ボラーニョを読んでいると、自伝的なエピソード、あるいは彼が仕入れ、彼がかかわったゴシップが書かれていると考えざるを得ないときが多い。少なくとも彼のそういうところが何かのとっかかりになるのかな、と思ってしまう。
とっかかりというのは、ボラーニョを研究ーーここで研究というのは、ちょっと真剣にボラーニョについて考えようとするぐらいの意味ーーするとすれば、そういうところに目がいきやすい部分のことだ。
これはたとえば、ガルシア=マルケスの『悪い時』について考えるときにとっかかりになるのは、多くの場合、コロンビアの「暴力の時代」であることと同じだ。
つまり、何かの作品に深入りしようとしたときに、誰にでも見える入り口=穴のようなものがあって、そういう穴から入るのを避けたがる人もいるし、とりあえずそこから入ってみようという人もいる。
で、ボラーニョ読解の場合、作品内部に横溢する彼の人生と不可分だと読ませている部分を突いていくとなれば、そういう研究の進んで行く先にはたぶん、自伝とは何か、小説とは何か、虚構とは何か、といった問題群があるのではないか。これはあくまで予想で、実際にある程度の蓄積のあるボラーニョ研究が本当にそういう風に進んでいるのかどうかは知らないが、そういう普遍的な問題に進んで行って欲しいと思う。
フィクションとは何か、というレベルで考えるとき、小説として読んでいるものと自伝として読んでいるものをどうやって区別するのか、という問題はとても面白い。
ボラーニョを読んでいると、作り物であると認定しながら読んでいるのか、それとも自伝=真実であると認定しながら読んでいるのか、そのあたりは微妙である。
どうしても真実めいた話としての推測を誘うところが彼の作品にはある。どんな読者もボラーニョにそういうところを見つけるのではないか。つまりそれが「とっかかり」なのだ。いまはまだまったく手探りで書いているが、清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房)を参考にしながら、ボラーニョの語りにおけるいくつかの水準を考えてみたい気は出て来る。それが生産的なことなのかどうかは分からないのだが。
いっぽうで、ボラーニョをそのような方向性の研究には限定しないというのもありなのではないかと思ってもいる。
中井亜佐子『他者の自伝ーポストコロニアル文学を読む』(研究社)では英語圏の旧植民地作家の分析が行なわれているが、このような方向の研究にボラーニョはまったく関与しないのかどうか。これについて考えてしまう。
この本の序文にはこうある。
「本書が扱うテクストの大半は、狭い意味での自伝、わたしたちとすでに自伝契約を取り交わしてしまったテクストではない。だがわたしたちは、『ポストコロニアル文学』という名で総称されるテクスト群の多くが契約違反を自ら促し、わたしたちを自伝的読解という誤読にいざなうテクストであることを、経験的に知っている。」(p.5)
彼女が論じる作家はナイポールやクッツェー、ラシュディであり、英語圏だ。
ボラーニョのテキストが伝統的な意味合いにおける「自伝」ではないのかどうか、つまり語りの水準におけるフィクション性の問題については、上に書いた方向性での研究に意味があるだろうと思っている。
いっぽうで、ポストコロニアル文学における「自伝的読解という誤読にいざなうテキスト」のなかにボラーニョが入らないとは言えないような気もする。
中井の序をさらに引こう。
「こうした英語作家の小説を読むとき、どうしたわけか、テクストそれ自体が、その外側に横たわる作者の「特殊な」体験を執拗に指示対象としているかのように見えてしまうのである。「普遍性」が西洋白人中流男性主体の属性であるならば、彼/女らの生は常に「特殊」で「私的」である。ただし、その特殊性には常に、彼/女らの文化アイデンティティの集団的特性が付与されるーーいったん抽出された「わたし」はたちまち「わたしたち」へと一般化されてしまうーーのだけれども。(中略)ポストコロニアル文学は、作者の人生というテクストの外部を参照することなしには読解不可能とみなされることになったテクストなのである。それらのテクストの多くは、暗黙のうちに自伝的に読まれることを承認してしまっている。それをポストコロニアルな自伝契約とでも呼ぶべきだろうか。」(p.6)
この文章はボラーニョよりも、フェルナンド・バジェホやレイナルド・アレナスを分析したものとして、より適切に当てはまるかもしれない。
キューバからの亡命を余儀なくされたアレナス、コロンビアからの離脱を演劇的に行なったバジェホ、二人のカミングアウト戦略などは、彼らの作品とは不可分である。
また、チリ、アジェンデ、ピノチェト、メキシコ、スペイン(カタルーニャ)というボラーニョの人生に付与される「特殊性」は、「私的」であると同時に「集団的」でありながらも、自伝的読解へと誘う。
フィクション性の問題という方向の研究が不可能ではないのは、ボラーニョの作品がスペイン語というメジャー言語によるものであることと無関係ではない。
そして、ポストコロニアル文学としての読み方が不可能ではないのは、ボラーニョ文学には植民地性(コロニアリティ)抜きには論じきれない何かがあるからではないか。