, Debolsillo, p.71。以下スペイン語の引用ページは、Penguin Random Houseのポケット版[Debolsillo]の、2022年刊行の12版に基づく )

「彼自ら[フリオ・レアテギのこと]がコップに注ぐ。白い泡ができて膨らんで壊れてクレーター状になる。」


近くにアグアルナ族が見える。


un grupo de aguarunas muele yucas en unos recipientes barrigudos,(...) (p.71)[英訳 a group of Aguarunas are grinding cassava into some fat-bellied receptacle,]

「アグアルナ族の一団が下部の膨らんだ容器でユカをすり潰している、」


分かりやすいのはこれくらいだ。続きは以下のようになる。

Arriba, en las colinas, la residencia de las madres es un rectángulo ígneo y, en primer lugar era un proyecto a largo plazo y aquí los proyectos no prosperaban, Julio Reátegui creía que se alarmaban en vano. Pero Manuel Águila no, nada de eso, gobernador, se pone de pie, ellos tenían pruebas, don Julio, un hombrecillo bajo y calvo, de ojos saltones, ese par de tipos los habían maleado. Y Arévalo Benzas también, don Julio, se pone de pie, dejaba constancia, él había dicho detrás de esas banderas y de esas cartillas hay otra cosa y él se opuso a que los maestros vinieran, don Julio, y Pedro Escabino golpea la mesa con su vaso, don Julio: la cooperativa era un hecho, los aguarunas iban a vender ellos mismos en Iquitos, se habían reunido los caciques en Chicais para hablar de eso y ésa era la verdadera situación y lo demás ceguera. (La casa verde, Penguin Random House, p.72、下線引用者)

[英訳 Up above, on the hillside, the nuns' Residence is a fiery rectangle and, in the first place, it was a long-term project and projects didn't do too well here, Julio Reategui thought that they were worrying over nothing. But Manuel Aguila no, nothing like that, Govenor, he stands up, they had proof, Don Julio, a small man, short and bald, with bulging eyes, those two guys had subvertied them. And Arevalo Benzas too, Don Julio, stands up, there was proof, he had said that there was something else behind those flags and those books and he had been against the teachers' coming, Don Julio, and Pedro Escabino bangs his glass on the table, Don Julio: the cooperative was a fact, the Aguarunas were going to sell for themselves in Iquitos, the chiefs had got together in Chicais to talk about that, and that was the way things were and a person had to be blind.(The Green House, HarperCollins Publishers, p.47)]



地の文は現在形で示されている(出だしのes)。一方、線過去があるが、その箇所は人物の言ったこと・思ったことを示していると理解できる。Dijo queとかが省略されている文体だ。


しかしその中で2行目のJulio Reátegui creíaのところは線過去だ。Julio Reáteguiとフルネームで書かれているので誰かからの呼びかけではなく、地の文のようだ。それ以外の人物を見れば、地の文ではフルネーム表記で進んでいることがわかる。


こういうところでつっかえてしまってなかなか進まない。


ここも後から振り返ると、ペドロ・エスカビーノが言っていることは重要で、「協同組合」に腹を立てている。「協同組合は既成事実で、アグアルナ族はイキートスで自分たちで商売しようとしている、すでにチカイスで首長たちが集まってそのことを相談している・・・」と。


この「協同組合」をスペイン語で言うのがアグアルナ族のフムだ。






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