2016年5月21日土曜日

キューバ文学(23)反帝国主義文学に向けて Part 2

キューバの文学、あるいはキューバで書かれる批評を読むこと。それを通じて考えさせられることは「商業出版」の意味だ。

果たして現在の「商業出版」は将来的に見て、受け手の私たちにとって豊かな可能性を持っているものなのだろうか。前回のエントリーで触れた、現在行なわれつつある「祝祭」としての出版状況はどれくらいの場所まで私たちを運んでいくのかを想像しておきたくなる。

いま大学院で読んでいるのは以前のエントリーで紹介したホルヘ・フォルネーの評論である。批評家の彼の本はキューバで手に入れたが、この本は海外では流通していないだろう。フォルネーは1963年生まれで、ハバナ大学とコレヒオ・デ・メヒコ(メキシコ大学院大学)で学んだ。

彼の「ラテンアメリカ文学」への批評には「商業」とは無縁の立場だからこそ書かれ得る冷静さと客観性と深さがある。この点については別のところで書くことにしたいが、ひとまず彼の批評を読む価値のあるものと認めるとしたら、その彼がキューバの「カサ・デ・ラス・アメリカス」に所属していることと無関係にはできない。「カサ・デ・ラス・アメリカス」にいることは革命文化・文学の最前線にいることを意味しているからだ。

商品としての文学、あるいは商業出版から考えたときに、ホルヘ・フォルネーの本にはどのような価格がつけられるのだろうか。その価格は何に対する対価なのだろうか(彼の何冊かの本は海外の出版社から出ているという事実はある)。

先月、何回かのエントリーでキューバで入手したカリブ文学の作品を紹介してきた。これらの本のほとんどは「カサ・デ・ラス・アメリカス」が出版してきたものだ。このような作品に値段はついているが、ほとんど「ただ」に近い価格だ。ここには、人類の財産としての文学を公刊(publish=パブリックなものとする)するという意志がある。出版社というよりは、編集と印刷を一旦任されたエージェント(代理人)のようなものと考えたくなる。

ここでいうエージェント(代理人)は著作権についての交渉をおこなう出版エージェントやアメリカの大リーグにいる交渉人のような、個人(ほとんどの場合大物である)の権利(というよりは利益)の保護だけを主張するものではない。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」はエージェントとしての価値を高めるために自らを「マーケット」にさらしだしたりしない。「マーケット」とは別の論理のなかで、研究者、作家、翻訳家、批評家が、「商業出版」と切り離されたところで文学システムを構築しようとすること。それを実践しているのが「カサ・デ・ラス・アメリカス」だ。

古典としての価値がある作品であれ、現在書き続けている作家のものであれ(たとえば手に入れられなかったマリーズ・コンデなど)、「カサ・デ・ラス・アメリカス」が出版するたとえば「ラテンアメリカ・カリブ叢書」の必要にして過剰ではない作品群を眺めてみると、いかに現在の欧米・日本の文学が欧米多国籍出版企業の推進する「多文化主義的帝国主義」と仲良くしていることがわかる。

もちろん「カサ」の方針にも文句をつけたくなるところはある。たとえばアジアやアフリカの作家の叢書計画はどうなっているのかということだ。やはりこの組織が、スペイン語というヨーロッパ・メジャー言語だけが維持できるマーケットの価値に寄り掛かっていることは認めざるを得ない。

その点はあるにしても、「商業出版」という、ほとんどの文学を成り立たせてしまっている昨今のシステムを思うと、キューバが備えている反帝国主義文学としての「カサ・デ・ラス・アメリカス」のことが頭によぎって仕方がない。ホルヘ・フォルネーはキューバという立ち位置から商業出版の流れに抵抗しようとしている代表的人物のように見えるのだが、その点についてはまた次回のエントリーで触れることにしたい。

「カサ・デ・ラス・アメリカス」の叢書を、「革命理念」の記念碑として読むことは可能だとして、ではそれはどのような場所で読まれているのだろうか?

ボラーニョもハルキ・ムラカミも出版されないキューバだからこその文学環境についてはまた改めて考えたい。

(この項、続く)  


0 件のコメント:

コメントを投稿