パク・ソルメは『未来散歩練習』でこんなことを書いている。「朝の七時で、もう一度寝るのは無理で、テーブルの前に座って本を読んだ。今回持ってきたのはロベルト・ボラーニョの短篇集だった。読んでいるうちにふと、今は連絡の途絶えた友達が、この本の翻訳者と友達だと言っていたことを思い出した。アメリカのボラーニョ翻訳者と日本のボラーニョ翻訳者、イタリアやドイツ、そして韓国のボラーニョ翻訳者が一堂に会するとしたら、彼らはスペイン語で会話するんだろうか。まずは英語で最初のあいさつをすることになるだろうか。『2666』に出てくる翻訳者たちのように友情を分かち合い、秘密を分かち合うことができるだろうか。」(p.89)
この小説はこういうふうに、すいすい進むのに抗うような、行きつ戻りつスタイルである。原型には短篇集『もう死んでいる十二人の女たちと』に入っている「じゃあ、何を歌うんだ」というのがある。1980年の光州事件や1982年の釜山のアメリカ文化院放火事件のこと。そういうなかにメキシコやチリの若者たちの抵抗運動にさらりと言及したりしている。
こんなふうに書物やそこに書かれているパッセージ、そして未知の人との出会いを繰り返しながら、そういうのに混じり込んでくるように授業の準備、会議で話し合っていることが整理がつかないまま頭の中で混濁していて、状況が複雑になってきているように思う。すべてを分からない状態のまま形にして、その時を待つ、みたいにはしておけないという事柄も少なくない。
とくに最近では待っていられないことが多い。それがなんであっても、まだその時が来ていないので待ちましょう、とはなかなか言えない。さっさとAIに聞いて片付けて仕舞えばいいのに、あるいはせめて片付け方くらいは相談して仕舞えばいいなどと思ってしまう時もある(いわゆる業務的なものだが)。
途中にあるという感覚は大切だが、切り替える感覚も持たないと、いつまでもひとつのところに滞留してしまい、ジャンプできない感じ、というか、ジャンプをしてはいけないのだ、留まるのだ、という自縛にもつながる。これはこれで辛くなる時がある。難しい。おい、こんなに難しいのか、俺、と呆れてしまうくらい、何もかもが難しい。
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