せいぜいここ5、6年のことだが、毎年3月が近づくと、なんとなく東京大空襲のことを考える。
小さい頃によく聞いたのがこの空襲のことだった。
風向きが変わり、家が燃えずに済んだ地区が池袋付近にあったらしい。
といってもその後、よく知られる1945年3月10日以外にも空襲はあり、とりわけ豊島区を襲った空襲は別の日のことなのかもしれないとわかった。
豊島区の南池袋公園にある「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」をみて、4月13日の空襲は豊島区の大半を燃やしたことを知った。この空襲は城北大空襲と呼ばれることもある。
この公園は比較的最近新しくされた人工的な公園なのだが、幸いこの記念碑だけは残っている。
写真の左上の地図をクローズアップすると以下のようになる。南北に走っているのが線路で、真ん中あたりに池袋駅がある。
赤い部分は4月13日に爆撃を受けたところだが、確かに池袋駅の南西部分(左斜め下)に少しだけぽっかりと戦災を逃れた地区があることはある。
風向きが変わって燃えなかったのはこのあたりのことなのだろう。
この公園に行って上の写真を撮ったのはすでに1年以上前のことなのだが、ちょうどその時に読んでいた本と重なり合うこともあった。
それは柴崎友香『千の扉』である。
以下は小説のあらすじをまとめたもの。ネタバレがあり、かなりいい加減にまとめたので間違っているかもしれない。読んだ記憶として残しておく。
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千歳は大阪出身で、大学卒業後、しばらく大阪で仕事をしていたが、東京に出てきて10数年、39歳になった。職場や関係者の忘年会で知り合った3歳(?)年下の、離婚歴のある一俊と知り合ってすぐに結婚する。
新居は高田馬場近くのアパートを考えていた。というのは、近くの巨大都営住宅群に一俊の祖父日野勝男が一人暮らしをしており、彼の介護のようなものを引き受けるつもりだったからだ。
ところがその勝男が足を折って4階までの階段の上り下りが難しくなったことで、一俊の母が住む郊外に一時的に引っ越すことになり、その団地の部屋に千歳・一俊の新婚夫婦が住むことになった。
季節は夏。
千歳は大阪でもとてもよく似た団地に育ったため、幼児期の記憶の中の団地と比較しながらフィールドワーカーのように団地群を探索していた。さらに勝男からは、「高橋さん」に預けものをしていて、探してくれたらその預けものはあげるからと、その人を探す任務も担うことになり、探索の楽しみも増す毎日を送っていた。
そのような新しい生活を送るうち、同じ団地群のどこかに住む一俊の同級生たち(例えば、仕事を辞めて母親の介護をしている枝里と、ベトナムに赴任している直人の中村兄妹)、あるいは、昼間に団地をふらついているメイという中学生、隣の年配の川井さんなどと知り合っていく。
都営住宅には都市伝説のようなものが伝わっている。近くに病院や研究所があり、戦争中には人体実験が行われたとか、秘密のトンネルがあるとか、幽霊が出るといったものである。千歳は一俊の友人のツテで喫茶店でアルバイトを始め、また同時に高田馬場の近くの機械部品会社でも働き始め、いろいろな人から都営住宅にまつわる話を仕入れていく。
物語は半年くらいの間に千歳に起こったことを中心に、数珠つなぎのように、一俊、彼の両親、勝男、その他、千歳の周りの人たちの過去の物語と接続していく。
こうして、バブルの頃、それより前の都営住宅が建設される前、空襲を受けた戦争中へと、おそらく70年くらいのその地区の歴史がたどられる。
千歳は寡黙な一俊の過去をひょんな事で知り、打ち明けてくれなかったことに腹を立て、家を出る。その間はバイト先の喫茶店の二階で寝泊りをする。ここにもいくつかの歴史がある。
千歳の家出、枝里の母の死、メイの行方不明事件などを経て、療養を終えた勝男は団地に戻る。千歳と一俊は近くのアパートに引っ越し、当初の予定のように、3人が食事などをともにするときが訪れる。
「高橋さん」とは、勝男が戦後知り合ったが、結婚を禁じられ、思い姫のように憧れていた女性の弟さんのことで、同じ団地に住んでいるのを勝男は知っていたのだった。どうやらとっくにその人は亡くなっていたが、勝男はその時間の経過を意識できていなかったのである。
戻ったのもつかの間、勝男はあっけなく亡くなる。
都営住宅は相続ができないので、子供達は出て行かなくてはならない。一俊と千歳がそこに暮らすことはもうない。
概ねこのような物語の中に、バブル期をどう捉えるべきか、という歴史観が問題提起される。
バブルの頃を金がすべての愚かな時代として否定し、お金はなくとも幸せに小さくまとまれる今を肯定するーーこれは、千歳のバイト先の喫茶店でたまに料理教室を開く中年夫婦の意見である。
その夫婦の考えに対し、千歳や枝里は、言葉にはしにくいものの、同調できないところがある。
いわゆる就職氷河期時代、リーマンショックを経験した若者たちに対し、良い未来を語れないことを抑圧した反動ではないのかという思いだ。
都営住宅には高齢化が進み、近隣には再開発が進んでいるが、果たしてそれをどのような未来へ接続させていったらいいのだろうか。
いかなる土地であろうと、戦中、戦後、高度成長といった過去と断ち切られたような未来が果たして構想できるのか……
もちろん答えは示されない。読んだ側が考えることではある。
場所と人、そこに流れる時間を、論理ではなく、そこに暮らす人の思いを通じて感じさせ、読み終わるとふと放り出されるような。
読んだあと、街の歩き方、人との関わり方は変わるだろう。
もうほとんど覚えていないが、『その街の今は』の続きとなるような小説である。
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