2015年4月12日日曜日

El trabajo en progreso(追記あり)

処理できない状態が続いているなかで、忘れないようにしておきたいいくつかの事柄。

 ひとつは、キューバの反知性主義について。

 人を知性的なものに向かわせるボルヘスの話をしていたときに、反知性主義の話題が出た。最近では『日本の反知性主義』という本が出ている。

 しかし反知性的な人を「愚弄」することは最も反知性的な態度であるということであって、では知性的に行動することはいったいどういうことなのかを考えている。

 そのとき思い出したのだが、昨年キューバの島内外で反知性主義が討論されたことがあり、ぜひその流れをきちんと読み直しておきたいと思っている。
 
 議論の発端は島内からで、以下の記事。Juventud Rebelde掲載。書き手は従兄弟のことを書いた。フーコーもうまく発音できないし、ブコウスキーとチャイコフスキーも知らないが、彼なりに知性、分別にたどり着いているという点として、従兄弟のことを賞賛した。

http://www.juventudrebelde.cu/opinion/2014-08-09/gramsci-y-las-cosas-de-intelectuales/
 
 これを受けて、島内部からも大きな反論があったようで、そこにはレオナルド・パドゥーラのような作家も含まれているらしい。が、その記事は見つかっていない。いっぽう、島外部の反応は次の3つ。
 http://www.cubaencuentro.com/opinion/articulos/antintelectualismo-o-contra-algunos-intelectuales-320160
http://www.librosdelcrepusculo.net/2014/08/sobre-el-antintelectualismo.html
http://www.librosdelcrepusculo.net/2014/09/sobre-el-antintelectualismo-ii.html

 ざっと読んだのだが、このあたりをきちんとつかむためには、グラムシはともかくとして、リチャード・ホフスタッター(アメリカの反知性主義)、ラッセル・ジェイコビーなどが言及されているので、じっくり取り組まないといけない。

 フェルナンデス=レタマールの話は出てきていないようだが、ヨーロッパ的知性を体現していたこの詩人が革命後に反知性・野蛮なるものへと進んでいったことと合わせて、どうしても関心がある。

 もうひとつ、どうしてもフォローしておきたいと思っているのが、アルゼンチンのホテル・バウエンのことだ。

 2001年というと、9.11があるが、アルゼンチンの経済危機(債務不履行)が起きたのもこの年だ(12月)。

 これ以降、多くの企業が倒産し、経営者が給与未払いのまま逃亡したりということが起きたが、その後、労働者による自主経営の道がとられた企業があった。

 このような経緯の一端は、廣瀬純、コレクティボ・シトゥアシオネス『闘争のアサンブレア』(月曜社)などにより、すでに日本語でも読むことができる。

 この本にホテル・バウエンが言及されていたかどうかは覚えていないが、このホテルは経営者を追い出し、労働者による自主経営を果たした事例としてシンボル的な存在だったかと思う(というかそういう紹介がどこかでされていた)。

 知り合いが泊まったのがホテル・バウエンということもあり、やけに記憶に残っている。

 しかしふと新聞記事をネットで見ていたら、2014年の(つまり昨年)裁判で、経営者側が勝利し、ホテルを明け渡すよう労働者に命じる判決が下されていることがわかった。

 その後、どうなっているのだろうか?経済危機後には、街に出て段ボールを回収するカルトネーロCartoneroたちを支援する出版社が生まれ、Washington Cucurtoなどがかかわっていた。
 
 ホテル・バウエンに対する判決はその後のアルゼンチンの反動の動きなのか?
 
 2001年以降の、つまり経済危機後のアルゼンチンの文学については、La joven guardiaという短篇集が出ていて、ここにはそのWashinton Cucurtoも書いていたはずだ。といっても積ん読になっているのだが、ホテル・バウエンのさしあたっての顛末を知り、いてもたってもいられなくなり、アルゼンチン文学の21世紀についての資料を、今更ながらサーベイしている。

 もっと早くに手を付けておくべきだった……

[追記]
 そしてもう一つ。上のことを書いてから思いだしたことがある。

 人文系学問分野をまとめる表現として使われる用語について、スペイン語ならHumanidades、英語ならHumanitiesがある。
 
 これまでわたしは人文系学問のことを、スペイン語ではHumanidadesと表現するのが普通のことだと考えていた。それに対して、社会科学はCiencias Socialesである。

 あることがきっかけで、人文系学問を指すスペイン語として、Ciencias Humanasという表現があることを教えられた。つまり人文科学である。

 もっと具体的に言うと、仕事上の資料に、Ciencias SocialesとCiencias Humanasを使うという話が出て、わたしとしては、Ciencias Humanasという表現が受け入れられず、Humanidadesという表現ではだめなのかと疑問を投げた。しかし最終的にはCiencias Humanasを使うことになった。

 今回はただの一般向け資料の表現上の問題と考えて、強く主張することはしなかった。

 しかし、人文系学問が「科学」を標榜するとしたら、いったい科学を相対化するのは誰がやるのだろうか?というのがわたしの疑問である。

 かつて、10年近く前に、ある人(経済学者である)から、「学問は、それが科学であるかぎり普遍性がある」と言われた。「文学であれ、経済学であれ、それが科学であるかぎりにおいて建設的な議論が可能だ」ということだった。

 たしかにそうかもしれないが、社会科学は自然科学を模倣することをつとめ(つまり、科学になろうとし)、そのことで多くの問題を引き起こしてきたことも事実である。人種概念や経済学の一部がそうだ。

 だから科学は相対化されなければならないはずだが、そのために役割を果たせるのが人文系学問ではないのだろうか?

 わたしは自分の考えていることはごく当たり前のことだと思っているが、案外そうではないのかもしれない。

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