まずはブラジルのアロルド・ジ・カンポス。
Haroldo de Campos, Brasil transamericano, El cuenco de plata, Buenos Aires, 2004.
ポルトガル語からスペイン語への翻訳はアマリア・サト(Amalia Sato)さん。彼女はアルゼンチンで雑誌「TOKONOMA」を刊行している。カンポスはブラジルのモダニズム詩人、翻訳家。具象詩運動の創設者。
この本はカンポスによるブラジル文学論。
それからこれも探している時には見つからなかった。メキシコのユーリ・エレーラの本。
Yuri Herrera, Señales que precederán al fin del mundo, Periférica, Cáseres, 2010.
このメキシコ作家の別の本をすでに持っていたはずで、しかもこのブログの何処かで書いたと思ったのだが見当たらない。本屋で手にとって買った記憶まであるような気がしているというのに、記憶違いだったようだ。
アメリカ合衆国に移住した兄を探す妹マキナ(Makina)の話 。
1970年生まれ。この作品が2011年のロムロ・ガジェゴス賞の最終候補作。受賞したのはリカルド・ピグリア『夜の標的』。
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最近は言葉に対する警察的態度のことを考えている。
外国語の本を読んでいると、ほとんどの場合ディスアビリティを感じる。単語がわからなくて辞書を引いたり、文法的にわからないと思ったりする。
でもわからないという感覚、それが強いる無能感は言葉から自由になれる大きなチャンスである。
警察官がいないような。監視を受けていないような。わからない(ディスアビリティ)は完全なる自由である。
言葉に対する警察的態度はディスアビリティ・パーソンにとって最も辛いことである。
ディスアビリティは言葉の周りで起きる。言葉に対する警察的態度は手がつけられないほど威力を発揮する。言葉、言葉、言葉(シェイクスピア)。
言葉を使った文学はディスアビリティを解放しない。
そうではない言葉、言葉によって人が自由になれたりする言葉、警察にならずにわたしを生かしてくれる言葉たち。
音であり舞踊であるような言葉は必ずしも詩だけではない。
無能な人のつぶやき、赤ん坊の泣き声のような、誰の記憶にも残らない意味になりかけの塊だって言葉なのだ。
「詩はそれを書いた人のものではなく、それを必要とする人たちのものだ」とは、アントニオ・スカルメタの『イル・ポスティーノ』に出てくる言葉。
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訃報:キューバの評論家デシデリオ・ナバーロ(Desiderio Navarro)が12月7日に亡くなった(69歳)。文化批評のみならず、東側知識人の翻訳などをやっていた人。
彼の編んだ本をこの前買ってきていた。Criteriosという雑誌。
言論誌「Pensamiento crítico」の編集長だったフェルナンド・マルティネス(Fernando Martínez Heredia)も今年亡くなった。 この件については改めて。
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